続かぬ現在(いま)へ
第一章『続かぬ現在へ』
微細な氷、雪が潰される独特な音を足と靴、雪が三重奏で奏でる。
はぁ。と息を吐くと白い煙が立つ。それは口から晴天の上空へと昇り、拡散し、やがて見えなくなる。しかし、少年はそれに目もくれず歩き続ける。
朝。冷え込み、生きとし生けるものの肌を襲い続けて体温を奪う。無論、夜の方が冷え込むが朝には朝独特の寒さが存在する。
人類が考えた、防寒対策として生み出された厚手の服を少年は何枚も着重ねている。頭部の防寒としては少年は頭髪程度のものしかない。が、手には手袋を填め、首には二尾のマフラーが風にてはためいている。それの風は少年の顔に切り裂くような、痛みに似た寒気を運ぶ。
しかし、少年はそんな風に逆らいながら進み続ける。
その内、少年の視界に周囲とは違い、大きな建物が入る。
無論、白色の、雪という帽子は他と同じく被っている。
それは所謂、学校と呼ばれる建物だ。
「私立輿水高等学校」と彫られた青銅製の看板がコンクリートの柱に埋め込まれている。
その看板の左隣りにある校門を少年は潜る。と――
「いよぅ! 環斗。今朝も元気に黄昏れてんな!」
そう言って環斗と呼ばれた。
少年の背中を別の少年が叩いた。
叩かれた少年の名前は十六夜環斗。
黒色の猫っ毛の直毛。髪の長さは眉に髪がかかる程度で他の部分もそれに合わせている。人の良さそうな輪郭の茶色の瞳、眉は薄く、美形と思えなくもない顔だ。
叩いた少年の名前は白凪駿太郎。
剛毛のくせっ毛。オレンジ色の髪に碧色の瞳。眉は環斗より少し濃く、どことなく彼からは男らしさが滲み出ている。
黒のローファーを履いている二人は二学年だ。
「はぁ? 元気に黄昏れてる? お前、日本語を学び直した方がいいんじゃないか?」
駿太郎がすぐに環斗の右隣りに付くと環斗は横目で言う。
「いやいや。俺程の優等生を捕まえて何言ってんだか」
「そうだな。授業中、寝てばっかで昼飯は外食。帰宅時は必ず寄り道をするんだから問題児の中じゃまだ優等生だな」
はぁ、とため息を吐きながら一気に環斗は言う。すると、駿太郎は半眼になる。
「ほほぉう。なら環斗はそうじゃないと? この前、全裸で校内一周を果たした猛者が――」
「プッチィィィィィーーニィィィィィ! 黙らっしゃい! っていうか忘れろ!」
「いや、無理。俺はもう、お前の肉体の隅々(すみずみ)まで見てどこにホクロが有るかも記憶してんだぞ? 大体、じゃあどうしてアレやった?」
言いたくない。だって理由がろくでもないから。
しかし、駿太郎は知っているハズなのに「ん?」と言って覗きこむ。
「チィッ! ああ、いいさ! なら言ってやる! あれは、野球拳で負けたからだよ! チクショー! 若気の至りなんだよぉおおお!」
泣きながら環斗は校舎内に走り去った。それを見て駿太郎が一言。
「またこれで、俺は十年は戦える」
「チクショウ。俺だって、俺だってぇえええ……」
教室の自分の机に着いた環斗は机に突っ伏して机を濡らしていた。
コートを脱いだ環斗は青のブレザー、黒いズボンを穿いている。
朝。HRが始まるまで二十分以上もある空間はしかし、クラスメイトの半数以上が既にいて、話をしていた。
内容は下らないもので、来ていない、いつもは仲が良い友人の陰口を言ったり、教師の悪口だったりアイドルグループの名前を出して語り合ったりしている。
汚い空間。
環斗にとってこの空間は大嫌いなものだ。
俺、やっぱミーハーと悪口言う奴と本気で格好つけてる奴が嫌いだな。
社会に出ればそんな生命体は腐る程存在する。それに適応し切れない環斗は子供のままであり、環斗はそんな自分に軽く自己嫌悪を覚えている。
何で俺、こんなにも社交性がないかねぇ……? というか、この思考も止めなきゃな。
そんなことを考えていると、いきなり静かな、しかし美しい響きが聞こえた。
「あらあら。机をそんなに濡らして。なんか卑猥ですねぇ」
皆沢雪子。それがこの少女の名前だ。
セミロングのプラチナブロンド。そこに白と黒のラインが入ったリボンカチューシャをしている。瞳はサファイアブルー。肌は陶器、程でもないが白い。クリーム色のブラウス、青のブレザー、白のプリーツスカート。それに赤いラインがぐるりと一周、入っている。黒のパンストを穿き、白のロングブーツを履いている。
身体の起伏は激しく、胸の膨らみはクラスで一番大きい。臀部もそれに併せて厚く、ウエストは驚くほど細くはないが、それでも胸、臀部を考えればかなり細い。
男子と同じく、黒のネクタイをしている。
雪子に昔、環斗は質問をしたことがある。
彼女は春夏秋冬、パンストなのだ。
「なぁ。何でいつもパンストを穿いてるんだ?」
「パンスト、いいでしょう? ムラムラくるでしょう? 破きたいでしょう?」
そんな返しが来て以来、環斗は二度と彼女に質問しまいと心に誓った。
「うるさい、黙れ痴女。訴えるぞ」
すると、彼女はいきなり赤らめた頬に手を添え、返す。
「体に、訴えるんですか? あん。そんな……」
環斗も年頃の男の子だが、既に雪子の台詞に耐性がついていた。
「残念だけど俺、もう何にも感情が湧かないぞ」
「えぇっ! ま、まさかもう、枯れちゃったんですか?」
「違うよ! 雪子はもう、下ネタから離れろよ!」
「なっ……! わ、私から下ネタを奪ったら何が残ると仰いますかっ!」
「理解してんならネタのベクトルを変えてみろよ! 下ネタの頻度が酷いよ!」
「下ネタを上回るネタがあるなら言ってみて下さいよ。あぁん?」
「堂々(どうどう)と言ってんじゃねぇ! とりあえずお前は芸人全員に謝れ!」
「なら敢えて言いましょう! 下ネタを上回るネタは何一つないと!」
言い切った! 言い切りやがったよ、こいつ!
するとそこに、先程校門で別れた駿太郎が現れた。
「やぁやぁ、皆さん。偉大で美しく、気高く、全世界の人々が敬愛して止まない絶世の美少年、白凪駿太郎様が登場してやったぞ、校内全裸、痴女」
「「黙れ、エセ優等生!」」
環斗と雪子は同時に叫んだ。
「成る程。二人はツンデレなんだな。つまり、帰んないで欲しいと?」
「なら逆に言ってやらぁ。ずっとここにいやがれ!」
「おぉ? ついにデレ期か? 短いツン期だったなぁ……」
しみじみとした雰囲気で駿太郎は言う。と、雪子が口を挟む。
「はい、せんせぇ。質問でぇす。この場合、どちらが受けで攻めですかぁ? 掛け算が好きなので答えて下さぁい」
「「誰がお前の質問に答えてやるかっ!」」
すると今度は環斗と駿太郎が叫ぶ。と、別の声が割り込んだ。
「認めません! 男の子となんて……不潔です! 環斗くんはそんな人じゃありません!」静かな、透き通った声を発して現れたのは望月宵という美少女だ。
服装は黒のニーソックス、黒のブラウス以外は当然、雪子と同じである。
純日本人であることが分かるブラックオニキスのような黒い瞳、絹のような、流れるようなくせっ毛のないロングストレートの黒髪。病弱と見間違う程、雪子とは違う陶器のように白い滑らかな肌。
スレンダーな体型ではあるが、胸の膨らみはほとんど見られず、彼女が女性だと確信できるのは細い腰と丸みを帯びた臀部である。
校内の美人ランキングを開催すれば、間違いなく宵が一位で次に雪子が来る。
しかし、そんな彼女たちは女子、男子共に疎外されている。
美人、というメリットはそれだけで同性に疎まれるものだが大抵、美人は世渡りが上手く、社会に溶け込んでいる。しかし、二人はそれを選ばなかった。
まず雪子は高校入学時、すぐに何人かの男子に告白された。
雪子は断った。しかし、告白してきた数が二桁になると面倒になって丁寧に断る態度を変え、告白してきた者に辛辣に言い始めたのだ。
「私はあなたと話したことも存在を認知した記憶すらありません。ならあなたは私をどんな基準で選んだのですか? 恐らく容姿でしょう。しかし私は容姿だけで選ぶ方は嫌いです。友人としていることはもちろん、視界に入れただけで虫酸が走ります。現に走っていますし。なので即刻消えて下さい」
この話は有名でクラスはもちろん、学年で知らない人はいない。
女子がこの話を聞くと雪子に問い質した。が、雪子は言い訳どころか開き直り、以来、女子、男子共に疎まれた。
駿太郎は地元でも有名な不良だったが青春を楽しみたい理由から足を洗ったが、それが未だ周囲の人間に信用されていない。そのお陰でクラス浮いていた。
環斗は見ず知らずの他人の悪口を言っていた男子にカッとなって殴りかかり、暴力沙汰を起こして以来、周囲に人がいなくなった。
宵はそもそも、品行方正で成績優秀、正義感の強い少女だ。
悪く言えば八方美人だった。しかし、公共の場所でたむろし、他人に迷惑をかけていた不良たちを一人で叩きのめした。しかし、叩きのめした不良たちは強いことで有名なグループでそれ以来、宵のことをクラスメイトたちは腫れ物を扱うかのような態度となった。
青春を謳歌したい環斗はそんな三人を集め、グループを作った。
雪子は元々、それを求めていたのだろう。あっさりと加入した。駿太郎はメンバーが面白そう、という理由で。宵は中学の頃から同じ学校でいつの間にか入っていた。
とにかく、輿水高等学校では絶対に誰も接触しない、させない表面上、問題児だけのグループが出来た。
グループとなれば、他の人間は少なくとも、グループ単位での接触はあまりしてこないからだ。
授業中。宵と環斗の席は隣同士なのでよく、宵が話しかけてくる。
「か、環斗くん。まさかさっきの話、本当だったりしませんよね?」
「んなわけあるか。俺は至ってノーマルな人間だ。駿太郎や雪子なんかと一緒にすんな」
「な、何言ってんだよ、環斗。俺、環斗が望むなら茨の道だって――」
ちなみに、駿太郎の席は環斗の後ろだったりする。雪子の席は環斗の前だ。
環斗の席は窓に近く、左を見るとすぐに外の世界が視界に入る。もちろん、視界の上半分は空だ。
「ダメです! 環斗くんは何があっても駿太郎くんには傾きません。だって――」
「だって、十六夜さんは私が寝取る予定なんですよ」
ほんわかと、雪子が問題発言をする。宵が真っ赤に顔を赤らめ、駿太郎は叫ぶ。
「何よ、この女! 私の環斗を寝取るっていうの? 一緒にいただいてやるわ!」
急に駿太郎が声色を変えてそんなことを言う。もちろん、声は男だった。
「あらあら。お呼びじゃありませんよ。あなたは私の敵にもなりませんから」
二人の間に飛び散る火花。「え? え?」とあわふたする宵。授業をし難そうな教師。妄想の世界へ旅立つ環斗。
俺は日常が好きだ。だから、いつまでもこんな日が続きますように。
環斗は三人を見て、妄想をしつつ、そんなことを願った。
二時限目。最終的に四人は一時限目の担当教師にこってり怒られた。が――
「だからアレです。先生は自分も混ぜて欲しかったんですよ。主に下ネタらへんで。省くの、カッコワルイ」
「んなわけねぇだろ! あいつが仲間にして欲しそうな目で見てるって? アホか」
「あぁ、私、私は先生になんて失礼なことを……。すみませんすみません……」
その教師は今、いないハズなのに宵は未だに謝っていた。
「本当に駿太郎の言う通りだ。あと宵。先生はもう許してくれたぞ」
珍しく正論を言った駿太郎に賛成しつつ、宵へのフォローも環斗はする。
「うぅ……ありがとうございます、環斗くん。でも、でもぉ……」
宵は両目を潤ませながら鼻をすすっていた。
「大体さ、そのミスをもうしないって方が重要だろ? そんなことだったらまたするかもしれないだろ? だからほら、授業受けようぜ」
そんなことを言っている内に駿太郎が別の話をする。
「アホか。あいつはなぁ、授業がしたくなかったんだよ!」
すかさず環斗がつっこんだ。
「んなわけあるか! お前こそアホか!」
「それを言うなら十六夜さんこそ。さっきは流れましたが私と白凪さん。今夜のご注文はっ! どっち!」
「環斗。もちろん、私よね。あんな女より私の方が環斗のホクロの位置を知ってるのよ」
「そのネタ、もう持ち込むんじゃねぇよ! あと一応言うけど雪子。俺と駿太郎はそんな関係じゃないからな!」
雪子から熱い視線を送られた男子二人は先手をとった。
「チッ。でも、宵さんはどうでしょうか?ねぇ」
ハッとした環斗は意地の悪い笑みを浮かべている駿太郎を無視して宵を見た。
「環斗くん……駿太郎くんとはそんな関係なんですか……?」
デジャヴにしては状況は悪化していた。宵がまた瞳を潤ませていたのだ。
えぇい! どうする? ギャルゲーなら選択肢が来るぞ、俺!
「……お、俺は実は……ゆ、雪子ォおおおお! 愛してるぞぉ!」
雪子へのありもしない愛を叫んでみた。
すると、雪子は頬を赤く染め、あたふたし出す。
「え? い、十六夜さん。そ、そんな急に言われましても……わ、私としては十六夜さんの申し出は決して無下にはできませんし、迷惑でもなくて、むしろ、あの、その……!」
対して宵は様々なことが一度に起こり、完全に混乱していた。
「な、ならこうしましょう! 雪子ちゃんを殺して私も死にます!」
「何よ! 二人で楽しいことしちゃって。私も混ぜなさいよ!」
そこで悪ノリするのが駿太郎である。すると当然――
「皆沢、白凪、望月、十六夜! いい加減に授業を受けろ!」
教師が怒り、先程と同じ展開になるのだ。が、今回は違った。
「いえ、先生。俺らは真面目に受けていまぁす。……多分」
最後の部分は小さく、他はきちんと教師に聞こえるように環斗は言った。
すると、教師は試すような顔で
「ほう? なら十六夜。今、世界史をやっているだろう? 今、先生が言った言葉を復唱してみろ」
当然、さっきの状況で授業を聞いているわけはない。
「えぇっと、『今、先生が言ったことを復唱してみろ』……?」
「ちっがっうっわっ! お前らを叱る前に先生が言ったことに決まってるだろ!」
苦し紛れに言ったがやはり、怒られる。環斗が悩んでいると、別の声が聞こえた。
「答えは『全ての道はローマに通ず』」
その声の主と席が隣接している宵、駿太郎、環斗までもが驚いた。
声の主はアリス・ヴェラルーンという少女だ。
女子の中でも小柄な方で身長は一五〇前半。女性の中でも特に体の起伏が少ない、というレベルではなく、むしろない。俗に言うロリ体型、というやつである。
赤いリボンのツーサイドアップの白銀の髪。ルビーのような瞳。ロシア人より圧倒的に白い、ミルクのような滑らかな肌。服装は黒のハイソックス、黒のブラウス以外、同じ女子の制服である。
彼女も輿水高等学校で浮いている存在でとにかく無表情。口数も少なく、教師に当てられても無言を貫き通す。
そんな彼女が喋ったのだ。驚くのも当たり前である。
「え、えぇっと『全ての道はローマに通ず』ですよね?」
そう答えると教師はチッと舌打ちをした。
「ああ。十六夜、正解だ。聞いてたんなら最初からそういう態度をとれ。ったく」
ごもっとも。と喉まで出かかった言葉を環斗はなんとか飲み込んだ。
「えぇっ! 本当ですかっ? じ、じゃあ尿道も?」
「おいおい。先生、日本は島国だぜ。環七も通じてんのかよ」
そこに突っかかるバカ二人を見て、宵がはぁ、とため息を吐いた。
先程まで高圧的な態度をとっていた教師に至っては哀れみの目すら二人に送っている。
そんな空気に晒された二人を憐れんだ環斗が言った。
「じ、じゃあ未知の生命体、UMAもローマに通じてますね!」
ちなみに、これは道と未知をかけた駄洒落である。断じて懸詞ではない。
当然、環斗からすれば滑るのは目に見えていたが二人が不憫に思えたから、このような愚行に及んだ。
べ、別に悲しくなんかないやい! 大切な何かを失った気がするけどいいもん! 悲しくなんか……ないんだから……な……えぐえぐ……。
すると、後方からクスクスと声を噛み殺した二人分の笑いが聞こえた。
当然、今の状況でこの笑い声を好意的なもののわけがない。
ちくしょう。笑うなら笑え。でも覚えとけよ。笑わられればその分、俺の羞恥心は消えてドM道まっしぐらになるんだからな。そうなったらお前らをご主人様と呼んで調教されてやる。ククク……グググ……グスングスン……。
そんな嫌がらせ以外の何ものでもないことを思いながら環斗は笑った奴の顔を拝んでやろうと後方をちらりと盗み見る。すると――
――っ! な、なん……だと……! 宵と、ヴェラルーンが笑ってる……? ――ちくしょう! 可愛いじゃねぇか! これじゃあ、喜んで調教を受けたくなるぞ!
と、今の状況に気付いたアリスは緩んだ頬を引き締める。
だが、今の笑っていたことが自分の性格と相反していたのを気にしたのか引き締めた頬はどこか赤い。と――
「い、十六夜さん! わ、私というものがありながら私を弄ぶだけ弄んで捨てて、別の女にくら替えするつもりですか? なら私は――死にます!」
さっきの状況から見事に復活を遂げた雪子はすっかり調子を取り戻していた。
「させません! 私が何を犠牲にしてでも環斗くんは助けます!」
意気揚々(いきようよう)と宵はそんなことを言う。しかし当然、そんなことを言えば――
「なら、手始めに私の百合相手になってもらいましょうか」
ニヤリと口の端を吊り上げる雪子。「え?」と宵が言葉を発する前に雪子は宵に近付き、そして――
「――んっ? んあ……ぁ……あ、うぅ……ゆ、雪子ちゃ……! や、やめ……あぁ!」
「んふ。別にぃ、いいじゃないれすかぁ。こぉんなに身体は欲ひいって言ってまふよぉ」
雪子が宵の両手を自身の両手で拘束し、顔を近づける。
とても悩ましげな声を発する宵。観衆の中、雪子の舌はナメクジのように宵の頬を這う。その光景は蠱惑的である。
雪子は宵のシャツのボタンを流れるように外し、そこへ手を吸い込ませる。
シャツのボタンの隙間から黒い、レースの布地がちらりと覗かせる。
次第に、興奮した雪子と宵の荒い吐息はねっとりとした熱を帯びる。それは宵と雪子の吐息とからまり、扇情的な光景を生み出す。
男子の呼吸も荒くなり、悶える者も出る。教師も御多分に洩れず、教卓に突っ伏す。
更にエスカレートした雪子の手は最早、それ一つで生き物と錯覚するような動きだ。
「ん……ゆ、雪子ちゃん……み、皆……ん! み、見てます……」
しかし、宵の何とか出した抵抗はあっさりと
「ふふ。じゃあ、止めちゃいますか? こんなに火照っているのに?」
雪子の手が徐々に弱まるが、止めはしない。
「や……ぁ……止めちゃ……やぁ……らめぇ……も、もっと――」
「宵! 現実に戻ってこーい! 皆が待ってるぞぉー!」
環斗がそんなことを言ってやると恍惚とした表情の宵がハッとした。
「――くっ! わ、私は負けません! 私には、環斗くんがいるんです」
自身の欲望に打ち勝った宵は雪子を無理矢理引きはがし、環斗の元へ行く。
……と、とりあえず、咄嗟に出た言葉だ。嬉しくて好きだっ――! って言うのは我慢しよう。本っっっ当に残念だけどっっ!
悔しさに地団駄を踏みそうになったが我慢した。
「ちぇっ。折角、皆さんのニーズにお応えしましたのに」
雪子は心底、残念そうに吐き捨てた。宵は服の乱れを直し、雪子を指差す。
「雪子ちゃん! 皆の授業を妨害しちゃダメです。そうですよね、先生?」
宵は我を取り戻し、言う。が、肝心の教師は悶え苦しんでいた。
もっと言うなら、環斗以外の全男子が悶えている。環斗が大丈夫なのは雪子のセクハラを日夜受けていたせいで雪子の行動に耐性が出来ていたからだ。
と、雪子、宵の二人に完全な悪意が向けられていることを環斗は直感した。
何故なら、あんなことをしたのだ。悶えた男子を好きだった女子もいよう。何より、女子は全員、二人が嫌いなのだ。
環斗は唯一の例外、アリスを抜いた女子全員に鋭い目を向けた。
その視線に晒された女子たちに動揺とざわめきが走る。
環斗自身も伊達に喧嘩で浮いた存在でなかったことが証明された瞬間だ。
それから数分後、なんとか悶え終えた男たちは皆、コホンと咳ばらいし、何事もなかったかのように授業を再開した。
教師に四人は怒られなかった。
放課後、四人は一つのグループとなって帰ろうとしていたが――
「少し、待って。わたしも、一緒でいい?」
そう校門の前にいた四人に話しかけたのはアリスだった。
雪子と宵の間に驚きと動揺が走り、駿太郎が暖かい目を環斗に向けた。
「ああ、いいぞ。どうせいつも、同じ奴らで帰ってるんだし」
あっさりと環斗が了承すると、宵、雪子の二人は複雑な表情をし、アリスはペコリと頭を下げた。
五人は帰宅の途についていたが、いつもはあるハズの会話が五人の間にはなかった。
そこに、はぁ、とため息を吐いた駿太郎が口を開いた。
「なぁ、ヴェラードさん。君、何で環斗に話しかけたんだ?」
「アリスでいい。私は昔、変な奴らに絡まれた時、環斗に助けられた。私はその後、助けてくれたのが環斗って知った。だからわたしは環斗に好意がある。皆と同じで」
あぁ……そういやそんな事、あったかもなぁ……。というか、どれ? って考える俺って……。
自分が中学の頃に犯した若さ故の行動を鑑みて、もう少し思慮深く行動しようと思った環斗であった。
「へぇ? じゃあアリスはもう何年もこの町に住んでるんだ?」
駿太郎が持ちかけた話以降、五人の間には会話が生まれていた。
とはいっても、基本的には四人からアリスに対しての質問であったが。
「そう。わたしは最初、お父さんに連れられてこの町に来た。最初は楽しくなかったし、今もあまり楽しくないけどここに来て、よかったと思う」
先程から、アリスの話の中には彼女の父親が出るが、母親は出てきていなかった。
これは別段、アリスが反抗期というわけではなく、いない、という理由から話さなかったのだろうと四人は推測した。もし、反抗期なら父親の名前も出さないからだ。
T字路に差しかかるとアリスが歩みを止め、四人を見た。
「じゃあ。わたしはこっちが帰り道だから」
アリスは礼儀正しく一礼。そして、四人と別れた。
それを見送ると環斗、宵、雪子は、はぁ、と深いため息を吐いた。
別段、四人はアリスが嫌いではなかった。ただ、四人はアリスと話す話題がなかったのだ。もちろん、いつもの四人は饒舌だが。
「ったく。宵も雪子も何でそんなに緊張するかねぇ?」
そんな中で唯一、気後れしなかった駿太郎が口を開いた。
「誰も白凪さんみたいにズケズケと聞ける程、神経は太くないんですよ」
「へいへい、雪子。俺みたいな繊細な心を持つガラスハートボーイに何言ってんだよ」
「そうだな。防弾ガラス位の防御力を発揮しているよな」
「ああ。でも、厚さは紙以下の極薄サイズだがな。しかも耐弾性は普通の拳銃でも貫通する位だ」
「つまり、心は狂ってるってことだな? 理解した」
「ちっげーよ! 俺の心は正常だし、むしろ、心は綺麗だぞ」
「黒一色で、ですね。いやん、鬼畜さん。き・ち・く。何て甘美な響きでしょう」
妙にうっとりとした表情で雪子が言う。
「んな訳ねぇだろ! 俺は眼鏡でも鬼畜でもなきゃ、変な性癖もねぇよ!」
駿太郎の趣味を疑うような発言の後、宵が環斗の袖を引っ張った。
「あのぅ、環斗くん。性癖って一体何でしょう?」
環斗は優しい笑顔、穏やかな心で宵の頭を撫でた。そして、心が荒んだ二人に
「シャァァァーーーラァッッッップ! 宵が変なこと覚えるだろうが!」
などと環斗は叫ぶ。と、雪子がふっと大人なため息を吐いた。
「甘いですね、十六夜さん。今の時代、女性の方が下ネタが好きなんですよ。愛していると言っても過言じゃない! 然るに、心が真っ白な大和撫子など、幻! 想! に、過ぎません」
マンガならドン! と効果音がつきそうな勢いで雪子は宣言した。が、環斗は授業中に作った特製のハリセンでスパァンと叩いた。
「いったぁ……。十六夜さん、女の子に手をあげるなんて酷いじゃないですか!」
「そういうことは宵レベルの清らかな心を持ってから言え!」
「邪念に塗れたお前が言うか、環斗!」
「そうです! 十六夜さんは私の真っ白な心を見てないからそんなことが言えるんです」
「お黙り! 雪子。お前の白さは修正液の白さに他ならん! 駿太郎。ボ、ボクハイイコダヨ……」
「たじたじじゃねぇか!」
「環斗くん! 修正液なんてエロいネタじゃ私は止まりません!」
「ナ、ナンノハナシカナ……? てか、雪子!誰もそんなつもりで言ってねぇよ!」
二人交互にボケをかます駿太郎、雪子に対してツッコミは環斗だけ。体力の差は歴然である。
そして、そんな三人のかけ合いに終始、宵は関与できなかった。
環斗は自分以外、今は誰もいない家に帰った。
それはアリスのように父子家庭ではなく、両親が海外出張でいないだけだ。
そして、少子化を環斗は促進させるかの如く、一人っ子である。
環斗はリビングへ行くとそこに直結しているキッチンへ入り、冷蔵庫の中身を確認し、頭の中で夕食のメニューを決める。
その後、自室へと向かい、部屋に環斗は入った。
その空間は棚の天国だった。棚が所狭しと並べられ、もちろん、棚には様々な物が置かれている。ゲームの箱であったり、小説だったりマンガであったり。
そして、天井には電灯以外に見える物は環斗が好きなゲームキャラの壁紙が張られてある。
当然、今帰ってきたのだから部屋は冷え込んでおり、暖房兼ゲームをする為にパソコンの電源を入れ、椅子に座る。
パソコンのOSはすぐに起動し、ものの十数秒で立ち上がった。
パソコンの壁紙には天井の壁紙とは違ったキャラがあるが、原画が同一人物であると分かる位、書き方が似ている。更にデスクトップにはいくつものフォルダ、ショートカットがあり、その一つを環斗はダブルクリックした。
ショートカットからアプリが起動し、ウィンドウが立ち上がる。
元からパソコンに挿してあったヘッドホンを着けようとすると、携帯電話が震えた。
それをとり、開いてみるとメールで、差出人は宵であった。
『今日も良い一日でしたね。このメールを書いていると、時間を忘れるような気がします。環斗くん。ありがとうございます。このお礼は今までのお礼です。何かまるで、最後のお別れみたいですね。あ、もちろん、そんなわけ、ありませんよ。でも、何故かそう言いたいんです。では長文、失礼しました』
宵からのメールを読み終えると環斗は返信のメールを打ち始めた。
『いや。こっちこそありがとう。多分、宵がいたから俺たちは今のままでいられるんだから。だから、消えんなよ』
最後の部分は冗談めかしてメールを送った。
朝。
部屋に差し込む僅かな太陽光が環斗の顔を照らし続けて十数分経ってから環斗は顔をしかめながら目を覚ました。
最初、薄く開けた目に太陽光が差し、環斗は目を閉じる。
その後、太陽光を手で遮る。と、遅れて朝特有の寒さを体が脳に伝えると、思い出したように環斗の体が震えた。
そのまま、暖をとる為にベッドの掛け布団に環斗は身をくるませた。
そのまま、体が眠気を訴えるが学校があるので眠るわけにもいかず、上体を起こした。
寝ぼけている目を人差し指の背中で擦り、大きな欠伸をする。当然、息も吐くので白色の呼気が天井へと昇る。
寒気のお陰で起きたてでも脳が働き、とりあえず環斗は制服に着替える。
それが終わると、また大きな欠伸をしながら一階へ降りリビングへ、キッチンへと入る。
冷蔵庫を開けると気温に負けじと冷蔵庫も冷気を吐く。
環斗は寒さに顔をしかめたが、何も取らないわけにもいかず、レタスを取り出し、冷蔵庫を閉じた。
そして、夕食の残りであるカレーを温め、その間にレタスをサラダにする。
その後、暖房とテレビの電源を点け、椅子に座って朝食を摂った。
環斗の家には灯油ストーヴもあるが、両親が出張に行っているせいで灯油の運輸手段がないのだ。然るに暖房しか点けれない。
テレビのニュースでは最近、アメリカで大流行している食事があるようだ。
環斗は視線を下に、朝食に向けているので必然的にニュースを聴覚だけで聞いている。
アメリカの、ニューヨークでは今、時差の関係で夜の九時だ。
リポーターがアメリカまで行き、そこでアメリカにいる人に適当な質問を投げかける。
質問された人はそれに答えていく。
『夕食は摂られました? その夕食は何でしたか? カンガルーの肉を使いました?』
「いえ。お恥ずかしいですがカレーを少々。オホホ」
『いいえ。今晩はまだです。でも、今晩はフォアグラのステーキをいただこうかと』
チッ。ブルジョアが。べ、別に悔しくなんかないんだからねっ!
『うわぁ。す、すごいですね。まさか、そんなに豪華なものとは』
「いいぇ。なんたってただのカレーですから。でも、確かにすごいかもしれませんね」
当然、環斗の脳内ではフォアグラがカレーに変換されている。
『えぇっと。日本人の方なら日本にいるご家族へ一言、どうぞ』
「カレーだからってナメてんじゃねぇぞぉ! 旨いんだぞぉおおお!」
『では、遠慮なく。朝から残りのカレーなんか食べてんなよ。たまにはちゃんとしたものを食べるんだよ。あと、極力早く帰るからね、環斗。バイ育児放棄気味の両親』
「ブフッ! なっ! なななな、何で知って――じゃなくて、ざけんじゃねぇ!」
質問に答えていた人間は環斗の不肖の母親であった。
すぐさま電話をかけると、母親が出た。
「何でじゃぁああああああ!」
環斗が発した一言目がそれであった。しかし、母親は冷静に対処した。
『何でって、あんたの生活が不規則なのは予想済みだから注意したのよ』
「だっとっしってっも! テレビで実名なんか出してんじゃねぇえええ!」
『ああ、もう。朝からうっるさい子だねぇ。それはそうと学校はいいの?』
母親に言われるがままに時計を見ると、確かに出なければ遅刻をしてしまう時間だった。
「いいか、母親!この話は保留だが決して終わったわけじゃねぇからな! あと、朝なのはこっちだけで、そっちは夜だからな!」
そう言うと母親の返事も待たず電話を切った。食器を片付け、鞄を持ち、鍵をかけて家を出た。
当然、少しの間とは言え、暖房をかけ、寒風から防いでいた家から出たのだ。気温は室温より圧倒的に低い。
息を吐くと当然、白色の息吹が空中に身を踊らせ、天空へと昇っていく。
それは呼吸をする度に起き、断続的に現れるが環斗にはそれを見るような趣味もなければ時間もない。だから、急ぐ。
寒風は環斗に反抗するかの如く、環斗を襲い続けるが、歩みを止めては遅刻する。
そして、漸く環斗が校門を潜るとHR開始十分前だった。
その時、環斗の胸にいきなり、一人の男子学生が背中から環斗にぶつかった
男子の方向ベクトルを殺せなかった環斗は男子と共に尻餅をついてしまう。
「あっ……! か、環斗くん! す、すみません! いらっしゃるとはつゆ知らず」
痛みであろう。男子は呻きながら立ち上がらない。環斗はそれを退かして立った。
「いや、いいよ。注意力不足だった俺のせいでもあるんだから。で、何かあった?」
宵はあたふたした後、恥ずかしそうに答えた。
「えっと。今朝、登校したら昨日の雪子ちゃんが私にした……あれでよく分からないことを言われた後、いきなり掴みかかってきたので、つい」
あはは……と宵は乾いた笑いをした。
それとは逆に環斗は男子を一瞥し、舌打ちをくれてやった。
昨日のあれ、は雪子の百合行為だな。で、餓えてると勘違いしたこいつが襲いかかったってトコか。殴っときゃ、良かったな。
少し後悔した環斗は宵が校内に入ることを促す。不承不承宵はそれに従い、入るのを見届けた後、環斗は男子の腹部に蹴りを入れた。
そして、男子生徒の胸倉を掴み、顔を近付ける。
「へぇ? お前、結構度胸あるじゃん。俺らに関与するなんてさ。ま、これで懲りたら、もう俺らに関わるな。関わったら、どうなるか分かってんな?」
底冷えした、人を殺しかねない声色で環斗は言った。
男子は恐怖からか、小さく頷く。それを見ると環斗は男子生徒を放し、続いて校内に入った。
問題児だけである環斗たちのグループ。
当然、喧嘩を吹っ掛けられた回数は相当なものだ。
だから環斗は宵、雪子の安全の為に二人が知らない内に地ならし――つまりはグループに手を出させない為に反抗グループを徹底的に潰し、脅すこと――を駿太郎とし、更には自分たちに干渉すれば、こうなるという警告にも似た噂をわざと流した。
普通、そんなことをすれば停学処分、退学処分が下されるが、二人は正体を隠しながら地ならしを行った。
結果、今では環斗たちに干渉してくる者はほとんどいなくなった。
だから、環斗は大丈夫と油断していた。だが、環斗は考えを改めた。
教室の扉を横に流して開ける。それは車輪の摩擦以外、何の抵抗もなく簡単に開く。
環斗が教室に入ると既に大半の席が生徒によって埋まっており、生徒たちのお喋りパーティーが開かれていた。しかし、環斗が入ってくるなり、朝の喧騒が鎮る。
あれ? 何だ? まさか、さっきのあれが知られた? だとしても早過ぎるな。
そんなことを考えつつ、環斗は自分の席へ向かう。と、駿太郎が環斗にいきなり携帯電話を突き付けてくる。ディスプレイを覗くと――
「環斗。まずいぞ。多分今朝、お前がやったことがバレてんぞ」
そこには学校のSNSがあり、環斗が男子生徒を蹴った動画があった。
――なるほどな。今朝のアレが撮られていたのか。だから、鎮まった、と。
つまり、先程の出来事を誰かが動画で録画し、学校のSNSにアップロードした、ということだ。別段、今の時代にこれは珍しいことではない。
頭の中で今の出来事を簡略化して答えを出す。と、環斗は笑い声を漏らした。
「ははっ。いいじゃん。良かったな、お前ら。これで今日の話のネタには事欠かないぜ」
環斗はそんなことをクラスメイトたちに言った。彼らに動揺が走る。
そして、環斗は軽く伸びをし、自身の席に腰を下ろした。
その時、環斗は宵が横にいないことに気付いた。後方にいる駿太郎に聞く。
「なぁ。見当たんないけど宵って、まさかまだ来てないのか?」
「ん? 宵ちゃんか? いや。まだ来てないな。それより環斗。お前、ヤバいぞ――」
……どうせ、このままだと教師に呼ばれて停学食らうって話だろうな。こっちとしちゃ、バレない方がいいし、駿太郎に真実を言うまでもないし、いっか?
自分の中で勝手に環斗は決め付け、未だ姿を現さない宵を捜しに環斗は教室を出ようとしたが、その時、環斗たちの担任が現れた。
「ああ。十六夜。ちょっと待て。聞きたいことが――」
恐らく、教師の聞きたいこととはSNSにアップロードされた動画のことだ。
分かり切っている、煩わしい聞く気がない環斗は手短に伝えた。
「多分、先生のご想像通りですよ。あれは間違いありません。じゃ」
環斗は宵を捜し始めた。もちろん、教師の制止の声が環斗の聴覚に捕まったが、環斗はそれを無視した。
多分、あいつのことだ。知った途端、あれは自分のせいだとか言う為に職員室に直行したハズだ。担任が来たのは入れ違い。ま、そんなところだろうな。
果たしてどうして、環斗の予想は見事なまでに的中した。
そんな宵の言うことは嘘だと環斗は言ったが結局、環斗が脅しの効果が発揮されたのだろう、脅した男子が名乗り出て、どちらも悪くはないと怯えながら証言し、事件はうやむやになった。
「いいか、宵。お前が別に責任を感じる必要はない。あれは俺の意思でやったんだ」
環斗は心からの言葉を宵に告げた。が、宵もバカ正直ではない。
「そんなわけありません! わ、私の、私のせいで環斗くんに迷惑は――」
泣きそうになる宵。そんな不毛な争いを二人は続けており、それは見兼ねた雪子が
「十六夜さん! どう考えても十六夜さんが悪いです。だって、十六夜さんが望月さんの加害分も被るつもりだったんでしょう?」
「うっ……そ、それ程、俺は良い人じゃないぞ」
雪子の言ったことが図星だったせいで一瞬、環斗は言葉に詰まった。そして、なんとか出た言い訳も苦しい。はぁ、と駿太郎がため息が吐いた。
「いや、何かもう、喧嘩両成敗ってことで二人とも悪い、でいいんじゃないか?」
環斗はこれからの展開を脳内で考えてみる。結果――
「……すっげぇ不本意だけど駿太郎の言う通りでいいか、宵?」
「ヘイ! その本気で不本意そうな顔はなんダイ! もっと嬉しそうにしなヨ!」
「……分かりました。環斗くんがそれでいいなら」
駿太郎を無視する二人。不承不承、宵も頷いた。
「ウヲォオオオイ! 何だよ! 無視か! 放置プレイか! 興奮すんぞ、ゴルァ!」
「あらあら。放置プレイで興奮するんですか? とんでもない変態さんですねぇ」
さっきまでなりを潜めていた雪子が参戦する。
「えっ? ちょっ! ま、待って。俺、やっぱまだそっちの道は――」
「何事も挑戦ですよ、白凪さん。私が道案内をして差し上げますよ」
「いやぁああああ! や、止めてぇえええ! 助けてぇえええ!」
しかし、そんな駿太郎の訴えは雪子が駿太郎を掴み、ズルズルと引きずっていくうちに遠ざかり、やがて扉によって声が遮られた。
「ち、ちょっと雪子! ま、待て! そ、そんなの入らな――」
「大丈夫ですよ。意外に人間の体は丈夫にできてますから。ほぅら、入りますよぉ」
環斗は雪子が笑顔で言いながら、語尾に音符を付けていそうだと思った。
「お、おぉおおお! うぉおおお! は、入る。中に入ってぐるぅううう」
何がっ! ねぇ、何が入ってるの! 何を入れてんの!
今、雪子と駿太郎が何をやっているのか気になって仕方ない環斗。
すると、扉ごしに雪子が環斗に対して声をかけた。
「十六夜さん。きっと今、何してるって思ってるでしょう? フッ。
――ナニですよ」
「笑いましたっ? 雪子ちゃん今、絶対に笑いましたよね!」
「えっ? 何の話ですか? ふふっ。私、笑ってなんかいませんよ。ふふふ」
ドン! と環斗は床を叩く。それは悔しさではなく、もどかしさからだ。
チクショウ! ナニって何だよ! すげぇ気になるよ! 可能ならこの俺らを隔ててる扉を開けて見てぇよ! でも、見たら俺も駿太郎の二の舞だよ!
「ふふふ。十六夜さん、気になるでしょう? 白凪さん。ナニの感触はどうですか?」
「す、すげぇ、です。さ、最初は異物感がすごいけど、段々と……」
だが、そこで駿太郎の声は止まってしまう。それが一層、環斗の好奇心をそそる。
「ふふふ。白凪くん、どうしました? さぁ、続きをどうぞ」
「っ! うぁ……も、もう……ダメだ……耐えきれ……ない……」
ユリウス・カエサルがルビコン川を渡るかどうか、決断時の気持ちを理解した環斗。
カエサル。すげぇ、すげぇよ。俺には……俺のような奴には……豚野郎には……無理だ……。
だがその瞬間、環斗は見た。
環斗の視界に白い服を着、木製の杖を持った翁がにこやかに環斗に笑い、親指を勢いよく翁の方向にある扉へ向け、言った。
「ヤ・レ!」
もちろん終始、それは環斗の生み出した幻だったが。
「う、うぉおおおおおお! お、俺ももう耐えきれねぇ! カエサル! お前の意思を今、俺が引き継ごう!」
結局、環斗は好奇心に負けた。人間、好奇心には勝てないのだ。
環斗は走って扉に近付き、扉の突堤に手をかけた。
「今行くぞ! そして、俺は桃源郷を見るんだぁあああああ!」
「だ、ダメェえええ! 環斗くん! 早まらないで下さい!」
開けようとすると、背中越しにささやかではあるが、柔らかな感触と同時に環斗は宵に抱きしめられていた。柔らかな感触とは、宵の双丘のことだ。
「ふ、フォオオオ! ある意味桃源郷ォおおお! だが、ルビコンが、ルビコンが渡れと俺に言うんだ! 行かせてくれ! カエサルのように」
「ダメじゃないですか! あれはもう、どう考えても死亡フラグでしたよ!」
「しかし――しかし! 今は亡きカエサルが俺に征けと言うんだ!」
「きっとそれはカエサルの皮を被った雪子さんに違いありません!」
すると、環斗の脳裏に顔を見たこともないカエサルが現れる。
当然、環斗の脳が勝手に、『大体、こんな感じじゃね?』という風に捏造したのだ。
そして、そのカエサルはにやりと口の両端を吊り上げると、スパイ映画の変装マスクのような物を取り払う。そして、中から雪子の顔が――
「あらあら。望月さん、そぉんなに昨日の続きをして欲しいんですか?」
宵は背筋に寒いものが走るのを感じたが、環斗は放さなかった。
「それでも――それでも! 人には、守らなきゃいけないものがいるんです!」
「十六夜さんの貞操ですか?」
あっさりと口にする雪子。処女雪のような白い心を持つ宵には刺激が強かった。
「は……へ……? ……てい……そう……? 環斗くんの……てい……そう……」
口をパクパク動かせつつ、宵は顔を真っ赤にするばかりか、頭部から宵は湯気を吐き出す。宵の体温が急上昇する。
あぁ……宵、あったかいなぁ……。
そんなことを思いながら現状を一時的に堪能する環斗。
宵は環斗を抑える力も抜ける。最早、環斗を止めるものは二つの空間を隔てている境界線、扉を於いて他になかった。一人を除いて。
「私が、あなたを止める。宵さんの変わりに」
昨日からが初参戦である期待の新人、アリスである。
「ククク……カエサルの意思を継ぎ、ルビコン川を渡った俺に勝てるかな?」
「……勝つ必要はない。私はただ、止められればいい」
飽くまで環斗を止めることを主眼に置くアリス。が、環斗は余裕からか、ただ口元を歪ませ、笑みを零すだけである。
正に巌流島での戦い。
静の戦い方である物干し竿の小次郎。
動の戦い方をする二刀流使いの武蔵(環斗)。
達人の戦いが一瞬で決まるのは世の定めであるように、二人の戦いも一瞬で決まる。
「……アリス。俺、実はバイなんだ。両刀遣いだけに」
「――っ! う、嘘でしょ……? そんなこと、あるわけが――」
「まぁ、信じたくなければ信じなきゃいいさ」
もちろん、環斗は普通の性癖しか持ち合わせていない。
ちなみに、宮本武蔵、佐々木小次郎は共に自身の流派を作った開祖である。
宮本武蔵は二本の刀を使う武蔵円明流の、佐々木小次郎は異常に長く、とても持てそうもない刀、備前長船長光、通称、物干し竿で巌流を。
二人の腕が超人クラスなのは、巌流島での戦いが有名なことから、最早、言うまでもなく明らかだ。
「……っ! なら私は、雰囲気だけで習得した巌流であなたを討つ」
「ふっ。なら、やってみるが良い。睡眠学習で武蔵円明流をマスターした俺に、最早敵がいないことを教えてやる」
都合良く用意されていた三つの刃。厳密には物干し(回転)竿と二刀流(ほうき二本)。
環斗はほうき二本を、アリスは回転ぼうきを選ぶ。
各々、好きなように構える。
その眼力、立ち振る舞いは正に巌流島での武蔵と小次郎。
もちろん、嘘である。二人に構えなどあってないようなものだ。
そして、静止するのが一瞬なら、視線が交錯するのも一瞬。
アリスの両手で振り下ろされる回転ぼうき。だが、環斗はこれをただ一本のほうきを以て止める。
大型武器の利点を失ったアリスに最早、勝機はなく、環斗のもう一本のほうきの石突きが迫る――前に石突きは扉の突堤に器用にかけられ、一気に扉が開かれた。
「悪いな、俺の戦いはもう、とっくに決してしたのさ」
ニヤリと笑みを浮かべる環斗。負けたアリスは敗者らしく、苦渋の表情を浮かべる。
そして、環斗はゆっくりと振り返る。そしてそこにある桃源郷が現れる――
そこには、何故かハイヒールを履いている雪子が駿太郎の腹を踏んでいる構図が展開していた。
ただ、それだけ。
環斗は膝から崩れ落ち、両手を地面に着け、項垂れた。
「虚しい。戦いは、何も生まないのか? 犠牲は、全部無駄だったのか!」
余りにも雪子らしく、予想可能であったハズなのに己の好奇心に負けた環斗は後悔と同時に、己の愚かさを呪った。
その台詞は映画の名言クラス。もちろん、経路から考えればロクでもない。
肌がやたら艶やかでうっとりとした雪子が駿太郎から足を退ける。
駿太郎は物足りなさそうに、物欲しげに雪子を見る。が、雪子は首を横に振った。駿太郎は驚愕と残念さから、ムンクの叫びを超越する表情を完成させた。
「チクショウ! 大体環斗! お前とアリスさんのネタ、分かり難いんだよ!」
今なら八つ当たり以外の何物でもない言葉。仕方なく環斗は説明した。
「巌流ってのは佐々木小次郎が、武蔵円明流は宮本武蔵が創始した流派だ」
ギャグを説明しなければならないのは、ギャグ師として最も悲惨なことだと環斗は思う。
すると、駿太郎はキッと表情を引き締め、天井を仰いだ。
「地球の皆ぁー! オラにマゾパワー(MP)を分けてくれぇ! 奥義! 桃源郷よ、再び(フラッシュバック)!」
その奥義を叫んだ瞬間、駿太郎が恍惚とした表情を浮かべた。
「う、お……! キ……タァ……お、ぉ……雪子のハイヒールが俺の腹に減り込んで、それが内臓をえぐるかのように刺激する。最初はそんなのを中に入れたら危ないって思ったけど、段々と入るにつれ、中が掻き出されるような感触になり――」
そこで最早、何も聞くまいと決めた環斗は、ふっと息を吐く。
「……今日も、良い天気だな」
「十六夜さん、今日は天気予報で雪が降ると言われています! なので今は曇りです! 現実逃避は止めて下さい!」
「更にそこに雪子が俺に口枷を被せ、全身を拘束具で縛り上げ、俺をハムのように――」
「いえ! 私はまだ、そこまではしていませんでしたよ!」
「雪子、ちょっと待て! まだって何だ! する気だったのかっ?」
「当たり前です! 残念ながら、その前に十六夜さんに邪魔されましたが!」
「そもそも、学校でそんなことすんじゃねぇえええ!」
「十六夜さん、逆です! 学校でするからこそ、楽しいんですよ!」
「ああ、もういいよ。アリスを破った武蔵円明流でお前の性根、叩き直してやる」
床に落ちた二本のほうきを拾い上げ、構える環斗。対する雪子はアリスが使っていた回転ぼうきを拾った。
「甘いですね、十六夜さん。私は流派、腐・女子をマスターした結果、力場っぽいものを習得しましたよ。さぁ、殺し合いましょうか」
環斗は先程と同じように構える。しかし、雪子は構えすらしない。
「……雪子、どうした? まさか、俺の学び方が凄まじ過ぎて勝ち目がないと思ったか?」
軽口で、そんなことを言う。と、雪子が噛み殺した笑いを零す。
「ふふふ。弱い人に本気を出しても格好悪いですからね。さぁ、いつでもどうぞ」
自然体のままでいる雪子にどこか言い知れぬ恐怖を感じる環斗。
――いかん! 戦いの前に空気に呑まれては――負ける!
そう考えた環斗は走り出し、雪子にほうきを叩きつけようとする。が――
「ハァッ! よく分かんない力場、発動です!」
すると次の瞬間、よく分からないものに環斗が吹き飛ばされた。
――もちろん、ノリである。わざとである。
「っくぅ! 何かよく分かんねぇのにやられた! こいつ、強い!」
「ふふふ。気付いても遅いですよ、十六夜さん。ほら、力場発動!」
更に環斗は吹き飛ばされ、窓がある壁にぶつかる。
当たり前だが設定である。特殊能力ではない。
更に何度も何度も雪子は力場を発動し、その度に環斗は壁と力場に挟まれる。
くどいようだが、これは設定である。雪子はそんな力を持っていない。
「くくく……ふはははは! 弱い。弱いですね、十六夜さん。人間とは、かくも弱き生き物だったのですね。これなら、世界征服も夢では――」
その時、授業開始のチャイムが廊下に鳴り響いた。
「あっ。授業ですね。教室に入りましょうか」
ころりと表情を変えた雪子が言う。
こうして、魔王雪子の野望は勇者チャイムによって阻止されたのだった。
そして、放課後。
一行は駿太郎の提案でゲームセンターを目指していた。
今、アリスを含めた五人は様々な話をしている。
「いや、本当。太古の達人は本当に面白いんだって」
太古の達人とは、太古に太鼓に封印されたドMの妖怪、タ・タイテを太鼓のインターフェイスを叩いて悦ばせる新感覚サディスト向けのゲームだ。
もちろん、保護者から苦情が殺到しているが、企画を考えた者もドMで、クレーム処理が楽しいという理由でまだ存在している。
近々、そのゲームが訴えられる予定で、消える前にやろうというのだ。
「いや。悪いけど俺、お前みたいに脳内で太鼓を自分にしてやれる程、想像力豊かじゃないんだ。余所でやれ。というか、宵の前ですんじゃねぇぞ!」
しかも、叩かれる度にスピーカーから太鼓の喘ぎ声が流れる。
「ふふふ。雪子と俺は上級者どころか、そのゲームの廃人だ。そして、雪子は宵と一緒にゲームをするらしい。然るに! もう遅いわ!」
「知るか! 何があっても宵の純潔は俺が守る!」
ドドン! とマンガなら効果音がつきそうだが、この台詞を当然、宵も聞いていた。
「え? え? な、何が? というか、どうしてですか? 何があったんですか」
「宵は知らんでいい! 知ったら宵は宵じゃなくなる!」
「ええ! わ、私を私とするもの? いきなり哲学的な話ですね!」
「内容は本っっっ当に最低だけどな! でも、宵は俺が守る」
「嬉しいのか悲しいのか、心境が凄く微妙です!」
そんなノリで太古の達人や、宵の純潔の話をしながら一行は目的のゲームセンターを視界に捉えた。と、環斗が思い至ったように言った。
「思うんだけどさ、太古の達人って叩かれる度にマゾポイント、通称MPが上がって、獲得MPを競うゲームだよな?」
いきなりの環斗の言葉を訝しげに聞いた駿太郎が答える。
「まぁ、そうだな。でも、それがどうした?」
「ぶっちゃけさ、真の達人って、達人って呼ばれなくて『変態』って呼ばれるよな」
その瞬間、廃人である雪子と駿太郎に電撃が走った。
「なんて……ことだ……廃人たる俺が……気付かないなんて……」
「くっ……! 今回は、十六夜さんに一本とられました。賞品に私の純潔を差し上げます」
そんなことを宵が聞くと、宵とアリスが赤くなった。
「いや。別に雪子の純潔はいらんけどね」
「興味なしですか! かなりショックです! それとも男色ですかっ? もしや、もう枯れてしまったとかっ? どうなんですかっ?」
「男色でも枯れてもいねぇよ! ほら、ちょっとアレ、見てみろよ」
そう言って環斗が指差したのは目的地のゲームセンターだった。そこには――
セーラー服を着て、赤く腰まであるロングストレートの髪を振り回しながら太古の達人を叩きまくっている人間がいた。
更に振り回した髪が宙に舞い、その下にある、短髪で剛毛が見えた。つまり、それはカツラを着けていたのだ。
身のこなしは見事としか言いようのないもので、素早く、的確で、リズミカルだ。
惜しむらくは彼の周囲で流れている喘ぎ声と白のソックスとスカートの間から見え隠れすね毛のせいで周囲の人が引いていることだろう。
「……ぬぁん……どぁとぉ……! あの変態、一人で二人分をプレイしつつ、俺と雪子のスコアを簡単に上回っている……!」
「くっ……! あんな変態に負けるとは。廃人魂がくすぐられました。白凪さん。行きましょう。目にもの見せてやります」
太古の達人に青春を費やす廃人二人はこの上ないやる気で変態に挑戦しに行った。
「……で、宵、アリス。俺らはどうするよ?」
残された三人はただ、呆然としている訳もなく、無難にクレーンゲームをした。
『あぅん! んん……! はぁ……ひぃ! んくぅ……! あぁん……い……いひぃん! あ……ん……! ……あぁ……』
「「ブルァッハァ! フィエエエエイ! イョオオオウ!」」
太鼓は嬌声を発し、奇声を発しながら息がぴったりの駿太郎と雪子は太鼓を叩き終えた。
すると、脇に控えていた変態が「ふっ」と息を漏らした。
三人が戦いを始めて、かれこれ二時間が経過していた。
その横に宵、アリス、環斗が欠伸をしながら控えている。
「っ! こ、こいつ! まだ本気を出していなかったのか!」
「……なぁ、駿太郎。時間も遅いし、そろそろ、宵とアリスさんを帰していいか?」
太古の達人に熱中しているかと思われたが、雪子が答えた。
「ええ。今夜はこの人を倒すまで帰れる気がしませんので、お先にどうぞ」
それを聞くと環斗は二人に「んじゃな」と言い残し、宵とアリスと一緒に店を出た。
外に出ると、重さを感じない、まるで踊るかのように落ちる雪が幻想的な、淡い情景を醸し出していた。
「もう、遅いし送って行くよ。アリスさん。家、どこ?」
しかし、アリスは首を横に振って「必要ない」と返す。しつこく言うのも失礼と思った環斗は宵に尋ねる。すると
「すみません。今夜はちょっと、山の方に用事があるので」
環斗はどんな用事だろうかと思ったが、詮索は悪趣味だと思ったので、止めた。
「それでは二人とも。お休みなさい」
「ああ。お休み、宵。また明日な」
「また、明日」
そう言って三人は分かれた。
環斗が家を視界に捉えると、はぁ、と白色の気体を口から吐いた。
……今日はいつもより疲れたな。つか、気付いたら八時ってどうよ?
寒気に身を包まれながら、環斗は一軒家の小さな門を開けた。
丸型の石畳が数個埋められ、他の部分が砂利で占められている道。更に日中の温度で雪が溶け、それが夜独特の寒気によって再び凍り、薄氷の絨毯が出来上がっている。
薄氷を壊しながら進み、玄関に到着。鍵穴に鍵をねじ込み、ロックを解除して自宅に入ると鍵を閉め、そのまま玄関にて、倒れた。
どうやら、環斗の想像以上に今日は疲れたようだ。
だが当然、そのまま倒れているわけにもいかず、環斗は体に鞭を打って立ち上がった。
疲労から環斗は食事を摂らず部屋に行き、崩れるようにベッドに潜った。
疲労による筋肉の熱は寒気が奪い、ベッドの柔らかさと疲れにより、環斗は睡魔に襲われて、微睡み始める。
そんな時、環斗の耳に眠りを妨げる声が聞こえた。
別段、インターフォンが鳴ったわけでもなければ、知り合いの声でもない。
環斗の耳に入ってきた音情報。それは、何者かの悲鳴だった。
しかもそれは、壁、窓を突き破る程の大きな声だ。
様子が気になった環斗は眠い目を擦りつつ、大きな欠伸を漏らしながら鍵を開け、ドアノブを回し、扉を押した。
すると、環斗は動物的第六感で手を引っ込めた。
すると、扉の上半分が地面に落ちる。開いたのはドアノブから下の部分だけだ。
不思議な、そして妙な胸のざわめきを覚えながら外へ出た。
するとそこは、紅い海に満たされた地獄絵図そのものだった。
人間の下半身と上半身が別れを惜しむかのように互いに涙という名の血を滝のように流し、電柱が倒れ、根元から放電し、民家が倒れ、動物も半分になっている。当然、体の一部が欠落し、それが地面を落としている者もいる。
環斗が物を知覚できたのは、近くに落ちていた懐中電灯と、環斗と同じく騒ぎを聞き付けた者が懐中電灯で照らしていたからである。
むっと、嗅ぐだけで顔をしかめる程の血の香り。
状況が飲み込めない者の怒号。
大切な人の命が散った者の嘆声。
身体を失い、のたうち回る者の苦悶。
その全てを内包し、他の者の叫号。
更には放電した電気が人間の体を焼き、新鮮なレアの骨付き肉を作る。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
その表現以外、適切なものはないだろう。
そんな中、重さを全く感じさせず、舞い踊るかのように、黒いカーテンから地上に幾千にも降る白色の点。
それとは逆に環斗の口から出る薄白い呼気は黒のカーテンを白に染め上げるかのように天へ昇る。
そんな、普通なら幻想的な風景が今は一層、状況を不気味にさせる。
環斗の思考は停止し、そして、思考が戻ることはなかった。
次の瞬間、雪たちを攫うかの様に突風が吹き荒れる。それが止んだ瞬間、環斗はまるで、自分が自由落下を体験している様な感覚を覚えた。
……あれ?何で、俺は落ちてるんだ?何で俺は回ってるんだ?何で俺の体が目の前にあるんだ?
思考するのも一瞬なら、思考が途絶えるのも一瞬だった。
こうして、環斗の意識は、思考は、地面にぶつかる衝撃と共に消え去った。
長文であり、拙文、そしてお目汚し、申し訳ありませんでした。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は五章構成です。誠に勝手ながら残りの四章は随時、完成次第投稿いたしますので気長にお待ちいただければ幸いです。本作に関する批評や感想は随時、承っていますのでよろしければお願いします。特に作者は酷評であればあるほど、興奮しますので酷評(否! 興奮剤と呼びましょう!)も待っています。では、次回作でお会いしましょう