第36話 ラグランジェ・ポイント
この時代の地球にあっても、連帯保護者という制度や仕組みはなかった。だがヒュードラーの身の置きどころは一時的にせよそういう状態に納まった。生活の面ではハウとエリスが両親役をする。経費や親権に関してはトゥラキアが責任を持つということになったのだ。少年は夫妻のもとで生活をはじめ、トゥラキアはリノの南西約二百キロにあるサクラメントの賃貸アパートで生活をはじめた。
ヒュードラーはもちまえの好奇心や記憶力、応用力を駆使して、それまでの遅れを取り戻すかのようにあらゆることを学んでいった。こと宇宙飛行士になるために必要な科目には力を注いでいるようだった。週に何日かはDOXA本部のバベルータワーへと足を向ける夫妻に同行し、ヒュードラーはしだいにDOXAとの関わりを深めていった。そうした生活を送りながら三か月が過ぎた頃、少年は正式にDOXA職員としての認証を得た。異例のことだった。わずか九歳の少年がDOXAの職員規定をクリアしたことは前代未聞のことだったのだ。
人の口に戸は立てられない。そうしたことを熟知していたハウ夫妻は、噂や嫉妬の声から少年を守った。将来のある人材につまらない虚栄心やプライドを持たせないための配慮であった。だから、トゥラキアへの職員認証の決定通知もごくごく地味なものであったが、彼女はそのことを誰よりも喜んだ。しかしそれはまた、何よりもトゥラキアを苦しめるものでもあった。彼女は思うように以前のような肉体的、精神的強さを取り戻せていなかったのだ。
「ねえ、もう聞いてる? ボクのこと」
「ええ、もちろんよ、よかったわね。この分だと、ハウたちと一緒にクルーズに行けそうね。本当に良かったわ」
「うん、それでそっちのほうは――」
トゥラキアは電話を切ったあと、煙草に火をつけた。灰色の煙が頼りなく部屋の天井へと上ってゆく。煙はやがて部屋の壁を覆っている樹脂製クロスに触れて拡散していった。換気扇のない部屋の窓は開け放たれ、開かれた空間から視界を遮る高層マンションが、日の光をうけて立っているのが見えた。逆光がつくる影が部屋に黒々と刻まれている。
なさけない……あの子があんなに頑張っているのに、あたしは落ちぶれてゆくばかり……諦めてはいない。けれども、あたしの力じゃどうにもならないこともあるのよ……。
トゥラキアは胸の中で一人いらだちに呻きながら、デスクに置かれた書類を憎々しげに見つめて、苦い煙を吐き出していた。
生活は荒んでいた。少年と離れ離れになったその日から。それまで堪えることができていた酒にも手を出し、部屋は汚れて散らかり、ギリギリの精神状態のままなんとか飛行士復帰へのトレーニングだけは続けていたのだが……。
太陽から木星を見ることが容易であるのなら、太陽から木星軌道上にある小惑星帯を発見することもまた容易である。
「いいかい、リビュア。君の体を左右どちらかに六十度回転させてごらん」
「こうかな? これぐらいかな、六十度って」
オズウェルの声に従って、少女が体を回転させてゆく。
「よおし、そのへんだ。その角度に小惑星帯があるんだ。向かって右がトロヤ群、左がギリシャ群と呼ばれているんだ」
「それであたしたちは今、そのトロヤ群に向かっているってことね。ということはこっちにね」
と少女はぴょんと跳びはねて右に体をまわらせてから、ふと首を傾げていった。
「ねえでもどうして六十度だってわかるの? それに左右六十度の場所にあるっていうのは偶然じゃあないわよね? ママわかる?」
「さあ、なぜなんだろうね?」
傍らで二人の会話に耳をすましていたリンジーが、両手をひろげ問いかけるようにオズウェウのほうへと視線を向けた。
「これは説明が難しいんだよ。トロヤ群のことを我々は略して、L4と呼ぶんだけどさ、このL4のLっていうのは、ラグランジェという意味でね、偉い数学者が色々計算した結果、一番安定した平衡状態をたもつ点があることを発見したんだよ。それをラグランジェ・ポイントというんだな。木星の場合、太陽から見て左右六十度の軌道上にそのポイントがあるってことなんだ」
「なんだかよくわからないけど、バランスが大事ってこと?」
と、リビュア。
「まあ、そいうことになるかな」
記憶を失った少女リビュアを連れた一行、<アイレース>号のクルー達は、四か月の冷凍睡眠から覚め、船窓に浮ぶ巨大な木星を眺めながら、小惑星帯L4トロヤ群に向かって順調に航行していた。
月の裏側、セレーヌ基地で過ごした三年間の記憶をほどんどすっかり失くしてしまったリビュアは、クルーたちの眼には歳より幼なく映っていた。それゆえなのか、クルーたちは頼りなく儚げな少女に寄り添い、彼女と過ごす時間を自然と作るようになっていた。
「そういえばリブ、尊敬の意味はもうわかったのかい?」
と、レックスが唐突に話しかけてきた。
「なんとなくわね。尊敬というのは、難しくてわからない話をする人のことだと思うわ。オズウェルおじさんみたいな人を尊敬というんじゃないかしら?」
「なるほど、そういう考え方もあるね」
レックスは否定も肯定もせずに何度も肯いていた。
「おいリブ、ちょっとまった。おじさんはないだろ、お兄さんだろ」
「小さなことに拘る人は尊敬できません」
リビュアは機転をきかせたような得意顔だった。
「いったいどっちなんだ……」
と、オズウェルが頭をふった。
「どちらでもいいじゃないか。まあもうすぐ難しい話ばかりする三人がくる。今日のミーティングは長いらしいけど、リビュア大丈夫かい?」
「ええ、あたしは平気。尊敬しながら聞いていることにするわ」
「それにしても悲劇だ。あの女たらしのフェデリコが尊敬されていながら、この俺はよくわからない位置というのは」
と、オズウェルがぽつりとぼやいたとき、艦橋のドアが開いて、データパッドを手にしたエヴシンとセラフィーナと、フェデリコが近づいてくるのが見えた。




