第14話 ごめんね、ありがとう
「交代するよ。君は少し休んでくれ」
リンジーは少女が寝息を立てているベッドに俯せになって、眠り込んでいた。
「起きてくれ、交代だ」
「……ありがとう。あたし、いつのまに――」
「疲れてるんだ。仕方がないさ」
レックスはそれとなく気づいていた。リンジーがいつも少女の傍らに寄り添っていることを。
「マーチからの報告は聞いている。任せてくれて大丈夫だ。この子が危険な状態にあることはわかってるよ。彼のほうは問題ないようだがね」
そう言って、レックスは少年のほうをちらりと見た。
洗っても笑っても落ちない、悲哀がこびりついた声が返ってきた。
「姉としての立場なのかしらね。なんとしても弟を守るんだ。その意志だけが彼女の繊細な神経を支えていたんでしょうね。普通ならとうに気が違っていてもおかしくない。マーチは何度もそう言ってるの」
「マーチの診断によれば、監禁されていた期間は、三年にもなるって話だね」
レックスの表情にも、悲哀が浮んだ。
「とうに――というよりは、何度違っていてもって思えるよ。あのデータを見てしまうとね。さあリン、とにかく少し休んでくれ」
「いいえ、少し話をさせて。あたし、誰かと話したいのよ」
「かまわないよ」
病室には、囁くようにかわされる声と、少年と少女の状態を知らせるバイタルメーターの電子音だけがあった。
「この子の抱え込んでしまったものの大きさを考えると、あたしもね、一人で抱えていることが辛いの」
「当然だ。誰だって一人だけど、一人じゃ生きていけないからね」
「この子、これから先、何かあるたびに、地獄のような光景を思い出しては苦しむのよ」
リンジーが手を触れている酸素マスクは白く雲って、呼吸にあわせてかすかに上下していた。
「そう悲観的に考えないことだって、できるんじゃないかい?」
「…………」
「ある意味でいったら、幸運だったのかもしれないよ」
「幸運? 幸運ですって? 何を言ってるの!?」
「そう興奮するな。マーチ、マーチだよ。つまり君に助けられたことで、この子は高水準な治療を受けることになった。考えてみてくれ。もしこの子が一般的な医療機関に送られていたらどうだい?」
「そうね……」
「だから、この鞭打たれたであろう傷痕だって綺麗に消してあげられる。君の愛情の賜物じゃないか」
リンジーは胸の奥にわだかまる暗雲が少しだけはらわれていくのを感じた。だが灰色の雲は留まってうずくまり、いつ雨を降らせてもおかしくなさそうだった。
「たしかに傷は消せるわ。けど、痛みは記憶になっていつまでも消えないのよ」
「君がこの子の傍にいればいいじゃないか。痛みをわかってあげられる君が」
「わからないの、わからないのよ、レックス。あなたにはわかって? あたしにはわからないの。わかるはずもないのよ。誰にもわからないのよ。あたしはそのことがたまらなく悲しいの」
「リンジー……一人だけいると思うよ。この子の痛みがわかる存在が」
そう言って、レックスは少年のほうに顔を向けた。
「そうね、それは確かよ。でもそれもまた残酷なことなの。互いに痛みを分けあおうと思えば、この子たちは向き合わなければいけないの。忘れたい痛みを何度も確認しあって癒しあうしかないの。それは過酷なことよ。――そこから逃げることもできるわ。互いによそよそしい態度をとって、そのことに触れないでいればいいの。だけど、そんな風にして一緒にいることに意味があるの? ありはしないわ」
「リンジーここに居ちゃいけないよ。君の神経がまいってしまう。休んでくれないか」
「わかってるわ。何年心理学をやってきたと思ってるの。こういう状況だって何度もあった。けど今回は特別よ、あまりにも酷いの。傍に居てあげたいのよ。――いいえ、違うわ。あたしが傍に居たがってるのよ。あたしの心が痛い、痛いって言ってるの。きっとその心が感応してるのよ、ここに居たいって……あたしは狡い女なの。自分の気づいていなかった痛みを癒したくてここに居ようとしてる、狡い女なのよ……。だってそうでしょ、この子が味わった痛みがどんなものか感じられるのは、あたし自身の中にそうしたものがあるからなんだもの。あたし自身それに気づいていなかっただけなの。気づきもしないで、あたしはこの子に、こんなか弱い子に助けてもらおうとしてたのよ。自分が恥ずかしいわ。だから、あたしがこの子に言ってあげられる言葉はたった二つだけなの。――ごめんね、ありがとう、それだけなのよ」
「わかるような、わからないような、なんと言えばいいか……でも、自分を責めすぎるのは良くないと思うよ」
会話はそこで途切れた。
リンジーとレックスは互いに自分がまだ知らない自分を見つけてしまった気がしていた。内奥へと、まだ表面に現れていない海中にある氷山の底へ底へと沈むように、二人は静かに心の奥へと潜り込んでいったのだった。




