辺境伯領
「学者によると、もともとこの地には標高三千メール級の火山があったと言われています。それが数万年に渡る噴火を繰り返した後、現在のような巨大なカルデラ盆地になったそうです」
黒縁の眼鏡を右の人差し指で支えながら、ラヴィが卓上の古地図にその指を巡らせる。
「東西二万メール、南北も同じく二万メール。ほぼ円形をしたこのカルデラ盆地は一千メール級の山々に囲まれ、他の地域から独立した自然を育んできました。また盆地自体の標高も約六百メールと高く、冬には深い雪に閉ざされるため、かつては山の民の他に住む者もいませんでした」
公館の広間の壁際にある丸テーブルを挟んで、俺とラヴィたちは向かい合っていた。
俺がエイターラとの話を終えて部屋を出たとき、ちょうどお嬢とラヴィがこの広間に降りてきたのだ。
「……そういう話なら俺も知っている。いちおう俺も特使なんだし、ひと通りのことは勉強済みだ」
「あら、失礼」
俺とラヴィの横から、お嬢が口を挟んだ。
「でもタウバル様からご相談頂いた件、それについての我が王国としての見解を正しくご理解頂きたく思っておりますの。もう少し、ラヴィのお話をお聞きになってはいかが?」
……そうなのか?
なんとなく釈然としなかったが、俺はとりあえずお嬢の言葉に従うことにした。
うーん。エイターラからの頼まれ事について、相談しただけのつもりだったんだが……。
「山の民と言っても、彼らがもともと一つの国としてまとまっていたわけではありません。山の民はいくつかの部族に分かれています。この湖の島に住む『湖の部族』、もともとは南の谷間にいたのが今は王国の町へ移り住んだ『谷の部族』、帝国領内に散らばる『野の部族』、今もなお噴煙を上げる活火山『御火』の麓に暮らす『岳の部族』、そして北西の森に住む『森の部族』。今は名前だけになりましたが、その昔は『花の部族』という人々もいたようです」
ラヴィが卓上に身を乗り出すようにしながら、湖から谷、草原、山、森と順に指さしていく。着任披露のときと違い、今日のラヴィは丸襟の白い長袖シャツを着ている。赤と黒の格子柄のリボンがその豊かな胸元を飾る。
ラヴィが古地図の上で前屈みになるたびにその胸元が俺の視線を釘付けにすることについては……内緒だ。
「今はホーク辺境伯領として形式上、一つの自治領ということになっていますが実態としては何も変わっていません。辺境伯のザグモ卿は『岳の部族』の出身ですが、前回の弓比べで一番弓となったことから、各部族から中立の立場の権威と見なされています……でもただそれだけです」
「それだけ、というのは?」
「自治領として成り立つには、その領内の安全を領主が保障する必要があります。王国では王都による統合国軍が他国からの脅威に相対し、各地方の自治軍が地域の治安を維持しています。しかしホーク辺境伯領にはそのどちらもありません。自治領としての実態が無いのです」
「まあ、それは仕方ないだろう。まだできてから二年も経っていないんだから。それにこの山は地形的に天然の要害、という見方もできる。東に流れる川は帝国へ、南に続く谷は王国へ。それ以外の場所とはカルデラの外縁の山々に阻まれて行き来は難しい。今は帝国と王国のどちらもの庇護下にあるわけだから、ここの人々にとって対外的な軍は必要ないんじゃないか?」
「ですから、それが王国にとって悩ましいところなのです……恐らく帝国にとっても」
ラヴィが卓上から上目づかいにこちらを見上げる。その真面目そうな青い瞳が、眼鏡の透明さの向こう側から俺を見つめる。
「対外的な軍だけでなく、治安のための兵力もない。そしてこのホーク盆地の各部族はそれぞれがそれぞれの規律に則って暮らしを営んでいる。こういう状態の場所に、もしも私たちが自国の者を千人規模で招き入れたなら、タウバル様はそれをどのようにお考えになるでしょう?」
なるほど。そういうことか。
名目上、ホーク辺境伯領は自治領だから軍隊をあからさまに駐留させることはできない。となれば、何か事を成そうとすれば……それが商業的なものであれ、運河の建築という名目であれ、招き入れる者は民間人という建前にする必要がある。
だがここは帝国と王国の共同統治領だ。帝国でも王国でも、どちらかが一方的に大量の民間人を領内に派遣すれば、もう一方の国はそれが軍隊なのではないかと疑うことになる。辺境伯が独自の軍を有していれば、その規模よりも少ない人員についてはあまり気にする必要もないのだろうが……。
黒巫女が頑なにエイターラの申し出を拒否していたのはこういう理由があったからだろうか。
「そういえば各部族はそれなりに自衛しているんだよな? だったらその自衛できる範囲までなら、俺たちの配下の者を入領させても問題ないだろう?」
「そうですね。その辺りから合意できる内容を探っていくことになるでしょう。この盆地内に暮らす人々は約八千。例えば、我が国と帝国で足並みをそろえつつ、それぞれ四百人程度までの人員を徐々に入領させていくというのであれば、双方にとっても山の人々にとっても問題にはならないと思います……とはいえ、それでも各部族の了解は事前に得ておく必要があります」
「そうだな……帝国と王国との調整は俺とお嬢との間で話をつけてしまえば事足りるとして、山の各部族との調整はザグモ卿にお願いすることになるんだろうな」
「この盆地内に暮らす人々は、その大多数が『岳の部族』と『湖の部族』です。『岳の部族』はザグモ卿が実質的な長ですから、あの方のお人柄を考えれば調整は容易でしょう。『湖の部族』との交渉はこの町の町長とすることになると考えています。『湖の部族』は商業の発展に関心の高い人々なので、私たちからの申し出には協力的でしょう……問題は『森の部族』です」
森の部族?
俺は古地図の北西にある小さな森に目を移した。カルデラ盆地の大半を覆う湖と、北東寄りにそびえる活火山の『御火』。その狭間に位置する場所に、『森の部族』以外は誰も足を踏み入れない森がある。
いやまて。この地図、ちょっとおかしくないか?
「ラヴィ。この地図は間違ってるんじゃないか? 俺の知っている感じだと、この湖は大きすぎて、この森は小さすぎる。湖はもっとこう、盆地の南半分だけのはずだし、森は盆地の北半分に広がっている印象なんだが?」
「この地図はかなり昔に描かれたものですのよ」
俺の問いに、お嬢が横から答えた。そのすらりとした背筋を真っ直ぐに伸ばし、ラヴィとおそろいの服装でその可愛らしい胸を精一杯張っている。
「私の家の倉から出てきたものですの」
そ、そうなのか。しかしどうしてそこで自慢気なんだ……?
「山の森は昔、それほど大きくなかったようなのです……少なくとも百年前までは」
百年前。
それはこの世界に暮らす者にとっての悪夢の時代だった。
――魔道大戦。十の魔王が同時にこの世界に降臨し、人々を蹂躙した一方的な戦い。その戦いで人間の三分の二が死滅したという絶望的な五年間。
「……魔道大戦のあと、森が広がったってことなのか?」
「ええ」
ラヴィはもう一度森を指さした。そしてその指先がゆっくりと南へ、南東へ移動していく。
「記録には残っていないので確かなことは分からないのですが、王国に暮らす『谷の部族』の言い伝えでは、魔道大戦が終わった後、森は徐々に大きくなっていったようです。まるで湖を侵食するかのように。そして……それに伴って『森の部族』が現れたと言うのです」
「現れた?」
「はい。もともと魔道大戦よりも前には、『森の部族』というものは存在しなかったらしいのです。山の人々の中では一番の新参者、ということになります。そして、彼らは他の部族とは全く異質の存在だと言われています」
『森の部族』の異質さについては俺も、帝国に住む『野の部族』から聞いている。他の部族との関わりを持とうとせず、ただ森を守るかのようにひっそりと暮らす。そういう人々なのだという。
「だがこの辺境伯領が成立する際には、ザグモ卿が『森の部族』も説得したと聞いている。だとすれば、彼らとの調整も卿にお願いすればなんとかなるんじゃないか?」
「そうですね。一番弓に対しては『森の部族』も敬意を持って接するようですから、ザグモ卿の話なら聞いて頂けるのではないかと私たちも考えています。『森の部族』を怒らせさえしなければ」
そう言って、ラヴィは俺の方をじっと見つめた。
な、なんなんだ? どうしてそんな不審そうな目を俺に向ける?
「タウバル様はご存知ないかも知れませんが、『森の部族』は黒巫女のことを毛嫌いしていました。『森の部族』は黒巫女に受けた仕打ちをいまだに根に持っているようなのです」
おいおい……黒巫女の奴、いったいなにをやらかしたんだ……。
「つまりこういうことか。俺が配下の者をこの地に入領させたければ、君たちの国と足並みをそろえて行う必要がある。君たちにとってもそれは同じ。だが『森の部族』はセイラムの件で帝国に不信感を持っているから、ザグモ卿にお願いしたとしても了解を取り付けることは難しいかも知れない」
「私たちは運河の建設にあたって、国から作業のための人員を連れてきたいと考えています。ですが『森の部族』との調整に苦労することを懸念しています」
「ですからタウバル様。もしお国の方々をこの地にお招きしたいということであれば、まずはご自身で前任の方の失点を解消頂く必要がありますの。それが私たちにとっての共通の利益になりますのよ」




