第33話 Sweet Home Chicago
トゥラキアは肌を刺す寒さで眼を覚ました。雨は止んでいるようだった。何の音もしていない。寝心地の悪さを感じて体を捻ると、助手席のドアが開いていることに気づいた。ヒュードラーの姿がなかった。
肌を刺していた寒さとは違う悪寒に襲われガバと上体を起こす。車内灯をつけて後部座席を覗いてみる。そこにもヒュードラーの姿はなかった。あるはずがない。あの子がそんなところで眠ろうと思うわけがないのだから。彼女は自失するほど動揺していることに気づいた。
どうして、どうして行ってしまったの……。
かろうじて形になったのは問いかけの言葉だけだった。運転席を飛び出し辺りを見回す。人影ひとつ見えない。車に戻り、ダッシュボードを開けて、手探りでペンライトを掴み取ると、当てもなく車の周囲を歩きまわった。川があった、林があった、森もあった、生垣に囲まれてたおやかにまだ眠っている邸宅もあった。だが、ヒュードラーの姿はどこにもなかった。やがて東の空に太陽が昇りはじめた。
トゥラキアは慌てて車を離れたために、ドアを開け放ったままきてしまったことを思いだし、一旦車のある場所へと戻ることにした。シルバーグレーのワゴンは、駐車した場所に止まっていた。公園の木陰、路肩の邪魔にならない場所に。運転席に戻った彼女は頭を抱え込んで、ただうなだれることしかできなかった。
どうして、どうしてよ。あたしの何がいけなかったの? あたし、あの子に嫌われることをしたの? そんなはずはないわ。そんなはずはない……。
雨上がりの穏やかな一日がはじまろうとしているのに、トゥラキアの心は土砂降りのままだった。
探しにいかなくちゃ!
そう思って顔をあげるが、どこをどう探せばいいのか、まったく見当がつかない。
普段ほとんど喋らない少年の数少ない言葉から、手掛かりを探し出すのは困難なことだった。
うん。わかった。いやだよ。そうなんだ。ロボット。そして――ねえ……。
あたしはあの子のことを何も知っていなかった。わかったつもりになって、きっとこうしたい、きっとあんなものが見たい、きっとこの子は我慢ができる、そんな風に思っていた。そう決めつけていた。
悲壮と悔恨の涙が落ちた。
泣いてもどうにもならないことは誰よりも知っていた。だがあまりの無力感に頭の中が白じんでいくばかりだった。
身元を証明するもの、IDカード、データパッド……。
トゥラキアは車内を掻き回して、それらを探した。後部座席の段ボールを片っ端から開いて探した。トランクを開け、スーツケースを開き、辺り一面に物をばらまきながら、探した。見つけ出せたのは、シートクッションの間に落ちていたIDカードだけ。もちろんデータパッドは見つからなかった。
仕方なく、まき散らしたものを箱へと戻す。スーツケースに入れっぱなしにして忘れていた拳銃が、地面に転がっていた。
警察に届けるとしても……髪は赤みがかった金髪、肩にとどきそうな長さ。歳は九才で身長と体重は……正確にはわからない……。瞳の色が左右で違う……右は、右はいったい何色よ!
考えれば考えるほど、彼女は自分の馬鹿さ加減に苛立った。自分の未熟さに無性に腹が立った。
……ラジオ、それが何を教えてくれるの? こんな年嵩の子供が事件に巻き込まれて死亡しました……。そんなもの聞きたくもないわ! シカゴ、きっとあの子はシカゴにいるわ。昨日ベッドで眠りたい、そう言ってたじゃない。
乱れる思考をつづけながら、それでもトゥラキアは恐怖に打ち勝って、ラジオのスイッチを入れた。
シートを倒して、楽な姿勢を取り、気持ちを落ち着かせようとする。
特別変わったニュースはなかった。ダイアルを操作して、べつのラジオ局に合わせてみる。そこでも変わったニュースは耳にしなかった。平穏な一日が何事もなく過ぎていっているのがわかった。太陽はすでに中天を過ぎている。無為に時間ばかりが過ぎていくのを止めようがなかった。
ヒュードラーを探しに行く時の為にと、スーツケースから転がり落ちた拳銃に手を伸ばす。
時間を止めることはできる。でも早まる必要はないわ。今日一日待とう。ずっとニュースを聞きながら待つのよ。
もしも、あの子が殺されるようなことがあったら、あの子を殺した奴を殺す。ずたずたに引き裂いてやる。そしてあたしも死ぬ。
彼女はようやく落ちつきを取り戻して、拳銃をダッシュボードにしまってラジオのボリュームをあげた。
眠気が襲ってくる。朝から何も口にしていないことに気づく。だが、そんなことはどうでもいいような気がした。パンパンと頬を叩き、太ももを抓って眠気を払う。それを繰り返す。夕闇が近づいていた。
お願い、お願いだから、戻ってきてヒュードラー。
時折りたまらなくなり、頭を抱えて、肩まで伸びた赤みがかった金色の髪をぐしゃぐしゃにする。泣き腫らして充血した眼のまん中には、それでもまだ力を失っていないブラウンの瞳があった。
深夜がやってきた。ラジオから放送の終了を知らせる物悲しい歌が聞こえてくる。
それでもトゥラキアは考え続けた。何か方法があるのではないかと。
――ねえ考えてみて。あの子の立場になって考えてみるの。あの子はシカゴの街が見てみたかった。そして、あたしから逃れたかったのよ。でもあの子には一人で生き抜く力はまだないわ。だとしたらどうする? どうすると思うの? そうよ、決まっているじゃない。いずれはここに戻ってくるしかないのよ。だったらどう、その時にあたしがここに居なかったならあの子はどう思う? 必死になってシカゴという街に溶け込もうと戦った。でも誰一人受け入れてくれない。だけならまだしも、嘲られ馬鹿にされ屑のようにあしらわれる。
行き過ぎた考えのようにも思えた。だが、トゥラキアが考えられることといえば、自分がその身に刻んできたことだけだったのだ。
あたしは待っていてもらえなかった。家出して三週間街を放浪した。すべてに絶望して帰る場所は、自分の家しかないんだと気づいたとき、もうあの人たちはいなかった。捨てられたのよ。芥屑のようにあたしは捨てられたの。あの子にそんな思いをさせやしない。――あたしは待つわ……。
考えられたのはそこまでだった。眠気に耐えられなくなった彼女はそこで気を失った。
朝がやって来た。しかし、ヒュードラーの姿はどこにも見えなかった。
トゥラキアは昨日と同じように、日がな一日ラジオを聞きつづけた。相変らず収穫はない。ないことが嬉しくも悲しくもあった。車のバッテリーが上らないようにと、ソーラー充電器をトランクから運び出し、それを接続する以外、彼女は車外に出ることもなかった。酷い空腹感を覚えたが、少年が同じように空腹感を抱いていると思うと、何かを食べる気にもならなかった。その日は水分だけで過ごした。そしてまた悲しい歌が流れ、真夜中がやってきた。
また朝がやって来た。空腹はもうどこかへいってしまったようだ。ただ薄っぺらになった腹部と胃のあたりに痛みがあるのを感じるだけだった。その日は気温が上がり、とても暑かった。汗と埃と泥にまみれて必死にシカゴに溶け込もうと戦っている少年の姿が瞼に浮んだ。ともすると昼間であるのに意識が朦朧としてくる。頬を叩き、太ももを抓る。手の甲に爪を立てる。必死に何かを思いつこうとするが、蒙昧な思考しかできない。眼が霞んで意識を失いそうになる。やたらに視界が狭くて暗い。ぼんやりと一つの情景が浮かんでくる。
病室着を着た少年がベットの端に腰かけている。彼女は彼と向かい合い、やがてゆっくりと宙に浮いたデータパッドを押しだす。まだ傷ひとつないデータパッドが空中を漂い、少年の痩せた小さな手がそれを受け取る。
もう何年も前のことのように思えた。
自室に戻って、調査したデータを頭の中で掻き回して、アメリカ縦断の旅をしようと決めたこと。色々なものを見せてあげたい。その間にあの子はきっと心を開いてくれる。そんな独りよがりの結果がこうなの?
それもまた遠い日の出来事のように思えた。
<ケイローン>号の船内で過ごした一週間。お風呂やトイレにはじまり、教えられることはなんでも教えた。いいえ違うわ。あたしが教えらえたことのほうが多かったのよ。それなのに偉そうにして「さあ、これで仕返しをするのよ。思いっきり叫んで、床や壁に投げつけなさい」ですって。でも結果的には良かった。パッドはボロボロになってしまったけど、修理して今もあたしとあの子を繋いでいる。そうよ、あの子がパッドを捨てない限り、希望はあるの。必ず戻ってくるわ。あたしはそれを信じられるんだもの。
そうは言いながら、あたしはまだ心の底ではあの子のことを信じていなかった。<ケイローン>を離れて街に車を走らせながら、いやらしくそのことを確かめた。いやな女よ……。探偵にでもなったつもりだったの? それとも検事にでもなってあの子の罪を断罪でもしようとしたの? いったいあの子に何の罪があるっていうのよ。馬鹿な女よ、あたしは。
そして海の上を進んだあの日々……思い出す必要もないわ。今でもはっきり目に浮かぶ。
ラジオから三日目の終わりを告げる歌が流れだした。
眠ってしまおう、あの子は必ず帰ってくるわ。あたしが信じてあげなくて、誰が信じるっていうのよ。
「おやすみ、ヒュードラー」
トゥラキアはこうして、食べ物を何一つ口にせずに、六日間を過ごした。生きているのか死んでいるのか、夢なのか現実なのか、もうそれすらはっきりわからなかった。
……いけないわ、あたしが先に死ぬわけにはいかないの……何か食べなくっちゃ……。
やっとの思いで、後部座席にあるレトルト食品を車外に持ちだした固形燃料で温めてはみたが、いっこうに喉を通らなかった。日が傾きかけた頃、最後の一切れを無理やり口に放り込んで、這うようにして運転席に体をねじ入れた。
思い出とも空想ともつかない映像がまた脳裏に浮き上がってくる。
ニューヨーク。互いに傷だらけになった体を見せ合ったっけ。はじめて感じた絆「ねえ……」。
風呂場の床に流れていた赤い筋。悲しく濁っていたゆるやかな赤い曲線。ストロベリー・フィールズ。そして今度こそ間違いなく繋がったと思えた「ねえ……」。
それが、ロボットだという可笑しさ。あたしたちは気づかぬままロボットに乗って旅をしていた。それに気づいたのはあの子だった。幸せは案外身近にあるのかもしれない。
ラジオからまたあの悲しい歌が聞こえてきそうだった。
ふと、悲しい調べを耳にした気がした彼女は、
「もう悲しい歌は聞き飽きたの……今夜で終わりにしましょう」
とつぶやいた。
トゥラキアは力なくシートに上体を起こすと、ダッシュボードを開いた。鈍く黒光りしている拳銃が見えた。
そのとき、車外でガサゴソという音がしたような気がした。とうに恐怖心を失っていた彼女は、助手席側のドアを開けた。小さく人影が見えた。
「誰? あたしのことは放っておいて……あたしはこれから死ぬのよ」
人影が近寄ってくる。だが、彼女の視界は白く霞み、それが何者なのかわからない。ただの幻覚なのだ。そう思って拳銃の安全装置を外し、口を開けて銃口をつっこむ。
「やめて! お願いだから、やめて……ボクだよ、ヒュードラーだよ」
トゥラキアは、手にしていた拳銃を投げ捨てて、目を擦った。目の前に少年の色違いの瞳があった。
彼女が憶えていたとおり、右が茶色で左がグリーンの瞳がすぐ近くにあった。
「ヒュー、ヒュードラーなの!? あたしずっと待ってたのよ。だって、あなたが帰ってきたとき、あたしがここにいなかったら、あなた悲しむもの。だからあたし、ずっとここにいたのよ。本当よ、一分一秒だってここを離れはしなかったわ。嘘じゃないの、信じてくれるわよね?」
彼女が拳銃を投げ捨てたのを見て、少年は精いっぱい走り寄ってきた。せっかく買ってあげたデニム地の服は、そこらじゅう破れて血まみれだった。膝丈の綿パンツも破れて、汗と埃と泥にまみれている。靴は片方しか履いていない。手も足も擦り傷や切り傷だらけだ。髪も血に汚れ、喧嘩をしたのだろう、顔や腕には青紫の痣が浮き出ていた。そして手にはあのボロボロのデータパッドが握られている。
「ばかやろう! ばかやろう! ばかやろう!」
ヒュードラーはトゥラキアの胸に駆けこんで、泣きながら、彼女の肩を叩きながらずっとそう叫び続けた。
彼の表し得た、精いっぱいの愛情だった。
「ばかやろう! ばかやろう!……」
トゥラキアにはその意味がわかっていた。ただ何も言わず、力一杯少年を抱きしめていた。
ラジオからあの悲しい歌が流れだした。
そうよ、あなたのスイート・ホーム・シカゴはあたしの胸の中なのよ。忘れないでね。




