第27話 希望と羨望――逃げ出さない決意
それから一週間ほどのあいだ、トゥラキアは必死になればなるほど、隙間を擦りぬけてゆくようなヒュードラーを引っぱりまわして、<ケイローン>号の船内を歩きまわった。
船内服を着たまま少年を風呂場に連れ込んで泡だらけにした。全身いたるところに残っている鞭による傷痕。彼が入浴をいやがった理由は明白だった。それを見ることで忌々しい年月を呼び覚ますからだ。それでも彼女は挫けずに逃げ出そうとする少年を拉致するようにして、入浴する爽快さを少しずつ教えていった。
「気にしなくていいの、誇りをもちなさい。体中に傷があるからって、あなたの価値が下がることはないのよ。大切なのは、あなたがこれからやること、やってみたいことを見つけること。そして何よりもこれをやったんだと言えることなのよ、わかる?」
「うん……くすぐったい」
「どこ? ここ?」
「やめて」
「やめないわよ。やめて欲しいなら戦いなさい。やりかえしてみなさいよ」
二人は泡やシャボンの玉を飛ばしながら、ぶつかりあった。
「ここがトイレ。何をする場所かはわかるわね?」
ヒュードラーはその場所を特に嫌悪した。
どろどろした吐き気をもよおす黄土色の液体。我慢ならない異臭。液体をかき混ぜる痩せ細った姉の青白い腕。奇怪な調べのような歌が、耳の奥で繰り返される。あるわ、あるわ、きっとある……ビリビリ、ビリビリ、ドーン……。指先に蘇えってくる激痛と赤い鮮血。彼はその場所にくる度に脳を無数の針で突き刺されたように喘いだ。動悸を起こして熱い息を吐き散らし、顔を赤らめて眼に岩漿のような怒りを滾らせる。
船内の全域には自動清掃システムが完備されていたが、そこは決して清浄とはいいがたかった。
はじめ、憤怒の蒸気をあげた少年は、便器を外したり、座って落ち着いていることもできなかった。さらにそこに排泄行為を見られている恥辱が加わり、激高して暴れた。だが、トゥラキアは戦った。阿修羅のごとく奮闘した。声を荒げることなく坦々と言い聞かせるようにして徹底抗戦した。しだいに少年は、落ち着いてことをすませられるようになった。
「臭くて汚い場所だから、奇麗に使うの、清潔にしておくの、わかる?」
「…………」
「そうすれば……嫌なことも思い出さなくなるわ。さあやって」
少年は便器に頭を突っ込むように床を這い、拭き掃除に没頭した。なにかに没入することで我を忘れようとしていることは明らかだった。
「汚くなんかないの。見ていなさい」
トゥラキアはいつもしている手袋を外して、水音を立てた。色白でしなやかな手にある指先が、黒々とこびりついたものを剥ぎ落していった。黄ばみが薄れ、水垢の輪が消えてゆく。
ヒュードラーの網膜で、姉の痩せて汚らしい手と、トゥラキアの白くて柔らかい、吸いついてきそうな手が重なっていった。
一週間、二人は戦い続け、乗り越えた。
それに比べれば他のことは気安いせめぎ合いだった。洗顔、歯磨き、髪の乱れを整えること。爪を伸ばしすぎないこと。きちんと食卓について食事をすること。残さず食べること。牛乳を厭がらないこと。食器を洗って片づけること。自分の部屋の清掃。使ったものをもとの場所に戻すこと。草花を育ててみること。水をあげるのを忘れないこと。データパッドに日記を書くこと。少しずつでも本を読むこと。数を正確に扱うこと。絵にして表現してみること。音楽にして表現してみること。人と話すときは相手の眼を見ること。決して俯かず、諦めず、戦いをやめないこと。
トゥラキアは思いつく限りのことを教えていった。静穏に、だが情熱を持って諭すように教えていった。乱雑な言葉を使ったり、暴力はもちろんのこと声での威嚇すら用いることなく。
それでも彼女の心も少年の心も、どこか曇りがちだった。
あたしは彼を道具にして復讐しているのだろう。満たされなかったあたしの幼少時代。まるで人間扱いされなかったあたし。生んだことを恥じているかのように存在を無視され、目につけば邪険にされ邪魔にされた。そうして味わった数々の苦痛を、あたしはこの子に向けて吐きかけている。
そうだ、これは復讐なんだ。嫌われたくなかったら、やってみろ、「屑め!」という視線を感じたくないなら歯向かってゆけ。それがどんな化物を作ったか知っているのに。あたしのような卑屈で非ね曲がり、捻じれた怪物ができあがる。反撥することでしか自分を表現できない。自分のやっていることが恥ずかしい、とことん恥ずかしい。
あたしは素直に愛情を表現できない女よ。人を前にして、泣き叫んでみたり、お腹が痛くなるほど笑い、涙や鼻水を流れるままにしておくこともできない。口惜しさに打ち震えてものを壊してみたり、やりばのない怒りを言葉にして書きなぐることもできない。嬉しさのあまり、飛び上がって誰かに抱きつくこともできない。「あなたがいないと生きていけないの!」、憐れな哀願を心のままに祈り、狂気に似た懇誓を繰り返すこともできない。終いには、何もかもが厭になって親からも、友だちからも逃げ出した。地球にいられる料簡と辛抱すら無くして逃げ出した。あたしは逃げ出したのよ。
彼があたしの背中を追うようにして、あたしのような人間になることなど望んでいない。でも……あたしにできること、教えてあげられることは、あたしがしてきたことだけなのよ。他になにができるっていうの? だから、あたしは逃避しない、決して脱走もしない、そしてあの子にもそれを許さない、何があっても……。
報いね、敗走した罰なのよ。あの子は、自分を忌避したあたしに制裁を加えるためにやってきたのよ。懲罰を与えるためにやってきたの。でももう逃げ出したりはしないわ。
愛情、簡単な言葉よね。なんだかとてもいやらしい。甘ったるくてべたべたしていて、まとわりつく糖分過多なあの気味のわるいもの。色じかけという悪寒が走る痺れ。彼に必要なのはそれだとわかっているのに、あたしには何もしてあげられない。ここにあるものは、いつも変わらず虚無という宇宙のような絶対零度の冷淡さよ。救いを求めるたびにあたしを擦りぬけていった。あいつも、こいつも、あの人も、この人も、あんなに愛しあって結婚したあの男も。エヴシン……あなただけは本当のあたしをわかってくれている友達だと思っていたのに。いつか会って殺してやるんだ。あんたの心を踏みにじってやるんだ……。憎い、憎くてしかたがない。あたしは怪物なのよ……。
二人の船内生活がはじまって三日目に、DOXA本部に申請しておいたヒュードラーのIDカードが届いた。
「これでようやくボウヤも行きたいところに行けるってわけだな。ともかく俺は休暇を楽しむよ。あんたは?」
「さあ……何も考えてないわ」
副長をはじめ、常識ある連中は次々に自分の居場所をきめて船を去っていった。一週間が過ぎたとき、<ケイローン>号に残っていたのは、トゥラキアとヒュードラーだけだった。
ケイローンの人格コンピューター、ペールとメールは彼女に協力的で、まるで少年を自分の子供のように思い遣り、接してくれた。その親密さは奇妙で不思議ですらあるほどだった。しかしそれが彼女の心の支えになっていたこともまた確かだった。「一人じゃない……」、トゥラキアにそう感じさせたのは人間ではなく、人格だったのだ。
少年はIDカードを手にし、ペールとメールに見守られていることで、自ら行動範囲を広げはじめた。だが、それでも少年の心もやはりまた、晴れわたった日々とは程遠い灰色の季節のままだった。
――ヒュードラーの日記より。
ボクはあの人がきらいです。どうしてもゆるす気にならないのです。ボクのことを心配してくれ、いろいろなことを教えてくれますが、きらいなのです。最近、ボクはお父さんが欲しいと思うようになりました。いまはペールがお父さんがわりをしてくれています。でも、ちかいうちにお別れしなければならないと思います。あの人の様子を見ていて気づきました。なんだか色々なものを買ってきて、船を出る用意をしているようです。船に帰ってくると、いつもいやな臭いをさせています。香水だといっていました。でもボクはあの臭いが大きらいなのです。もうすぐこの船ともさようならです。ボクはきっと一人になるのでしょう。あの人から逃げだすつもりです。いっしょにいるのがいやだからです。香水は臭いし、口うるさいし、顔色ひとつかえないあの人がきらいだからです。明日は、メールから治療を受けて、ペールからは太陽系のことを教えてもらうのが楽しみです。いま宇宙のことを勉強しているのです。これからロボットの出ている映画をみてねます。姉さん、おやすみなさい、また明日!
トゥラキアは読みながら苦笑した。同時に、少年が分身のように思え、心が安らいでいく安堵感も覚えた。不快感を表情に出さずに試練に耐えようとする健気さ。彼女は自分と同じ気質を少年のなかに認めたのだ。
この子には希望がある。残酷にさえ思えたが、姉と引き離されたことが彼にとっての希望となっていることが嬉しかった。自分にはないもの、儚くついえ去り、いまも見つけられていないもの。彼女は自分にないものを持っている少年に嫉妬した。みっともない大人だと泣きたい気持ちになりながら羨んだ。自分にできることは羨望だけだということを、彼女は誰よりも知っていたのだ。




