第30話 ニューヨークにて
船は州間高速道路が走る橋の下をゆっくりと進んでいた。橋が船尾へと流れ去ってしばらくすると、左右に島影が見えてきた。
右手に見える島は、三本の桟橋をにょきにょきと、好き勝手な方向に伸ばして、のんびりと佇んでいる。島のほとんどは公園になっているのか、緑がまぶしい。建物は整然と片づけられたキッチンよろしく、あるべきものがあるべき場所に納まったように澄ました顔をしている。ガバナーズ・アイランドだ。
左手に見える島は、左右へとバランスよく桟橋の腕を広げている。おごそかであり、なんだか由緒正しく見える。その理由はすぐにわかった。十一個のとんがりを持つ星形をした台座の上で、淡い青銅色をした肌の女神が、松明を高く掲げながら、悠然と二人が辿ってきた海の彼方へと鋭い視線を向けて立っていたのだ。それはリバティー・アイランドに聳立する自由の女神だった。見様によっては桟橋が女神の広げた翼にも見える。
もう船は揺れていなかった。そこはもう海ではなく、ハドソン川だからだ。
トゥラキアとヒュードラーがそれぞれの思いで二つの島を見つめていると、その先に小さな島が見えてきた。凹を横に寝かせたような小島、エリス・アイランドだ。長く文化遺産として扱われている島だ。かつてアメリカに入植した人々のほとんどは、まずこの島に足をおろし、入国審査を受けたといわれている。彼らがそこから先どんな人生は歩んだかは判然としないが、そのためこの島は長いあいだ、「希望の島」とも「嘆きの島」とも呼ばれることとなった。
あたしたちはどっちに向かっているんだろうか……。
トゥラキアは平坦な島に今も立っている、赤レンガ色をした移民博物館の建物を、憧れと虚しさが入り混じった気持ちで見つめていた。そして、彼女の傍らには、自由の女神の背後に林立する摩天楼に、心を吸い寄せられたかのように見入っている、ヒュードラーの力強い眼差しがあった。
船は休まず進み、やがて右へと舵を切ってフェリーターミナルへと向かってゆく。
そのとき、少年がぽつりと呟いた。
「ロボット、いるのかな? やっぱりいないの?」
「……いやしないわ。あれは映画の中だけよ。できれば見せてあげたいけどね」
ヒュードラーは不満顔だったが、納得したようだった。
桟橋に近づいた船はくるりと回れ右をして、船尾からターミナルへと入ってゆき、やがて桟橋に接舷した。
すきま風が吹いていくようだった。なごり惜しさが消せない。この船には誰にも邪魔されない二人だけの世界があった。トゥラキアもヒュードラーも、しばらくのあいだ、ぽちゃぽちゃと舷側をたたいてくる浪の音を聞きながら、デッキに座ったまま、まんじりと目の前の風景を眺めていた。
少年のお腹が、ぐぅーと鳴る音がした。
「……さて、いきましょうか。いつまでもここにいるわけにはいかない。いいわね」
「うん」
意を決する切っ掛けが、空腹を知らせる陳腐な投げかけだったことに、彼女はたまらなく情けなさを感じはしたが、少年と二人して荷物を車に積み込むと、車上の人となった。
船尾ハッチが開き、大都会を知らせる風が一陣車内に流れ込んできた気がした。無関心な、それでいて詮索し、人を嘲るような風にどことなく冷たさを感じる。
トゥラキアはそれに負けまいとして、
「それにしてもあたしたち、汚いし臭いわね。これじゃお店に入れてもらえそうにないわよ。まずは寝床を確保よ。ヒュードラー検索して。ここはニューヨークよ」
と大きな声で言った。
「うん」
少年はすぐさまデータパッドを起動して宿泊施設を探しはじめた。
エンジンが唸り、海のうえで感じていたものとは違う、生の振動が足元から腰の下から這い上がってくる。
車がバックしながら、船と桟橋をつないでいるスロープの上へと乗り上げていく。
ガタンガタンと幾つか段差を乗り越えたあと、四つの車輪が大地に根を下ろしたことを伝えてくる。
ヒュードラーがパッドでトゥラキアの股をつついてきた。
「どれどれ……わるくないわね。そこにしましょう。シティーホールの近くね」
それだけ言って、彼女はアクセルを踏み込んだ。
わずか三キロの行程だった。あまりのあっけなさに、彼女は船の上でもやもやしていた自分を思いだし、あれはいったい何だったのだろうかと、笑いだしたくなった。
「ついたわよ」
「ええっ?」
少年も同じようなことを感じていたのか、すっとんきょうな声をあげた。
「荷物はそのままでいいわ。とりあえずお風呂に入って、それから腹ごしらえよ。いいわね」
「お風呂か……」
「まだ嫌いなの?」
「あんまり……」
「まあいいわ。いきましょう。パッド忘れないのよ」
「うん……」
トゥラキアはヒュードラーの手を引いて、ホテルのドアをくぐってカウンターへと向かった。
少年にとって、それは、はじめての経験だった。
入浴するといっても、トゥラキアはいつも船内服を着たまま、彼の面倒を見ていたのだから当然ともいえた。
船側の手すりにぶつけてできた青黒い痣がいくつかあったが、彼女の白くて柔らかい肌は美しく、触れると心地良さすら感じさせた。膨らんだ胸、思っていたよりずっと細い腰、どっしりしていて見ていると安心してしまう大きなお尻、それを繋いでいる流れるような体のライン。そういうものがヒュードラーの脳裏で溶け合って、いつもは冷たく感じるあの視線や、縛り付けてはなそうとしない睨んでいるような翳った瞳が、明るいブラウンの色合いをおびてくるような気さえした。
「なによ、なんだか変ね。ボーっとしてるけど、どうしたの?」
「なんでもない」
「ふふん、そう」
今も無数に残る痛々しい鞭による傷痕。日ましに筋肉がつき逞しくなってきた四肢。少しずつ直ってきている猫背。ほんの少しの変化ばかりだったが、トゥラキアは少年の体に起こっている変化がなんだかくすぐったかった。
この頼りない足であの船のデッキに踏ん張り、魚を釣っていた。この腕で竿を支えながら必死に糸を巻き上げていた。そう思うと涙が出そうでもあり、また頼りない細さや小ささをも実感するのだった。
「背中、向けて」
「うん」
鏡に映っているこの人は、必死になってボクのパッドを守ってくれた。でもいまのこの人を見ていると、そんな強い人には見えない。柔らかくて優しい。あの睨みつけるような眼もしていない。どっちが本当のこの人なんだろう……。
ヒュードラーの心は揺れていた。
でもボクはゆるさないって決めてるんだ。でもボク……。
「さあ、おしまいよ。ドボンとお湯に浸かって出ていいわ」
「うん」
「ねえ……」
二人は同時に口を開いた。
「……なんでもない」
そして同時に口を閉じた。
勢いを絞っているシャワーヘッドから流れ出ている湯音だけが聞こえる。
トゥラキアは頭に巻いていた包帯をほどきながら、浴室を出て行く少年の背中を見つめていた。
なんなの……あの間の悪さは……。あの子のほうから問いかけてきたことなんてなかったのに……。
やりきれない気持を抱えながら、彼女は髪にこびり付いた血を流し落としていった。
床を這う赤い筋が、悲しかった。どこにも行き着かず、ただやみくもに排水溝へと流れていく赤い筋が、たまらなく悲しかった。




