特使
フィリオナ伯爵家は、王国北部の名門貴族だ。聞くところによると、約百年前の魔道大戦の頃から続く由緒ある家柄らしい。
今のフィリオナ伯爵自身も、王国の執政だ。国王を補佐し、政の多くを実質的に取り仕切っている。『繋ぎめ』の戦役でも、俺たち帝国との外交交渉に出てきたのは伯爵だった。
確か伯爵には三人の子女があった。長男はフィリオナ子爵として国の重要な役職を任されていたはずだ。次男のフィリオナ准将は『繋ぎめ』の戦役で黒巫女と互角以上に渡り合い、そしてこの山の地で壮絶な最後を遂げている。その堅守と巧みな作戦指揮は、帝国の戦士たちの間でもいまだに語り草になっているほどだ。
フィリオナ伯爵令嬢アルマ。フィリオナ伯爵家の長女。
今俺の目の前にいる彼女が、そんな名門のご令嬢だというのか?
「おい、セイラム」
壇上の奥側、黒巫女の右斜め後ろ。俺は背を屈めるようにして、口元を左手で隠しながら小声で黒巫女に尋ねた。
「これはどういうことなんだ? どうして王国から特使が?」
「そうか……タウバルにはまだ言ってなかったか」
黒巫女もまた、小声で俺に答えた。
「ここホーク辺境伯領は我が帝国の版図であると同時に王国の支配下にもある。いままで人選と手続きに手間取っていたようだが、このたび伯爵令嬢が王国側の特使として、当地に駐在することになったものだ」
ちょっと待て。
「いま、さらっと妙なことを言ってなかったか?」
「何のことだ?」
「この辺境伯領が、王国の支配下だとか、何だとか……」
普通、ある地域が同時に二つの国の領土になることはない。そんなことをすれば混乱の元だからだ。法律をどちらの国に合わせるのか、通貨は何を使うのか、領地内の治安責任をどちらの国が負うのか、外交や軍事といった対外的な話はどうするのか……などなど。
もちろん歴史上、二つの国の共同統治下にあった地域がなかったわけじゃない。ただ、それは実質的にはどちらかの国の支配下にあって名目的にもう一つの国にも属していることになっているだけだったりとか、大国の事情で一時的にそういう状況を作らざるを得ないといった場合がほとんどだ。
それに税金の問題もある。二つの国に所属するからには、税金はどちらの国に対しても納めなければならなくなる。そんな過酷な状態を、普通の人たちは選択しない。
「ああ。そのことか」
黒巫女は少し妙な表情を見せた。そして言いづらそうな口調で続けた。
「私も反対はしたのだが……山の民からの申し出でやむなくな。『繋ぎめ』の戦いの結果、王国との共同統治を認めざるを得なかったのだ」
「あの戦い、俺たち帝国が勝ったんじゃなかったのか?」
「そこが少しばかり事情が複雑でな……」
珍しく、黒巫女が言葉を濁す。
「王国では、王国が勝ったことになっているのだ……」
俺たち二人のひそひそ話を尻目に、お嬢が壇上を一歩前に進み出た。
「初めまして、山の皆様。ごきげんはいかがかしら?」
お嬢はその細身の背筋を真っ直ぐに伸ばし、裏庭に集まる数十人の山の男たちを見下ろした。
「このたび国王陛下からの任を賜り、ホーク辺境伯領の特使としてこの町に参りました。先の忌まわしい戦いからはや一年以上。私たち王国はあの戦いで多くの命を失いました。ですがその代わり、山の皆様からの忠誠という、これ以上なく得難いものを得ることができました。王国と山とは長年に渡り争ってきましたが、それはもう過去の話です。今、皆様は王国の一臣民として、国王陛下とともにあります。皆様が忠誠と臣民としての義務を陛下に捧げる限り、私たちは皆様の安全と富を約束しましょう」
まずい。これは……まずい。
お嬢の挨拶を聞きながら、俺は額に冷や汗が流れ落ちるのを感じていた。
雰囲気が、冷え切っているのだ。この裏庭の。
お嬢の言っていることは、特使としてはしごく当然のことだ。国として保護する対象に対し、それを約束する。その代わりの対価として、義務と忠誠を求める。
それはどこの国でもやっていることだし、だから国は国として成り立っている。
だからお嬢の言葉の数々は、普通の場所でなら歓迎されるものだっただろう。名門貴族の令嬢が、国王の名において民の生活のことを約束しているのだから。
……だが、どうだ? この山の民の眼は。
何しろ、睨まれている。鋭い眼光。俺には分かる。あれは、商人の眼だ。
いままで色々な国で、色々な商人たちと俺は交渉してきた。お嬢の話を聴いている山の民の眼は、そんな商人たちの眼と同じような鋭さを俺たちに向けているのだ。
人の本音を見透かし、その人物を値踏みする。
俺たちは今、彼らの目利きにさらされている……というわけだ。
「……この春から、皆様としても念願でした運河の建設が始まります。このホークの湖の南岸を切り開き、南の谷に水を通す。そしてバーレンの町まで運河を繋ぎ、王国を流れる川への出入りを可能にする。そのことにより、ここ山の地を中心とした、王国と帝国にまたがる水の流通網が完成します。新たな物流の誕生は、この地に更なる富をもたらすとともに、王国の更なる発展に貢献してくれるでしょう」
お嬢はそう言い終わると、口元に上品な微笑みを浮かべ、会場に向かって会釈をした。
裏庭の山の民から、申し訳程度の拍手がまばらに鳴る。
……どうやら、山の人々にとって、お嬢の挨拶はそれほど心に響かなかったようだ。
しかしそれを気にする様子もなく、お嬢は壇上の奥へと退いた。
お嬢が一瞬だけ俺の方に向けた視線。それは俺の表情を読み取ろうとするかのような眼差しだった。
もしかして俺がこれから挨拶する、その内容を気にしているのだろうか?
自分の挨拶と俺の挨拶、それがこれから他の連中に比較されることを?
……俺は思わずため息をついていた。
挨拶は、話す相手のことを見て話すものだ。誰かとその内容を競うためのものじゃない。
それよりも。
俺は、まっすぐ裏庭の山の人々の方に向き直った。
まずは、この冷めた雰囲気をなんとかしなきゃならない。
俺は壇上で一歩前に出ると、まずは大きく息を吸った。
静まり返った着任披露の会場。ただ、湖の波の音だけが俺たちを取り巻いている。
俺を見上げる無数の眼差し。
それは先ほど以上に冷たく、俺がこれから何を言い、そしてどういう振る舞いをするのかをじっと待っている。
「最初に言っておくが、俺はこの町のことがあまり好きじゃあない。寒いし、周りは湖だし。草原とは何もかもが違うからな」
俺の言葉に、山の人々の視線がより鋭くなるのが分かる。
「だがそれはお前たちも同じなんだろう? 帝国にも王国にも、別にお前たちが好きで従っているわけじゃないことぐらい、俺にも分かる。だが好きとか嫌いとかいう話に意味はないと俺は思ってる。それは単なる感情の話だからだ。俺とお前たちがこれから一緒にやっていく、そういうときに俺たち個人個人の感情のことを気にしていたら、きりがないだろう?」
俺はここで少しだけ言葉を止めた。そして、山の人々の顔を見渡した。
「だから俺が今考えているのは、お前たちが俺たちの仲間としてやっていけるのかどうか、ってことだ。俺たち帝国は広大だ。一千を超える数の町があり、そこには二億を超える民が住んでいる。俺はそういった連中と、お前たち山の間を取り持つためにここにいる。だから俺はお前たちの力量を見極めなきゃならない。二億の、お前たちがその仲間足りうるのか、をだ」
ざわめきのような声が、湖からの音の中に混じる。壇上を睨み続けていた山の人々が今はその視線を下げ、互いの顔を見合わせているのが分かる。
そう。山の人々が俺たちを目利きしようとしているのと同じように、俺も彼らを見極めようとしている。そのことに山の人々も気づいたということだ。
「お前たちが真に何かを望むのであれば、我らが二億の力を利用すればいい。運河を造る? いいだろう、力を貸そうじゃないか。帝国と王国にまたがる新しい物流拠点になる? 大歓迎だ。そのためにお前たちが帝国と王国の二つの主を戴くことを選択したというのなら、それも別に構わない。お前たち自身がお前たち自身の責任で選んだ道なのであれば、俺たちはそれを尊重しよう。だがお前たちは一つだけ、俺たちに示す必要がある。お前たちの力、知恵、富……何でもいい。お前たちが、山の民が、俺たち二億の仲間足りうるのか。何を持ってお前たちがその存在を謳うのかを、お前たちは俺に分からせる必要がある。だから……勝負しようじゃないか」
一瞬で裏庭が静まり返った。
勝負。その言葉に、人々の視線がもう一度俺の方に集中する。
俺はそのことを見定めながら、ゆっくりと右手を上げた。そして山の人々が集まっている、その一角を指さす。
「よし、そこのお前。俺と弓で勝負だ!」