プロローグ
週一回を基本とした連載作品の予定です。十万字前後で完結する見込みです。
なお、このお話は連載完結した『彼女は七回戦った』の後日譚です。
前作未読でも問題ないように書きますので、大丈夫です。
ただ、色々な基礎設定や世界観は共通しています。ご興味があれば前作もあわせてお読み頂ければと思います。
帝国生まれで帝国育ちの俺からしてみると、周囲のすべてが水というこの町のありさまはどうにも居心地の悪いものでしかない。
――ホーク辺境伯領。一昨年の秋、我が帝国の南の端っこに加わった辺境の地。
辺境伯の居城でもあるこの町は、東西約二万メール、南北約一万メールもある巨大なカルデラ湖のほぼ中央にある。
そう。ここは湖の中の島に建てられた町なのだ。慣れ親しんだ大草原とは何もかもが違う。
それにしても寒い。
カルデラ湖を囲む一千メール級の山々の頂には、まだ冬の名残りが白い雪という形で留まっている。その山々から吹き降りてくる風は湖を渡り、湿った冷気となって俺の頬を打ち付けてくる。氷の粒のようなものがざらざらとした感触を残して耳たぶを揺らす。鼻先で呼気と混ざってなまぐさい臭いになる。
いつもなら砂埃を防いでくれているまつ毛が、今は凍りつくような水気に負けて重い。
それに加えてこの雪だ。
もう、春も近い水清き月の下旬なんだがな。
ここがいくら高地だと言ってもこの時期だ。さすがに今日みたいに小雪が舞うのは珍しいんじゃないか?
見上げると、どんよりと暗い雲が空を覆っている。春分を過ぎたばかりの日差しはどこにも見えない。
船を降りてから半時ほどは経っているだろうか。
そろそろ夕刻も近いだろう。帝国の公館まではあとどれくらい歩けばいいんだ?
服の襟元を引き絞る右手に力を入れる。手の甲がしびれてきている気もするが、しかしこれ以上寒さを肌に当てるのはごめんだ。
帝国でも草原の夜は冷える。だがこの町のこの風には、何か身体の芯を凍えさせる、そんな刺のある冷たさがあるように思える。
草原が恋しい。見渡す限りの柔らかな緑、そしてそこを風のように駆けぬける騎馬たち。
気心の知れた騎兵の笑顔、そして奔放で自由な女たち。
改めて思う。帝国は最高だ。
うーん……これはもしかして早くも故郷が恋しくなってきたって奴なのか?
エイターラの野郎の口車にのせられて一人で来たのは失敗だったかも知れない。
顔見知りの部下を二、三人でもいいから連れてくるべきだった。前任者がたった一人で公務をこなしていたからといって、俺がそれを真似する必要はどこにも無いわけだし。
そういえばナターシャは最後までついてくると言い張っていたな……彼女がいまここにいれば、こんなに肌恋しくなることも無かっただろう。今からでも、彼女に手紙を出すべきだろうか……?
そんな俺の不安な心持ちをくみとるわけもなく、だんだんと薄暗いものが周りの家の壁に陰を落とし始めている。日差しはなくとも、太陽は確実に山々の陰に沈みつつあるということか。
しかし石畳を踏みしめる俺の足取りは重くなる一方だ。少しでも早く公館につかなければ、寒さでどうにかなってしまいそうだ。
そんなことを思いながらもなんとか歩いていると、俺はいつの間にか広場のような場所にたどり着いていた。
エイターラの奴の話では、この町の中央には広場があり、帝国の公館はそのすぐ脇にあるらしい。ここがその広場なんじゃないか?
俺は広場の周囲を見回した。公館の近くには、目印になる石碑があるはずだからだ。
――『繋ぎめ』の記念碑。
それは『繋ぎめ』の戦役での戦没者を慰霊する目的で建てられたものだ。
王国との三ヶ月に渡る戦い。このホーク辺境伯領が我が帝国に編入されるきっかけとなった戦いだ。
広場のすみずみに視線を泳がせている俺の視界の端で、何か青白いものが揺れた気がした。
……青白い……炎?
俺は無意識にその揺らめきの方に目を向ける。
そしてそこに、俺の探していたものが静かにたたずんでいた。
人の背丈ほどの大きさの石碑。たぶん、あれが『繋ぎめ』の記念碑だろう。
だが俺の視線はその石碑ではなく、そのかたわらに立つ一人の人物に釘付けになっていた。
すらりと伸びた脚、男っぽい幅広な肩。背は女性にしてはかなり高く、その割に体つきは華奢だった。
暗い茶色のくせっ毛は、その色白の首筋も露わに短い。軍服のような紺色の上着に、男物の厚手のズボン。だからだろうか。その立ち姿はこの寒空の下で凛とした雰囲気をまとっているように思えた。
しかし俺が一番気になったのは、その人の横顔に浮かぶ表情だっただろうか。悲しげに伏せた長いまつ毛。そして何かを耐え忍んで固く結ばれた鮮やかな唇。ここからは右側しか見えないが、その面持ちは暗く曇っているように思われた。
……きれいだ。
一目見た瞬間、俺はそんな場違いなことを頭のなかで口走っていた。
草原で出会ってきたどの女とも違う。明るくも奔放でもない、自由というものともまるで縁のなさそうな、そういうある種のいびつさゆえの繊細さ、美しさのようなものを、俺はその人の姿に見てしまっていたのかも知れない。
広場の端にひっそりと立つ石碑、その人はそこにそっと左手を添えていた。
その左腕を青白い光が照らし、その人の影を鈍く揺らす。
石碑にはめこまれた水晶球。その中で青白い炎のような輝きが揺れ続けている。
「兄さん……あなたはどうして私を残して逝ってしまったの?」
その人のつぶやきが、小雪の軌道を小さく揺らす。
可憐な吐息はたちまちに白く変わり、上空に向けて消え去っていく。
「私はこれから……どうしたらいいの……」
その人の声は、薄暗く人気のない広場の冷たい空気に吸い込まれ、弱々しい響きだけを残して消えていく。
俺は思わずその人に言葉をかけようとした。
だが、見も知らぬ男に声をかけられて、驚きはしないだろうか? 不審な目で見はしないだろうか?
俺ともあろう者が、そんな柄にも無いことでためらっていた。
おそるおそるその人に向けて伸ばした右手の先、石碑の足元の石畳を、その人からこぼれたふた粒ほどの涙滴が濡らす。
泣いている、のか?
『繋ぎめ』の戦役では帝国と王国あわせて一万五千人にのぼる犠牲者が出た。この人も、その戦いで大切な人を失ったのだろうか?
それは親兄弟だろうか。それとも恋人だろうか。
帝国の人間のようには見えないから、王国から来たのだろうか? 身なりからすると、もしかして王国の軍の関係者ということもあるかも知れない。
俺の中で、その人についての憶測がぐるぐると渦を巻き始める。
……どうしてこんなにこの人のことが気になるのだろう?
いま初めて会ったばかりの他人。見も知らぬ異国の女……それに、もしかすると帝国を、俺たちを憎んでいるかもしれないこの人のことが。
ああ、だめだ。
この人の涙の理由を、その訳を聞いてみたい……どこからかわき出てくる衝動を、抑えきれそうにない。
俺が思い切って足を踏み出したそのときだった。
その人は不意にきびすを返すと、俺の方に振り向いたのだ。
「……っ!」
瞬間、俺は声にならない悲鳴をあげていた。
――異形。
振り返ったその人の顔を目にした俺の脳裏を、その一言が走り抜けていった。
左眼から放たれる青白い燐光。
燐光に包まれた左の瞳は白濁し、その視線はただ虚空だけを見つめている。左の顔の半分を幾筋ものミミズ腫れのような青い盛り上がりが覆い、そのうねりは不規則な脈動に蠢いていた。
俺の横を、その青白い視線が冷たく立ち去っていく。
すれ違いの瞬間、俺の背筋に氷のような感覚が突き刺さる。
本能的な恐怖。
生物がその身を守るための無意識の反応。俺の全身の筋肉は硬直し、足先から指先までのありとあらゆる神経が研ぎ澄まされる。
急に吹き出た汗が俺の額を伝わり、あごを冷たく濡らす。
それはほんのわずかな時間に過ぎないはずだったが、そのときの俺には無限に分割された光景の連続のように思われた。
微かな視線。その人の、生身のままの右眼が小さくこちらを見たような気がした。
無意識に、俺の左眼がその軌跡を追いかける。
その人の眼差しと俺の視線が交差し、絡み合う。
一瞬だが、その交錯ははっきりと俺の中にその人の瞳の色を焼き付けていった。
無表情な、茶色の瞳。
そう。
もうこの時から、俺はこの瞳に魂を囚われてしまったのだ。