第3話 狂気への目覚め
リビュアは暗く湿った天井のランプがたてる遠い雷鳴を聞きながら、夢を見ていた。
父さん、母さん、ヒュードラーはだいぶ大人びてきました。もう一人で遊びに行かせても大丈夫だと思います。母さんの優しい笑顔も、父さんの少し怖い顔も、はっきりは思い出せませんが、温かかった感じ、厳しかった感じだけは忘れていません。でもあたしは月が嫌いだったのです。ほとんど覚えていませんが、あたしは海が見える地球のお家が好きでした。あのひんやりとした波がいったりきたりして足を濡らすところ。冷たい水を蹴り上げると水飛沫がたってそれが潮辛いんです。母さんが真っ赤なトマトに塩をふってくれたような味でした。でも月は違いました。なにもかもが灰色で、お家は丸く小さなクレーターの底にあったから、砂嵐は怖くなかったのですが、あたしはあの砂が嫌いでした。風の強い日になると、群青色をした星空を隠してしまい、たったひとつの楽しみを奪われました。それに毎日のようにしなければいけなかった砂掻き、あれはとっても大変だったんです。
リビュアの眼は大きく見開かれたまま、虚空を見つめていた。その瞳は思い出の彩が変わるたびに輝いたり、くすんだりしていた。
「姉さん、姉さん、どうしちゃったのさ」
「ああ、ヒュードラー、何でもないのよ。母さんたちとお話をしているのよ」
「ねえ、まだ食事残ってるんだ、ちゃんと食べなきゃ」
「うん……」
二人の足元には、拾い集められた残飯の乗った、黒ずんだ皿があった。
あたしの傍にはいつもヒューがいました。あの子ったら、砂掻きの途中であたしのことを見失うとすぐに泣いたんです。父さん母さんは知りませんよね。でもそんなヒューがいたから、あたしは月も悪くないって思えたんです。地球の海とは比べようもなかったけど、父さんがはじめた広々とした農園の砂掻きと水あげをしていたときのことです。ヒューは迷子になったんです。なにしろ好奇心の強い子ですから。いまそこにいたかと思うと、振り返ってみるとあそこにいるんです。でもあたしにはすぐに居場所がわかりました。だってヒューの眼は右と左で色が違っているんですもの。あの灰色の風景の中でそれがどんなにあたしの心を清々しくしたかなんて、きっと母さんにだってわからないはずです。あたしだけが知っていることなんでしょうね。ヒューと目を合わせたときの不思議な感覚、安堵感と強い信念に打たれるあの感覚。もっともあの当時の安堵感は、ああ、ヒューはあそこにいるから大丈夫という、あたし自身の安心でもあったし、ああ、どうしても自分の思うようにしたいのねと思う、あたしがあの子を見守ってあげなくちゃという愛情だったんです。誰にも知られていないもの、あたしだけしか知らないもの。それがあたしをずっと生かし続けてきたんじゃないのだろうか、最近はそんな風に思うんです。でも、もうヒューは大丈夫。きっと一人で生きていけるんです。
「ねえ、ヒュー。大丈夫よね?」
「え?」
「一人で生きていけるでしょ?」
リビュアは少年をじっと見入ってから、また視線を虚空に戻してしまった。
「何を言ってるのさ、僕は姉さんと一緒だから、あいつの――」
うつむいた少年の視線の先には、無数のみみず腫れがある痩せて蒼ざめた少女の足があった。色違いの目から涙が落ちていた。
父さん、母さん、泣き虫なヒューはもういないんです。あの子は強くなりました。今日、あたしが間違ったことをして叔父さんに叱られたときに、ヒューはあたしを守る! なんて言ってくれたんです。でも、少し淋しい気もします。あの子があたしを頼ってくれなくなったなら、あたしだけしか知らないあたしはどうすればいいのか、まだわかっていないのです。困った姉ですが、怒ったりしないでください。叔父さんにもたくさん叱られたばかりなんですもの。そういえば、父さんもよくあたしを叱りました。どんなふうにだったかしら、忘れてしまいました。けれども、ちっとも怖くなかったんです。怖かったのかな? でも今では叱られたことが嬉しくて楽しいことに思えるんです。あたしは変わった性格なのでしょうか、そんなことはないでしょう。ちっとも変ってなんていませんよ、ヒューに聞いてみてもいいです。この傷がその証です。叔父さんがあたしたちを愛してくれている証なんです。
リビュアは、自分の腕と少年の頬にある生乾きの傷を愛撫するように指でなぞった。
「今日の叔父さん、昔のパパみたいだったね。ねえヒュー、叔父さんはあたしたちを愛してくれてるって思わない?」
「……なにを言ってるんだい、姉さん、なにを……しっかりしてよ」
垢と埃にまみれた少年の手が、骨が浮き出した少女の肩を揺すっていた。
「あなたにはまだわからないのね、大人の人たちがあたしたちに示す愛情が」
「姉さん……」
父さん、母さん、ヒューにはまだわからないようです。やっぱりもう少しあたしが一緒にいてあげないといけないようです。なんだか嬉しいです。
リビュアは夢とも現実ともつかない靄に抱かれたまま、少年を真っすぐに見つめて微笑んだ。
嬉しいね、と。




