その強さに無償の涙を
夏が終わる。夏休みも、もうすぐ終わる。
田舎の夏休みはいつも、不変的退屈な物語である。扇風機を回して畳の上に寝転がり、ぼうっと天井を眺めてみたり、ばあちゃんが切ってくれたスイカを縁側で頬張ってみたり、だだっ広い畑で野菜や果物の世話を手伝ったり。
いつからか、その退屈が好きになって、オレは夏を心待ちにするようになった。扇風機の生ぬるい風が汗で濡れた額を冷やす瞬間とか、近所の子どもと並んでスイカの種を飛ばしっこする三時とか、採れたての野菜をたっぷり使った晩御飯の匂いがする廊下を歩くこととか、そんな小さなことが幸せになる、夏。
毎年繰り返してきたこの夏ももうすぐ終わる。宿題の絵日記も、大分埋まった。
そんな時だった。突然、ばあちゃんが入院した。急性腰痛症、ぎっくり腰だ。オレがふらっと散歩に出ていた間に、やってしまったらしい。
「陽ばあちゃんのあん時の顔ったら……般若様みでった顔で振り向ぐンだ。ありゃあ、たまげたなぁ……」
近所のおばさんが、笑いを必死に堪え唇を変に歪ませるのが可笑しくて、つい吹き出した。
あと一週間。オレが東京に戻るまでの時間だ。中学最後の夏休み、日記もまだ、全部は終わっていない。まだまだ長いかなぁ。そんなふうに呟いて、どこまでも広がる青い大きな空を仰ぎ、深く息を吸い込み、伸びをした。
一日目,
ばあちゃんの好きなスイカを切った。皮のついた大きな一切れと、細かく分けたたくさんを、ひとつずつ丁寧に切った。種もきれいに取った。ばあちゃんの夏は、スイカなしでは始まらないし、終わらない。毎日そう言って食べるばあちゃんの横顔を思い出しながら、病室のドアを引いた。
病室はほんのり涼しい。廊下には劣るが、日差しを浴びた身体の一時の休息には十分だ。すぐにタッパの蓋を開けて見せると、ばあちゃんは寝そべったまま、かかか、と大きく笑った。トキは優しいなぁなんて言いながら、指でつまんだスイカを美味しそうに口に運ぶばあちゃんの優しい表情からは、般若様みたいなんて想像出来なくて、こっそり笑った。ばあちゃんも、笑った。
「うめえモン食えば、元気さなるなあ」
「そうだな」
病院の臭いが、スイカの匂いに混じりこんだ。土の匂いのする熱い風が窓から舞い込んで、息がつまる。殺風景な真っ白のこの病室に、夏を無理矢理押し込んだようで苦しくなった。ばあちゃんは皮付きのスイカが好きだから、と思って持ってきてはみたけれど、あまりに不釣り合いでやめた。オレはスイカを袋に突っ込んだまま、背に隠してもう一度笑った。皮付きは、縁側がよく似合うと思ったのだ。
それからすぐに、ばあちゃんには手を振った。病室には五分といなかった。もともと会話の多い訳ではないのだ。また明日、持ってこようと、暑さでぼんやりした頭で考えて、オレは開きっぱなしにしていたドアを静かに閉めた。
冷えた廊下を抜けて、一歩外に出ると、とたんに汗が吹き出してくる。
「あっつ……」
湿った空気の中で、声は風に混じりすぐに消えた。風が目を撫ぜるから、まばたきを繰り返した。刺すような日差しに手を翳しまた一歩踏み出して、暑い空気を吸い込んでみる。その時だった。
何かが軋むような音に足がまた止まる。一瞬の小さな音が、突き刺すように耳を抜ける。思わず振り返った所で、音はまた、一度だけ鳴った。
「なあ」
声の聞こえるままに、オレは目線を少しずらす。上、上、とまた声が聞こえるので、今度は顎を持ち上げた。
あまりの眩しさに目を閉じかけた。視界に入った空と眩しい光に、目が眩んだ。青い、青い光と、風、そして影を、この目に捉えた。逆光で、何かよくわからない。
「トキってあんただろ」
「誰?」
「おれは白崎遙。遙でいいよ」
目を細めると、笑った口許だけ見えた。少年だ。無邪気で、屈託のない、ああでもオレだって大人ではないけれど。ないけれど、子どもみたいだと思った。
上下式の窓が軋んだ。少年は窓から身を乗り出し、小さくひらひらと手を振って見せた。
「時柾だよ。水尾、時柾」
「おれ、今暇なんだ。少し話さない」
三年振りだ、と思う。
村に学校がないことと、交通が不便なせいで、若い人はどんどん栄えた隣街に引越していくのだと聞いたことがある。だからここは子どもは少ないし、中学の入学を機会に去ってしまうことが殆どで、オレも中学に上がった頃には、せっかくできたこっちの友達は誰ひとりいなくなったのだ。だから三年振り。同年代の人と、この村で話をする日なんて、もう来ないと思っていた。
初めは、興味本位だった。少しぎくしゃくしたけど、ゆっくり頷いた。遙は、また笑った。
それから少しして、遙は降りてきた。息が切れている。時折苦しそうに顔を歪ませ、走ったの久しぶり、なんて途切れ途切れのんきそうに言った。
「なんでオレの名前を?」
「陽さんに聞いたことがあったんだ、あんたのこと。おれくらいの孫がいるって、本当だったんだ」
「なまりがないな」
「うん、おれ、ここの人じゃないからね」
遙はそう言って笑って、軽い咳をしてから、また笑った。よく笑うやつだなあと思った。
それから短い沈黙があった。オレにとって沈黙とは随分聞き慣れた言葉だが、ふと、何か思いつくような感覚がして、手元のビニール袋を見やる。別に気まずいとか、そういう訳ではなかったが、とにかく、話をしたいと思った。
「食うか?」
「え」
「スイカ、なんだけど」
マイペースだと、よく言われる。それがどういうことなのか、今わかったような気がした。もとより喋りは得意でない、けれど、じゃあと手を振ることも出来ず、オレは気がつけばその袋を差し出していた。遙は、くすっと笑ってから、食う、と手を伸ばした。伸ばした先には、木漏れ日の揺れるベンチが指さされている。
袋の中は、保冷剤のお陰でまだキンキンに冷えていた。大きく切った皮付きをぱかんと割ると、赤い果汁が沢山飛び散って頬に当たった。
「すげえ、皮付きのスイカなんて、初めてみた」
「相当な都会っ子だろ、お前」
「まあね」
不揃いに割れた手元のスイカを見下ろす、振りをした。ふいに目の端に映った遙の腕を、思わず凝視してしまった。すぐに何でもないように、オレは二つのスイカを差し出してどっちと問うた。しばらく悩み黙り込んだあと、遙は迷わず、オレの手の中から大きい方を取った。
「うまい」
遙は、今度はもっと楽しそうに笑う。うめえモン食えば……というばあちゃんの言葉にちゃんと頷けた気がした。ばあちゃんはいつだって元気で、あの言葉の意味はよくわかっていなかったけれど、今ならわかる。
「これ、陽さんが作ったんだろ。すげえな、陽さん、すげえ」
「ばあちゃんは達人だよ。特に、スイカは」
遙のきらきらした瞳を、ばあちゃんに見せてやりたかったなと思う。夢中で頬張る遙を横目に、オレも一口かじった。うまい。
「おれ、久しぶりに食い物をうまいって思った」
「そりゃ、よかった」
「なあトキ、また病院、来るか」
遙が顔を伏せた。スイカから滴る果汁に反射する陽の光だけが、やけに強く目に焼きついて、オレは少し目を伏せる。変わらない遙の声の調子のせいで、薄っすらと見えたその光景は酷く不自然だった。
「ばあちゃんが退院するまでは、ね。ああでも、一週間したら来れないんだけど」
「じゃっ明日また、来るよな」
「まあ」
呟くような声、そっかと遙は言って深く息を吸い込むと、また前を向いた。どうせまたへらへらと笑うのだろうと、そう思うとオレは遙から目を離した。
「……ごめん、おれ、これから医師診に来るんだよね」
次に目が合った時、遙はオレの目の前でひらひらと、さっきみたいに手を振った。またな、と言うと数歩踏み出し、駆けていった。一瞬のうちに、また影の中へ消えていった。
風のように訪れ、風のように過ぎ去った。あまりにも短い時間に、夢でも見ていたんじゃないかと、思った。影に紛れる前に見えた、伸ばした遙の異様な腕の細さだけ、嫌に目についた。
ふと、横を見る。食べかけのスイカが、きちんと置かれていた。陽の光の中で、滴る果汁が煌めいていた。
二日目,
「そうかそうか、遙と話っこしたか」
「あいつ、暇って言って降りてきたのに、五分もしないで帰ってった。それに……」
言ってみようか。迷った。スイカの事を言うべきか。遙がお世辞を言っていたとは到底思えなかったし、本当に嬉しそうな顔で笑ったのだ。スイカなんて、ましてや八切りの半分、残される意味がオレにはわからなかった。
ばあちゃんなら、何か知ってる気がした。残された食べかけが目の奥に残って、気になった。
「それに?」
「なんでもない」
やめた。
ばあちゃんがもし、何も知らなかったら、傷つけるかもしれない。いくら興味があるからって、詮索しすぎるのも、良くないかもしれない。誤魔化して笑った。なんでもないやともう一度、とぼけて言った。
お加減いかがですかと優しい声がして、オレは咄嗟に後ずさる。小さな会釈をして、オレはすぐに鞄を手に取った。
「ばあちゃん、スイカ、ここに置いておくね」
「遙のとこさ、寄ってってやれよ」
「わかってる」
汗ばんだ額をゆっくり拭って、オレはまた同じように手を振った。
三階へ続く階段を、ゆっくりと上がる。上がってすぐのナースステーションで病室を聞いて、お礼を言ってあとにした。病室は、すぐ隣の部屋だった。遙の病室は、あまりに広い個室だった。
左手にさげた保冷バッグをいちど確認する。朝採ったばかりのスイカを、今日もまた切ってきた。
ノックする手に力がこもる。なぜか、酷く緊張していた。
「おっ、トキじゃん。昨日振り」
細い腕が、またひらひらと揺れた。
「スイカ持って来たんだけど、食べるか」
「食べる。また持ってきてくれねーかなって、思ってたから」
遙の笑顔は、昨日よりも少し、元気がないようにも見えた。息を呑んだ。考えすぎだとわかっていても、怖くて。
遙は布団に顔を埋め、繰り返し咳をして、落ち着くと、顔を上げてまた笑った。――よく笑うやつだ、と。
「あのさ」
すこしだけ、苛立っている自分がいる。なぜか。問うても、答えは出ない。ただなんとなく、嫌だと思う。遙が馬鹿みたいに繰り返すこの笑顔が、なぜか感情を掻き乱す。
「そうやって無理に笑うの、やめてくれる」
「は」
「別に気とか遣わないから、無理しなくていいって」
あ、と思った時には、口に出していた。
この笑顔の裏にある何か、そういう単純なことは何となく気づいていた。だから別に、何も知らないくせにと、怒ってくれたって良かった。何言ってんのと、とぼけてくれたってよかった。こういう性格の所為かお陰か、そういう非難は慣れてるし、オレは傷つかない。ただ、謝ろうと素直に思った。
「あんたってほんと、マイペース……しかも痛いトコついてくる」
だが遙は怒りもせず、とぼけもせず、また笑った。驚いたけれど、不思議ではなかった。遙は、何か他人と違う気もしていた。決して、無理を見せつけたりしてるわけではないと、どこかでわかっていたからだと思う。昨日だって、ずっと。
そうしてわかってしまったのは、遙の上手な無理。無理を隠す無理が、上手い。
「まっ、今はちょっとつらいかな。でも、そういう時こそ笑えって……」
言い切る前に、遙はまた咳き込んでは、口を覆い喘ぐ。オレはバッグを椅子の上に置いて遙の傍らまで寄り、背を撫でた。結局、オレは何も言わなかった。
手が、強ばって、言葉が出なくなった。咳きあげるたびにびくびくと動く丸まった背中は、驚くほど骨ばっていて、一度、腕を引いてしまった。それでももう一度手を当てたけど、手は、あいかわず震えてしまっていた。
「っけほ……あーくそ、きっつ!」
“病名は”
“いつから入院しているの”
“病気はどのくらい、つらいの”
もっと親しかったら、聞けただろうか。オレは、聞いただろうか。遙の背負うものを理解する相手になっていたのだろうか。
「悪かった」
でも今は、そう言うだけが精一杯だった。遙は掠れた声で、いいよと何でもないように返事して、また笑った。
「あーあ、せっかく……」
遙が何か言ったけど、最後の方はうまく聞き取れなかった。
サイドテーブルにあった水をコップに移して差し出すと、一言、ありがとうとだけ言った。遙は、コップを手に持ったまま、口を付けるわけでもなく、ゆらゆら動く水面を眺め、眉を下げて笑った。
三日目,
「トキ君、だよね。いやぁ、イメージ通りだったんで、驚いた」
やせ型の、割と若い人だ。少し疲れたような顔で、白衣のポケットに手を突っ込んだままでオレを呼び止めた。真面目そうな顔立ちからは想像出来ないような、やや砕けた口調で、その医者は笑った。
「急性腰痛症で入院してる、水尾さんのお孫さんだろ。結構話題になってる」
「え」
「水尾さんは明日退院だってね。早いな。さすが」
ばあちゃんの退院は、予定より早まった。もう病院内を歩き回れるくらい回復しているし、なにより病室はばあちゃんの笑い声で溢れていて、部屋の前を通っていく看護師や医者がくすくすと笑って行くのを、もう何度も見た。もう大丈夫ですね、なんて、担当医は笑って言っていた。
「そしてトキ君、君も」
「オレ、ですか」
記憶をひっくり返してまさぐっても、見えてこない。その医者の言ってる意味がまるでわからない。
医者はポケットから手を出して、腕を組んだ。
「遙君に食事させるなんて、たいしたもんだ」
「遙?」
オレは、再度問うた。
「昨日、君に分けてもらったスイカを食べたなんて言うから、僕ほんとにびっくりしちゃって。看護師なんてもう焦っちゃって、点滴の量、調節しますかって、噛みながら一生懸命言ってた」
三階へ続く階段を、駆け上った。踊り場で足がもつれて、転びそうになったのを、手すりで支え、それをバネにスピードを上げる。上がってすぐのナースステーションで、誰かがさかぶ声がした。すぐ隣の病室は、ドアが閉まっていた。
「遙」
ドアに手をついて、息を整える。わっ、と驚く声がして、涙が出そうになった。
「とき。よっ、昨日振り」
遙は昨日よりも弱々しく、手を、上げた。気のせいなんかじゃない。
残されたひと切れのスイカはただ、遙の負担だった。食べられなかったんだと、気づいた振りをする。――多分オレはわかってたに。本当はずっと、そんな気はしてた。
「あの日さぁ」
覚悟が足らない。全く足らない。だからオレは理解しようとしなかった。
理解しようとしたなんて嘘だ。オレはなにもかも中途半端にした。
「あの時、どうしてオレに話しかけた。どうして走った。どうして平気な振りをした。どうして」
「トキだって、わかったから。すぐ、わかったんだ。ずっと、会ってみたいって思ってた」
遙は間を開けず、静かな低い声で、言った。遙は、オレが何をどこまで知ったのか、知るわけないのに、わかったような顔で、ぎこちなく口を釣り上げた。
「陽さんに聞いたんだ。トキは……トキは毎日、おんなじことばっか繰り返してるって。なんでもないことをすぐ幸せだっていうような人だって」
言いたいことだけ言って、内容の無かった言葉の返事が、まだ噛み合わない。唇を噛んで、もう黙った。
「おれ、ずっと、あんたみたいになりたかったんだよね。毎日、生きてることが楽しいって、思いたかった。だけどさ、だめなんだよ、おれ。つらくてしんどくて、なんで生きてんのかなって、思ったりして。なんか全然、だめで」
遙はそう言うと、大きい瞳からいくつもいくつも涙をこぼして、骨ばった手のひらで目を覆った。
その先は、なにも言葉にせず、幼子のように遙は、泣きじゃくっていた。
――オレじゃない。ばあちゃんがそういう人だったんだ。
ばあちゃんのスイカを頬張って泣いて、たくさん泣いた。涙は枯らすんじゃない、止めるものだと、言われて、スイカを飲み干しながら、泣いたこともあったんだ。
暇が好きなんじゃない。思い出さないようにしているだけなんだと、気がついた自分を隠して、いつのまにかもう、忘れてた。それが強さと、思ってた。
「遙、すぐには、むりだ。最初は、極限まで弱くならないと、だめなんだ」
「十分。だって」
「いや、全然足らない。足らないんだ」
深呼吸した。そして、涙を拭った遙の目をまっすぐ見た。
「弱くなれ、遙」
四日目,
ばあちゃんは毎日、病院に野菜を届けている。いつもはばあちゃんが、自転車のかごいっぱいに詰めて、自分で漕いでいくのだけど、その自転車を、今日はオレに託した。
「ばあちゃん、病み上がりだがんな」
たいした距離じゃない。立ち漕ぎで、五分だ。
受付に野菜を持っていくと、いつもありがとうと、言って病院の名前が入ったタオルを差し出した。ばあちゃんがいつも頭に巻いているタオルだ。眩しいくらいの明るい黄色だった。
階段で三階まで上がる。昨日の今日で、気まずさはあったけど、行かないわけにもいかなかった。ばあちゃんは、オレに託したのだ。
今度は深呼吸した。遙はまた笑うだろう。昨日のことなんてまるで忘れたように、嘘を塗りたくった笑顔をまた、するだろう。癖なんて、時間をかけなければ抜けやしない。
ノックした。返事はない。
気まずさなんて、すぐに消えた。ドアを引こうとした瞬間、遙の声がしたのだ。
ひどく激しい咳き込みだった。オレは、全握力でタオルを握りしめる。髪が逆立つんじゃないかと思うほど、いろんな感情が湧いた。
「はるか」
「来るな!!」
激しい咳の合間に、遙が叫んだ。
ひるんだ脚を、脳で動かす。まるで、スローモーションのような一時。
白いベッドに、鮮血が飛び散った。
「なんで、来るんだよ」
荒い呼吸は、嗚咽に。湧いた感情は涙になって溢れた。
拒絶の理由も、オレが何も出来ず立ち尽くす理由も、遙が一人で膝を抱える理由も、オレの手がどこにも届かずにいる理由も、本当はわかってる。なのにどうしても、わかった気になれない。わかった気で、また遙をいたずらに惑わせる気がする。
弱くなれと言った、オレだって、強くなんてない。強く、なりきれてない。
次の瞬間、倒れ込みそうになった遙を支え、必死でナースコールを引っ張った。遙は腕の中で、ごめん、と言った。
五日目,
遙は、三階の病室から姿を消した。
六日目,
「あなたが、トキ君ね」
三階の病室に、ひとり、知らない女性が立っていた。
「遙と仲良くしてくれて、ありがとう。あの子、ここ一週間くらい、すごく元気だったわ。楽しいって、笑ったのよ。あんなに暗い目をしていたのに、きらきらしてて。私……うれしくて」
女性は、遙の母です、と言った。
オレにふわりと抱きつき、何度も何度もお礼を、何度も何度も嗚咽をもらした。
おばさんに連れられていったICUに、遙は眠っていた。いくつもの管に繋がれ、細い腕は、今にもちぎれてしまいそうだった。
「はるか」
「……キ」
遙の口が薄く、動いた。オレがもういちど呼びかけると、今度ははっきり返事が返った。
「トキ、おれ、弱い? ちゃんと、弱く……なれたかな」
「ばか」
「ちゃんと、認めてよ。おれ、こっから、つよく、なるから……」
「ばか!」
涙が溢れて、溢れて、落ちて、落ちて。
強かったつもりでいたことが情けなくて、叱咤した。中途半端な強さに、弱さに、腹が立った。
「つよく、なったら……おれ、みせるから。まずは、今度はちゃんと……スイカ、たべるな。全部」
「はる……」
「残してごめん。ほんとは、すっげえ、うまかった。トキとまた、食べたい。きっと……きっと、いつか」
面会終了です、という声がして、オレは最後に、ちゃんと笑った。涙を全部拭って、ちゃんと。
遙はそれに応えるように、今まで見たことのない笑顔を、ちゃんと笑った。
七日目.
新幹線の中で、初めて人目を気にしないで泣いた。ばあちゃんの電話を、最後まで聞かず、泣いた。
遙は、最期まで泣いでった。でも最期まで、笑っでったよ。
遙は、強くなろうと必死で、オレは、弱くなってたまるものかと必死だった。全然違うようで、似てる。あの日遙と出会ったのは、必然的だったのかもしれない。もういちど、向き合うべきだったのだ。
遙に向けた言葉は嘘じゃない。最初は、極限まで弱くならないと、強くなんてなれっこない。弱さを知らずに強くなるなんて、きっと出来ない。だからオレはもういちど。
もういちど、ちゃんと弱くなろう。そう、思った。そしてもういちど、ちゃんと強くなる。
タッパに詰めたスイカを一粒、放り込んだ。口の中はあっという間に甘い水でいっぱいになる。少ない果肉をゆっくりと噛み締めながら、一気に飲み干した。口の端から漏れたスイカの汁をペロリと舐めて、もう一口。もう一口、食べる。うまい。
夏が終わる。夏休みは今日でおしまい。
田舎がどんどん遠ざかっていく。また来年。
また来年、夏をきっと好きになってる。誤魔化し無しで、好きになる。
オレは、最後の涙を一筋流して、日記を閉じた。