29 私、人を見かけで判断しないと改めて誓います。
翌朝、目覚めて布団の温もりに幸せを感じる。電気毛布よりも温かいと思うのは気のせいだろうか。依然、外からの風を受けて顔は冷たかったりもするが、この寒さに鍛えられてきめ細かな肌に仕上がることだろうと信じている。信じてもいなければやってられないとも言うが。
布団にくるまったまま庭へ寝返りを打つ。
大きな牙が庭に転がっているのを見て、深く息を吐き出しながら瞼を閉じた。昨夜、寝るときにはなかったはずである。どこから持ってきたのだ。今まで土産やテイクアウトがなかったので、昨日は特に注意をしなかったのだが油断していたようだ。
夢であれ。そう思いながら薄く瞼をあげてみるが、やはり牙はそこにあった。六本も。マンモスの牙のように大きくカーブを描いているが、牙そのものの大きさを鑑みると、牙の持ち主は動物園で見る象より一回り、いや二回りほど大きい動物なのではと予想する。
薄目で庭先に転がっている牙を眺めながら、もう一度寝てしまおうかとも思ったが、いくら逃避しようとも牙が消えることはないであろう。朝から、深く深く吸い込んだ息を吐き出し、諦めて起きることにする。
すると、体を起こした私に気づいた秋水が、鼻先で転がっていた牙を押してきた。
『好き?』
秋水が小さく鼻を鳴らす。好きとかそういう問題ではないと思うのだが、答えあぐねて項垂れながら眉間を指先で押さえる。悪気がないだけに、嫌いと伝えて気落ちさせるのも不本意だ。とはいえ、好きと答えて更に土産が増えることは遠慮したい。激しく辞退したい。
どうしたものか。ちらりと秋水を伺えば、小首を傾げている。しかも巨体の向こうに見える尾の先が、何を期待しているのかピコピコと蠢かしつつ再度鼻を鳴らす。
『好き?』
牙を好きになってどうするのだと。というか、口元が緩みそうになるのを、頬の内側を噛んで堪える。ここでうっかり笑ってしまえば、ワイバーンたちは肯定と思うだろう。それは拙い。拙いのだが、どうにも笑いが禁じ得ない。こやつらに毒されてきている。毒竜なだけに――――って、朝から部長クラスの駄洒落かいっ! 枕へ思いっきり拳をめり込ませ、部長の影響力の恐ろしさをやり過ごす。
取り敢ず、秋水を始め皆には、今のところ土産もテイクアウトも不要と伝えておく。必要があれば、改めて土産を頼むことにするからと伝え、何とか納得してもらえた。これで、ダウェル国の使者が帰る頃までは、どうにか持つだろう。と思いたい。
少し時間は早かったが、ベッドから出て着替えることにした。
以前、ニレスさんに貸してもらった衣服とは異なり、用意してもらっているのは女性の騎調士が身につけるという衣服である。袖が長く、臑丈まであるワンピースは生地が厚く、空を飛んでも防寒効果があるらしい。下は、跨がっても問題ないようにズボンである。触れる機会はなかったが、しっかりとした生地と仕立てから乗馬用ズボンに似ているかもしれない。これに、ショートブーツという身拵えである。
靴の底、ソール部分も登山靴のように厚くてザックリと溝が入っており、ワイバーンの鱗でも滑らないという優れものだ。いつ何時ワイバーンに乗るか分からないからと、用意してもらった衣服は全てこの類だ。ドレスもあるにはあるらしく、妙齢な女性として一度くらいは着てみたくもあり、遠慮してみたくもあるような。乙女心とは、かくも複雑なものである。
「タテシナ様、お早うございます。お目覚めでらっしゃいましたか」
洗顔を済ませたタイミングで厨房側の扉が開き、リィタさんとイアナさんが入ってくる。
「お早うございます」
「あら……あれは……鈍獣の牙ですか?」
「鈍獣? なのかは分からないのですが、毒竜たちが持ってきてしまったようで……この牙、何か使い道ありますか? お城で不要でしたら、マーセンさんに引き取って頂こうかと思うのですが……あ、もちろん、ダウェル国の使者が帰国されてからで構わないのですけど」
イアナさんが朝食の準備をする傍ら、リィタさんが小首を傾げて思案する。
「そうですね……こちらで処分することも可能ですが、マーセンに話を通しておきましょう」
「助かります。暫く、鬱陶しいかと思いますが、マーセンさんに引き取って貰う間はここに置いていても大丈夫でしょうか」
「それは問題ございませんのでご安心ください」
リィタさんが笑みを浮かべて請け負ってくれた。これで一安心である。なんでも、この鈍獣というのはかなりの大きさがある害獣で、一軍とまではいかずとも、討伐にはかなりの人数が必要になるのだとか。今年は例年になく鈍獣の被害が多く困っているらしく、どこの鈍獣を狩ったかは分からないが、助かりますとリィナさんに感謝をされてしまった。セッティングを終えたイアナさんからのお礼を受けつつ、朝食の準備が整った席へと着いた。
サラダ、コンソメ風のあっさりとした透明なスープ、パン、そしてハムやベーコンが朝食の主なメニューだ。日によってスープの具材は異なるし、ハムやベーコンらしい肉の調理法も変わる。
一方、夜になればスープは漉してとろみのついたポタージュ系、肉は牛肉のようなステーキ系であったり、魚料理であったりと、そう地球とは変わらない品揃えだ。主食はパンが多いようだが、ピタやナンのようなものもあれば、パスタらしきものもある。米も、一応はあるらしい。ただし、日本で馴染みの短粒米はまだお目にかかっていない。タイ米に似た長粒米を、パエリア風に調理された物が一度だけ出された。グララド国においては、米の生産は盛んではないのかもしれない。
ただただ頂いているだけの身なので、当然ながら美味しく頂く。実際に美味しいので、食べ過ぎないよう気をつけなければならないほどだ。
ワイバーンたちが所狭しと室内に鼻を突っ込んでいるため、生暖かい風を一身に浴びながら食後のお茶を頂き、そろそろ書き取りの練習でもしようかといった頃だ。イアナさんが食器を下げに厨房へ向かってほどなく、厨房の方から陶器の落ちる音、女性たちの悲鳴が聞こえてきた。何事かと、思わずリィタさんと顔を見合わせる。互いに、身じろぎもせず耳を澄ませていれば、男性たちの怒声、更に食器や金物が落ちる音と続き、そして物々しくさえ思える足音がこちらへ向かっている。ふつふつと得体のしれない不安がこみ上げてくる中、扉が勢いよく開き、イアナさんが駆け込んできた。
「タテシナ様! お逃げ下さい!」
何事と問う間もなく、扉を閉めようとしたイアナさんの髪を、廊下から追いかけてきた人物が鷲掴み、そのまま勢いよく扉へと引っ張られる。強かに額を打ち付け、悲鳴を漏らし床へ倒れたイアナさんを蹴りつけるようにして部屋へ押し入ってきた五名の侵入者たちは、濃紺の衣服をまとい抜き身の刀を携えていた。
「貴様が毒竜の騎調士か!」
先頭をきる男が、私を睨み付けながら剣先を向けて大呼する。と、私の前へリィタさんが、そして勢いよく私の体から飛び出てきた阿武隈がリィタさんの前へと勇ましく立つ。背後からは、メキメキミシミシという嫌な音と、嫌悪も露わな唸り声が頻りに聞こえてくる。軋む音が破壊の音にいつ変わるのかという焦りから、振り返り彼らを宥めたい気持ちはあるのだが、目の前に立つ侵入者が恐ろしく目を逸らせない。
「毒竜が……貴様さえ現れなければ、うまくいっていたものをっ!」
男の言葉に、例の捕り逃したと言われる残党なのだと気づいた。見開いた目は血走り、叫べば叫ぶほど口角には泡が溜まっていく。視線を逸らせず男の顔を凝視していれば、白人ならではの白い肌が、素人ながらにどこか病んでいるのでは、と思えるほど血色の悪さも際立つ。一目で尋常ではないと分かる様相だ。叫ぶ男だけではない。後ろにいる男たちが一様にして目は充血し、青ざめあるいはどす黒い顔色をしているのだ。不気味としか言いようがない。
「あやつらもだ……我々を裏切りよって……我らを侮ったことを後悔させてくれる」
私たちへ向けての言葉というより、胸中の憤りが口に出たかのような言葉である。リーダーであろう男は、澱んだ視線を私に向けた。前に立つリィタさんの存在をも気にせず、私に向けられているはずの視線が私を素通りしている、そんな不安をかき立てる暗い眼差しである。
「騎調士よ。毒竜を使役し、ダウェル国の使者を屠れ」
しかし、男の言葉で扉近くにいた男が蹲っていたイアナさんの髪を掴み、引き立たせて晒した喉に刃を当てた。
男たちの鬼気迫る雰囲気に当てられてか、それとも私と親しくしているイアナさんへの扱いにか、憤慨した様子で阿武隈が宙に浮いたまま頭を低くし攻撃の態勢を構える。リィタさんを挟み正面に浮かぶ阿武隈の顔は見えないが、もしかしたら牙を剥き出しにし、発する声なく唸っているのかもしれない。グググと背の一部が隆起したように見えた。いや、白いエクトプラズムの塊が実際に波打ち大きくなっている。空気を吸い込むかのように、徐々にと大きくなっていく阿武隈は、秋田犬よりも一回りほどの大きさにまで膨れあがっていった。
いつの間にそんな芸当を覚えたのだっ! だが、いいっ! やってしまえ! そしてイアナさんを助けるのだ!
阿武隈の著しい成長に驚愕しながらも、心の内でかつてないほどにエールを送る。力一杯送る。
「タテシナ様、機がありましたら毒竜のお傍に」
リィタさんが正面を見据えながら、そっと囁く。二人を危機に晒したまま? さすがに非人道過ぎないかと、躊躇う私を見越してなのか、更にリィタさんは囁く。
「我々は大丈夫です。タテシナ様の安全が確保されているのであれば、我々はどうにでもできますので……さぁ」
確かに、武芸の心得一つない私がいたところで何の役に立つというのか。大丈夫というリィタさんを信じ、いつでもワイバーンたちの傍へ行けるよう気構える。
目の前で大きくなった阿武隈に、武器を構えた男たちも緊張を漲らせる。歩幅を微かに広げ、いかなる攻撃も受けて流すとばかりに剣を構える男たちへ、阿武隈が更に頭を低くする。飛びかかる気なのか、あるいは風の攻撃を繰り出すのか。男たちが阿武隈へ気を取られている内にと、私はすかさず踵を返し、ワイバーンたちの元へと駆けだした。荒ぶる飛燕に抱きついた私が振り返ると、阿武隈が男たちへ向けて咆哮したかに思えた。
固唾を飲み、思わず拳を握りしめ強く思う。阿武隈よ! いてまえ! いてまうがいい!
阿武隈が咆える。
目一杯膨らませた風船の口を離したかのごとく、咆えたと同時に空気の抜けた阿武隈はワイバーンの合間を突き抜け、勢いよく萎んでいきながら庭のどこかへと飛んでいってしまったではないかっ。
唖然とした。さすがの男たちも唖然と、阿武隈の消えた空を見つめている。言葉にならないとは、正にこのことか。いや、舌筆しがたい羞恥というべきか。妙な汗が一気に吹き出る。鏡を見ずとも、顔が真っ赤になっていると自分でも分かるほどだ。
「…………」
その場には、言いようのない静寂が訪れた。
というか、君が逝ってどうするーっ! 三分も持ってないじゃないか! 何のために大きくなった! このスカポンタンがぁーっ!
「ぎゃっ!」
出すに出せぬ鬱憤を胸中に渦巻き、まんまと阿武隈に気を取られていたのは私だけであった。いや、男たちも一瞬ではあったが気を取られていた。動じることなく機会を狙っていたリィタさんが鞭を――――鞭?! 振るわれた鞭は大声を上げていた男に当たったらしく、顔面を押さえよろめく中、イアナさんはナックルを嵌めた拳を――――って、そのナックル、尖ってませんかっ?! いつの間に抜け出ていたのか、羽交い締めしていた男の喉元に勢いよくストレートをイアナさんが決めている。二人ともいつのまに! というか、どこからその武器を!!
お仕着せの長いスカートも何のその、パルクールのように跳んだ壁を蹴り、落下に体重を乗せて喉を押さえる男の背へ膝を落とすイアナさん。そのスカート、実はスリット入っていたのですね。美脚を惜しげもなく晒しながら、別の男のこめかみにブーツの爪先が食い込んでいます。恐ろしいです。
クラッキングの音も高らかに、男たちの顔面を狙って鞭を振るうリィタさんも恐ろしいです。乗馬用とか女王様とか、そんな鞭ではなく、あれは牛追いが使うような鞭ではなかろうか。ブルウィップよりも短めな、スネークウィップという類に似ている。隣が天井も高い大きな広間ということもあり、こちらの部屋も天井が高い分、リィタさんは短めの鞭を存分に、遺憾なく発揮していた。
剣で斬りかかろうとする余裕もあたえず、ひたすら目を狙われるものだから、庇う腕の服が見る間に裂け、血しぶきが飛んでいるように見える。実際に、飛んでいた。痛いです。見ているだけでも、とてつもなく痛いです。
リィタさんとイアナさんには、何があろうとも今後一切逆らわないことを胸に誓いつつ、知らず知らず飛燕の脚にしがみついていると、室内に派手な竜巻が発生したのである。