02 私、迷子になったんです。
その日、私は直属の上司に頼まれて役所へ出かけることになった。
それを聞きつけた隣のエリアにいる営業部長が、ついでにと用事を頼んできたのが事の発端だと思う。
昼食を済ませて午後一でまずは役所へと向かい、用を済ませた私は再び電車に乗って会社のある駅を通り過ぎた。
目的地は都内ではあるが都心から外れたローカルな駅で、改札を抜けた先にあるメイン通りはバスがぎりぎり擦れ違えるような細い通りだった。
十分ほどその通りを歩き、とある細い道を左に入ったまでは良かったのだが、至るところに『この先車両の通行できません』の立て看板が目立つ辺りで私は焦りだした。
抜けられると思って進んだ先は駐車場となっている私有地であったり、自転車がやっと擦れ違えるような細道が五差路であったりと右往左往しているうちにすっかりと迷子になってしまったのである。
目的地は取引先の会社で用事自体は書類を預かってくれば良いだけという簡単な物であったが、道に迷ってしまい現在地さえもが分からないという状況。
とにかく一旦メインの通りへ戻ろうと、携帯でアクセスした地図を見ながら足早に進む。
昨今、地下鉄のポスターでは『ながら歩きを止めよう』と喚起していたりするが、正直それどころではない。寧ろ構っていられるかという心境だった。
ながら歩きをしていなければこんな事にはならなかったかもしれないのにと、悔いても悔やみきれないが後の祭りというものである。ゆえに後悔。昔の人は上手いことを言ったものである。
通り過ぎざまに電信柱の番地を確かめ、そして携帯の地図に目を落とした瞬間、私の踏み出した左足は地面に触れることはなかった。
よく言えば昔ながらの情緒ある町並み、悪く言えば整備が行き届いていない軽自動車でさえもが通れない裏道である。
窪みがあったのかと焦ったが、上体は傾げど左足は一向に地面へ到着しない。
段差どころかよもや蓋の開いたマンホールにでも落ちたのか。そう思わざるを得ない。
転びそうになる誰しもがそうするように、衝撃を少しでも緩和しようと咄嗟に伸ばした手が宙を掻く。
手に持っていた携帯が放物線を描いて道路に転がり滑るさまを見たのが最後、穴に落ちた私の視界は闇に覆われたのである。
自分の腕も認識できないほどの真っ暗な闇の中、次第に落ちる速度が増していくのが分かる。
あらん限りの悲鳴を上げ続け、息が切れだした頃ようやく違和感に気付いた。
いくらなんでも落ち過ぎやしないかと。
マンホールに落ちたとしてもいい加減に底へ衝突していて良いのではなかろうか。
肩に掛けた鞄を抱き込み、膝を折り曲げて正に身を護ろうと体を丸めたまま、こんな状況だというのに周りを見る余裕を次第に取り戻す。暇すぎて取り戻してしまったとも言う。
実際、真っ暗なので周りはおろか自分の腕も見えない状況ではあるのだが。
そう、落下している重力は感じるにもかかわらず風を感じないのである。
まるで、超高層ビルの最上階からエレベーターで一気に一階まで下りていくような感覚といえばいいのだろうか。
落下し続けてどれほどの時間が過ぎたのか、まだ数分といったところだと思うのだが悲鳴を上げるのにも疲れた頃、ふと気付けば暗闇に目が慣れた時のように薄ぼんやりと自分の身体が見えるようになってきた。
目が慣れたのではなく、暗闇が薄れてきたようである。
上と思しきほうを見上げても落ちたはずの穴は見えず、下と思しき方を見ても出口は一向に見える気配がない。
内心、焦りと不安で一杯なのだが、いかんせん何も手立てが無い。
唯一のよすがである鞄をひたすら抱き込んだまま落下に身を任せていると、やはり辺りの明るさが増しているように思えてきた。
自分の身体を見る事もできないほど真っ暗であったのに、今では限りなく黒に近いグレーに思える。
時間が経つにつれ、やはり気のせいではなく徐々に徐々にと辺りは明るくなり、今では真っ白な世界になっている。
真っ白というか、濃霧の中にいるような感覚である。
ドライアイスの煙の中を進むように、落下する身体へ靄がまとわりつき流れていく。
一体自分の身に何が起きたのか、どこへ向かおうとしているのか、答えの出ない幾度目かの自問を繰り返したとき、とつじょ世界は変わった。
ボフンッと効果音でもつきそうな勢いで真っ白い濃霧の世界から吐き出されたそこは、澄み渡った清々しいほどのスカイブルー。
お尻と背中を下に落下していたため、靄の名残が飛行機雲のように薄くたなびいているのが見えた。
それまで感じることのなかった風の音、視線を転じれば遥か遠くには日の光を反射させる海、開けた土地に小さく見える固まりは建物の影だろうか、大小と大きさは様々だが点在している茶色いスペースは農作地かもしれない。
町と思えるそれらはかなり遠くに見える。
強い風圧の中、ぎこちなく視線を落下方向へ向けてみると、でこぼこと隆起している茶色にまばらな緑――――山だ。と認識した途端、顔が引き攣った。
漏れなくミンチ!
ちょっ! まっ! やっ! どっ! なっ! パニくって言葉にならない叫びが頭の中で繰り返される。
いっそのこと気絶できたらどれほど良かったか。
迫りくる死へのカウントダウンなんて数えたくはない。
助けてくれるものなら悪魔でも良いから縋り付きたいと思ったそんな時、『ギャー?』とやけに間延びした声が直ぐ傍から聞こえたのである。