26 私、少しだけ泣きたい気分なのです。
バルコニーに飛び出すと、飛燕が低空でのホバリング状態で下りる位置に困ってか、頻りに大きく羽ばたいて右往左往していた。
「生垣が壊れるから! 飛燕、上! 上空待機ーっ!」
飛燕が不満気に一鳴きしながらも上昇する様子を見上げれば、バルコニーの屋根に秋火が下りようとしてバタついているのにギョッとする。
「ちょっ! 私、死ぬから! 秋火が乗ったら壊れるから止めて! 止めなさい!」
ング? じゃなくて、と秋火に突っ込む余裕もないまま、秋火の背後では屋上でじゃれる二頭へ身を乗り出し、更に声を張り上げる羽目になった。
「秋水! 呑竜ーっ! 速やかに屋上から離れなさーい! 壊れるでしょうが」
片腕を突き上げ振り回す私を、首を伸ばした秋水と呑竜が不思議そうに見下ろしている。君たちの体重がいかほどだと思っているのか。壊れる前に早く退いて。内心、焦りながら飛べ! と空を指していると、真後ろからミシミシという音が聞こえる。ハッと振り返れば、バルコニーに一番近い木へ屠竜が止まろうとしていた。一般的な庭木が十メートル前後の巨体を支えられるはずもなく、限界までしなっている。折れる、折れるからっ!
「屠竜! 君の体重を支えられるわけがないでしょう! 頭を使いなさい! 頭を!」
『でも、でも、案外っ』
「飛べーっ!」
バランス遊びに興じる屠竜の体重と羽ばたきで、わっさわっさ庭木の葉が落ちていく様子に思わず怒鳴りつける。と、真横に大きな白い物体が視界に入り込む。
「ノ……ノ・ノ・ノ・ノ・ノ・ノ・ノ・ノ。それは駄目。駄目よ鍾馗ちゃん。壁は掴まるところじゃないのよ。ノンノよ」
必死にバルコニー横の壁へ、爪を突き立てへばりつこうとする鍾馗に、顔を小刻みに揺らして宥める。六頭のうち、一番体が小さいのは鍾馗だ。咄嗟にバルコニー下を見やり、鍾馗に向かって地面を指さした。鍾馗ならば辛うじて地面へ下りれるだろう。
「鍾馗、ここ! ここにお座り!」
「タ、タテシナ殿! 危ないですからっ」
バルコニーの手すりへ片足を乗せた私に、慌てたローフさんが呼び止める。振り返ればローフさんとメイドさんが、三者三様に驚愕の表情を浮かべていた。これほど間近でワイバーンに接する機会もなかったであろうメイドさん二名は、青ざめた様子で目を見開いて固まっている。私とて妙齢の女性であり、好きこのんでバルコニーの手すりに乗るなど、はしたないことはしたくはないのだが、いかんせん、これ以上ここに留まっていれば余計な被害が出ることは間違いない。苦渋の選択なのだ。止めてくれるなローフさん。
「すみません。贅沢は言いません。ワ……じゃなくて、毒竜六頭が下りても大丈夫な場所に面した部屋を。できたら、一階でっ。先程の場所に戻っていますので。すみませんーっ」
バルコニーに沿って項垂れた鍾馗の首に乗り移ると、それだけをローフさんに告げて上空へと移動したのである。
本物のお城にある、贅を凝らした客室での滞在時間――――三分。うち、バルコニーで怒鳴ることおよそ二分五十秒。扉からバルコニーへのダッシュに五秒、室内の感動五秒。私のために用意してもらった、お城という特別な環境で、客室に泊まるという二度と訪れることのない機会はこうして終わった。
そして、最初に下り立った場所でローフさんを待つこと暫く。ローフさんも忙しいだろうに、無理を言ってさぞ慌てさせたことだろう。この際、雨風しのげれば納屋でも構わない。でも、機会あればせめてもう一度だけでも、じっくりと舐めるようにお部屋を眺めてみたい。そんな気分で恨めしくワイバーンたちを見ていると、ローフさんが「お待たせしました」と些か息を乱しながら現われた。
今度は城内からではなく、飛燕に乗って外周を回わる。改めて案内された部屋は、やけに横長な部屋だった。およそ十五メートルある飛燕よりも更に広い部屋だ。
私がお願いしたとおり、部屋に面した庭は景観を考慮していないだだっ広さである。一応、地面には芝生のような草が生えているものの、踏みならされていることから手が入っていない様子が伺い知れた。これなら六頭もの重いワイバーンがうろついても問題ないだろう。
しかし、寝泊まりする部屋に庭から案内されたわけだが、まず客が寝泊まりするには無駄に広すぎ、そして庭に面した窓が蛇腹というかアコーディオンというか、室内と庭を一気に開放するといった具合である。そう、オープンカフェのような。
「随分と大きなお部屋ですが、こちらは?」
いや、けっして不満なわけではない。晩秋か初冬かと思われるこちらの世界で、些かこの広さは寒すぎと思わなくもないが、部屋の端にはベッドまで用意してもらい、テーブルセットもあるが部屋の広さに対して調度品が少なすぎるとか、文句など……文句などあろうはずがない! ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、あまりのアンバランスさから部屋の用途が気になったので、うっかりローフさんに聞いてしまっただけだ。笑みを絶やさない柔和なローフさんが、珍しく言葉に詰まってうなり声を漏らしている。
「…………グララド国の大事に力添えを頂いたタテシナ殿を、このような場所に案内することになってしまい、誠に申し訳なく…………」
眉間に皺を寄せ、絞り出すように謝罪するローフさんは、正に痛恨の極みといった様子である。
「い、いえっ。屋根もありますし! 壁もありますから! 寝具も用意して頂いていますし、十分ですので気にしないでください」
肩を落とすローフさんを慌てて慰める。できたら暖房を――いや、本当に十分ですしっ。ベッドの上からは薄緑のレースっぽいものが被せられていて、色からして蚊帳にしか見えないけど、天蓋と思えば思い込めるしっ! テーブルセットだって、ちょっと、いやかなりグレードダウンしているけど、あるだけマシ、いやいや食事とお茶をする程度なら十分ですから!
「毒竜たちもお世話になっていますし、本当に十分ですから」
項垂れたローフさんを下から伺うように見れば、気落ちした様子ながらも微かに笑みを浮かべてくれたので、私もそっと笑みを返す。そうですとも。こちとら床に蒲団を敷いて寝ることも厭わない日本人ですから。マットだってあるのだから問題ありませんよ。マットを置いている台がベンチらしき物を数台合わせているみたいですが、見なかったことにしますので。
で、結局この部屋はなんなのかと再度控えめに問いかけてみると、所謂サービスルームと言えばいいのだろうか。庭側の対面となる壁には、両端に大きな扉がある。廊下を挟んで一つは厨房に続いており、そしてもう一つはこの城で一番大きい広間へ出るとのこと。国王主催の舞踏会とか、外国からの国賓を招いたさいに催されるパーティーとか、夏場になれば大規模なガーデンパーティーなどで振る舞われる飲み物や軽食を用意したり作ったりする場所なのだそうだ。ああ、だから無駄に広くて、窓も開放的なのかと納得する。納得しつつも、ちょっとだけ下唇を噛んだ私を責めないでもらいたい。
頻りに恐縮し謝るローフさんを宥め賺したり、改めて私のお世話をしていただくメイドさんと挨拶を交わしたり、無闇にメイドさんたちを脅かせたことを謝罪したりで時間が過ぎていった。
「このお詫びは改めて、必ず改善いたしますから!」
そんな言葉を残してローフさんは去り、時間も時間なので二人のメイドさんにお世話をされながら夕ご飯を食べる。部屋が広すぎて虚しさというか侘びしさが半端ない。でもって、メイドさんたちが脅えるから。代わる代わる窓に張り付いて室内を覗き込むのは止めなさい。速やかに止めなさい。
ワイバーンが覗き込むたびに一瞬身を硬くするが、さすがはプロだ。ほんの一瞬だけで、直ぐに気を取り直して仕事に勤しむ。そんなメイドさんの一人、リィタさんは白い肌に濃い栗色の髪をまとめ上げ、勝ち気さ生真面目さを伺わせる自信溢れた女性だ。バリバリと仕事をこなし、女としても乗りに乗ったキャリアウーマンといった印象だ。一方、薄い褐色の肌に赤毛のような明るい栗色の髪を編み込んでまとめているのがイアナさん。先輩リィタさんの後を一生懸命追いかける後輩といった雰囲気のイアナさんはほんわかとした印象である。ローフさんと並べばほんわかで温厚な雰囲気兄妹といった風にも見える。
この二人、やはり貴人を相手にしているせいか、雑談を振ってくることもせずに楚々と仕事をこなしていく。しかし、こちらから話題を振ればにこやかに答えてくれるし、ほどよい距離を保った二人の雰囲気は変な気苦労も感じず居心地良かった。
「先程もお話いたしましたとおり、この部屋はお客様をお迎えする部屋ではございませんので、タテシナ様にはご不便をおかけして申し訳ないのですが入浴とご不浄は我々と同じ場所をご利用頂くことになります」
食後のお茶を済ませたのちに、必要な場所――従業員用の大衆浴場とトイレについての道順を教えてもらう。説明は主にリィタさんであるが、付き従うイアナさんと揃って始終心苦しそうな表情を浮かべているため、こちらも申し訳ない気分になってくる。
何せ、浴室のある客室までは遠く、トイレにしろお風呂にしろ、利用する往復時間とワイバーンたちの耐久時間を天秤にかければ、近場にある従業員用施設の利用はやむを得ないのだ。せめてもとばかりに、貸し切りにしてくれる上、明日からはなんと一番風呂を頂けるのだそうだ。実に申し訳ない。
リィタさんとイアナさんを待たせての入浴であるのと、他の従業員さんたちを待たせていることもあって、カラス以上の早さで行水を済ませる。もしかしたら明日あたり風邪をひいているかもしれない。
事前にローフさんから私の事情を聞いていたのか、リィタさんが微に入り細に入り教えてくれるのだ。トイレの使い方しかり、お風呂の入り方しかりである。
まずトイレ。トイレ凄い。地球ではトイレ先進国であった我が日本よりも凄い。ウォシュレット当然、用が済めば一瞬にして水分蒸発、一気に加熱、風で粉砕、塵よグッバイだ。しかも、その後はフローラルやグリーンの香りがワンプッシュである。祝術によって全てがオートで作動するのだ。トイレの中が精霊たちでキラキラしている。凄い!
お風呂も祝術が仕込まれており、つねに掛け流し温泉状態だ。先日、ローフさんが話していた生活支援の精霊について実際に体験したわけである。
他にも洗面は温冷自在のセンサー式だし、リィタさんの話では、最近の飲料水だと何其れの葉に溜まる朝露の精霊、なんてのをカートリッジ式で祝術に加えるのだとか。何か色々と凄いっ。
空調もそんな感じで、暑い日には天井から祝術の冷風が、寒い日には床から温風が作動するらしい。しかし私の部屋はいわゆる作業部屋である。よってそれらの機能はないのだそうだ。そのため、部屋に戻ると蚊帳――ではなく、天蓋に覆われたベッドの四隅には三本脚の篝火台のような物に皿が乗せられ、その中で火属性であるマリモ精霊が元気はつらつに発光発熱をしていた。一応倒しても火事にはならないらしい。発光といっても豆電球よりも弱冠明るい程度で慣れれば気になるほどでもない。マリモたちのお陰でベッドの周りも温かく、途中寒さで目覚める心配もなさそうである。
「それでは明日、お目覚めの時間になりましたらお声がけいたしますね」
「はい。宜しくお願いいたします」
「お休みなさいませ」
リィタさんとイアナさんと挨拶を交わし、高級羽毛蒲団以上に膨らんだ蒲団の中へと潜り込んで横たわった。
怒濤の二日間を過ごし、さすがに昂ぶっていた神経も疲労に負けた。真夜中というにはまだ早い時間ではあるが、横たわるとそう時間をおかず眠りについたのである。
――――が。
横っ面を窓に押しつけ、頻りに中を覗こうとする飛燕の鼻息で、窓が激しくガタガタガタガタと鳴り響くためにおちおちと寝ていられない。いつまでも飛燕が張り付いていることに切れた鍾馗が怒って鳴き出す。なぜか屠竜は腹が減ったとばかりに鍾馗と合唱しだし、更に輪唱でも始める気なのか秋火まで飯だ飯だと鳴いているようである。
ガタガタガタガタ――ガタッと一際大きく窓が揺れるのは飛燕が息を吸うため、窓が思いっきり鼻の穴に吸い寄せられているのだろう。
『俺もっ! 俺も見るの! いるの見るのっ!』
といった調子で鳴いているのが鍾馗だ。鍾馗のギャ! ギャ! という声の合間に屠竜がン・ギャ・ン・ギャと鍾馗のギャへ被せている。
『ご・は・んっ』
君はご飯以外に言うことはないのか。そして秋火が、ァギャー! と咆哮を上げる。
『狩っりーっ! 狩り行こうぜーーっ! 狩ぁーっり! 狩ぁーっり!』
意訳するならこんな具合だろう。
「――っというか、やかましわーっ!」
ギャギャギャ、ギャギャギャとうるさいわっ。
ベッドから飛びおり、勢いよく窓を開けて叱りつける。
「ご飯食べるなら人を襲わない。迷惑かけないようにね」
屠竜と秋火に告げればアギャと一鳴きして飛び立っていく。秋水と呑竜は大人しくしていたが、飛び立つ二頭を見上げ、ややして後を追って飛び立っていった。
「もう遅いの。私は寝る時間なのです。静かにしていてください。分かりましたか。というか、分かれ」
ワイバーンがいることで、あまり近寄る人はいないだろうが、それでも声を張り上げるには躊躇うような時間帯のため、残った飛燕と鍾馗を見据えて淡々と告げる。
しかし、窓を閉めようとするとそれは切ない声で鳴くのだ。カーテンがあるわけでもなく、蚊帳が掛かっているとはいえ一応傍にいるのだが気に入らないらしい。
「じゃぁ、これなら良い? 見えるでしょ? 傍にいるの確認できるでしょ?」
蚊帳で定着しつつある天蓋をまとめ、ベッドの様子を見られるようにして見せたが、なぜか納得する様子がない。
「え……何? 窓開けて寝ろというの?」
ンァガと飛燕が喉を鳴らす。いや、それは……と返事に窮していると、ピスピスと鍾馗が鼻を鳴らしだし、それに併せてなのか飛燕がくねくねと顔を左右に揺らして上目遣いで見てくる。
「………………」
二十メートル近い窓を全開にし、私は外気と鼻息を吹きかけられながらその夜を過ごしたのであった。
【噂話】
「聞いたわよー? 噂の騎調士様、お部屋替えをご所望ですって?」
食堂でイアナが席について食事をとっていると、同じメイド仲間のリアンナが笑いながら正面の席に腰をかけた。白い肌にゴージャスな金色の髪を持つリアンナは、琥珀の目を茶目っ気に細めてイアナを見ている。
「リアンナ。人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」
千切ったパンをスープに浸しながら、イアナが軽く顎を引いてリアンナを窘めた。
「でも、実際は本当なのでしょ?」
「まぁね」
イアナは肩を竦めて答え、味の染み込んだパンの欠片を口に放り込む。リアンナが言うとおり、部屋替えを余儀なくされた。
城に滞在する客の世話を任され、不自由なく、気分良く過ごして頂き、送り出すのはイアナたちの仕事である。客人を迎える部屋の行き届いた掃除はもちろんであるが、利用される季節に合わせた部屋、室内の意匠、誂えられた調度品、これら全てに対してイアナたちは誇りと自信を持っている。賛美を得られれば自国の職人を誇らしく思うし、自分たちの仕事に客人が満足頂ければ更なる自信へと繋がる。
しかし、稀にイアナたちをぞんざいに扱って当然と思う客人がいるのも確かであり、彼らは気に入らない人物と同じ部屋を利用したと聞けば、尊大に部屋替えを言いつけるのだ。勿論、イアナたちは言われたとおりに新たな部屋を用意する。異論を口にすることはできないが、不満と思うことは止められない。
今回、確かに部屋替えがなされたが、リアンナが思うような理由ではない。あれは……あれは、どうしようもないとイアナはがっくりと肩を落とした。そんなイアナの様子にリアンナが片眉を綺麗にあげ、話の先を促してくる。
「騎調士様はお部屋に入られた瞬間、お喜びになられたわよ? 一瞬だったけど、部屋を見渡して笑顔を浮かべられたのですもの」
イアナたちにとって、客人を迎えるこの瞬間こそが、客人を見定める大きなポイントである。気難しい方か、素直な方か、視線の先や目の輝きを見て、お世話の方針を変える必要もあるのだ。騎調士様の表情が綻んだのを見て、イアナは内心で拳をグッと握りしめた。恐らくリィタも同様であろう。『チョロいぜっ!』とまでは思わずとも、世話のしやすい客人であることに間違いはなかった。
そう――毒竜たちがやってくるまでは。
「でも……でも、しょうがないじゃない?! 冬の間では六頭もの毒竜を控えさせておくことなんてできないものっ!!」
柔和な雰囲気から嫁にしたいと人気が高いイアナが、珍しくも悔しさからか声を上げる様子にリアンナは目を見開き驚く。
「舞踏の間の隣にある準備室に慌てて用意したけど、騎調士様はその手間をかえって謝罪して下さったし、とっても良い方なのよっ!」
「え、えぇっ」
「でもね! リアンナ、この距離! この距離から毒竜に見つめられる経験ってしたことある?!」
イアナが腕を一生懸命伸ばして状況を教えてくれるが、一般的にそんな経験を、グララドの軍人でさえ得る機会があるはずもない。静かに興奮するイアナへ、リアンナはぎこちなく頭を振るだけであった。先を続けようと言葉を発しかけたイアナは、何を思いだしたのかふと遠くを見つめ、そしてため息と共に緩く頭を振る。
「毒竜も凄いけど、あんな毒竜を六頭も従えて、ツウと言えば」
「カア?」
反射的に答えたリアンナへ、親指を立てながら会心とばかりに頷くイアナ。
「毒竜たちが動き出す前に騎調士様が命令されるの」
「へぇ……騎調士様ってどんな感じの方なの?」
騎調士とは憧れの職業の一つでもあるが、内勤であるメイドにとっては現場を知る機会は少ない。まだ休憩の時間は残されている。リアンナは件の騎調士に興味を惹かれ、更なる話をとイアナへ水を向けた。
こうして、『毒竜騎調士タテシナ』の噂話は広まっていったのである。