白仮面
「なかなかの見世物だったではないか。タウバル」
ようやく戻ってきた俺を、黒巫女は拍手で出迎えた。
ザグモ卿との弓勝負、その後俺は山の人々に囲まれ、しばらく質問攻めにあっていた。弓はいつから訓練していたのかとか、帝国にも弓の使い手は多いのかとか。とにかく話題は弓のことばかりで、彼らがどれだけ弓というものに思い入れがあるのか、俺は改めて実感することになった。
「それにしてもザグモ卿に挑むとはな。結果的には良かったと私も思うが、無茶なことをするものだ」
そう言って黒巫女は楽しそうに笑った。
……俺がザグモ卿と知らずに勝負をしたことについては、言わないでおこう。
いや、もちろん山の民の中でもそれなりの実力者と勝負をするつもりではいた。この場の流れを俺の思う方向に変える、そのためには山の人々が納得するような勝負である必要があった。
だから勝負を挑んだ時、俺は山の人々が集まっている場所をあいまいに指さしたのだ。人間というものはあいまいな指示に対し、それが自分に向けられたものだとは普通、思わない。特に国と国との間での勝負の話となればなおさらだ。もしも勝負を挑まれたのが自分だと思うような者がいれば、それはその者がいつもそういう立場にあるからそう思うのだ。
つまり俺に指さされたことで名乗り出てくる者、それはその場にいる中では腕に覚えのある者ということになる。俺は経験上、そう考えていた。
……しかし。まさかザグモ卿その人を引き当ててしまうとは。不運……いや、結果的には幸運だったと言うべきか。
「で? なぜまだその弓を持ったままなんだ?」
黒巫女が俺の持つ弓を指さした。
――『切掛』。
俺が弓勝負のときに選んだ、山の弓の中では小ぶりの一張だ。
「ああ。一番弓のお告げがあったってことになってるみたいだからな。そのお告げの片割れの弓として、俺が持つべきという話になった」
「ふむ。山なりの親愛の形ということになるのだろう。受け取っておくんだな」
「そうだな。ここで暮らす上で、何かの役には立つだろうし。これを機会に山の弓の流儀を身につけておくのも悪くない。ただ……」
「ただ……? なんだ?」
黒巫女が首を傾げなから、不思議そうに俺を見上げた。
「この弓……『切掛』は子どもの練習用の弓らしい……」
「練習用の……」
俺の言葉を繰り返しかけて、黒巫女は小さく吹き出した。笑いをこらえようとして、その右手がその白い口元を隠す。
……だがやっぱり笑っているな。小さく肩が震えてやがる。
「いや、いやいや。タウバル。笑っているわけではない。貴殿が山の民に子ども扱いされているとか、そういうことを言いたいわけでもない。くっ、くくく」
「……君の無神経さというのは筋金入りだなセイラム……まあいい。好きなだけ笑ってればいい」
そんなやりとりをしていた俺たちに、軽やかな靴音が近づいてきた。昼下がりの柔らかな日差しを反射して、細やかな金色の光が周囲の空気を彩る。
「ごきげんよう、タウバル様」
お嬢だった。挨拶でもしに来たのだろうか?
俺は小さく目元で会釈をした。先ほどのラヴィとの一件。俺のことを不審者か何かのような目で見ていたお嬢だったが、今はその視線にそういうトゲトゲしいものはない。
「弓のお点前を拝見いたしました。ザグモ卿は山でも随一の弓の名手と聞いています。そんな方と互角だなんて……私、感服いたしました」
青い双眸が俺の視線をのぞき込むように見上げる。
……訂正しよう。さっきのトゲトゲしさは確かになくなっているが、お嬢の瞳の中にはあからさまな敵意のようなものが見て取れた。
丁寧な社交の言葉とは裏腹な、身構えた警戒の眼差し。まあそれは仕方ない。和睦したとはいえ、帝国と王国はついこの前まで敵国だったのだ。
今でも、互いのことを味方だとは誰も思っていないだろう。
そう。このフィリオナ伯爵家のご令嬢も、その例外ではない。それだけの話だ。
「特使としてこの山の地に参ったものの、山の方々になかなか心を開いてもらえないことに私は胸を痛めておりました。政を与る者としてまだ未熟とはいえ、私なりに言葉を尽くしてはいるのですが……」
お嬢はそう言いながら山の人々が集まっている場所に視線を移した。弓勝負ですっかり盛り上がったからだろうか。着任披露の宴会は、その主役の特使とは無関係に更に騒々しさを増していた。
「それがどうでしょう。タウバル様はたった一本の矢だけで、皆様のお心を射抜いてしまわれました。ザグモ卿のあのような笑顔を、私はここに来て始めて目にしたのです……私もぜひ、タウバル様の弓の功にあやかりたいものですわ」
お嬢の白く細い指が俺の持つ『切掛』に触れる。
「弓にあやかるのは勝手だが、それが貴女のことを助けてくれるわけじゃない」
俺の言葉はどちらかというと冷たいものだっただろうか。それを聞いたお嬢の指が、『切掛』の上で止まった。
「山の連中が俺を友のように扱ってくれているのは、俺が彼らの胸元に飛び込んだからだ。弓は、こいつはその切掛を作ってくれたに過ぎない」
「ではむしろ、私がまだ山の方々に心を開いていない、そのことが問題だとタウバル様は仰りたいのでしょうか?」
「さあな。どう解釈するのか、それは貴女次第だ。どっちにしろ、貴女は貴女で貴女なりのやり方を示す必要がある。それだけのことだ」
お嬢の指が、『切掛』からすっと離れた。
「ではそういたしましょう。私は私なりの……フィリオナ家に連なる者としての流儀で」
そう言い残して立ち去ったお嬢は、しばらくして再び壇上にその姿を見せた。
「先ほどは帝国の特使タウバル様から、見事な弓のお点前をご披露いただきました。私からは王国の剣技を、ここにお集まりの皆様にご覧いただこうと思います」
剣技……?
最初の挨拶のときと同じように、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つお嬢の声は、賑やかだった宴会を一瞬にして静かなものに変えた。
山から降りてきたのだろう冷たい風が、再びこの裏庭に湖の水の匂いを運んでくる。春の日差しに残る、冬の肌触り。お嬢の美しい金色の髪が、そんな寒々としたものをはらんで揺れた。
俺と、山の人々の視線が壇上に集中する。
お嬢はそんなことを気にする様子もなく、言葉を続けた。
「ここに控えていますのは我が伯爵家の食客、ラヴィーナです。聖王国の元騎士で、その剣技がお父様の目にとまり、私とともにこの山の地に参りました」
お嬢の左手が壇上の奥に向けられる。
そこには、あのラヴィが立っていた。黒縁の大きめの眼鏡に赤と黒の格子柄のリボン。そして首までを覆う白い厚手の毛織物……しかし今の彼女はそれ以外に、異様な武具を身につけていた。
左肩から左手までを大きく覆う金属製の長手甲。いや、それは単なる長手甲というよりは、肩当てと一体になった腕鎧とでも言うべき形態のものだった。
「どなたか、このラヴィーナとお手合わせ願えませんでしょうか?」
「あれが……あの者が聖王国の騎士、だと?」
俺の隣で黒巫女が小さくつぶやく。そういえば、黒巫女ももともとは聖王国の出身だ。ラヴィについて、何か知っているのだろうか?
山の人々が口々に何かを話しながらざわついている。どうやら彼らは弓は得意だが、剣の方はからっきしらしい。互いの顔を見合わせながら、どうしたものかと困っているようだった。
その様子を見下ろしながら、お嬢が再び口を開いた。
「どなたか……少しでも剣の心得がお有りであれば、構いませんのよ? ……そう、山の方でなくても」
ちらりと、お嬢の視線が俺たちの方を見たような気がした。
……そうか。そういえば黒巫女は剣術の達人だ。山の人々が剣が苦手なことを承知で、お嬢は黒巫女が出てくるのを待っている。そういうことだろうか?
だが、どうしてそんなことを?
「気は進まぬが、やむをえんな……」
黒巫女が前に進み出ようとしたとき、山の人々の間から、ザグモ卿の声が響いた。
「おォい、誰かトリスを呼ンで来てくれェ」
トリス……? 誰だそれは?
俺がそんな疑問を思い浮かべている間に、誰かが屋敷の方に走っていくのが見えた。
「おい、セイラム。トリスっていうのは、誰だ?」
「その質問には答えたくないな。だが……」
黒巫女は珍しく、苦々しさともあきらめともつかないような、複雑な表情を浮かべていた。
「……見れば貴殿にもすぐ分かる」
屋敷から、一つの人影がゆっくりと人々の方に近づいてくる。
すらりと伸びた脚、男っぽい幅広な肩。軍服のような紺色の上着に、男物の厚手のズボン。背は女性にしてはかなり高く、その割に体つきは華奢だった。
そう。俺には、その姿に見覚えがあった。
この町に来た最初の日に出会った人。
「あれが……あの人がトリスなのか?」
だが、俺はその顔を遠目からのぞきこもうとしてぎょっとした。
――白い仮面。
人の形を象るわけでもなく、何か模様が描かれているわけでもない。
それはただただ白く、のっぺりと彼女の顔面を覆い隠していた。