17の少女
仕事もそれなりで、彼女もいて、家族もペットもいる。
順風満帆に見えた俺の生活も事切れた。
仕事場のビルの屋上、29回目の夏を迎え、悲しいほど空は青く、でも実際0歳から数えると30回目の夏だ、なんて俺は思いながら嫌いな暑さの下にいた。
殺人的な日射しを避けようとも思わなかった。むしろ、殺人的なこの日射しで殺してくれたら、と思った。
仕事にも行き詰まり、結婚の約束すらしていた彼女からは一緒にいるのが辛いと言われて振られ、これから趣味に関しても一緒に羽ばたこうとしていた俺にとっては大打撃を受けた。
年をどんどんとっていく。嫌だ嫌だともがいても、つかめるものなどなく、今この手にあるのは、屋上の焼けつくような暑さの鉄格子のみ。
この鉄格子を乗り越えて、この空をいっそ飛んでしまおうか、とさえ思う。
昔からの夢だろ、空を飛ぶってさ。そう思いながら鉄格子を強く握って灰色の地面と青い空とを眺めた。
なんてきれいなんだろう。
身が軽くなってきたみたいだ、本当に飛ぶことができるかもしれない。
そう思った瞬間に後ろで軽い足音がして虚ろなまま俺は振り向いた。
「あっ・・・・・・」
そこには少女がいた。
ぱっと見、学生の女の子が戸惑ったように俺を見返して目をそらした。
そりゃそーか、いきなり振り向かれれば誰だって戸惑う、じゃなくて何でここに少女?いや、ここは百貨店だ、屋上にお客がきたっておかしくはないわけで、もしかしたら百貨店内のバイトの子なのかもしれない。
とりあえず、暑さで溶けそうな思考をかき集め、冷静に俺は少女を見返した。
少女はまだそこに立っていた。
間違いなく少女で、肩まであるセミロングの髪は風に吹かれてボサボサだ。後ろでは軽く植えてある花なんかが揺れている。
少女は花を背負っていて・・・・・・とかそんなことはどうでもいい、少女は戸惑ったように再び俺を見返したまま、他に移動する様子を見せない。ベンチならここ以外にもあるのに、何故移動しないのだろう?
ここじゃなきゃ嫌だから、俺がどくまでまってるとか、か?ならとんだお笑い草だ、こんな少女にまで邪魔者扱いされるとは。
ふて腐れそうになったとき、少女は口を開いた。
「あの、足元のそれ、とってもいいですか・・・・・・?」
その小さな手で指し示された方向に目をやると、成る程何か得体のよく知れないものが転がっている。
俺は拾い上げて少女に手渡した。少女は、ありがとうございます、と言って受けとると同時に、キャッともワッとも聞こえる小さな悲鳴をあげた。
何かと思えば少女は口を押さえたまま、「大変、手のひらから血が・・・・・・」と言った。
確かに多少の出血はしていたが、そこまでひどいものではなかった。というより、やけどしたと思われる周りの部分の方が痛み始めた。
ジクジクと刺すような、それでいてしつこい痛みは俺の内心そのもののようで、さらに虚しくなり、やがて無心になった。
「あっと、えっと・・・・・・どうしましょう・・・・・・」
少女はうろたえたまま俺の手に触れようとする。
「大丈夫だから」
少し笑ってそう言うと、少女は「でも・・・・・・」と言って口をつぐむ。
それから「怪我をしたら洗えって言いますよね?」と言って俺を室内に連れて行く。どこだここ?どうやら花屋らしい。
涼しい室内に、花の甘いかおり、精神的にも体感的にかなり大きな温度差で、内心倒れそうになりながら案内をしてくれる少女についていった。
この少女、背が小さい。屋上にいたときは気にしなかったが、俺の頭二つ分くらいの伸長差はある。150?下手したら140あるかないかくらいかもしれない。
髪の毛は軽いくせっ毛なのか、少しウェーブがかっていた。
少女に促されるがままに俺は店の奥に行き、水に手を浸した。
痛い・・・・・・思わず違う痛みも漏れだして泣きそうになった。たぶん少女から見れば少し顔をしかめたようにしか見えなかっただろうが。やがて少女は水で洗っても赤い俺の手のひらを見て、氷を差し出しながら名乗った。
実方 魅織と言うらしい。正直、漢字でいきなり名乗られたら読めない名前だ、と思ったことは黙っておこうと思う。
でも、魅惑の魅という名前は似合っているかもしれない。
普通の顔ではあるのだろうが、どことなく人を引き付ける顔つきの女の子だ。俺の好みというわけではないが、かわいらしい顔立ちだとは思う。
彼女はこの花屋の勤め人の娘らしく、たまに人手が足りなくなるとバイトに入るのだそうだ。
まだ17らしいが、17と言えば俺はまだ何をしていたんだろう?ただのガキだった気がする、と虚ろに答えると、彼女は笑い、それからふと、屋上のあんな日射しが照りつけるところで何をしていたのか、と俺に訪ねてきた。
俺は少し黙り混んだ。どう言えばいいか分からなかったし、いきなりあったばかりの少女にこんなに重い話題をしていいものか謎だったからだ。
彼女は「嫌だったらいいんです」と言って笑ったが、俺には笑えなかった。
話を変え、名乗り遅れたことを詫び、自分の名を名乗ると、彼女は小さく、「千把さん」と言って頷いた。
先程俺は彼女の姓を漢字で出されたらわからないと言ったが、自分も充分に珍しい名前を考慮してのことだ。
変な名前の苦労はわかる。読み間違えられるし、何度言い直しても直らないやつもいる。だからといって名前を変えたいだのとは思わないが、この名前を好くこともない。
彼女に礼を言い、その場を背にした後、ふと、これでもう二度と彼女と会うことはないのだろう、と思った。
会ったとしても、話すこともあるまい、そう思ったとき何故か背がすすけた気がした。
気のせいだと言い聞かせて彼女の存在も忘れかけた数週間後、日本語ではない歌を紡ぐ彼女・・・・・・実方さんだっただろうか・・・・・・実方さんを見つけた。
風に髪の毛をなびかせながら、瞳を閉じて自由に歌っているように俺は思えた。
声をかけず、見ていると、突然彼女は目を開き、俺をにらむかのように見ると、そのままスタスタと立ち去ってしまった。
あの時の彼女とはまるで別人のような動きで、少しだけ俺の繊細な心が傷付いたことは言うまでもない。