朝食
考えたことはあるだろうか? 一生のあいだにいったいどれだけの女の子と出会えるのかを。
例えば人生八十年としよう……いやもちろん、八十年というのは長すぎるかもしれない。帝国の民はだいたい五十前後でその生涯を終えることが多い。だが都市部でそれは六十前後に伸びるし、それに俺はもっと長生きがしたい。死ぬのは嫌だ。八十年でも短いくらいだ。
一ヶ月のうちに新しく出会う女の子の数を数えたことがあるだろうか? 俺はある。多いときでだいたい二百人。もちろん俺は執政官だから、それ以上の女の子に囲まれることもある。だが顔と名前を覚え、互いに会話を交わすところまで知り合うとなると、それくらいが限界だった。時間というのはいつも足りないものなのだ。
そう考えると一生のあいだに出会える女の子は最大で約二十万人くらい、ということになる。二十万人。この数をどう思うだろうか? 俺に言わせるなら、意外と少ない。帝国の人口が約二億、その半分が女の子だとして約一億。一生かかっても、そのうちの五百分の一としか知り合えない計算だ……しかもこれは相当頑張らないと達成できない、人生のすべてを女の子との出会いのためだけに費やし続けた漢の中の漢だけに許されし偉大なる数字なのだ。
そして恐ろしいことに女の子がいるのは帝国だけじゃない。世界は広い。学者の話だと、知られているだけで世界には帝国の三倍くらいの人々が暮らしているらしい。なんてことだ。俺にはそんな彼女たちと出会うきっかけすらないのだ。
「だから俺は、一つ一つの出会いを大切にしたいんだよトリス」
黒巫女がこの湖の町を旅立ってから三日目。俺は今朝もトリスと朝の食卓を挟んで向かい合っていた。
「君とこうして知り合ったことは俺の人生の貴重な一ページなんだ。わかるだろう?」
「……だから?」
トリスの声はいつもながらに淡々としていた。
――白仮面。それは今日も彼女の顔をのっぺりと覆い隠している。
その仮面には凹凸というものがない。だから目も鼻も口もない。そういうものを思わせる模様すらない。
トリスの顔の輪郭にちょうどあつらえたかのようなタマゴ型は、そのただただゆるやかな丸みだけを俺の方に向けている。
無感情、無機質、無個性。そこからは、彼女の何かを読み取ることなどできはしない。
確率五百分の一の、その中の一回。この貴重な出会いがこんなことでいいのだろうか? いや、ダメだ。ダメに決まっている。
「人と人のふれあい、それは互いに互いのことを知ることから始まるものだ。『知り合う』って言葉、それはまさに文字通りそのままだと俺は思ってる。だから俺は、もっと君のことを知りたいんだよ」
「私は別にあなたのことを知りたいとは思っていないから。だから私のことは気にしないで」
うぐぐ……。なんだか軽く拒絶されているような気がしないではないが、これくらいのことでひるむわけにはいかない。
「そうは言っても君はこの公館の正式な管理人ということになっているらしいじゃないか」
「正確には管理人兼警備員兼雑用係。だから前にも言ったはずだけど、使用人みたいなもの」
「そう、そして俺は特使だ。だから俺は職務上も君のことを知っておく必要がある。このホーク辺境伯領で特使としての役割を果たすには、君との信頼関係は不可欠。そうじゃないか?」
「……」
トリスの仮面が小さくうつむいた。その右手は軽く握られ、トリスの口元のあたりでこつこつと軽い音を立てる。昨日までで分かったことの一つなんだが、この仕草はトリスが何かを考えているときのクセのようなものらしい。
……とすると管理人としての職務は、トリスにとって重要ということだろうか? それとも単に真面目なだけなのか。
まあいい。どちらにしても、そういう方向から攻めてみればいいってことだ。
「前から聞いておこうと思ってたんだが、トリス。君は王国の人間なんじゃないか?」
「……もともとは、そう」
「その服装からすると、軍の関係者なんだろう?」
「今はもう、関係ないから」
今は、か。
このホーク辺境伯領は取り決めで、帝国と王国のどちらにも属する自治領のような扱いになっている。だから辺境伯は独自の軍を所有し、その地域の安全と安定に責任を持たなければならない。
それは逆に言えば、帝国も王国も、表立ってこの地に軍を駐留させるわけにはいかないということだ。
だとすれば……トリスは建前上、軍を辞めたことになっているだけ、ということも可能性としては残る。何しろ聖王国の騎士と対等に戦うだけの力量の持ち主だ。ただの使用人ということの方がむしろ不自然だ。
「あの戦いには?」
「……『繋ぎめ』の戦役のこと? それなら兄が。私はそのときほとんど眠っていたから」
眠っていた? 病気か何かで入院でもしていたのだろうか?
「お兄さんは今は?」
そう言ってしまってからすぐ、俺はその失言を後悔した。
この町で最初に見た光景。あのときのトリスは、泣いていたではないか。戦没者の記念碑の前で。
なんとなく気まずくなった俺は、手元のお茶に口をつけた。トリスが毎朝用意してくれる朝食、それはいつも故郷の草原を思い出させる。
「そういえばこの朝食。君はこの味をどこで? 草原の料理は、よそ者が習おうと思って習えるものじゃないはずなんだが……」
「……この町で暮らしていれば、自然に」
そうなのか? 確かにこの町には色々な国のものがさまざま運び込まれているようだが……。
ここ二日間を思い返してみても、俺はトリスが料理を作っている光景を見たことがない。俺たちのいる公館の料理室は、この食卓のある部屋からもう一つ奥の扉を入ったところにある。そこはトリスのためだけの場所で、彼女以外の者は誰も立ち入ったことがない。
「前から不思議に思っていたんだが、君は料理しているときもその仮面をつけたままなのか?」
「そうだけど」
「味見はどうしてるんだ? それにそもそも、その仮面をつけたままで、君はどうやって周りを見てるんだ? どこからどう見ても、穴のようなものは見当たらないんだが」
小さな沈黙が食卓の上を横切る。口の中でお茶の残り香が鼻の奥の方に抜けていく。
「……見えすぎるから」
「え? なんだって?」
トリスの仮面はその声を鈍く、くぐもった響きに変える。その声の色合いはぼけ、その意味合いを読み取りにくくする。
「見えすぎるの。仮面をしていないと」
見えすぎる……だって?
何が見えるというのだろうか?
「例えば……そう……そこ」
俺の不審げな表情に気づいたのだろうか、トリスはその仮面を真っ直ぐ俺の方に向けた。
仮面に隠れて見えないはずの、トリスの視線。それが何か冷たい感触となって、俺の身体を貫き通したような気がした。
不意に、初めてトリスと出会った光景、あの黄昏の色彩が俺の脳裏に浮かぶ。冷たい水の匂いを含んだ風の感触が、左眼から立ち上っていた青白い燐光を思い起こさせる。
虚空を見つめる白濁した瞳。幾筋もの青い脈動。
そのときの俺を突き刺した、氷のような感覚が背筋によみがえる。人ならざる容貌。本能がその異形を拒絶する。
一瞬とはいえ、俺の顔はこわばっていただろうか。
「あなたの頭の上、黄色く光っているそれは……」
トリスの人差し指が、俺の右の額の辺りを指さした。
「……あなたのお友達?」
お友達、だと!
俺はあわてて食卓の椅子から立ち上がった。そして目の前の光景ではない、別の何かを探そうとして視線を上下左右させる。
「……っ!」
いた。
視界の端、右眼のやや斜め上の辺り。そこには微かだが、確かにトリスの言う通り、金色の何かがちらちらと輝いていた。
しまった。見られていたか!
「すまないトリス。朝食をありがとう」
俺の声はうわずっていただろうか。そのまま俺は逃げ去るように、食卓を後にした。




