[過去]誰かのはなし
理不尽、そんな言葉がお似合いだった。渡ろうとしたら赤色になった歩行者用の信号。それが青になるまで待っていた。それだけだった。それだけだったのに。
つんざく女の悲鳴。驚いてそちらの方に向くと、トラックがこちらめがけて突っ込んできていた。
命が助かったのは不幸中の幸いである。だが、足が無くなっていた。
――――何故だ?何故、私なのだ?自分は陸上の選手として、将来有望と言われていた。それがどうだろう。走るうえで命ともいえるこの足が、なくなった今、私に何の価値があるのだろう?
体に何もつまっていないような虚無感が全身を蝕んでいた。胸の真ん中に穴が開いて、空気がすうすうと通っている感触がする。心の奥がじんじんと痛む。
窓の近くには雀の巣があったはずだ。それなのに、どうしてだろうか。何も聞こえてこない。この時間帯でこんなに暗くなっただろうか。もう、五感が麻痺してしまったようで、なにも感じなくなっていた。
日常というのはこんなにも簡単に死んでしまう。そんなことに今まで気づけずにいた。
――――そんなときだった。
俯いた私に黒い光が差したのは。
『そこの御嬢さん、生きるのやめたい人かなぁ?』
何の音もうけつけぬ耳に、怪しげな声が矢の如く突き刺さった。いや、脳内に無理やり入ってきた感じだった。私は驚いて声のした窓の方をみると、逆光に黒く塗りつぶされた少年が窓に腰掛けていた。ふつうの人なら驚きのあまり飛びはねるだろう。だが、心の闇に食い尽くされた私の心は、その少年の姿を天使にしか見えぬよう錯覚させていた。心を委ねよう、そう思ってしまった。
『その顔は……ふふっ、分かった分かった。そんじゃあ、俺が君を導くから。』
こうして、一人の少女が死神と共に歩みはじめた。
死神の、大切なものを取り戻すために。