第28話 海へと――逃げ場のない航海
二人の旅はオーランドからはじまった。トゥラキアが調査した結果、ヒュードラーが生れた街がそこであると知ったからだ。荷物はさほど大きくないトランク二つだけという簡素さだった。
色彩豊かなオーランドの街並みは五月の清々しい陽光のように微笑んでいた。ディズニーランドをはじめとする、テーマパークを多数抱きかかえ、ゴルフやクルージングなど、リゾートに適した風情をもつフロリダだけあって、どちらを向いても、大気の中に賑やかさが混じっているように見えた。
道行く子供とすれ違う。陽気な声をあげて通りすぎてゆく。この土地で生まれ、この土地で育ったなら、この子もあんな風に屈託なく笑うのだろうか、そう考えて少年を見下ろす。
「……俯かないの。顔を上げなさい。胸を張るのよ」
「…………」
掴まれている手に爪がくいこんでくるのがわかった。反抗の印だ。それでもヒュードラーは少しだけ顔をあげた。
トゥラキアは市内でレンタカーを借り、荷物をトランクに投げ込むと、さっそくアクセルを踏んだ。市の中心部から北東に十キロほどいったあたりで、彼女は車を止めた。
「ヒュードラー、パッドを貸してくれる」
彼は膝に乗せていたパッドを素直に差し出してよこした。
調査データーといまいる場所を照合する。間違いなかった。パック・ロード北四六番地。ヒュードラーが幼少期を過ごした場所だ。入り組んだ道路、ハイクラスの家々というわけではないが、どう見ても中産階級以上の人々が住む場所のようにしか見えなかった。
「ヒュードラー、この街の風景を良く覚えておくのよ」
トゥラキアはそれだけ言うと、パッドを少年の手に戻して車を進めた。
なにかもっと貧しい生活を匂わせるものはないの?
しばらくのあいだ、彼女はハンドルを右に左に回し、貧しさを示す証を探しつづけた。だが、何も見つけられない。
なぜよ、この子は貧しい暮らししか知らないはず。なのになぜこんなリッチな環境で生まれ育ったの? 辻褄があわないわ……。
彼女の心の中にある疑問がひとつの解答に向かって舵をきってゆく。だが、それを信じる気にはなれなかった。いや、信じたくなかったのだ。
トゥラキアは思考と車を止めるためにブレーキをめいっぱい踏んだ。助手席に座っていた少年がつんのめり、声をあげた。
「いたっ……」
「……ごめんね」
少年がシートベルトをするのを手伝い、ダッシュボードにあるクルーズコンピューターに目的地を入力して、オートクルーズのボタンを押した。景色がゆっくり流れだした。
車内は水を打ったように静かだった。時折り、パッドを操作している電子音が聞こえる。パッドの画面へとチラチラ視線を走らせているうちに、少年の心が読めてくる。トゥラキアはクルーズのスピードを落とす操作をして、またパッドを盗み見る。
やっぱりね。逃げ出す算段をしている。
少年は車窓から見える看板や文字を頼りに、自分がどこにいるのかを知ろうと、必死にパッドに指を走らせていたのだ。どうやら、自分がいまいる地球上の位置を掴んだようだ。
そ知らぬ顔で、車のスピードを上げる。少年が現在位置を見失わない程度に。
船内で盗み読みしていた日記の文言が目に浮かんだ――「あの人から逃げだすつもりです」。本気だったのね。でも逞しくていい。それにしても、この子の状況判断能力、学習能力、応用力、記憶力の良さは並じゃないわね。大したものだわ。きちんと学んでいけさえすれば、将来大物になる。直感の針がいくぶん心地よく胸のなかを刺すのがわかった。
試してみますか。
トゥラキアは少年が現状把握できないであろうスピードへと車を加速させた。
ヒュードラーは、壊れた機械ロボットのように、あちらを見てはこちらを見て、顔を赤らめながら必死に自分の位置を見失わんとしている。今にも見失いそうなのに、哀願することもない。こちらを振り向きさえしない。自分の力だけを頼りにしようとしている。
彼女は満足して車の速度を緩めた。少年が息を吐くのが聞こえた。
「あんた、お腹減ってないの?」
「べつに」
「そう。なら港まで直行ね」
トゥラキアは自分の残酷さを苦笑しながら、そう言った。
ボウヤ、いくら頑張っても無駄なのよ。あなたのやろうとしてることはお見通しよ。だから、しばらくは看板も標識もない海の上を行くのよ。もちろん、泳げないボウヤが逃げ出すことはできない。
ケープカナベラルの港が見えはじめたとき、少年がデータパッドの電源を切って、充電モードに入れるのが見えた。
二人は無言で瞼を閉じたまま、車が止まるまで照りつける陽光を浴びながら微睡んでいた。
ケープカナベラルの岸壁には、トゥラキアがDOXA本部に申請しておいたとおりの小型船が接岸していた。
車を離れ、船の近くにある港湾コンピューターにIDカードを滑らせ、リモコンを受け取る。それを操作して、車でそのまま乗り込める船尾のハッチを開く。少年が興味深々の眼で彼女と船の一挙一動を伺っている。いつのまにかパッドの電源が入れられている。トゥラキアは無頓着に運転席にもどって、アクセルを踏み、ハンドルを切って船倉へと車を滑り込ませてゆく。暗くて前がよく見えなかったが、構わず進んだ。突然タイヤが車止めに当たって止まった。少年が前につんのめった。
「いたっ……」
「……ばかね。何度も同じことをしないの。ベルトが窮屈なのはわかるけど」
見知らぬ暗闇と痛みに襲われたためだろうか、少年は彼女に抱きすがってきた。唇が振るえている。
「だいじょうぶ。怖くないわ」
そういって、トゥラキアはリモコンで船倉に照明を灯した。
「無理もないわ、見たことないものばかりだもの。でも、これがどんな乗り物かはわかるわね?」
「船……」
「そうよ。それがわかってれば十分。でも、ケイローン号とは大分ちがうわよ」
「そうなんだ」
「じきに慣れるわ。あなた、器用そうだから」
ふっと口をついて出た言葉に、トゥラキアは驚きを禁じ得なかった。
いまあたし、人を褒めたの? 信じられないわ。
ぼんやりと少年を見つめる。まだ少年は震えている。
「大丈夫よ、傍にいるから。治まるまでここに居ましょう。お腹が空いてるからかもしれないし」
ダッシュボードを開け、出来合いのサンドイッチを取りだし、トゥラキアは少年と分け合った。
船尾ハッチにあるセンサーが作動して、船倉が閉まりはじめる音がしたとき、少年はピクリと恐怖を体に表したが、それから少しづつ震えは治まっていった。
満腹感からくる安らぎからだろうか、ヒュードラーはそのまま眠ってしまった。
トゥラキアは魂を失い、人形のようになった軽い手をそっとどかして車外に出ると、狭苦しい通路を進み、艦橋にあるクルーズコンピューターを作動させた。
日がだいぶ傾いていた。窓から南の空を望むと、メルボルン国際空港から、二筋の雲を引きながら飛び立っていく旅客機の姿が見えた。
着慣れた船内服のポケットから、長い間やめていた煙草を取りだして火を着けた。
「これで宇宙ともお別れかもね。あなたそれでいいの?」
ふと声にだして自問自答していた。
「いいわ。あたしは信じることにしたの、あの子を。ヒュードラーに人生を懸けてみることにするわ」
大きく切りかかれた艦橋の窓へと煙がたなびいていった。船のエンジンが起こしはじめた振動が足元から伝わってくる。生を実感させる振動が。
あの子は、今まで誰もできなかったことをしたのよ。あたしの心を開かせた。
久しぶりの煙草で脳が痺れてしまったのではないかと笑いたくもあったが、彼女は自分の耳が聞いたものを疑いはしなかった。
岸壁を離れた船が一気に前へと進みはじめる。スクリューが海水を掻き回してできた泡が船尾へと流れてゆく。
遠くに、次の航行に臨むために作業台に乗せられて、艦首を天空に向けて立ち上がった<ケイローン>号が小さく見えていた。




