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帝国の腕はいつも悩む  作者: 徳田雨窓
第一章 帝国の腕
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黒巫女

「つまり女人に見惚れて風邪を引いてしまったと?」

 呆れ果てたような口調が、ベッドで寝込んでいる俺を見下ろしている。

 透き通った若い女性の声。涼やかな響きの中に、どことなく冷たい鋭利な音色を含んでいる。

「いい加減その女好きはどうにかしたらどうだ、タウバル。『帝国の腕』たる自覚のもと、自身の立場をわきまえるべきだろう」

「それは無理だ。セイラム」

 俺はすぐさまに反論した。

「女の子はこの世の宝だ。それを愛でるのは俺の生き甲斐。それを止めるだなんて、そんなことをしたら俺は……ゲホゲホッ」

 咳が俺の喉からかすれた音を絞り出す。

 息苦しい。

 帝国パルジャノの公館にやっとの思いでたどり着いたのが昨日の夕刻。それからしばらくして、俺は高熱に襲われた。

 ホーク辺境伯領は高地だ。空気は薄い。それが俺の気管を弱らせたのだろう。冷たい風を吸い込み過ぎたのも良くなかったに違いない。

 熱で思考が鈍る。朝から食事も喉を通らない。腹の調子は悪くないのだが、微かな吐き気がどうにも調子を狂わせる。


「……もしかしてこの熱、ただの風邪じゃないんじゃないか?」

「心配するなタウバル。どう診てもただの風邪だ」

「その土地その土地に特有の病気というものがあると、俺の爺さんが言っていた気がする。死んだ婆さんの従兄弟の隣の家の友人の友人が、遠く離れた異国の地でそういう病の一種で死んだという話だ」

「そんないい加減な話は相手にせぬことだ」

「こんなへんぴな土地だ。しかも湖に囲まれたおかしな町だ。どんな恐ろしい未知の病気があるか、知れたもんじゃない!」

「この町のことを悪く言うのは感心せんな」

「……草原に帰ってもいいだろうか?」

「まだ一日も経っておらんではないか……」

 セイラムは首を横に振りながら、深々とため息をついていた。


 セイラムは俺の前任者だ。

 ホーク辺境伯領に駐在する帝国パルジャノの特使。ここから南に国境を接する王国ブランとの外交交渉、通商交渉を、皇帝陛下の御名により一任されている。

 セイラムは確か俺よりも五つほど年下だったはずだ。だがもともとは異国からの客人だったにも関わらず、若くして帝国パルジャノの重臣にのしあがった彼女の風貌は、見る者に畏怖のような感情を呼び起こす。

 ――隻眼。

 セイラムの左眼は黒く不気味な眼帯の下に隠れている。幼少の頃、病気で失明したのだという噂もあるが、本当のことを知る者はいない。ただ対となる右の瞳は冷ややかで、その灰色の眼差しは鋭い。

 真っ白な肌に銀糸のような髪。それが喪服のような漆黒の礼装の上を流れる様は、まるで夜闇に光る星の滝のようだ。

 それほど背が高いわけではない。だが背筋をまっすぐに伸ばしたその姿勢が彼女の周囲に緊張感を漂わせる。それが実際の身長よりも、彼女を大きく見せる。

 その風貌と独特の雰囲気、そして常に黒い衣装や鎧を身にまとっていることから、彼女は『黒巫女』という異名を持っている。

 帝国パルジャノ黒巫女セイラム。その名を恐れる諸侯は数知れない。


「どうして……どうして俺なんだ?」

「何がだ?」

「こんな田舎の特使を、どうして俺がやらなきゃいけない? セイラム、このまま君が続ければいいじゃないか」

「私自身はあと数年、ここに留まるつもりであった。もともとはな……だが仕方なかろう。西の国境をこのまま放っておくわけにもいかぬ」

 西の国境。そういえば一年ほど前から、争いが絶えないという話を聞いたことがある。

「西といえば、テイェンの縄張りだろ? 『帝国の脚』がいるんだ。わざわざ君が行く必要はない」

 帝国パルジャノには皇帝陛下の代理権限を許された執政官がいる。

 『帝国の頭』たるエイターラは東を、『帝国の脚』たるテイェンは西を。

 そして俺は『帝国の腕』として、主に内政を任されてきた。

 帝国パルジャノは広大だ。それぞれの地方を治める執政官には、相応の権限とそれに見合う『力』が与えられている。そうでなければ、この広い版図を長年に渡って維持することなどできない。

 よく帝国パルジャノは一枚岩ではない、というようなことを言う者がいるんだが、それは事実であって事実ではない。帝国パルジャノは執政官たちがそれぞれ治める地方政府の、ゆるやかな共同体のようなものだからだ。

 皇帝陛下は政治的、宗教的権威として君臨し、それが帝国パルジャノ帝国パルジャノとして一つにまとめている……それが実態だ。


「テイェンとはここ数ヶ月、連絡が取れなくなっている。エイターラから何も聞いてないのか?」

「テイェンが? そんな馬鹿な」

「事実だ。ともかく何か想定外のことが起きている、そう考えるべきだろう。『帝国の脚』にもし万が一のことがあったのだとすれば、最悪の事態も想定せねばならん」

 それはそうだろう。執政官が不在となれば、西はすでに国としての役割を果たせなくなっているかも知れない。

「それに……炎剣鬼フレアヴォーグのこともある」

 黒巫女セイラムの眉間に少しだけ暗い陰が落ちる。

 ――炎剣鬼フレアヴォーグ

 幾多の戦場に現れては帝国パルジャノの戦士たちを屠る、恐るべき敵。今までにその刃の前に倒れた戦士は千人を超えるとも言われている。

 その化け物が西で暴れている……そんな話もあるらしい。

「確かに、それは放っておけないな……」

「貴殿がこの事態を治めてきてくれるというのであれば、私は喜んでこの地に留任しよう。だが……」

 黒巫女セイラムは残念そうに首を振った。

「貴殿はいくさに向いてなさすぎる」

「……まあ、それは……その通りだ」

 俺も帝国パルジャノの戦士の端くれだから、戦場には慣れっこだ。

 だが、俺が指揮した戦いは連戦連敗。皇帝陛下もさぞかし呆れ果てたことだろう。俺が軍を任されることは、恐らくもう二度とない。

 才能の問題とかではないと思うんだが……。

 たぶん、俺には戦場が似合わないのだろう。草原の自由な風、それこそが『帝国の腕』たる俺に相応しい居場所なのだ。


 それなのにこの町ときたら辺り一面、見渡す限りが水、水、そして水だ。

 いったいこれから俺は何を楽しみに日々を暮らせばいいというのだろうか?

 そんなことを考えていた俺の頭の隅で、あの女の人の顔が浮かんできた。

 悲しげで無表情な茶色の瞳。

 ……もう一度会いたい。なんとなくそう思った。

 理由はわからない。ただ、悲しい表情のままのあの人放っておくことに、俺は後ろめたさのようなものを感じているのかも知れない。


「セイラムはこの町のことは詳しいんだよな?」

「ああ。そうだな。たいていのことは把握している」

「だったら、俺が昨日見た女の人のことについて、何か聞いたことはないか?」

 虚ろな左眼と、そこから放たれる青白い燐光。

 そんな、一種異様な面立ちの人物が大勢いるはずもない。あの人がこの町の住人なのであれば当然、黒巫女セイラムの耳にも噂くらいは入っているだろう。

 しかし、黒巫女セイラムの答えは俺にとって少し意外なものだった。

「もちろん知っている。私の良く知る人物で間違いない」

「え? そ、そうなのか? だったら……」

「……だが、貴殿に彼女のことを教える気はない」

「なんでだよっ! 教えてくれ」

「知ってどうする? 貴殿のことだ。要らぬ手出しをしないとも限るまい?」

「いやいや、セイラム。君は俺の人格について何か誤解していると思うぞ……そうだ、名前だけでいい。あの人の名前。それだけ教えてくれれば、納得する」

「断る」

「なあ、頼むよ。ほんのちょっと興味があるだけだから。何もしないから。陛下の御名に誓ってもいい」

「誓いなど信用できるものか。あきらめろ」


「……だったら。力づくで聴きだしてもいいんだけどな……」

「ほほう? 私を脅すか?」

 黒巫女セイラムの右眼に鋭い視線が宿る。

「できるものならやってみろ。手加減は要らぬぞ?」

「言ったな? あとで後悔するなよ?」

 俺はゆっくりとベッドから起き上がると、そこに腰掛けた。

 発熱で少し視界が揺らぐが、まあ、この部屋くらいならなんとかなろうだろう。

 俺は右腕を真っ直ぐに前へ伸ばすと、おもむろに着ていた服の右の袖をめくり上げる。

 袖の下から、金色こんじきの腕輪が露わになる。それは部屋の灯りを反射し、周囲を黄金の揺らめきで照らす。

 ――朋冠クラウン。陛下の代理者たる執政官の証。

「我ここに宣言する!」

 俺は輝きを放つ朋冠クラウンとともに右腕を頭上高くに振り上げた。

「いまよりこの部屋を我が帝国パルジャノの版図とみなす! 我が声は陛下そのもの、我が言葉はすなわち法とならん!」

 朋冠クラウンが魔道の光を放つ。金色のそれが俺たちのいる部屋を縦横に走り、今や誰一人として解読できない魔道の紋様が床と壁と天井を隙間なく埋めていく。

帝圏パルジ、発動っ!」


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