色、
学校に着き、ミゾレと別れたユリとシズクは下足を下駄箱に入れ、上履きに履き替えていた。
昇降口前で雨水を払った傘からは残った雨水が伝っており、床を少し濡らしていた。
「ねえ、シズク」
上履きを履きおえて、仕上げに爪先でトントンと床を突っつくようにしていたシズクが振り向いた。
「何さ?」
「あのミゾレって子、あなたの後輩?」
ユリはさりげなくシズクの目を覗きこむ。シズクは一瞬目を反らすと、ニコッと笑った。
「あ、うん。そうだよ!あの子、運動神経いいでしょ?私がオリジナルメニューで鍛えてやったのさ!」
どうだ、と言わんばかりのドヤ顔で胸を張る。
「…………そのオリジナルメニューってどんな内容なのかしら?」
「校庭20周した後にハードルを50回飛び越えて、そのままの勢いで走り幅跳びをして……そうそう、んで200メートル走ってそのノリでまた走り幅跳びをやるってのを20回。その後野球部相手にボール投げして三振を30回…………そんで柔道部の奴を全員投げて、テニスを1対2でやって完全試合を3回やったら剣道部で1対全員でやって……」
「もういいわ……そんなの普通の人間じゃできないわ。あなた達、どんな体してるの?」
「ミゾレは運動廃人だけど、私は至って普通のお・ん・な・の・こだよ、はぁと!」
手でハートの形をつくってウインクを決めるシズクだったが、ユリはそれを白い目でじっと見つめる。シズクが精神的ダメージでプルプルと震えだしたころ、ユリは耐えきれず吹き出した。
「ほら、はやく行くわよ。」
シズクがいつものように鬼と言いながらユリの隣で暴れる。ユリはそれを上手く制しながら教室へと歩いていく。
昔からのこの流れを楽しみつつも頭のなかではシズクの表情の違和感を探り続けていた。ミゾレについて聞いた時、一瞬目を反らしたのは何故なのだろう。
「どーしたの?ユリ?」
ぼんやりと考え事をしながら接していたせいか、シズクの突然の問いにハッとして、ユリは思わずシズクの目を見た。シズクの目はユリの目の奥の奥を見つめているようで、どこか、神秘的だった。心配そうな顔をして首を傾げている。
「あぁ…………何でもないわよ。そういえば、友達に教えてって言われたところが何処だったか思い出してたの。」
シズクはそう、と呟いて少し俯いた。
それから暫く歩くと、教室に着いた。ドアを開けると、ユウヤミがヒササキと一緒に何か話していた。二人はユリとシズクの存在に気付き、挨拶をする。
「おはよう、ヒササキ君とユウヤミ君。何を話していたのかしら。」
「あー、えーとね、性選択のはなしだよー。ほら、ハンディキャップのやつと、ランナウェイのやつがあるでしょー?それについて面白いねーって。」
「あなた達、本当に中学二年生?まず、どうして進化論の性選択のことを知ってるのよ。」
ユウヤミがハンディキャップだのランナウェイだの言っていたが、ユリが言ったとおり、これは中学二年生では知っていないのが普通と言える知識である。まず、それを読んだとしても理解することも難しいだろう。
「いやー、生徒委員といったらインテリが鉄板だからさ~」
「それだけの理由で進化論を理解しようとは思わないわよ、普通。」
そうなのかー、とユウヤミは某シューティングゲームにでてくるキャラクターの真似をした。その横でヒササキは苦笑している。
「俺は憧れの人が頭いいから、話のネタになると思って、百科辞典を読んで知ったんだけど……ユウヤミ君はそういう理由なんだね。」
憧れの人……ヒササキはその言葉を呟いた時、少しだけ表情が和んでいたが、それに気づいた者はいなかった。
一方、シズクは憧れの人と聞いて目を輝かせてヒササキに詰め寄る。
「憧れの人ッ?!まさか、好きな人とイコールで結べたりとかしない?」
学校の噂話はシズクが司っていると言っても過言ではない。だからこそ、転校してきたばかりの情報の少ないヒササキのことを知りたいのだろう。だからといって、彼女は誰にも言ってほしくないと言われた情報については口は硬い人間だが。
「はは、まあそんなものかな。だけどその人競争率高いんだよね。このなかにもいると思うよ、その人が好きだって人。」
シズクは片手を顎に添えて考え込んでいた。そして何を思ったのかユウヤミに話をふる。
「あんたは恋の噂聞かないけど、好きな人いるの?」
ユウヤミは暫く天井を見つめて考えていたが、突然何か思い出したようにハッとなった。
「あ~いるいる~!えーとね…………」
ユウヤミが名前を言いそうになったところでシズクがあわてて彼の口を手で押さえた。
「言うんじゃない!そういうのはさらっと言うんじゃない!勉強はできないけど生徒の好きな人は推理できるという私の能力を潰すんじゃない!」
ユウヤミが口に覆い被さるシズクの手を顎にあたりにずらす。
「わ~週刊誌の記者みたいな能力だね~スキャンダルぅ~♪」
するとシズクはユウヤミのその台詞にのって手をカメラの形に構え、電光石火の如く反復横とびをしはじめた。
「どんなスクープも見逃さぬ!天才記者っシズクちゃん!!」
「…………それじゃ撮った写真全部ぶれてるわよ。」
そう言われた直後、シズクは石像のように固まり、動かなくなる。その時の格好が普通の人間では足が痛んで維持できないものだったので、ユウヤミはぱちぱちと拍手をしていた。
「ヒササキ君…………他の皆はこんなに変な人達じゃないからね。安心して。」
そう言ってユリはヒササキをみたが、彼は笑いをこらえるのに精一杯で、目の端に少量の涙を浮かべていた。
「ははっ、おもしろいね!すごいと思うよ、こんなに個性的な人達が集まってるなんて!毎日が楽しいよ。」
毎日が楽しい。その言葉がユリの心の隅に刺さった。その一言で何かを察してしまった。
あれだけ明るかった妹が鬱のようになったバセドウ病。毎日が怠く、憂鬱で、ずっと真っ暗な道を歩くような辛さのなか、他人より劣っていることをどんどん自覚させられる。そのなかに楽しみを見つけ出すことなんてできない。幸せを見つけ出す余裕さえない。そうして毎日誰かを傷つけ、傷つけられて生きていった彼の道で毎日が楽しいだなんて言えるようになるには相当な我慢と年数が必要だ。
きっと改善と再発を繰り返したのだろう。そういった人間はもう後ろを向いたり立ち止まったりしない。前をむいて歩くしかないことが分かっているからだ。だから毎日を楽しく生きる。ヒササキの笑顔にはそんな気色がうっすらと感じられた。