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大山鷹一郎の不思議捜査シリーズ第5作~その1

シリーズ5作目になります。

阿修羅という存在は以前から気になっていましたが、そこに頼朝に怨恨あると思われる人物をあてはめています。これまでは序章でしたが、これと6作目が本章になります。

「阿修羅~悲しき性」


この物語は一部実際の地名や歴史上の人物名を使用しておりますが、ほとんどの人名地名は架空のものです。


大山鷹一郎・・・九州のとある県警川北署刑事

汐田・・・九州のとある県県警川北署鑑識。勇退

山内・・・川北警察署長。

白水かおる・・・大山のパートナー。私立探偵。北条政子転生 比叡山裏衆

羽間賢信・・・九州のとある県県警川北署刑事。大山の部下。

大進さなえ・・・川北署婦警 

小野道子・・・『ラ・クア・クチーナ』ママ

小宮山祥子・・・元胡蝶蘭マキ

鈷力健・・・祥子の弟

執枝拓馬・・・県警本庁麻薬取締官

春道・・・まほろば堂主

ヒサ・・・摩睺羅伽の性を持つ天台裏衆

後藤詳造・・・姫野モータース社長

舘平鑑真・・・新合高校教諭

羽間亘 ・・・羽間の従兄弟

ヌー・・・ミャンマー人 農業研修生

和歌宮敬子・・・茶房茶房道尊店主

佐々木千代助・・・彼岸院院主


1 


川北署内は、常時27℃にエアコン設定している。常時安定して快適な環境であるはずだったのだが、我慢できない人物もいた。

「ぐわあ!エアコンどうなってんだ!」

逃げるように倉庫にやってきて、業務用のデカい工業サーキュレーターで吹き飛ばされそうになりながら叫んだのは羽間賢信だった。他にも4人ほどの職員が強烈な風の前で汗を拭いていた。

「壊れちゃったようですね。くわー、死ぬ!」

羽間の後輩刑事がシャツを脱いで大声で叫んだ。何せサーキュレーターの音がすごい。

「冗談じゃねえぞ。今は何月だと思ってんだって!」

「8月っす!」

「わかってるわ!」

もはや漫才にしか聞こえないが、外気温37℃でエアコンが壊れては理性など働かない。羽間らが風でとりあえず生きていると、スマホに連絡が入った。

「あれ、先輩だ、もしも・・・」

『ケン!すぐ来い!』

「え?え?え?どこっすか?」

『署長室!』

大山のかなり怒った風な怒鳴り声で、すぐに切れた。

「俺、なにかしでかしたか?」

他の職員らが暑さで思いっきり参った姿で敬礼して見送る中を、羽間はしぶしぶ猛暑の中を署長室に向かった。タオルがすでに汗で濡れていた。

「失礼します!羽間、入ります!」

ドアを開けた瞬間、冷気が羽間の全身を優しく包み込んだ。署長室と幾つかの部屋はエアコンが別個に設置されていたことを、この瞬間羽間は思い出した。

「はあ~~~~~~極楽っす・・・。」

「シャンとせえ!」

大山の怒号で、羽間は夢の世界から一気に現実に戻された。

「は、はい!」

部屋には山内所長と大山が座っていた。ソファに座っている大山の前には、二枚の書類が置いてあった。

「座れ。」

「はい!」

羽間が座ると、大山は書類の一枚を羽間に手渡した。

「これ、読め。」

羽間は意味がわからないまま書類に目を通した。そして次第に顔色が変わった。

「これ、どういうことです?」

「読んだまんまだ。お前への脅迫状だよ。」

そこに書いてあったのは、ワープロで書かれていた文章だった。一見普通の報告書のようにも見えるが、内容はれっきとした脅迫状だった。

『脅迫状

 

拝啓 川北署羽間賢信殿


暑中お見舞い申し上げます

今年はことのほか厳しい暑さが続いておりますが、羽間賢信殿にはお元気でお過ごしのことと存じます。

日々猛暑の中身体を張ってのお仕事とは存じます。

誠に恐縮ではございますが、ここに脅迫させていただきます。

以前にあなた様によって摘発されたクラブ『ミステリーファイアー』は、私どもにとりまして非常に貴重な収入源でございました。

女性売買、地下風俗、ドラッグキーステーションの重要な拠点として収入を得ておりましたが、あなた様が摘発したホステス胡蝶蘭マキは、私どもの会長が大層に気に入っており、若くしてこれらの取りまとめを行っておった女性でございました。

おかげ様で、私どもの組織はこれを機にほぼ壊滅いたしました。

幸い彼女は口を割らなかったようですが、万が一のことがあってはいけませんので、釈放された当日に行真健一会長ご自身の手を汚し、現在は某海の下でコンクリートのベッドで眠っております。

しかしながら、私どもはあなたの所業を看破するわけにはまいりません。

そこでご提案でございますが、金銭にて手打ちとさせていただけませんでしょうか。

私どもが概算いたしましたところ、およそ5億円ほどで妥当のようでございます。

もしくは、あなた様のお命でも構いません。

いずれでも結構でございますので、近日中にお返事をいただければと思います。

また、お手紙にてご連絡いたします。

猛暑の中、ご自愛くださいませ。


                       元行真会 若頭 鈷力健 』


胡蝶蘭マキ、ミステリーファイアー、行真会・・・これ全て、羽間が関わった件だった。胡蝶蘭マキは元々風俗上がりのホステスであり、クラブ奥にある個室で客を取っていた。もちろん他のホステスにもやらせており、中には未成年も含まれていた。それに行真会が絡んでいることを知った羽間は一年前、地下風俗の件でクラブに地入り捜査を行い、チーフマネージャーとマキ、多くのスタッフらを逮捕していた。

だが行真会は指定されてはいなかったが、かなりヤバい取引や犯罪を行っているという半グレ集団であるとの情報を得ていたので、慎重に捜査を進めていたにも関わらず、スタッフの身内の多くが行方不明になるという事態になってしまった。そこで羽間は大山らと相談して釈放して、身内は全員戻ってきた。

しかしマキの行方だけがわかっていなかったが、この脅迫状でそれがわかったのだ。行真会については数名の逮捕者を出しただけで、ほとんどの構成員がまだそのままになっていた。

「・・・ふざけやがって!」

羽間はブルブルと怒りで体を震わせ、拳を握りしめた。

「落ち着け。これは何かの陽動作戦に決まってるだろ。警察に脅迫状送り付けるアホがいるかよ。」

「先輩、んなこたわかってますよ!自分をダシにされたことがもう頭にきて・・・それだけじゃない・・・俺が追っていたマキまで・・・署長!当然この件に俺は加われるんでしょうね?」

山内はふかすだけの葉巻をくゆらせていたが、消火用のキャップを被せてから羽間に伝えた。

「アホ。こういうときには当事者は関わってはいけない・・・原則だろうが。お前は、傍観してろ。」


羽間もそれは当然わかっていたが、叫ぶ気持ちを押さえられなかったのだ。

「・・・クソー!」

「ケン、現場にはいられないってことだけだろ。お前は過去のデータを徹底的に調査していてくれ。俺たちが動くからな。しかし署長、これからどうなりますかね?」

「さあな。こんなすっとぼけたもんを平気で送り付ける連中だ。地球がひっくり返るほどのアホか、天才だろう。汐さんの鑑定でも、証拠となるものは細菌レベルで調べても一切出てこなかったそうだ。よほど用意周到だと考えていいだろうな。汐さんの話だと、長時間紫外線殺菌みたいなのをやらないとこうはいかないはずだそうだ。おそらく、滅菌室のような場所でこれを作って切手も張って、わざわざそこのポストに投函していったんだろう。消印がこの町内だ。まるでSF映画みたいだよな。狂ったアホか、用意周到な天才か・・・いずれにせよ、こいつへの対処は俺がやる。タカはケンの家族親戚、親しい友人全てに監視をつけさせろ。それから奴らの出方を見る。いいな。」


2 


「え?ということは、行真会自体のネットワークはもうないって?」

「ああ、間違いない。こちらの線でも散々調べ上げたんだが、奴らの実態自体がそもそもないに等しいんだ。」

大山は県警本庁の麻薬取締課に出向いており、麻薬捜査官の執枝拓馬と話していた。羽間がほぼ壊滅させた行真会の主な資金源が麻薬だったからだ。羽間は麻取と協力して捜査していたことから、大山はまずここに調査に来ていた。

「そもそも実態がないに等しい・・・って、どういうことだよ。」

執枝は太った男で度の強い眼鏡をしていたが、何かあると眼鏡を拭くクセがあった。大山の質問も、少しばかり思うところがあったのだろう。眼鏡を拭きながら、鋭い視線で大山を見た。

「ああ。お前はこのことを知らなかったようだな。」

「あ、ああ。それは羽間が目一杯頑張っていたからな。おまけにそのとき俺は妙な事件で翻弄されてたし。」

大山が最初に出会った、奇妙な事件『九尾の狐』、署内では緑川連続殺人事件として扱われた件である。あれだけの妙な事件の最中に、羽間はこの件にも取り組んでいた。大山に報告する時間などなかったし、間髪入れず『良橋亀子事件』『大黒天事件』が起こっていて、羽間もこれにかかっており、大山が知る暇がなかったのである。

「そうか。聴くところによると、川北では何やら色々あってたようだ。ではかいつまんで説明しよう。」

執枝はファイルデータを表示させ、モニターに投影した。

「これがあの事件の全貌だ。ここにあるのが行真会だ。」

執枝は画面の中央をレーザーポイントで示した。そこにはまるで囲まれた行真会の文字があった。

「こいつらの資金源が売春と銃密売、それに麻薬だった。小さい組織だが、なぜか妙に力を持っていた。我々があらゆるルートを通じて調べてもわからなかった。なぜか必ずぷっつりと切れてしまうんだ。それはこういう・・・あ、羽間が追っていた胡蝶蘭マキ・・・これは知っていたかな、マキは羽間の幼馴染みだったんだ。」

「え?そうなのか?だからあれだけ食いついていたのか。あいつ、それなら捜査させなかったのに。」

「それだけ本気だったんだろ。何とか抜けさせようと躍起になっていたようだが、結果は知っての通りだ。で、なぜ行真会の力がわからなかったかと言うと、こういうことだったんだ。」

執枝はパソコンのエンターキーを叩いた。すると、複雑なネットワークが現れた。

「これは?」

「主にミャンマーを中心とする、宗教ネットワークだ。」

「宗教?」

「ああそうだ。これは黄金の三角地帯からできたグループなんだが、元々はインド神話、つまり『ヴェーダ神話』をベースとした『プラーナ・ペイチャック』と称しており、その信徒は約1万人以上とも言われている。ここが行真会の元締めだと推測される。これは行真も全く隠していなかったことでな。同じ紋章を使っている。」

「あ・・・ということは、この信徒たちが売人であり、運び屋になっていたってことなのか!」

よく考えたものである。

「結果、そうなる。だが、残念ながら証拠が一切ない。あくまで推測データでしかないんだ。」


「証拠がないって・・・?」

「決定的な資金の流れ、密輸のやり方、ネットワークの存在が全てわからん。本当に用意周到でな。おまけに、紙や服、頭髪に至るまで一切の証拠がない。やつらが国内外でヤクの売買を行ったとしても、別のバイヤーから突き止めようとしても必ずどこかで壁にぶつかる。」

「つまりそれって・・・?」

「相手が特定できない。どこかで誰かが曖昧な証言をしたりや、あるいは確証たるデータがなかったりする。まるで影を相手にしてるみたいでな。俺たちの常識では、相当なレベルの化学研究所を持っているとしか思えないんだ。でもな・・・こういうことをできるって、一国の研究所レベルでないと到底無理だ。。そんな機材のルートもないし、第一そんな技術者ならどこかの国のデータに必ずある。こういう表現はどうかとも思うが、まるでSFか何かをイメージしてしまう。どんな監視映像を調べても、まるで関係ない人間が浮かんできても一切の証拠がないし、アリバイもある。まるで中身だけが誰かに乗り移ったみたいでなそれすらない。参ってるよ。」

大山は、羽間に届けられた奇妙な脅迫状が、単なる暴力団のものではないことを知った。ひょっとしてまた厄介な事件になるのかと思い。多少気が重くなった。

大山は執枝に礼を言って県警を後にした。しかし黄金の三角地帯絡みとは。

黄金の三角地帯、通称ゴールデントライアングルは、世界有数の麻薬生産地域である。世界一の生産国はアフガニスタンだ。ここは第2次大戦後に毛沢東の紅軍に敗退した国民党が入り込み、貧困地域を救うという名義でケシ栽培を始めた時から始まっている。豊富な資金を持ち、いくつかのグループは合法的な商売を営んでいるとも聞く。

おそらく『プラーナ・ペイチャック』自体がそういうものなのだろう。商売でのネットワークに加えて、宗教でのネットワークが絡み、非常に面倒な状態になっている。行真会は日本における彼らの支部ということになる。

これは川北署だけの問題ではないなと大山は思った。だが現実問題として、羽間への脅迫状という前代未聞の事件だ。放っておくわけにもいかない。

しかしどこから手をつけていいかわからない。県警でさえお手上げ状態なのだ。大山は考えて歩いて、ふと気がつくと見たことがある公園に来ていた。

「ここは・・・。」

見覚えあるどころではない。そこはあの緑川連続殺人事件の発端となった、猟奇殺人事件の現場となった川北川だった。さほど広い公園でもなく、アスレチックとベンチがある以外は何もない。

大山は公園の中に足を踏み入れた。あの時はまだ寒かったが、今日は真夏なので軽く陽炎が見えるような気がした。アスレチックの横まで来て、大山の足は止まった。ここで首を切断された天原剛助の死体があった。あの事件は地方中核都市ではありえない大事件だった。結局は中国人マフィアによるものとされてはいたが、大山はその後の多くの経験によって、それは正解ではないと確信するようになった。

パートナーの白水かおるによる、奇妙な言動や体験もそうだった。まだ大山には早すぎる、そう言っていたかおるを、最初は何を言っているんだと思っていた。

だがしかし、こうも色々なことが起きてくると、さすがに自分には、自分ですら認知できていない何かが秘められているのではないかと思うようになってきていた。

今回の行真会による脅迫状にしても、最初からこれは何か違うぞと感じていた。言葉では表現できない何かが、自分に起こってきていると、そう断じてよさそうだった。そのカギは、かおる以外ありえない。

そう思っていると、スマホが鳴った。かおるからだった。このタイミングでかかってくる・・・大山は軽く戸惑いながら、応答ボタンを押した。

『もしもし、タカちゃん?どこいるの?』


3 


羽間はいつもの『ラ・クア・クチーナ』で、なぜかラーメンを食べていた。ここは一応イタリアンなのだが、警察関係者がほぼほぼの客なので、オーナー兼ママの小野道子は言われれば何でも作ってくれる。今羽間が食べているラーメンにしても、普段作っているフォンにパスタを入れて、焦がしニンニクとローストビーフをトッピングしたものだった。しかししっかりとラーメンになっている。それにツナと玉ねぎのピラフをつけて、豪快にかきこんでいた。

「ケンちゃんさあ、もうちょっとゆっくり食べたら?喉に詰まっちゃうよ。」

小野道子がカウンターの向こう側のキッチンから、ランチの仕込みをしながら声をかけてきた。いつもとは明らかに違って、不機嫌が服を着て歩いているように入店してきたので、最初から気になっていたのだ。普段は能天気と言っていいくらいの陽気な男だけに、それは気になる。

「・・・なんかあったん?」

しかし羽間は答えることなく、ラーメンをすすっていた。

「ちょっとケンちゃ・・・。」

「うるさいな!放っといてよ!」

羽間はテーブルを叩いて叫んだ。叫んだ後で、我に返った。

「・・・ごめん、ママ。俺、今日はちょっと・・・。」

「いいって。」

道子はキッチンを出て、羽間のテーブルにコーヒーを置いた。そして店のドアを閉めて、『ただいま休憩中。オーナー寝ております。起こしたら怒るよ。』といういつものクローズカードをぶら下げて鍵を掛けた。ここは話をじっくり聴く必要があると思ったのだ。警察関係者は、あれを見たら何も言わないはずなのだ。

道子は軽くため息をついて、羽間の前に座った。

「ちょっと・・・ケンちゃん、どうしたの?」

羽間は箸を置いて、涙していた。それもボロボロと、溢れるように。




「・・・ちくしょう・・・ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」

羽間は溢れる涙を拭おうともせず、下を向いて泣いた。道子はナプキンを羽間の近くに置き、一枚を取り出して羽間の顔を拭いた。

「どうしたのかねえ。署長に大目玉くらってもヘラヘラして食べまくっていたケンちゃんがこんなに泣くなんてねえ・・・泣くだけ泣いたら、話してごらんよ。」

羽間はナプキンを掴むと豪快に鼻をかんで、何回も顔を拭いた。しばらくの沈黙の後、羽間は少しスッキリした顔で道子を見た。

「ママ、ごめんな。」

「いいって。あんたがこんなになるくらいの出来事だもん。話さないといけないよ。」

羽間は両手の拳をギュッと握りしめて、ぼそぼそと話し始めた。

「今日・・・俺の初恋の子が・・・殺されたって知ったんだ・・・。」

「え?そ、そうなの?」

「ああ・・・それも・・・俺が・・・俺が・・・殺したようなもんなんだよ!クソーーーーーーーーーーーー!」

「ケンちゃん、落ち着きな!」

あやうくテーブルを壊しかねない勢いで拳を振り上げたので、道子は慌てて羽間の腕を押さえた。以前にバレーボールの選手だった道子の腕は長く、羽間の腕は振り下ろす以前でストップした。

「落ち着いて・・・ね。」

羽間の目からはまた涙が溢れ出してきていた。全身から怒りのエネルギーが発散していた。羽間の状態を見た道子の顔色が変わった。

「あたしが聴くって言ってんだ。性根据えて話しな。」

道子は以前、相当なヤンキーだった過去がある。本気モードの声には、凄味があった。この凄味があるので、警察関係者も道子の前では頭が上がらない。ヤバい連中を相手にしている警察関係者だからこそ、この凄味を理解できる。羽間は道子の変貌に、ようやく感情が静まってきた。

「ああ・・・そうだな・・・ありがとう、ママ。」

「うん、それでいい。感情に振り回されてちゃ仕事できないよ。」

羽間はとりあえず残りのラーメンとピラフをかきこみ、大きく深呼吸をした。

「ふぅ・・・ちょうど1年前に、俺が行真会の店を挙げたことは、ママ知ってるよね。」

「ああ、あれね。あんた、異常なくらい入れ込んで捜査してたもんね。あ・・・『ミステリーファイアー』・・・だったっけ?」

この一件には道子も少しばかり絡んでいた。ここでヤバくなった娘が知り合いだったので、あらゆる裏情報を仕入れて羽間に伝えていたのだ。

「あたしの知り合いは寸前で助けられたけど、その、あんたの初恋の人って・・・。」

「・・・胡蝶蘭・・・マキ・・・。」

道子は目を剥いた。

「あの子・・・あんたが追いかけた子じゃない!やられちゃったのかい!」

羽間と道子はこの件に関しては相当に情報を共有していたので、当然道子もマキのことは知っていた。しかしなぜそこまで羽間がマキに入れ込んでいたのかは知らなかった。

「そうだったの・・・それであんた、あそこまであの子に・・・。」

羽間は何回もミステリーファイアーに潜入捜査を行い、一度だけマキを連れ出すことに成功はしていたのだ。

「ああ。俺にはわかっていたんだ。だけど、知人捜査だってわかると俺は外される。だからそのことは伏せて調べていた。あいつ、小宮山祥子って言うんだ。中学で同じクラスでさ。当時から可愛くてね。生まれて初めてラブレター出したのがあいつだった。一回だけデートして、それで終わっちまった。でもあいつは不幸な女でね。元々がヤクザっぽい家庭だったんだけど、知り合いにレイプされて、それからは一直線に落下さ。中学の卒業式にはもうワルの匂いがしていた。再会したときには・・・あいつは容疑者で俺はサッカン・・・辛かったよ。名乗れないじゃん。でもきっとあいつ、わかっていたんだと思う。俺の聞き込みの時にはなぜか素直だった。俺には、あいつの目の奥に、あの頃の祥子の笑顔が見えたような気がする。やってたことはひどかったけどね。」

道子は軽くため息をつき、立ち上がってキッチンから茶を入れてきた。

「そうだったのか・・・辛かったね。捜査に加われないのは仕方ないけど、あの子のことを思うならやることはたくさんあるんじゃないの?いつもはあんたが突撃してるけど、今回はタカちゃんと入れ替わって情報を提供しなくちゃ。あたしも、目一杯やるよ。」

羽間は大粒の涙をこぼして泣き出した。声を殺して、ボタボタと落ちるような涙だった。道子はそっとタオルを羽間に渡し、羽間はタオルに顔を埋めて伏した。重く、濃密な気が店内に満ちていた。 


4 


「その名前、聞いたような気がするわ。」

「本当か?」

「ええ、以前に。ほら、タイの仏教学者クン・セーンカムよ。彼からそういうの聞いたような気がするの。」

かおるの部屋は、先日以来ハワイ一色になっていた。よほど気に入ったのだろう。何かの花の香があり、音楽はハワイアンだった。ちょっと休むために立ち寄ったのだが、日本ではないような部屋に変わっていた。部屋にはハワイで酒を飲んでいる時の写真が飾られていた。


いつか連れて行ってくれと言われるのでないかと、内心大山はビクビクしていた。クン・セーンカムは以前に、真如こと高岳親王についての知識と情報を、かおるに提供してくれた学者だった。大山は会ったことはなかったが、かおるから話は聞いていた。

あのときはアマビコというものを調べまわっていたものだ。

「で、なんだって?」

「ええとね・・・ちょっと待って。ええと・・・ああ、あった。」

かおるが本棚から取り出したのは『アマビコ』と書かれたファイルだった。そこからかおるは、一本のフラッシュメモリーを取り出した。

「これが音声ファイル。一応インタビューするときには全部記録するようにしてるの。聞いてみるから、ちょっと待って。」

かおるはフラッシュメモリーをノートPCにセットして、再生した。しばらく飛ばしたところで、かおるはストップした。

「このあたりからだったっけ。聞いてみて。」

場所は川北市にあるホテルカスケードのロビーなので、少しの話し声と足音とかがバックに聞こえていた。

「・・・かおるサン、私は真如さんのこと、少し知っていると思います。最近東南アジアですごい勢いのプラーナ・ペイチャックという教団があります。その指導者の一人、私の友だちね。ここはトリムールティを信奉しています。トリムールティとは三神一体のことです。トリムールティは、怒りと後悔、懺悔、仏の3つの顔を持っている、阿修羅のことです。彼らはいまだ神になりきれていない阿修羅を自分たちの力で正式な神にすることを目的としています。そのためには、悪い事でも認めてしまいます。彼らが一番いけないことは、アヘンを使うことです。真如さんも、阿修羅を確認したかったと言います。だから神の道を目指したと・・・。」

ここでかおるはストップした。

「あたしもすっかり忘れていたけど、真如さんって阿修羅の道を探ってたのね。そこでちょっとだけ聴いたのがこれよ。」

大山は腕組みして、かおるが入れてくれたコナコーヒーをグイっと飲んだ。うまいコーヒーだったが、すっかり冷めてしまっていた。

「阿修羅って聞いたことはあるな。腕がいっぱいある仏像のことだろ?」

「そう、これよ。」

かおるがPCで開いた画像は、少年のような初々しさが見える顔と憤怒の顔、悲しみの顔を持つ、腕が6本ある奇妙な仏像だった。

「語源はインド神話に登場してくるアスラ。アスラは生者ではない者という意味らしく、次第に魔族として扱われるようになっていったのね。元々はヒンドゥー教において、ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの三神はひとつとされているの。これをトリムールティ、つまり三神一体としている。だから、プラーナ・ペイチャックがトリニティを信仰しているのなら、たぶんにヒンドゥー教に影響されてるってことになるわね。」

毎度のことだが、こういうことを理解する脳を大山は所有していない。

「ええとまあ、要はこのプラーナ・ペイチャックが阿修羅を信仰しているってことだけはわかった。で、それからどうなるかって・・・。」

大山はかおるが不機嫌になったことを察し、慌てて話題をずらした。

「おっと、問題は行真会だ。この連中がプラーナ・ペイチャックの日本支部だとしてだ、なんであんな脅迫文を警察に送り届けてきたのかってことなんだよな。」

かおるは軽くため息をついた。いつになったらこういうことを理解してくれるのかしら、と思ったが、とりあえず頭を切り替えた。

「プラーナ・ペイチャックについては、あたしがもうちょっと調べてみるわね。でも本当に変よね。前代未聞だわ。警察はその脅迫状についてはどこまでわかってるの?」

「それが全くさ。何らかの陽動作戦なんだろうけど、それにしてもリスクが大きすぎやしないか。陽動作戦にしてもケンを狙ったものとも考えにくいし。」

「そうよね・・・まるで、ケンちゃんがいたら困るみたいに思えるけど。」

大山はコーヒーではなく、ビールをグラスに注ごうとしていたのだが、その手が止まった。

「・・・待てよ・・・ということは、ケンが持っている情報の中に、連中にとっては都合の悪いネタが入ってるかもしれないってことか?今回はケンを止めておく必要があるから、わざとああいった白々しいことをやってきた・・・。」

「あくまで可能性だけど、もう一度調査内容を調べ直す必要はあるかもね。」

かおるの直観には何度も助けられてきただけに、大山の反応は早かった。

「わかった!すぐやる!」

大山はビールを飲むと、すぐに立ちあがって部屋を飛び出していった。かおるは片付けをしながら、例のように北条政子としての考えが頭の中で動いているのを感じていた。

北条政子の魂は、異常なまでに反応していたのだ。これはあの良橋亀子のとき以来の感覚だった。しかしもっと生々しく、焦りも感情もあった。なんでこのような反応をするのだろうと、かおるは思った。

(北条政子にゆかりがあるものなの?)

そう思った瞬間に、かおるの頭の中で閃き、手に持っていたコーヒーカップが落ちて割れてしまった。

「ついに・・・ついに・・・この因果を断ち切るときが来た・・・ということ?大変・・・命懸けになるかも、ね・・・。」

かおるの脳裏に浮かんで来たイメージは、愛憎入り乱れた激しいものだった。良橋亀子など、今から思えばまだ軽い。これは、かおるが生涯をかけて払拭しなければならない因果以上のものだった。

かつて最上神インドラに歯向かい、戦い続けたとされるアスラ。本来ならば三位一体ではなく、アスラのみでひとつだったはず。インドラが当時の最高位とした場合、そこに挑む三位一体となれば・・・答えは一つしかない。

かおるは自然に結跏趺坐を組み、止観に入っていた。北条政子の力の源である、毘沙門天に思いを寄せた。力を与えよと願った。

かおるの念は次第に深くなり、天に通じる道をぼんやりと開きかけるところまでいった。もうすぐだという時に突然にすさまじい光の渦が、かおるの精神を直撃した。

「ぐ・・・ぐううううううう!」

かおるは態勢を変えることもできず、全身を固い力で締め付けられるような感覚に陥っていた。この光の渦には様々な感情が見え、激しかった。だが、それは明らかにかおるに、いや北条政子に助けを求めていた。

「お、おさまれ!」

かおるは必死に念を送り、鎮まり給えと願った。北条政子として、そして天台裏衆としての力を出そうともがいた。しかし全くその力は出せなかった。

どれだけの時間、そうなっていただろう。突然に光の渦は消え、かおるは結跏趺坐の態勢から一気に全身の力が解放されて一瞬立ちあがり、そしてそのまま倒れた。全身が痙攣し、血の気が引いていた。汗を大量にかいていたが、身体は冷え切っていた。

少しの間を置いて、かおるはふらふらと立ち上がってトイレに行き、激しく嘔吐した。ハアハアと喘ぎながら洗面台に行き、自分の顔を見た。

「・・・ひどい・・・顔・・・きついわ・・・。」

そしてベッドに倒れこみ、深い眠りに落ちていった。


5  


大山は川北署で、羽間と向かい合って大量の資料を整理していた。かおるの進言に従い、捜査情報の全てをもう一度洗い直そうとしていたのだ。しかしそれは容易なことではなかった。

「・・・おい、何かあったか?」

大山は大あくびをして、数杯目のコーヒーを不味そうに飲んだ。かおるのハワイコナコーヒーとはえらい違いだ。苦いばかりで旨みがない。

「すみません、先輩。今のところ何にも・・・全部本部に提供したものばかりです。一体どこにそんなネタがあるんでしょねえ。」

確かに、麻薬だ売春だという情報は山ほどあるのだが、それは大山ですら一度は見てきたことだった。格段に新しい情報などない。ましてや地方中核都市の川北というところは、大都会ほどの闇はない。どこかで誰かが繋がっていて、秘密などありえないのだ。もう3回は見直したはずだ。

「お疲れ様でーす。あれ、まだやってんですか?」

婦警の大進さなえが、帰宅するときに声をかけてきた。大進と書いて『おおすすみ』と呼び、全国的にも滅多にない名字である。丸顔で小柄で、さほどの美人でもないのだがアイドルチックな性格もあって人気者でもあった。

特に地域の年配男性からの評判が高く、当然ながらご婦人方の冷たい視線を一身に浴びていた。さなえは2人のテーブルに近寄り、大山の肩越しに資料を覗き込んだ。

「・・・おい、邪魔すんな。」

さなえの髪が顔にかかり、大山は迷惑そうに手で払いのけた。

「失礼しちゃうわ。見てもいいじゃないですか。」

「うるさいって。こっちは探し物が見つからなくてイラついてんだ。とっとと帰れよ。」

「はいはい。」

大山は大進さなえが苦手だった。妙に甘えてくるポーズをしてきて、しかも大山に気があるような素振りを見せるし、署内ではいつも噂の種となっていた。



「羽間くんも大変なことになっちゃったわねえ。なんであんなのが届いたのかしらねえ。みんな心配してるわよ。」

「あ、いえ先輩。自分は大丈夫っす。」

さなえは羽間よりも2年先輩である。

「じゃあ、可愛い女子は一人で帰宅いたしまーす。」

「ほいよ。」

帰りかけたさなえは、ふとテーブルの上の資料から少しだけはみ出した紙に目がいった。

「あら、これ・・・。」

さなえはショルダーバッグを横に置いて、その紙を手に取った。それはミステリーファイアーの宣伝が掲載された地方雑誌だった。見えたのはその表紙であり、川北周辺地域の特集をした地方情報誌だった。さなえは表紙をまじまじと見て、頷いた。

「おい、なんだよ。」

「ここ、先日行ったとこなんですよ。」

さなえが大山に見せたのは、最近全国的にリゾートホテルを展開している会社が手掛けた企画の宣伝だった。

『みんなで行こう KAWAKITAリゾートへ!』と派手に描かれていた。

「ふうーん、誰と行ったんだ?」

「嫌だあ、お友だちとですよ!彼氏とかじゃないですってば。あれ・・・さては先輩、やきもち?」

「お前なあ!いい加減にしろよ!帰れよ!」

大山は立ち上がって怒鳴った。

「きゃー怖い!失礼します!」

さなえは敬礼をして署を出ていった。

「全く・・・あれでメロメロになるおっちゃんの気持ちがまるでわからん。あーもう・・・うん?」

大山は投げ捨てようとした情報誌の、裏ページが目に止まった。大山の目に止まったのは、ミャンマーの文字だった。

「ミャンマーか・・・そういやプラーナ・ペイチャックはここが本拠地だったな。」

ほんの少しでも情報が欲しかった大山は、ため息をついてその広告を眺めた。

「お前、これ知ってたか?」

「どれです?」

羽間は大山から情報誌を受け取り、裏面の広告を見た。

「ああ、これは観光案内と投資を呼び掛けてんですよ。」

「観光はわかるが、投資だって?」

「ええ、先輩、ミャンマーの産業って観光だけって思ってません?」

「ああ、そうだな。」

「今や東洋のデトロイトって呼ばれているくらい、自動車産業が盛んなんですよ。」

「え、そうなのか?」

「そうなんですよ。ここの会社はミャンマーとコネがあるようで、よく広告出してます。あ、もちろんここは捜査済みで、全く何も問題ない会社です。ほら、先輩知りません?『姫野モータース』って会社。」

「姫野モータース?ええと、聞いたことあるな・・・あ、キャンピングカー製作会社のことか?」

「そうそう。あそこの2代目が俺の連れでしてね、最近では自分とこの改造車をミャンマーで安く製造したいって言ってました。自家製造だけだとシェアが広がらないそうで。」

大山は羽間の説明を聞きながら、妙な胸騒ぎがしてきていた。このザワつきが、ここしばらくの間に、ちょくちょく出てきていた。先日の石油騒動のときにもそうだった。大げさに市庁舎爆破なんて仕掛けをしておいて、実は地下で石油が発見されたという変な事件だったのだが、そのときに最初に感じた妙なザワつきがこれだった。尾加田絡みのややこしい事件と言うこともあったが、妙に勘が働いて事件は解決できた。

今回は、あのときの数倍強いザワつきだった。何かあるはずだ。

大山は確信めいたものを感じた。

「おい、ケン。ここに関する情報を集めよう。」

「ここって・・・姫野モータースですか?いやだからここはシロですって。」

「いいから。とにかく調べろ。ミャンマーから何から、ここに関するもの全てだ。現場へは俺が行く。お前は後方支援で。いいな。」

羽間は少し不満そうだったが、糸口は絶対にここからのはずだ。刑事としてのキャリアがなせるものだと大山は思っていたが、そうではなかった。かおるがかつて言った『伝えるべきこと』を、大山は徐々に受け入れる体質となってきていたのだ。


6  


かおるは愛車のピンククラウンを飛ばして、県北にある康安寺とまほろば堂を目指した。ここは以前に「アマビコ」のことで尋ねた、春道和尚がいるところである。

賢明なる読者はすでに気づいていると思うが、春道はすでにこの世界の住人ではない。康安寺ではなく、すぐ近くにある「まほろば堂」にその魂はあり、かおるのような裏衆もしくはその他特別な力を持っている者にだけその姿が見える。

康安寺はかつて西南戦争の際において、戦火を逃れている。康安寺を守護していた八神によって守られていた。迦楼羅、緊那羅、天部、龍、夜叉、乾闥婆、摩睺羅伽、そして阿修羅を八神と呼び、仏を守護する最強守護神である。

その阿修羅が、どうやらこのときとは違った形で復活してきたのだろうか。かおるが知りたかったのは、このためだった。

やがてかおるは康安寺の駐車場に着いた。深々とした木々に囲まれた康安寺は、相変わらずの最強霊場でもあった。

「すごいところね、相変わらず・・・。」

多少弱っていたかおるの肉体も精神も、みるみるうちにエネルギーがチャージされていくのがわかった。かおるは康安寺に一礼し、まほろば堂に向かって歩を進めた。まほろば堂は雑木林に囲まれた場所にあり、地域住人でなければ見過ごしそうな小さな堂だった。

かおるが近づくと、急に中が明るくなったように感じた。

「はあ・・・これも変わらず、か。永遠のエロ爺様・・・。」

「誰がエロ爺じゃ!」

かおるにしか聞こえない声が、響き渡った。かおるは堂の扉を開き、中に入って扉を閉めた。

「おおおおお、よく来たなあ。どれ、もう決意したじゃろう。わしの愛人に・・・。」

「なりません。」

中には小柄の爺様が座し、酒を飲んでいた。

「なんでそう冷たいんじゃ?わしが何か怒らせたか?」

「怖いおば様からきつく言われてるの。」

かおるが指さした先には、火燵に入って猫を撫でている老婆の姿が映し出された。

「ば・・・馬鹿者!婆さんに気取られるではないか!」

春道は慌てて手を振り、老婆の姿は消えた。

「摩睺羅伽のヒサおばさん、あたしがあなたに会う度に怒ってるのよ。絶対になびくわけがないって言ってるのにねえ。だから、もう言わないで。あたしが迷惑なんだから。」

春道は深くため息をついた。

「樹香にもフラれ・・・わしの恋はいつ成就するのかのう。」

「樹香のお姉さまが?当たり前でしょ。龍神を舐めたら怖いわよ。」



樹香とはかつて、まほろば堂の山の上にあった高霊院という庵の主であり、龍の化身である。かおるはかつて裏衆として鞍馬で修行した折、龍の化身によって導かれたことがあった。その姿はこの世のものとは思えないほどに美しく、傍に立つ屈強かつ優しい乾闥婆の姿と相まって、かおるには理想の男女に見えた。

「もうね、天部なんだからもうちょっとしっかりしてよね。今日はちゃんとしたお仕事なのよ。」

「毘沙門天も強いからのう・・・で、何じゃ。」

「わかってるでしょ?」

「まあな。阿修羅のことじゃろ。」

「そう。どうなっちゃったの?」

春道は右手であたりを払う仕草をした。すると狭かったはずの堂の中が急に広くなった。狭いのはこの次元に合わせて見せているだけで、実際には無限の広さを持っている。春道の背後には7個の光る球があり、それぞれが違った色を発していた。

「阿修羅は、ここにいた。」

背後の光球のひとつだけが、明るさが落ちていた。

「いたって、いつまで?」

「つい先ほど・・・おっと、この世界では100年ほど前にな。」

春道のいる次元には、本来時間というものはない。相手をする相手の次元によって変化させているだけなのだ。

「お主たちの感覚で申せば、そのくらいからじゃ。」

「どうかしたの?」

「どうかした、か。お主も存じておるじゃろう、阿修羅の性を。」

春道は、今度は持っていた杖で上空を示した。そこには、邪悪な存在を駆逐する迦楼羅と八神の姿があった。気の遠くなるような長い年月を経て完成された神の姿、すなわち明王となった八神と、同じく長い年月の間に肉体を持った悪魔、蛇骨との対決している映像だった。

「この戦いの後に、神の性を持った者たちは普通の人間になり、それぞれの道を歩んでいった。わしのように、いつでも裏衆の相談役となって残った者もおるがな。たとえばこの洋太郎とさよは夫婦になって、今はひ孫たちが東京で過ごしておる。迦楼羅と緊那羅の性は、今度は別の系統に移行しておってな。いつかまた明王となることじゃろう。で、阿修羅じゃ。この性は非常に辛い。何せ最後の伝承者は、巨大猪に食われることによって初めて阿修羅明王となれた。じゃが、その猪ももう死んでおる。阿修羅の性は、一時期はここにおったのじゃが・・・強い力に吸い寄せられてな。こうなってしもうた。」

「哀れよね・・・で、その強い力って、やっぱり・・・?」

「そうじゃ、お主たちがこの世に生まれたときから、その力は動き出した。」

かおるは春道の言葉で確信した。先日の、あの猛烈な強い光の力を感じたときに、すでにおおよそのことはわかってはいた。だがしかし、それがいざ現実のものとして目の前に現れるとなると体中を駆け回る震えをどうしても抑えることはできなかった。

「やはり、あの方々は私たちを追ってこられたのよね・・・。」

いつもは飄々とした姿の春道が、一瞬険しい表情を見せた。

「致し方あるまい。お主たちの此度の転生は、そもそもがこの因果を消すためのものじゃ。これまでの転生においては、それは別の意味があった。じゃがのう、いつかは消さねばならぬ定め。それがお主たちなのか、それともあの連中なのかは・・・わからん。どう扱うかで、今後のお主たちの道も決まる。心して、臨むしかあるまい。」

「ええ、わかっていた。いつかはそうなることは。でもそれが今・・・本当に色んなことのケリをつけなくちゃならないこと。そしてタカちゃんも・・・。」

「あの男とも、わしは会わねばなるまい。それがどういうことか・・・。」

春道の声は重くなっていた。

「場合によっては、わしは八神のいずれかを呼び出さねばならぬかもしれん。」

「そんなに?」

「それほどのことじゃ。」

裏衆は28の神々の性を持っているが、八神の力は残り20の力を結集しても敵わないほどの存在である。かおるの全身に緊張が走った。

「覚悟は・・・できている。あの人の目覚めも近いのね。」

まほろば堂の周囲には風が吹いていた。それは力強く、恐れを感じるほどの力を秘めていた。


7  


姫野モータースは広い丘陵地域の、丘に囲まれた谷にあった。この地域は康安寺から少し離れた場所にあり、農業が多い中にあって地域の商工会などの役員などを多く行っている芽野卓三が会長であった。今では息子の吐夢が社長職を継いでいた。新車も販売してはいるが、主な業務は改造だった。軽トラックや普通乗用車をキャンピングカーに改造して販売しており、全国でも有名な会社でもあった。

「ここか・・・。」

大山は専用車から降り、会社を眺めた。広い敷地に何台もの改造車や改造前の車がずらりと並び、奥には大きな工場があった。大工場ほどではないが、山間にある施設としては圧巻と表現できるものだった。

急激に成長した企業ではなく、徐々に安定した成長を成してきた地元でも有名な優良企業だった。きれいではないが、よく整備してある工場の事務所のインターホンのボタンを、大山は押した。

インターホンから、中年女性の声が聴こえてきた。

「はい、どなたでしょう。」

「川北署の大山と申します。少しお話を聴かせていただけませんか。」

ざわざわとした声とガタガタと何かを片付ける音がして、事務所のドアが開いた。

「ど、どうかしましたか?」

出てきたのは眼鏡をかけた初老の痩せた男だった。大山はまず警察手帳を見せ、挨拶した。

「お手数をおかけします。別件で事件がありまして、このあたりの聴き込みをしているとですよ。お時間ありましたら、お話をお聴かせいただきたいと思いまして。」

男は軽く安心した表情を見せた。

「そうでしたか。いや、手前どもに何か落ち度があったかと思いました。よかったです。ささ、どうぞお入りください。」

大山は事務所と応接セットが一緒になったスペースに案内された。

「申し遅れました。私は弊社専務の後藤と申します。」

後藤は茶を入れさせ、名刺を出した。

「後藤詳造さん・・・ですか。よろしくお願いいたします。」

大山はソファにゆったりともたれかかり、緊張していないことを示した。こういう場合、身を乗り出したり眼光鋭かったりしては全く効果がない。オープンな気持ちを全身で表現することで、相手の警戒心は半減する。大山は目の前に置かれた茶と、まず一口飲んだ。

「いやあ、すみませんね。仕事柄聴き取りしなければならないことが多くて。あー、うまい。」

大山の態度に、どこかおどおどしていた後藤の態度も一気に軽くなった。企業とは企むことを生業にしていると書くように、叩けば何かしらのことは出てくるものだ。決して後ろめたいものではなくても、やはり緊張する。


しかし明らかにそうではなさそうだったので、後藤の顔にも笑みが浮かんだ。

「私ども、警察の方がお越しになるようなことは一度もございませんでしたので、いらぬ緊張をしてしまいました。で、何の調査なんでしょうか?」

「はい。今調査している内容についてはお話できませんが、ミャンマー関連とだけ申し上げておきますね。」

「ミャンマーですか?それはまた・・・このような田舎で調査するようなことで?」

「いえね、全く何の情報もないものですから、とりあえず私どもの管轄内で関連ある企業さんや個人を訪ね歩いていると、そういうことです。」

「・・・なるほど、それでわかりました。確かに私どもの取引先にはミャンマーの会社もございます。」

「何でも構いません。ちょっと気になることとかありましたらお伺いさせていただけませんか。」

「わかりました。なんでもお話しいたしますよ。」

安心したのか、事務所内の雰囲気が徐々に良くなってきた。大山自身がここには問題ないと感じていたので、こうなってもらう必要もあった。大山は茶を飲み干し、後藤に質問を始めた。

「まずですが、そちらのミャンマー現地における情報からお伺いしてもよろしいでしょうか。」

後藤は頷き、資料を持ってこさせた。

「私どもの会社は、ご存じのようにキャンピングカー改造が主です。海外においては、中国、タイ、ベトナム、ミャンマーに事業所を置いております。国産車の販売は特には現地で行っておりません。各メーカーさんが頑張っておられますのでね。私どもは、現地の方が乗っておられる車を改造修理して、再生利用できるようにする事業展開を行っております。日本車に限らず、外国産の車も改造しておりまして、高級車感あるものにしたりしております。一番の売れ筋は、より多くの資材を搬送できるように改造することです。用途に応じて行いますので、徐々に需要も増えてきております。」

後藤が見せてくれた資料の中には、改造した車のサンプルなどもあった。

「なるほど、これなら現地の方も喜ぶでしょうね。」

「はい、仰る通りでございます。今ご覧になっておられるものは、現地価格で700万チャット、日本円にして50万円でこれだけのものが作れます。一般普及というところまではなかなか難しいですが、首都のネピドー及び周辺が主なお客様となっています。さすがに首都周辺以外ではこの価格では無理ですが、資材調達が廉価でできるものですので。」

「首都以外では困難ということは、経済的に?」

「はい。経済的なものや、安心面ですね。なにぶんにもミャンマーという国は、いまだに各部族が根強く割拠しておりまして。だからあのような軍政でなければ治まらなかったというのも現実でございます、はい。」

ミャンマーという国は、常に国外からの侵略と独立の歴史だった。かつては戦前の日本も独立に手を貸したことがある。だが軍政はベトナム戦争や中国の台頭などによって社会主義色を強くしていき、少数部族などが圧迫される事態となった。

この時代は非常にカオスな時代であり、台頭してきたのは麻薬生産によって経済力が大きくなったシャン州の民族であり、彼らのマネーによって支えられたビルマ共産党は別名『麻薬政権』と揶揄されるほどだった。

ビルマ共産党は後にビルマ連邦と名称を変え、国際政治の中での批判を浴びて政党政治を実施したが、それこそ数百もの政党が割拠するカオスっぷりとなった。混乱を経て、現在では一応の国内安定を見せてはいたのだが、軍部の暴走も発生していて世界中から批判されている状態である。

「すると今でも麻薬が蔓延している・・・と?」

「当局は取り締まりを強化してはおりますが、何せそれで国が維持されていた歴史さえあるものですからねえ。私どもも気をつけてはおるところではございます。特に、北のカチン州やシャン州は事実上独立しておりますし、西のラカイン州では非常に危険です。どうしても首都周辺にならざるを得ないのですよ。」

やっと麻薬というキーワードが出てきた。大山は麻薬だから関心があるという風に尋ねた。

「麻薬!そう言えば聞いたことがあります。確か麻薬で成り立っている地域があるとか。」

「そうそう、それなんですよ。通称黄金の三角地帯て呼ばれていたところがそうです。今では合法なビジネスを行っておりまして、私どももかなり気を付けてはいるところです。ですが、いくら気を付けても、致し方ないと申しますか・・・あ、私ども日本人は徹底しておりますよ、もちろん。」

後藤は慌てて右手を激しく振った。そこで突っ込まれてはいけないと思ったのだろう。大山はわざと苦笑いして応えた。

「わかっておりますよ。そちらの悪い話は聴いておりません。しかし、致し方ないと申しますと?」

「はあ・・・現地の方は当たり前のようにやっておられる人が本当に多くて。そのような方が私どもをご利用したいと申されますと、まあ、ご存じのような展開になる場合もございまして・・・。」

支払いその他のトラブルが頻発していることは容易に察することができる。

「なるほど。しかしそれ以上に需要があるので現状はそのままということですね。」

「はい!おかげ様で。しかし問題も山積です。特に宗教絡みでは色々と。」

麻薬に宗教・・・確実に真相に近づいてきていると大山は感じた。しかしここで気を許すわけにもいかない。

「宗教?」

「はい、最近ですと、ロヒンギャというムスリムの少数民族が虐待されて国外脱出したというニュースもあります。ミャンマーでは大部分が仏教なものですからね。それに最近よく耳にするのが『プラーナ・ペイチャック』という新興宗教です。」

思いがけず、あちらの方から名前が出てきた。

「なんですか、それ?」

「はい、最近信者が多いところで、元々は仏教らしいのですが、インドのアスラとか言うものが仏の真の姿だとか何とか。私どもの現地会社にも信者がいるそうです。」

「アスラ?訊いたことあるような・・・。」

「そうかもしれませんね。日本では阿修羅とか言われている仏像のモデルです。3つの顔を持っていて、キリスト教のように三位一体が世界の姿であるとか。まあ、私どもには信者は今のところおりませんが、聴いた話ですと麻薬のようなものを焚いて、幻覚を見せて入信させるとか。いやはや、とんでもないですなあ。ですから私どもでは踏み絵と申しますか、それなりのチェックを行い、日本人以外とは接しないように教育は行っております、はい。」

大山の勘は、ここは完全にシロだと言っていた。説明しながら大汗をかいている後藤には、裏があるようにも思えなかった。となれば、ここで行真会のことを出すのはまずいだろう。大山は捜査協力に感謝しますと伝え、姫野モータースを後にした。

おそらく、宗教自体は問題ないだろう。ただその流派に関しては問題だ。信者が運び屋になっても当然だろう。となると、次に捜査するのは麻薬と、流派についてだ。

大山は次に行くところを決め、向かった。


8  


羽間のような体育会系の人間には、現場で動けないというのは本当に辛い事だった。動きながら考え、情報を得るというスタイルでやってきていたので、デスクワークというものをやらざるを得ないこの状況は拷問に等しかった。

デスクワークが苦手であるということは、当然ながら整理もできないと言うことになる。羽間の机は書類や本が山積みにされていて、何がどうなっているのかまるでわからない状態だった。

「があー!クソクソクソ!やってらんねーつーの!コンチクショー!」

羽間は立ち上がってシャドーボクシングを始めた。こうやって何も考えないで体を動かすということが、本当にいいなと思っていた。段々調子が出てきて、今度は空手の突きと蹴りをやりだした。

(これこれこれ、これがないと頭がおかしくなるんだよなあ)

そして過去の大会で負けていたライバルの姿が目の前に浮かんできて、思いっきりムカついたので、渾身の突きでライバルの顔面を突いた。

「デイリャー!!!!!!!」

「ンギャー!」


女性の声がした。羽間は我に返って見ると、あの大進さなえが尻もちをついていた。

「え?先輩、どうしたん・・・。」

「どうしたもこうしたもないでしょー!何で人の顔面にいきなり突き入れてくんのよ!あたしがよけなかったら、この可愛い顔がつぶれてあたしのファンたちがどんだけ苦しむと思ってんのよ!この筋肉馬鹿!」

この先輩にそんなにたくさんファンいたっけと思いながら、羽間は手を差し出した。

「なんだ、そこにいたんですか。何です?」

「何です・・・ですって!用事なかったら来ないわよ!」

「だから何ですって。」

さなえは羽間の手を振り切って、汚いもので触られたかのように服で手を拭いた。

「本っっっっ当に馬鹿なんだから・・・いい加減に文明化してよね。・・・これ、見て。」

さなえが差し出したのは、何かのコピーだった。

「これは?」

「行真会が関与したと思われる資料よ。本庁に行って調べてきたの。たぶんこれ、ケンちゃんが関わっていない案件ばかりのはずだからさ。」

「え?先輩、わざわざ調べてくれてたんですか?」

「あのさ、ケンちゃん知らないだろうけどさ、アンタのイライラが署内に伝わってんのよ。だから署長が手伝えって命令してきたんじゃないの。もーね、普段署内にほとんどいない筋肉お化けがいるだけで暑苦しいのにさ。こんなに机の周りグッチャグチャに汚しちゃってさ。それで署長がそう命令してきたってわけ。なんであたしがよ?この川北でも珍しいアイドル女性警警がよ?こんなラスボスみたいな筋肉妖怪の手伝いしなくちゃなんないのって話でしょ!そう思うでしょ!」

さなえは自分よりもずっと上にある羽間の顔を見ながら一気にまくしたてた。身長差は40センチほどもあった。さなえも羽間も気づかなかったが、署内にいる人間は、皆な必死で笑いをこらえていた。さなえの声は隅々にまで響き渡っていたのだ。

自分ではアイドルを自任していたが、ほとんどの署員はコメディアンとして見ていたようだ。しかもゲームオタクでもあるので、いちいち表現が大げさであり、言葉の端々にオタク用語が出てくる。おそらく山内署長も、いいコンビだと思って共同でやれと命じたであろうことは容易に想像できる。

しかし羽間も典型的な体育会系である。単純に、自分を手伝いにきてくれたと思った。

「せ、先輩!俺、嬉しいっす!」

羽間は深々と頭を下げた。

「あ・・・う、うん。」

さなえは拍子抜けして肩をすくめて戻ろうとしたが、羽間の壮絶な机を見て眉間に皺を寄せた。

「さっき署長が資料室を使っていいからって仰ってたわね・・・あ、ちょっと待って。」

さなえが見た先には、山内が立っていて左指で資料室を指差して、右手でピースサインをしていた。2人でここに行けということだった。

「署長の許可出たわね。しばらく資料室をケンちゃんとあたしの作業場にしていいってことね。」

「俺と先輩の・・・って?」

「つ・ま・り!一緒に仕事しろって改めて命令されたってえの!わかった?」

山内からしたら、何かとうるさい人間2人を組ませておけば署内が平和だとでも思ったのだろう。

「わっかりました!」

羽間とさなえは、あらゆるデータを資料室に運び込み、ドアを閉めた。閉めたとたんに、署員も来客も、果ては逮捕者までが笑い出した。妙な平和感が署内に充満していた。

さなえが県警で得てきた資料は、過去における行真会のデータだが、かなり細部にまで踏み込んだものだった。組員一人一人の細かいデータがぎっしりと書かれており、そこに出てくるキーワードに関するものまで網羅してあった。

羽間は資料室に隣接してある閲覧室を占領して、それまでの資料をさなえと分類した。その整理が終わるのに丸々1日を費やし、そこにさなえが持ってきた資料を追加。結局丸2日必要だった。

「さあて、やっと終わった・・・ってとこだけど、先輩、俺、どうにも腑に落ちないんですよ。」

「何が?」

「うーん・・・変じゃないですか。」

「だから何がよ。」

「俺がこれまで調べてきた内容と、本庁の内容が違いすぎません?そりゃあ範囲が違うっちゃ違いますけど。」

羽間は行ってきた捜査は、行真会の新興暴力団としての内容だった。内容は、いわゆる暴力団がやってきたことばかりだった。その中のひとつとして、胡蝶蘭マキのことがあったというだけだ。

「確かにそうよね。本庁の資料は海外関係ばっかり。まるで、ここでわかることは川北市内のことだけで、本庁のは異次元の内容みたいね。」

「でしょう?ジャンルが違いすぎて・・・これをひとつにまとめて考えろって言われても、どうにもピンと来なくて。」

「本庁のって、まるで国際警察の資料みたいね。東南アジアや中国、インドネシア、メキシコにまで及んでる。ケンちゃんの資料は、本当に馴染みある地名や事項ばかり。当たり前なんだけど、少しも重なる部分がないわね。違和感あるわ、確かに。」

「これ、誰がメインで捜査したんですかね。」

「ええと、ここに書いてあるわね・・・執枝拓馬・・・麻薬捜査官・・・国際?え?国際的な麻薬捜査なの?」

整理してみると、くっきりと違いが鮮明になってきていた。まるで別件のようにも感じる内容だった。しかも違和感はさらにあった。

「行真会の構成員って・・・たった10人。準構成員もいない。本当にこれだけなのに、資金はかなりある。それがこの海外からの資本ってことなの?」

「先輩、それだけじゃないんですよ。俺が捜査したとき、本当に様々な妨害があったんですけど、それってこれだけの人数でできるこっちゃじゃないです。ちゃんと組員の居場所を押さえてあるにも関わらずですよ、数人で襲撃されたりしてたんですから。」

「・・・ってことはよ?普通に入国できていた海外の旅行者がやってたってことになるんじゃない?どこの犯罪者リストにもあがってなかった人たちが協力したってこと以外考えられないわよね。」

しかしそれはまず考えにくいことだった。日本の入国審査は世界屈指の厳しさである。少しでも犯罪歴がある場合、徹底的にマークされ、よほどのことがない限り入国は難しいとされている。

水際でのチェックも厳しい。海からの入国もまず考えられない。

「これ・・・簡単ではないですね。俺たちだけでやれるのかな・・・。」

羽間はさなえの顔を覗き込んだ。さなえも同じことを考えていたようだ。

「・・・そう・・・かも・・・ね。」

事件は複雑さを感じさせ、謎も多そうだ。


9   


かおるからの電話で、それが突拍子もないことであることは、大山はすでに慣れていた。いきなり鎌倉だ、ハワイだとすぐに飛んで行く。それと最近では、妙な勘が出てきていて、今鳴っている電話もそんなものだとすぐにわかった。無視するわけにもいかず、大山は覚悟を決めてスマホの着信アイコンに触れた。

「ほいよ、またどっか行ってくんのか?」

少しの間があった。

『・・・タカちゃん、どうしてわかったの?あたしが今から岩手に行くってこと。』

「なんだ岩手かよ・・・って、岩手?東北?」

驚かない覚悟はできていたのだが、意外性には慣れない。

『うん、岩手。それから鎌倉、岐阜、下関を回って帰ってくる。』

「えらく回るな。鎌倉は実家があるとして、仕事で?」

『まあ、そんなとこ。1週間くらいいないと思うのよね。何かあったら、メッセしてね。じゃあね。』

大山とかおるの間には、相互不干渉の関係ができていた。お互いに何をどこでやろうが、一切干渉しない。一見自由そうなのだが、それは無意識で縛られていることをも意味する。

大山はスマホのアイコンを押して電話を切り、再び行真会の捜査に戻った。姫野モータースでの情報は、深くはなかったが確信できるものだった。というわけで、大山が次に向かったのはプラーナ・ペイチャックの教義に関することだった。

どう考えても宗教が絡んでいる。それも簡単なことではなさそうだ。執枝拓馬は国際ネットワークまで扱う麻薬のプロだ麻薬と宗教が組んでいるとなるとえらいことだ。

大山はこの段階では羽間たちの捜査内容は知らなかったのだが、より本質に近い部分に近づいていたのだ。行真会のあの脅迫状など、単なる陽動作戦であることは間違いない。しかし陽動作戦だとしても、大山は何か別次元のところで引っ掛かる。あの妙な勘だった。異常性格者が勝手に適当に書いた妄想なのかもしれないが、大山の勘はそうではないと言っていた。

これにはそう簡単ではない何かがある。それを探るにはひとつひとつ当たっていくしかない。大山が向かったのは、知り合いの仏教研究社のところだった。

川北市内にある仏教を教育の柱とする新合高校の舘平鑑真にアポを取っており、教務室に入った。ノックして入ると、そこには細身の男が座っていた。

「よお、タカ。元気にしとったや。」

「相変わらずたい。同窓会ぶりやね。」

舘平の家は浄土宗の寺であり、名前を見れば親が鑑真信者であることがわかる。

舘平も住職ではあるのだが、仏教研究社として学会では名を知れた存在でもあった。

「そうやな。刑事さんも大変そうやね。」

「まあな、今日はその一環だよ。いつ髭伸ばし始めたんだ。髭坊主。」

「かみさんが伸ばした方がいいって言うもんで・・・かみさんのご威光には逆らえんだろうが。」


元平はここ5年ほど伸ばしている顎鬚があり、口の悪い同級生の間ではそう呼ばれていた。

「で、何を知りたかとや?」

「ああ・・・知ってるよな、プラーナ・ペイチャックって。」

その名を出したと同時に、舘平の顔色が変わった。

「とうとうやりやがったのか!」

「と、とうとうってお前・・・え?ちょっと待ってくれよ。ここ、そんなに仏教界でも悪いところなのか?」

もちろん麻薬を扱うところである。まともとは思えなかったのだが、舘平の驚き方はちょっと違った。

「いや、少なくとも現在では何も。だけど、ここは危険だ。宗教界では結構有名なところだ。」

「と言うと?」

舘平は立ち上がって本棚に向かい、一冊の本を取り出した。それはヴェーダ神話の本だと舘平は説明した。そしてページをめくり、目当てのページが出ると広げて机に置いた。

「ここを見てみろよ。」

舘平が指さしたところには、付箋をつけられた部分があった。

「ええと・・・およそヴェーダは4つに大別される。唱えるべきサンヒター、祭事と神を語るブラーフマナ、教え考えるべきアーラニヤカ、哲学のウパニシャッドである。さらに、古の物語たるプラーナを・・・第5のヴェーダとし・・・プラーナってそういう意味なのか。」

「そうだ。ヴェーダは『知識』、プラーナとは、意味はちょっと違うが、イメージとしては『旧約聖書』だと思えばいい。新約聖書と同等のヴェーダを基準に考えるとそうなる。これをある程度完成されたものと考えるんだ。このヴェーダが・・・つまり様々な書物のことだが、キリストの生涯を描いた新約聖書であってキリスト教のベースと考えればな。プラーナは、どうやってインド古代の神々がヒンドゥー教に取り込まれていったかを考えるものなんだ。」

「じゃあ、プラーナ・ペイチャックって意味は・・・?」

「そう。そのプラーナを信奉する会という意味になるし、事実そうなんだ。だけど、そこが一番の問題でな。」

「え、どういうことだ?」

舘平は黒い役員椅子に座り、好みのバハマ葉巻に火をつけた。煙をくゆらせて、そこに映像が映し出されているように話し始めた。

「プラーナっていうのは、古代インドのバラモン教時代に原型ができて、それがヒンドゥー教に変化していく1000年の間に、実に様々な要素を取り込んでいって、現在の姿になった。マウリヤ朝からクシャーナ朝というバラモンの時代から、グプタ朝によるヒンドゥー教の誕生、そしてバクティ朝にいたる過程でインドの世界観、宗教観は完成していった。社会には厳格なカースト制が確定されていく中で、思想だけは自由になっていった。その自由の中でできあがっていったものがトリムールティって奴でな。」

「ト、トリムールティ?さっきから全然わからん単語が出てくる。もうちょっと一般人にわかる話をしてくれんか。」

「・・・これでもずいぶんわかりやすく言ってんだぞ?つまりだ、4つの階級で縛られている社会の中で、思想だけは自由になっていって、その中で3つの神が実はひとつだと考えられるようになったってことだ。」

「それがその、トリムールティってことなのか?」

「ああ。ヒンドゥー教の三大神というものがある。宇宙創造ブラフマー、宇宙維持ビシュヌ、宇宙破壊シヴァというが、これは元々ひとつのものだったというものだ。つまり、3体の神が一つということで、三神一体、これがトリムールティだ。」


大山は、最後のシヴァだけはわかった。

「シヴァは知っているぞ。こないだ、そういう事件があってな。日本では大黒天って言われているんだろ。」

「少しはわかるようだな。プラーナ・ペイチャックの連中は、バラモン教こそインド本来の宗教だと主張している。ヒンドゥー教というのはインダス川流域から発生して輸入されたものであって、これが神を3体に分けた原因だと。つまり、もっとわかりやすく言えば、破壊と創造を行って維持することはひとつだと。」

「・・・ちょっとずつわかってきたぞ。何が危険なのかって。」

「そうだ。破壊は文字通りテロだ。創造は新世紀を作り出すことで、それを維持する・・・テロによって世界秩序を変え、バラモン教で世界を永遠に支配すると解釈されても仕方がない。お前さんも知ってる通り、どんな宗教でも原理主義というものは危険極まりない。そもそも宗教の意味は、概念的な神というものを背負うことで罪の意識を軽くし、あるいは重くして社会を維持すると共に、他宗教を信奉する異民族を悪とすることで征服欲をも満足させるという、古代においては至って便利な代物でな。プラーナ・ペイチャックの連中は言ってみればバラモン教原理主義ということになる。我々宗教界では原理主義を可能な限り排除する方向に向かっている。しかしこのあたりの麻薬経済というものが根底にある以上、原理主義が発生することを止めるのは難しい。」

つまりは、思想的、宗教的にも原理主義という存在は、そもそも危険だということなのか。

「宗教界では、すでに問題になっているのか?」

「ああ。まず、急速に拡大している宗教というものは危険だ。他宗教に満足できていない連中が集まるわけだろ?それは、あの地域では即社会不満に通じる。必然的に不満分子を抱えての出発となる。お前も知っているだろ。イスラム国のことを。」

それは大山も知っていた。イスラム過激派であり、かつ原理主義だったイスラム教至上主義の集団だ。

「つまり、そのアジア版ってことか。だとしてもだ、それがわかっていながらどうして宗教界では何とかできないんだ?」

「経済力、だな。」

「カネか。」

「麻薬経済がどれだけ恐ろしいか。犯罪集団は、犯罪集団と結託する。暴力集団に対抗できるか?」

「・・・確かにな・・・。」

行真会のことは捜査上のことでもあり、一切他言できない。大山は舘平との対話の中で、多くの情報を得ていた。行真会のやり方は決して甘いものではない。背後に不満分子を多数有するプラーナ・ペイチャックの存在がある以上、単なる陽動作戦と言うことだけで片付けるわけにはいかなさそうだ。

「で、プラーナ・ペイチャックの頭というか、教祖ってのは、一体誰なんだ?」

「誰も会ったことはないので正体は不明だが、名前だけはわかっている。ウ・マオン、ソウ・ミャ、ネ・エイとなっている。だが彼らが実在するかどうかもわかっていない。適当につけただけかもしれないし、そこらの農夫の名前を出しただけなのかもしれない。一切が謎なんだ、そのへんは。ただ・・・。」

「ただ?」

「彼らのさらに上に、まるでキリストのエホバ、ムスリムのアッラー、仏教の大日如来に匹敵する存在は確実にある。」

「それは?」

「キング・アスラだ。」

「アスラって、阿修羅のことだろ?」

「そうだ。トリムールティこそアスラ。アスラこそ破壊と創造と維持の化身。連中の教義は彼とひとつになること。そしてそのために儀式として用いられるものが・・・。」

「麻薬、か。」

大山は次第に、プラーナ・ペイチャックの輪郭が見えてきた。行真会の一件意味不明な行動や資金源全てにおいて、これで一貫性が出てきた。大山はこの得体の知れない組織とどう向かい合うべきなのかを考えていた。 


10  


飛行機から降りたかおるを、まず寒さが襲った。九州では蒸し暑かったのだが、ここ宮城では九州に住んでいる身からすると寒く感じた。

「ちょっと冷える・・・この寒さ・・・慣れないわね。」

東北の人たちからするとやはり暑くてしょうがない気温なのだが、九州の熱さとは比較にならない。おおむねこの季節に東北で薄手のセーターを着ているのは、大抵九州沖縄の観光客である。

かおるは肩をすくめ、仙台空港から出てタクシーに乗った。東北のおみやげに少し心が動いたが、今回の旅はそんなものではない。いずれゆっくり来て牛タン食べたりおみやげ買ったりしようと、かおるは心に決めた。

向かった先は、栗原市。距離はかなりあるのだが、慣れない土地に行くにはタクシーに限る。

「お客さん、栗原のどちらまで?」

 もうすぐ定年かと思われる男性ドライバーが声を掛けてきた。

「判官森経由で、平泉までお願いします。往復で。」

「平泉まで?お客さん、どちらの方?随分遠いですけど、大丈夫ですか?料金かかりますよ。」

「あたしは九州ですけど、土地勘ないのでお願いします。」

岩手の県南から県北にまでの遠出である。料金かかることは承知だった。ただそれよりも、仙台空港に着いた瞬間からずっと消えることのない動悸が気になっていた。仕方ないこととは言え、その意味もかおるは理解していた。

「わかりました。参りますね。」

やや岩手アクセントのある標準語で、ドライバーは発進した。タクシーが移動する間ずっと、かおるは心の中で毘沙門天功徳教と般若心経を唱えていた。毘沙門天の性を持つ天台裏衆として、なおかつ北条政子の魂を持つ者としては必須の経典だった。

これから向かう各地の土地ではすべての過去念との戦いになる。それに反応した動機だった。2時間ほどタクシーは走り、そして止まった。

「お客さん、着きましたよ。」

かおるは一心に唱教していたので、ドライバーの声にビクッとした。

「ここを降りて、そこの山を登ると五輪塔と石碑があります。その上に行けば弁慶森もあります。ここでお待ちしていますから、どうぞ。」

かおるは軽く礼を言い、言われたように山に向かった。

「・・・凄まじいわね・・・。」

歩を進めるたびに、まるで超強力ファンのような凄まじい気がかおるに容赦なく襲い掛かってきた。普通の人間にはさほど感じることはないのだが、霊感ある者にとっては大変なことだ。ましてや、今回は白水かおる、いや、北条政子の魂が歩いてくるのだ。

より激しく襲い掛かってきた。かおるはその気を受け止め、かつ中和しながら歩いて行った。

「あれ・・・か・・・。」

かおるの目の前に現れたのは、まず白幡だった。それに描かれた紋章を見た瞬間に、かおるの涙腺が崩壊した。

「おお・・・おお・・・笹竜胆・・・我らが旗印・・・。」

白い幟に笹と竜胆が描かれていて、その横に石碑があった。言うまでもなく、笹竜胆は清和源氏の旗印である。源氏の旗の横にある石碑には「上拝源九郎判官義経公」と彫られていた。

ここは、頼朝によって夜襲され果てたとされる、平家討伐軍総大将義経の胴体が埋められたと伝えられるところである。かおるに対しての気は強烈ではあったが、それは決して憎しみだけのものではなかった。

どこかしっくり来る感覚があった。この日、ここに参拝に来たのは『たまたま』かおるだけだった。かおるは石碑の前に用意した正座用のゴザを敷き、座して目を閉じて合掌した。目を攀じた瞬間から、かおるの脳裏に浮かんで来たのはろくに整備もされていない道と海が見える、そのあたりでは珍しく立派な屋敷だった。

まるで一瞬で別世界に行ったような感覚がった。館では多くの侍女たちが動き回り、時おり侍がなにやら報告に走ってきていた。かおるは華やかではあるがシンプルな服を着ており、身の回りの世話は全て侍女たちが行っていた。

「ご注進!源家九郎様、おなりにございます!」


かおるは九郎がこの館に馳せ参じていたことは知っていたが、まずは兄との再会が行われていたのだ。かおるは頷いて、立ち上がって廊下に出た。

右横がざわつき、一人の小柄な武者と何人かの僧兵、それに目が鋭い侍が数名歩いてきた。小柄な武者はかおるの前に立ち、少しの間視線を合わせて片膝ついて腰を降ろした。付き従う者供も同様に座した。

小柄な武者は小柄な身体から強い力が発散されていた。どれほどの修行を積んだのだろう。

「そなたが九郎殿にございまするか?」

脳裏の中のかおるは、優しい声で武者に語りかけた。

「左様にございます、姉上。平泉にて身を潜めておりました九郎にございます。兄上の平家討伐にお入れいただくべく、馳せ参じましてございます。」

かおるは廊下から会談を降りて、九郎の前まで進んだ。

「お立ちなされ、九郎殿。」

促され、九郎は立った。かおるとあまり変わらない身長であった。しかも筋肉はしっかりとあるが、決して無骨ではなかった。美武者というほどでもなかったが、なで肩で、シルエットだけ見れば女子と間違えるやもしれない。

「九郎殿、我が夫三郎様はつい先ほどのいくさで、平家の維盛軍を富士川にて打ち破り申した。坂東の武者どもは、平家一門の無法に立ち上がった夫を慕い、次々にはせ参じております。ましてや源家一門がかように・・・わたくしも嬉しゅう存じます。夫頼朝に、力を与えてくだされ。」

「姉上、心得て・・・。」

九郎がここまで言った後、景色は凍り付いたように止まった。そして激しい戦闘場面や、高貴そうな高僧、美しい女性、さらには海上でのいくさと変わり、最後には激しく燃える炎とほとばしる血しぶきとなって終わった。そして真っ暗な中に、九郎の首と胴体が離れて浮かんできた。

かおるはずっと恐怖に苛まれていたが、この瞬間は心の奥底まで凍りそうな恐怖が全身を突き抜けた。九郎の首は恨めしそうに、しかしどこか頼りたげな表情でかおるを見つめていた。言葉はなかったが、念のみで十分だった。

「九郎殿・・・まだ、お恨みにございますか?」

かおるの念がこぼれだし、これに応じるように九郎の念がかおるに響いてきた。

『姉上、これは身代わりの者。私は蝦夷に行きました。』

「蝦夷?それは・・・頼朝様の指図にて?」

『左様。この者にも恨みなどございませぬ。義経として果てる役目を負うたのですから。私が憂いておりますのは、眠っていた我が怨念を掘り起こし、現世に仇なす悪鬼どもにて。あ奴どもは兄上にも仇を及ばせましょう。』

「悪鬼?」

『左様。』

「そうですか・・・そのお方は悪鬼に・・・九郎殿・・・そなた、まことに三郎様へのお怒りはございませぬのか?」

『姉上、兄上は私に逃げろとお申しつけになられました。この者にも恨みの念はございません。死してわかることもございます。死者は彷徨いませぬ。彷徨せるのは、現世の民と悪鬼のみ。私は・・・悪鬼の所業の故に、この者と共に彷徨っております。姉上、悪鬼めを滅してくだされ。』

「わたしに?そのようなことは・・・。」

『姉上にしかできぬことにございます!毘沙門天化身の姉上にのみできることに・・・ございます。姉上がご決意されるとき、我が性も目覚めましょう。』

「九郎殿の性?」

『私は鞍馬において、その性を授かりました。しかし我が性は、平家とのいくさで使うべきではござらぬもの。ですが私はそれを・・・兄上のためにと、使うてしまいました・・・。奥州と兄上のこともございますが、ゆえにわたしは日の本を滅しなければならなかったのです。ずっと奥州と鎌倉にいたかった・・・姉上、わたしを不憫とお思いになられますならば、悪鬼を滅してくださいませ。そしてわが魂とこの者は、離れることは叶いませぬ。悪鬼によって同じ魂となっております。この者をお救いくだされ。それこそが九郎の願い。伏してお願い申し上げまする・・・。』

九郎と一体化した身代わりの首は低頭してきた。かおるには、九郎の無念が痛い程伝わってきた。そして、九郎をここまで苦しめる悪鬼の正体が何であるかがわかった。

「あのお方が・・・わかりました。わたしにやれるかわかりませぬが・・・あのお方ですから・・・心して・・・。」

『姉上・・・ありがたき幸せ・・・。』

九郎の姿は徐々に薄くなっていき、そして姿を消した。そして同時に、凄まじいネガティブな気が別方向からかおるに突進してきた。

「きゃあああああああ!」

かおるはその力に弾き飛ばされ、目を開けた。寒かったはずなのに、汗が出ていた。

「あれは・・・あのお方の・・・?恐ろしい・・・わたしに、倒せるの?九郎さん・・・。」

かおるにはあのエネルギーの破壊的な凄さがわかっていた。本来であれば、裏衆全員で立ち向かってもいいくらいのものだ。しかしそうはいかない。これは、かおると、大山でなければできない仕事だった。

「タカちゃん・・・目覚める時が来たようね・・・。」

かおるはもう一度石碑に合掌し、タクシーに戻った。

「すみません、お待たせしちゃって・・・。」

 ドライバーは、食べかけのパンを慌てて横に置いた。

「え?お客さん、もういいんですか?たった5分ですよ?」

そのようなわずかな時間だったのか。もっと長くあそこにいたような気がした。

「すみません、では、平泉までお願いします。」

かおるはさらに北上していった。


11  


羽間とさなえの調査は完全に行き詰っていた。何がどうなってこうなったのか、さっぱりわからないのだ。なぜ羽間を除外させなければならないのか。あるいは他のどんな理由があるのか。

「・・・ねえ・・・。」

「・・・なーんすか・・・。」

「なんかあった?」

「ねーっす。」

全く同じやり取りを、一体何回繰り返したのだろう。ありとあらゆる資料を調べてみても、羽間に直接関係ある事案や証拠は一切みつからなかったのだ。羽間が胡蝶蘭マキを救おうと必死になって捜査しただけあって、資料は膨大だった。

行真会組員のDNA鑑定結果など当たり前で、構成員や関係者の細かな経歴や家族関係に及ぶ指紋照合など細部にまで及ぶものだった。その中から洗い出してみるということ自体、無謀だった。

「ないわよねえ。しっかしケンちゃん、よくここまでやったわ。あんたみたいな大雑把でマッスル脳人間がさあ。」

「先輩、なんでそこでディスるんですか?」

「ディスってないわよ。イライラしてるだけ。」

さなえはむくれる羽間を無視して目の前の資料に目を落とした。

「えっとねえ、ちょっとだけ気になってることがあんだけど。」

「なんすか。」

「行真会の会長のこと。」

「ああ、行真建鉄ですか。奴が何か気になります?」

「まずだけど、これ、本名なのよね。」

「ああ、そうです。そこに書いてあると思うんですけど、出身は関西です。」

「変わった名前よねえ。そりゃ全国にはたまにはあるだろうけど、うちの県には行真姓ってないわよね。」

「俺も最初は仮名かと思ったんですけど、本名でした。」

「年齢は60歳。血液型О型、結婚歴なし。愛人・・・が、こーんなにいたのね。すごいなあ。でも今はどこにいるかもわからないってか。」

行真会は川北署がいくら探しても誰も川北市には存在が確認できなかったのだ。会長は元より、構成員や準構成員も、古臭い言葉で表現すれば雲隠れしていたとしか考えられないくらい消えていたのだ。

「はい、これが本当にそうなんですよ。事務所があるってんで探ってみたら、借主は確かにいました。けど、全く別人でして。他にもそういう雲を掴むようなことが本当に多かったんです。それでも何とか構成員の素性を探し当てて居所もわかって踏み込んだらまた誰もいないってことで。そしてそれから全く何の音沙汰もなくなって、やっとのことで祥子を掴んで摘発できたのが・・・。」

「スターファイヤー・・・ってことよね。報告書によると、麻薬と売春の証拠が・・・確定ではなかった。つまり、物的証拠も証言もなかったのよね。」

「形としては出頭拒否で踏み込むしかなかったんです。ちゃんとチーフマネージャーに通達したんですよ。でも何もなかったので。」 

「うーん・・・。」

さなえは大きく背伸びした。これでは調査にならない。何か切り口でもあれば。

「あーでももう限界!喉乾いた。ねえタカちゃん、何か軽くつまんだり飲んだりしない?」

「・・・ついさっきコーヒー飲んでシュークリーム食べたじゃないですか。」

「そうだっけ?ま、いっか。あたし、なんか買ってくる。」

さなえは飛び出すように資料室から出ていった。羽間は大きくため息をつくと、立ち上がってスマホを見た。

「あれ?亘兄ちゃんからだ。珍しいな。」

羽間が調査に熱中している間に、従兄弟からの着信があった。

「もしもし、俺だけど。」

『おお、ケン!元気やった?』

「亘兄ちゃん、声がでけえよ。」

『そうかあ?まあ生まれつきっちゅーもんや。勘弁したりーな。』

亘は大阪在住の、商店街の果物屋だった。

「で、なに?」

『おおそうや。亘、お前な、父ちゃんの写真ないて言うてたやろ?うちにあったで、小っさいアルバムが。』

羽間の実家は数年前に出火し、全焼していた。アルバムなどは一切燃えてしまっていたのだ。羽間の父親は、羽間が高校生の頃に病死していた。

「え?そうなん?良かったー。お袋が欲しがっていたとよ。」

『そうやろうなあ。叔母さん、病気の方は?』

「相変わらず。足悪いくせに言うこと聞かなくてさ。困ってるよ。」

『がはははは!叔母さんらしいわ。よっしゃ、ワシんとこにはいらんし、後で宅急便しとくわ。ついでに、ドリアンも入れとこか?』

「やめてよ!」

『ワハハハハ。それじゃな!ああ、なんやようわからんけど、親父さんの色々証明書も入っとったで。同封しとくわ・・・あ、中村さん、まいどおおきに!・・・』

最後は商売に戻ったようだ。いつもはうるさい大阪人なのだが、今日の様に煮詰まった時にはありがたい。羽間は妙に気が晴れた。

「親父か・・・思い出したの、久しぶりだなあ。」

羽間の父親は6年間の闘病の末に、癌で他界していた。羽間が小学校の頃から伏せがちで、中学の頃には入院している時の方が長かった。

だから父親にはそういうイメージしかなかった。父親は大阪の生まれで、川北の羽間家に婿入りしていた。言葉も全然違う土地での暮らしはそれなりに大変だったのだろう。羽間の記憶の中にある父親は、いつも静かに笑っている寡黙なイメージだった。

「親父か。俺の中にも関西人の血が入ってるんだよなあ。そうかもな、俺タコ焼き好きだし。」

実にくだらない独り言をつぶやいていると、さなえがでかい袋に何やら詰め込んで戻ってきた。

「先輩、それ・・・。」

「食料よ、食料!腹が減っては何とやらってね!」

さっき食べたじゃん、と羽間は思ったが、口に出す勇気はなかった。さなえは資料を手際よく片付け、サンドイッチと豚味噌おにぎりとポテトチップとコーラとカップラーメンを並べた。


「え、せ、先輩・・・そんなに食べるんですか?」

「何よ、悪い?」

「いやいやいや!と、とんでもないっす。」

「でしょ?署内一の大飯食らいのケンちゃんには言われたくはないわね。ほら、あんたも食べて。」

いりませんよ、と言いかけた羽間だったが、正直小腹は空いていた。羽間は肩をすくめて、目の前のサンドイッチを食べ始めた。

「ここのおいしいでしょ?」

「はい、美味いっす。」

「これね、京都の小さいサンドイッチ専門店とコラボしたらしいのよ。あたし最近これにハマっちゃってさ。」

「へえ、京都の・・・あ、本当だ、そう書いてある。えっと・・・『あの名店おばんサンドとコラボ』。最近は色々と・・・うん?」

羽間はサンドイッチのパッケージをじっと見た。

「どうしたの?」

「あ、いえ・・・この顔・・・どっかで・・・。」

羽間が見ていたのは、サンドイッチのパッケージにあるコラボしたサンドイッチ店のシェフらしい顔写真だった。

「え?知り合い?」

「あーいや、京都に知り合いなんかいませんし・・・気のせいかなあ?」

羽間はそのパッケージを捨てようとしたが、思いとどまって資料室にある封筒に入れた。

「何やってんの?それ、証拠でもなんでもないでしょ?」

「あ・・・いや・・・何となく・・・っす。」

なぜパッケージを捨てなかったのか、羽間はまだ気がついていなかった。


12  


大山は川北署の署長室にいた。これまでの調査結果を報告に来ていたのだ。

「ふー・・・実態ない犯罪組織で、どうやら宗教集団とも繋がっていて、信者を洗脳するために使われているのが麻薬だと。つまりはそういうことなんだな。」

「はい、今までの捜査では、その線で間違いないと。」

「麻薬に宗教ってだけで面倒なのになあ。そうなるともう俺たちの管轄ではなくなるぞ。」

「そうなんですよ。ですから、今後は本庁と連携しながらでないと難しいです。」

「わかった。さっそく報告してチームを作ろう。当然お前も入ることになる。」

「はい。ですが、羽間への脅迫という部分は我々でやらないといけないでしょう。それも自分が担当します。」

「いいだろう。ところで、こういうことがわかってきた。」

山内は大山に一枚のコピーを手渡した。

「これは・・・?」

「あの脅迫状が、市内から出されていたことはわかってる。だが誰がどうやって、どこで出したのかまではわからなかったが、やっとその手がかりが見つかった。おそらくはここだ。」

大山は手元のコピーを見た。それは見覚えのある場所だった。

「これは、湖島営業所?」

「そうだ。あそこの前にあるポストからどうやら投函されたようだ。これは乗客がたまたま撮影したもので、SNSに投稿されていたものだ。」

画像は市営バスの営業所で、乗客がどうやら知り合いを撮影したもののようだ。拡大してあり、全体的には少しぼやけてはいたが。

しかし手を振っている人物のすぐ後ろにポストがあって、そこにまさに何かを投函しようとしている人物が映り込んでいた。それだけなら何ら問題はないのだが、問題はその恰好だった。

川北市のような地方の中核都市ではまず見かけることがない、東南アジア系の男が何かの制服のようなものを着て、白い手袋をしていたのだ。しかも器用にピンセットでつまんで、ポストに入れようとしていたところだった。

「手袋って・・・指紋を残さないためにやってるってことでしょう?しかもピンセットって・・・。」

「そうだ。しかもだ、防犯カメラがこの場所は全く映らないポイントでもある。そこまでわかってやっている。これは怪しい。」

「では署長、あのあたりの周辺の防犯カメラにはこの男が映っていませんでしたか?」

「それを調べるんだよ。もうすでに汐さんにはお願いしてある。もうあちこちからビデオ動画が届いているはずだ。お前の報告にあったように、ミャンマーの宗教組織が関与しているってんなら合致する。」

「わかりました!」

大山は汐田に話を聴きたい衝動に駆られたが、おそらくまだ分析はできていないだろう。羽間からも連絡や報告がない、となれば動くしかない。大山が湖島営業所に向かおうとして署を出たとき、スマホが鳴った。

「はい、ああ、ママ、どうしたの?」

電話の主は小野道子だった。

『あ、タカちゃん。ケンちゃんは?連絡つかないんだけど。』

「ああ、奴なら資料室に籠って調査してるよ。」

『例の脅迫状の件だろ。あたしもこないだ聞いたばかりさ。そっか、熱中してるんだろうね。じゃあタカちゃんでもいい。耳に入れておきたいネタがあるんだよ。ちょっと店まで来れる?』

「ああ、わかった。すぐ行くよ。」

大山は駐車場からすぐ先にある『ラ・クア・クチーナ』に向かった。まだ準備中の看板が出ていたが、扉を押すと開いた。

「ママ?」

「ああ、こっちこっち。」

道子の声がキッチンから聞こえてきた。大山は食堂に面しているオープンキッチンに入った。

「長く来てるけど、ここは初めてだなあ。ママ、こんちわ。」

「タカちゃん、今回は厄介なんだってね。」

「ケンから聴いたろ。その通りだよ。」

「ケンちゃん、ここで号泣しちゃってさ。知ってた?胡蝶蘭マキってケンちゃんの初恋の相手だって。」

「え、そうなの?それは知らなかった。」

「小宮山祥子ってのが本名でね。あたしも何か協力できないかって思って、できるだけ調べてみたんだよ。あたしには盗難アジアの麻薬祖式のことなんざわからないから、昔の仲間と連絡とったんだよ。」

「ママの昔の仲間?」

「ああ。まあね、今でもちょいとヤバヤバな連中ではあるんだけどさ。ちゃんとした気質だよ。」

道子はかつて、川南で鳴らしたワルだった。絵に描いたようなレディースで、総長として君臨していた。しかし結婚を決めた現夫と知り合い、更生して現在に至っている。

「あ・・・ああ。そりゃまあねえ、うん。」

「正直だねえ。顔に出てるよ。それはいいとしてさ、その時のあたしのサブだった子と話したんだよ。『こみやま』って名字聴いたことあったんでね。そしたらさ、祥子ちゃんって、あたしの仲間のダチの娘で、東南アジア系のヤバい奴とつるんでたって。」

「なんだって?」

大山は驚いた。警察でも把握できなかったほどに、わずかな情報だった。だがそれも助かる情報だった。

「ママ、それ、もっと訊かせてよ。」

「その子が言うにはさ、えっと何て言うんだっけ・・・IH・・・いや違う、WWE・・・いや違う。ほら誰かと繋がるって何とか。」

「SNSのこと?」

「そ、そうそう、それそれ。それで東南アジアの人から友人になってくれって言われて、それかららしいよ。もうその頃にはいっぱしのワルになってたんで、すぐ会ったらしい。後はもう、タカちゃんたちが知ってる通りだと思うけど。」

「それでママ、そのサブだったって人はどこに?」

「それが静岡なのよ。」

「それでもいい。色々教えて。」

大山はすぐに署に戻り、道子から得た情報を山内に伝えた。

「そうなのか!ママ、お手柄だな。よし、静岡には話つけておく。回線使えるようになったら伝える。」

近年のIT革命は警察にも及んでおり、情報を得るために遠方の警察と衛星回線で動画通信できるようになっていた。大山はその間、湖島営業所に行って調べたが、聞き込みの結果、確かにその日にそれらしい人物を見かけたという情報以外は得るものがなかった。

わかったのは、何で来て、どうやって去っていったのかだ。どうやら宅配便のような服で来て、ポストのある付近の家に立ち寄った後に、電話をしながら去っていったということだけだった。車の種類もナンバーも、ビデオで判断するしかなさそうだ。

まもなく、静岡の警察に事情聴衆として呼び出された道子の友人片桐紀子がモニターに映し出された。道子から聴いていたはずなので、安心していたようだ。悪びれることもなく、堂々としていた。大山は様々なことを質問し、情報を得て片桐に感謝して会話を終わらせた。

さらに汐田から、ビデオ調査の結果も出されてきた。車の横で素早く服を脱ぎ、素早く発進する様子が、近所にあるセルフスタンドの防犯カメラに映っていたのだ。ナンバーもはっきり確認できた。車の持主も判明した。

「つまり、その頃にはすでに堕ちていた小宮山祥子に対し、稼ぐことができると呼びかけて誘い、麻薬を使って動かしていたってことか。そして車の持主は盗難車だ。こうなると、手がかりは車しかない。汐さん、大変だが頼む。」

大山は山内の話に、例の妙な勘がいきなり作動し始めたのがわかった。おそらく、それだけではないだろう。もっと深い何かがある。大山は汐田らによる調査を待つ前に調べなければならないと確信した。しかもこれはどうやら、誰にも言わないで動いた方が良さそうだと、その勘は語っていた。


13 


「これが金色堂・・・見事なものよね。」

かおるが次に着いたのは、中尊寺金色堂だった。奥州藤原四代の栄華の面影を残す、豪華で華やかな建築だった。かつて平泉は奥州藤原として、日の本第2の都とまで称された一大都市だった。

最近の研究では、藤原摂関家の一系統が東北に赴き、根付いたことは間違いないとされている。さらに、この地はかおるにとって最も近づきたくない地でもあった。この地が滅んだのは、外ならぬ頼朝と鎌倉によってであったからだ。

この地において覇を競った安倍、清原の両豪族の抗争に奥州鎮守府将軍だった源頼義が介入して起こったのが前九年の役であり、再戦において今度は頼義嫡男の義家が介入して後三年の役が起こり、勝利した清原が実系統の藤原姓を名乗ったことから平泉の歴史は始まった。

藤原四代は朝廷に金や馬を献上し、また優れた鉄精製技術を有していたことから東北一体を征することができるほどの軍事力をも持っていた。この地において、頼朝が決定的に介入することになったのは、頼朝の弟である九郎義経が鞍馬を脱出した後にこの地で成長し、兄弟抗争によって義経は再びこの地を訪れ、そして藤原四代目当主だった泰衡によって討たれたことからだった。

頼朝は東北の地において朝廷からも坂東からも独立していた奥州を放置するわけにはいかなかった。理由は、当時まだ多くの荘園を所有していた京貴族や院と対しなければならなかったからだ。後方に脅威があればどうすることもできない。

また頼朝は征夷大将軍である。当時蝦夷地と言われていた東北を征することが使命でもあった。散々頼朝に脅され、その恐怖に耐えきれずに義経を討ち、首級を鎌倉に届けた泰衡はこれでひと安心と思ったのだが、頼朝の本音は泰衡と平泉そのものにあった。

頼朝は義経らを蝦夷に逃がすことをやってのけていた。これは頼朝が鎌倉で唯一心許せる執権北条義時と成したことだ。鎌倉に届けられた首級も、身代わりを願い出た若武者のものだった。この非情さを見せつけることで武者たちを従わせ、頼朝は真の将軍となることができた。そして鎌倉内での生き残りを願っていた義時にとっても必要なことだった。

となれば遠慮はない。自ら出陣して平泉を討ち、助命懇願した泰衡を追い、その結果泰衡は従者に討たれたのだが、その従者ですら許さなかった。頼朝が平泉に入る前に、敗走する泰衡軍は火を放ち、平泉は焦土となっていたと言う。泰衡の首級は晒された後に平泉に戻され、現在ではここに藤原三代のミイラと共に安置されている。

タクシーを降りるとき、かおるは胸に鋭い痛みを感じた。その痛みはまさに怨みそのものだった。かおるにはその怨みの念が誰のものであるか、はっきりとわかっていた。死してなおこれだけの恨みを残すとは、どれだけの思いで憤死したことだろう。

歩を進めていくにつれ、かおるは身体ごと跳ね返されるような圧を感じた。だが、それを感じているのはかおるだけだった。他の観光客は普通に歩いていた。

(あたしを・・・源家を・・・そこまで憎く思われますか・・・。)

そしてやっと着いた金色堂は、かおるには藤原四代の豪華すぎる墓にしか見えなかった。

普通の人には美しく見えるだけの堂だったが、かおるは怨みの炎が激しく燃え盛っているように見えた。得体の知れない姿の霊体が堂の周りを取り囲み、しっかりと守っていた。かおるが感じた跳ね返す力は、彼らと泰衡の怨念が凝り固まったものだった。

頼朝の妻として御家人たちの絶対的信頼を得た政子は、頼朝がより強固な政権を尽くすために尽力した。だが一方では、敗退した敵に情けをかけるように常に夫に進言し続けていたとも言われている。奥州藤原に対しても同様の進言を行っていたと思われる。

だがしかし、鎌倉に多くの敵を持ち、囲まれていた頼朝は、彼らに支配されないようにより非情に振舞うしかなかった。

初期の武家政権は坂東の豪族たちの集合政権であり、頼朝が唯一絶対的な支配者となるしかなかったのだ。ゆえに奥州藤原四代目たる泰衡は見せしめに梟首され、なおかつ額に八寸釘を打ち込まれるという残酷な仕打ちを受けた。後に平泉に戻された首級は、前三代のミイラによってその怨念を鎮めるように供養された。

かおるは金色堂に近づき、合掌した。そして泰衡の魂に念を飛ばした。

その瞬間、周囲の景色は静止した。時間は絶え間なく流れる川の如くであるが、魂の会話は時間に左右されない。周囲のあらゆるものは全く何も変化はなかったが、かおるの心は凄まじい力に襲い掛かられていた。

「ぐぬう・・・。」

かおるはまさに時間という流れのほんの1点の内に、1000年もの怨念を一身に受けていたのだ。高さがあればそのぶん運動エネルギーに変換できるように、1000年もの時間があれば破壊的なエネルギーとなる。かおるは合掌したままの姿でそのエネルギーを受け止め、特異点と言っても構わないほどの一瞬において多くの映像を見せられた。

華やかで貴族的ですらあった平泉の全貌、秀衡と義経の利害関係以上の付き合い、迫りくる頼朝の恐怖、燃える衣川の館、そしてありえないほどの大軍・・・栄光と苦悩に満ちた映像ばかりだった。地獄の底から響いてくるような、声でもあり轟音でもあるエネルギーは、かおるの細胞ひとつひとつを激しく揺さぶった。

藤原百年の栄華を潰してしまった懺悔の念、鎌倉への恐怖、弟義経を討つ令を出した苦悩、そして何よりも理不尽極まる仕打ちを行った頼朝への憎しみなどが一気に押し寄せてきた。

「泰衡・・・様・・・お怒りを、鎮めたまえ!」

かおるは毘沙門天の化身でもある。必死に毘沙門天王功徳教を唱えた。

「如是我聞 一時仏在王舎大城竹林精舎 与大比丘衆 千二百五十人倶・・・。」

本来、毘沙門天は東北方向からの邪念を封じる役目がある。この地にかおるが訪れたのは、そういう意味もあった。常人の念とは次元が異なる力で、泰衡の念は次第に落ち着きを見せ始めてきた。そこに見えたのは怒り以上の悲しみだった。

「泰衡様・・・そうまでお迷いなさるのは・・・やはりあのお方の・・・わかりました。毘沙門にお任せください!」

かおるはいまだ荒れる泰衡の念に対し、その一点のみを送った。これらのことは、一瞬の間のことだった。時間を超越した次元で、これらのことが行われたのだ。泰衡の念は消え、かおるも観光客らも一斉に動き始めた。時間に支配される次元に戻ったのだ。

よく気をつけて観るくせのある人ならわかったはずだが、かおるはほんの一瞬の間に唇は紫色に変化し、小刻みに震えていた。

この一瞬の間に、かおるは千年ものエネルギーに対抗した結果、身体のホメオパシーが完全に狂ってしまっていたのだ。真夏なのに、凍えていた。


かおるはかろうじて倒れなかったが、まるで一瞬で南極に放り出されたような感覚に陥り、ガタガタ震えながらバッグの中にあったムートンコートを着た。それでも身体の震えは止まらず、かおるは金色堂に軽く低頭した後、ふらつきながらもタクシーに戻っていった。

「お帰りなさい、金色堂はとても・・・お客さん、ど、どうしました?大丈夫け?」

タクシーのドライバーは室内で震えているかおるを見て、ぞっとした。まるで幽霊のような顔だった。血の気は引き、髪はボサボサでガタガタ震えていた。

「すみません。ちょっとでよろしいので、暖房つけていただけませんか・・・。」

「この暑いのに?」

ドライバーは驚きながらも、理屈抜きに危ないと感じたのですぐに暖房を入れ、自分は車外に出た。室内温度がもう30℃を越えてきていたが、それでもかおるは震えていた。かおるの顔色が戻るまで5分以上必要だった。

「ふー・・・すごい・・・あたし・・・やれるのかな・・・。」

かおるは髪を整え、車外で汗を拭いていたドライバーに声をかけた。

「すみません、もう大丈夫です。」

「本当に大丈夫ですか?病院に行きましょうか?」

「いえ、大丈夫です。仙台空港まで、よろしくお願いします。」


14  


「どうだ?少しは・・・。」

資料室に入ってきた山内は絶句した。足の踏み場もないほどに散乱した室内では羽間が大いびきをかいて椅子を並べて寝ており、その横では大進さなえが机に突っ伏してこれもいびきをかいていた。風呂にも入っていないのだろう、やたら臭かった。

山内は顔をしかめ、部屋の窓を全開にして換気をして、そして目一杯息を吸って怒鳴った。

「起床ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

羽間とさなえは大声で有名な山内の怒鳴り声に思いっきり反応し、羽間は転げ落ち、さなえは半分寝たまま立ち上がって直立不動になった。

「・・・結婚前提に、お、お付き合いさせて・・・。」

さなえは夢の続きを見ているようだった。羽間はなぜか転げ落ちてすぐに、倒れたままエア拳銃を持って構えた。

「もうお前は・・・あ、あれ・・・?」

羽間は立ち上がり、さなえは少しずつ焦点が現実に戻ってきて、そして室内の状況を把握した。

「いい夢を見ていたようだな?お見合いに犯人追い詰めか?」

「お、おはようございます!」

羽間とさなえは同時に叫んだ。

「お前らなあ、頑張るのはいいが、ちゃんと風呂にも入れ。臭くてたまらん。とりあえず、今からすぐに家に戻って、風呂に入って着替えて、昼飯食ってから俺のところに来い。いいな。」

山内は首を振りながら資料室を出ていった。署長はどうせまたいつものカレー出前なんだろうなと、さなえも羽間も思った。そして羽間とさなえは顔を見合わせてお互いを同時に指さした。

「・・・お見合い?」

「・・・犯人追い詰め?」

滑稽のような、悔しいような、恥ずかしいような、そんな感情が入り乱れていた。2人は気まずくなり、山内の命令に従って一旦家に戻ることにした。

「じゃ、じゃあ先輩、後でまた・・・。」

「そ、そうね、またねえ・・・。」

羽間は川北署から歩いて5分のところにある官舎に戻った。

「あれ、宅急便がもう来てる。」


留守用の連絡先に今ならいるからと告げ、宅配便の人はすぐにやってきてくれた。

荷物は大坂の従兄弟の亘からだった。アルバムがはいっているらしく、ずっしりとしていた。羽間はまずシャワーを浴び、部屋にあったカップうどんを2杯たいらげた。

めちゃめちゃ腹が減っていた。考えたら昨日の夕方から何も食べていなかった。通常1日5食は食べている羽間からすると考えられないことだった。それでも足りなかったので、冷蔵庫にあったリンゴをかじりながら、羽間は荷物を開封した。

亘は小さいアルバムと言っていたが、昔のものなので結構重かった。中を開くと、昭和初期からの古い写真ばかりだった。赤ん坊の写真があり、横には羽間の父親である徹の名が書いてあった。場所は満州のハルピンと記してあった。

「親父の赤ん坊時代、か。そういや満州から引き揚げてきたって言ってたな。」

父親にもこんなときがあったんだなと思いながらアルバムを進めていくと、羽間の手が止まった。

「なんだこりゃ・・・昭和17年3月20日、京都にて・・・新しい羽間の父と共に・・・新しいって・・・どういう意味だ?」

羽間は慌ててアルバムを持ち上げたが、そのとき封筒が落ちてきた。

「これ、兄貴が言ってたやつか?」

羽間は封筒を開き、中の書類を取り出した。それは古い用紙に書かれたもので、数枚入っていた。出生証明書と書いてあり、それを見ていた羽間は目を見開いた。

「なんだってえ!」

そこには、父親の名前が書いてあったのだが、そこにあったのは羽間姓ではなかった。

「昭和7年5月19日、行真徹生誕・・・行真?ど、どういうこった!」

まさか、行真会と同じ苗字が父親の本名だったって言うのか。羽間は意味がわからなくなり、たまらずに実家に電話をかけた。母親が一人で暮らしているはずだった。

『もしもし、あらケンちゃん、どうした・・・。』

「母さん、教えてくれ!」

『な、なに?いきなり・・・。』

「親父って養子だったの?」

『父さん?うん、そうよ。言わなかったかしら?』

「確認!親父の旧姓は行真なんだよな!」

『そうだったわねえ。』

「で、どうして養子になったんだ?」

『どうしてって・・・聴いたことあったかしらねえ・・・あんまりそういうこと言わない人だったから・・・あ、ちょっと待って。』

母親は電話を置いて何やら探しているようだった。

『あ、もしもし?お父さんがね、亡くなる前にこれを読んでいてくれって渡されたノートがあったって思って探したら、あったよ。わたしも全部は読んでなかったんだけど、未読のところを今見てるの。ケンちゃんとお母さんへのことが多いようね・・・お父さんったら・・・真面目なんだから・・・あれ?』

「どうした?」

『行真の家はいけない、この血がお前たちに災いにならないことを切に祈っている・・・これ、どういうこと?』

「・・・また・・・連絡するよ。」

電話の向こうでは母親が『もしもし』を連呼していたが、構わず羽間は切った。完全に混乱していた。意味が全くわからない。

(まず、あのような変な脅迫状に殺人犯行声明だけでも意味不明なのに、今度はあの半グレ集団の会長が同姓だと?ひょっとして俺はあの会長と親戚にあたるのか?だから俺を遠のけようと?)

いやしかし、それだけだったらこんな面倒くさい芝居がかったことをやる必要もない。あの麻薬宗教グループに拉致させればそれで済む。しかし今のところ、資料がなさすぎてそれしか考えられない。

羽間は頭を振って深呼吸をし、着替えて署に行こうとしたところ、電話が鳴った。今度はさなえからだった。

『もしもし!ケンちゃん!』

「あ、ああ・・・先輩、今から署に・・・。」

『それどころじゃないよ!テレビ見て!』

「え?テレビ?どのチャンネル・・・。」

『すぐ見て!どこでもいいの!』

羽間はテレビをつけた。

「え?・・・な、なに?」

テレビ画面が見えたとたんに、そこには何か人がバタバタと動いている画面と、同じように罵声が飛び交うシーンだった。どうやらテレビ局内で何かがあったようにも見えた。するとその局のアナウンサーが興奮した様子で話し始めた。

『先ほど飛び込んできたニュースです。ミャンマー北部で戦闘が始まりました。宗教過激派組織、プラーナ・ペイチャックが独立宣言を出しました!かなりの武力を有しているようです。現在ミャンマー軍と戦闘状態です。ミャンマー国内は大混乱となっているようです。日本人観光客、在留邦人の救出のため、政府は緊急閣僚会議を招集いたしました!』

「な、なんだって!」

羽間は当然驚いたが、さなえの声も激しかった。

『これ、どうなっちゃってんのよ!すぐ署に行くわよ!』

羽間はスマホを握りしめたまま、呆然としていた。混乱続きで全く整理できなかった。自分たちが扱った事件は、ここまでのスケールのものだったのか。自らの秘密と相まって、羽間の脳は激しく動いた。


15   


「ミャンマー人?」

写真から顔分析された結果が大山の元に届いたのは、盗難車が判明した翌日のことだった。どうやら、川北に滞在しているのではなく、他県から来たようだ。

「こりゃなんて呼ぶんだ?・・・ええと・・・これだけ?ヌーってだけでいいのか?」

「ミャンマーには姓はないんですよ。たとえば以前に国連事務総長だったウ・タントさんはタントだけです。ウーは敬称。アウンサン・スーチーなんてのも、本名はスーチーだけなんですよ。」

厚出の眼鏡をかけた分析官が応えた。かなりのマニアで、大山はほとんど署では見たことがない。

「面倒くさいな。じゃあとりあえずこの、ヌー容疑者でいいだろう。絞ってくれ。」

検索自体はすぐにできた。農業研修生として来日していた20歳の生徒で、川北市にある研修所にいた。大山たちはすぐにこの研修所に立ち入り調査を行った。もちろんこのヌー容疑者を調べるためだ。しかし、大山たちはここでありえない事態に愕然とした。

「じゃあこのカメラでとらえられた時間、ヌーさんは間違いなくここで寝ていたんですね?」

「はい。間違いありません。急性発作で倒れて、点滴を受けていたんです。私自身が何度も確認しに行きましたし、ずっとこのまま3時間寝ていました。」

担当看護士が言葉を少々荒げて証言した。大山の納得できない態度にイラついたのだろう。防犯カメラで撮影された日時、ちょうどその真ん中の時間に、ヌーは研修所に隣接した病院で緊急入院していたのだ。ベッドに横たわる人物がいて、看護師が時々チェックにきている。

カルテにも記載されていたし、病室内のビデオカメラにも寝ているヌーの姿がちゃんと映っていた。これではどうしようもない。だがこれで引き下がるわけにもいかない。大山はミャンマー大使館にも受け入れ研修所にも許可を得て、ヌーと対面することにした。

研修所の保証人に連れられて応接室に通されたヌーは、目が泳いでいた。無理ないことだったので、大山は笑顔を絶やさないように心がけてウーに座るよう促した。

日本語はまだ不十分とのことだったので、研修所でビルマ語ができる職員も同席させた。

「わざわざごめんなさい、ヌーくん。」

「ハイ。」

「今日僕がここに来たのは、ちょっと見てほしいものがあるんだ。協力してくれるかい?」

 通訳を通じて伝えた大山の言葉に、ヌーは素直に反応した。

「・・・ハイ。」

大山は防犯カメラの画像と動画を両方用意した。そして両方ともヌーに見せた。


「この時間、間違いないんですか?」

保証人が驚いたように大山に訊ねた。

「はい、そうです。」

「この時間、間違いなく彼は入院してました。私もずっと病室の中にいましたから、彼が出ていったはずはないです。でもこれは・・・。」

保証人もそれ以上言葉が続かなかった。そしてヌーもじっとその映像を見ていた。

「ヌーによく似てる・・・としか言いようがない。おい、病院のビデオに故障とかはなかったんだろ?」

一切の故障がないことを告げられると、保証人は腕組みをしてソファに背をもたれた。

「まさか自分が眠った・・・?いや、あの時はずっと本を読んだりスマホで連絡したりしていた。ちゃんと・・・残ってる。間違いなくこの時間だ・・・。」

保証人は自分のミスではないことを必死で探しているようだった。間違いなく、その時間にメッセを送ったりしていたのだ。

「我々も困惑しています。まさかねえ・・・。」

「チョト・・・。」

それまで黙っていたヌーが口を開いた。

「どうしたんだい?」

「ココ・・・シッテル・・・。」

「な、なんだって?」

大山らも研修所の職員も仰天した。

「ど、どうして知ってるんだ?ここは研修所から7キロも離れているんだぞ。」

保証人は画像の場所が自分の家の近所だったので、それはありえないとすぐに理解した。

「デモ・・・シッテル・・・ドリーム・・・。」

「夢に出てきたってのか?」

以前の大山であれば、そんなはずはないとすぐにヌーを疑ったことだろう。しかし数々の不思議な事件を見てきた大山は、すぐにそれが嘘ではないとわかった。色めき立つ保証人を抑えて、大山はヌーに訊ねた。

「どこかで写真でも見たのかい?それとも行ったことがあるの?」

ヌーは黙って首を横に振った。

「ワタシ、タウンシラナイ。イケナイ。」

「この研修所にいる間は、常に保護管がつきそっています。単独で行動はできないです。」

保証人は、納得はしないながらもそれは断言した。大山は全く予想しなかった展開に戸惑った。この場所に行っているか、あるいは少なくともどこかに出かけていた形跡があるものと踏んでいたからだ。

だがしかし、この時間にヌーは入院し、保証人がベッドの横に座っていたのだ。あらゆるデータが、ヌーの無実を証明していた。

さらには、ヌーは画像にあったこの場所を『夢』で見ていたと証言した。となると、この画像や動画が改ざん、もしくは故障によるバグという線はなくなる。ところが、間違いなくこの時間にヌーはこの場所にいて、盗難車を運転していたはずなのだ。

夢で見た景色に間違いないのであれば、夢が実体化して犯罪を犯したと解釈しない限りは説明がつかない。

「夢が・・・実体化・・・そんなことがあるはずがない。しかし・・・。」

大山の勘は、この難解で不可解な局面においてさらに鋭くなってきていた。大山は頭が重く感じ始め、右手で眉間を、無意識に押さえた。そして無意識に目を閉じた。

その瞬間だった。大山の脳裏に、強い光と共に、明らかにメッセージと感じられるものが浮かんで来た。

(なんだ・・・これは?)

大山はその光に圧倒されながらも、次々に浮かんでくるイメージを感じていた。そのどれにも覚えはなかったが、どこか懐かしく、どこか憎々しかった。大山は眉間から手を離し、大きくため息をついた。

「刑事さん、どうかされましたか?」

保証人が心配そうに大山に訊ねてきた。

「あ、いや、ちょっと問題の整理をしていただけです。」

そして大山は研修所の職員たちに伝えた。

「申し訳ありませんが、しばらくの間、こちらに署員が張り込みをさせていただきます。ヌーさんは特に監視をさせていただくことになります。事件解明のためですので、ご協力の程お願いいたします。」

大山は話しながら、さきほどのイメージを考えていた。大山の勘は、このことは非常に厄介な問題だと語っていた。


16   


東北への旅を終えたかおるは、疲れを癒すために鎌倉の実家で一泊し、次に向かったのは京都だった。

そもそもかおるは、京都を苦手としていた。千年の都と言えば聞こえはいいが、日本で最も多くの血を吸ってきた土地でもあったからだ。残留思念が渦巻いており、しかしその分の浄化ポイントも多くあるので中和されてはいた。

だがこういうことに敏感なかおるは、京都駅に降りた瞬間から気が重かった。九字を切り、独鈷を両腕の中のホルダーに隠して歩いた。

独鈷は古来からの悪霊退散の具である。天台の裏衆でもあるかおるは 常備してはいたのだが、さすがにこれをいつ用いるかもしれないとの恐怖が常にあった。

かおるはタクシーを拾い、伏見区の桂川に向かった。どのあたりで降りるのかと訊かれたかおるは、川が見えるところならどこでもいいと返答した。

やがてタクシーは桂川が見える伏見区に着いた。ドライバーは適当に行ったつもりだったのだが、かおるは何かに誘導されているとすぐに判った。かおると、かおるを呼ぶ力が凄まじく反応しはじめていた。

この力の主は、これまでの九郎や泰衡とは異なり、かなり淀んでいた。決して邪悪ではないが、淀んでいた。しかし、かおるはわかっていた。この力の主が最も厄介であることを。そして、九郎や泰衡らと同じ相手に怨みを抱いていることも。

やがてかおるは、桂川が見える土手に立った。そこから川を見下ろすと、常人では見えないものが見えた。川の中ほどに、己の首を小脇に抱えた武者の姿が見えたのだ。それはただじっとしていたが、匂うほどに怨みの念を発散していた。河原には幼い子供や家族の姿も見えた。

「怖いわ・・・。」

かおるはそれまでも数々の恐怖と戦ってきた。だがそれは、ある意味単純でもあった。今見えている武者の姿からは、ねじ曲がった怨みと無念さが周囲に渦を巻いていた。触れれば一巻の終わりになるだろう。それほどに危険だった。

死者は迷わないと九郎は語っていた。だが、残留思念のみが魂から離れて孤立し、浄化されないままにいる状態が、俗に言う地縛霊である。実体はないのだが、怨みや怒りの思念エネルギーのみがその場にとどまっている。

かおるは独鈷を両手に握りしめ、河原に降りていった。近づくほどに、武者から発せられる黒い影はますます濃度を強くしていった。そしてかおるは川のほとりに立ち、その武者を見た。先ほどまでいた家族連れや子供たちはもういなくなっていた。

かおるにはその意味がわかっていた。この武者が自分と相対するために、他の邪魔な人間たちを追い出したのだと。

かおるは河原にゴザを広げ、そこに座って結跏趺坐の状態になった。上品上生の印を結び、その時を待った。風が緩やかに吹いており、かおるはその風に気を乗せた。武者に自然に気が行くようにしたのだ。風は吹き、やがて別の風に押されて戻る。

どのくらいの時が過ぎたことだろう。緩やかに気を送っていたかおるの身体が、ビクっと震えた。徐々に徐々に気を強めていて、やっと相手が反応したようだ。

(ここからが勝負よ、かおる・・・。)

かおるはそのままスローペースで、あたかも相手の体温を高めるかのように気を送っていった。ゆっくりなのには理由があった。一気に気取られてしまったら、凄まじい怒りと怨みの念が襲い掛かってくるからだ。

そしていくばくかの時間が過ぎた。かおるは、かすかに何かのメッセージを感じた。それを拡大していった。そのメッセージは、このようなものだった。

『我を呼ぶ者は誰だ。』

相手の武者は何かを呼んでいたのだが、それはかおるではなかったのだ。だが、かおるにも関わりあることであったので、相手は誰かわからなかったようだ。メッセージが強く感じられるようになり、こちらの意思を伝達できると察したかおるは、遂にメッセージを送った。

「十郎殿、御台にございます。」

その瞬間、強烈な念と共にメッセージが送られてきた。そして武者の姿が変わった。首が元の位置に戻り、憤怒の表情になっていた。

「おのれ北条!よくも三郎をたぶらかしおったな!」

武者の峻烈な念は、匂うほどに強烈だった。普通の人間でさえ、凝視して見れば輪郭がわかるほどに空間が変化していた。

「おさまりくだされ!十郎殿!」

かおるは必死に念を送り続けた。

「黙れええええええ!」

十郎と呼ばれた武者からの激しい念に、かおるは圧倒され、後方に倒れた。

「わしこそが源家の棟梁たる者!三郎でも九郎でも駒王でもない!わしこそが棟梁!それをそれを・・・おのれら北条めが全てを奪いおって!北条許さじ!」

かおるはようやく起き上がり、十郎と向かい合った。


「十郎殿、あなた様を滅したのは北条でも三郎様でもございませぬ!あの御方にございます!雅仁の公にございます!」

雅仁の名を出したとたんに、十郎の念は一気に弱くなり、そして哀しみのものに変わっていった。

「あれほどにお仕えいたしたに・・・お上はわしをお見限りになられた・・・口惜しや・・・なぜじゃ・・・なぜじゃ・・・。」

かおるは改めて座し、川に浮かぶ十郎の姿を見た。先ほどまでの恨みの姿ではなく、首がつながった烏帽子姿だった。きちんとした身なりであり、哀しみの念が溢れていた。

「十郎殿、この世においてわたしが転生いたしましたのには幾つもの理由がございます。そのひとつが十郎殿、九郎殿、奥州殿の御霊を供養するため。わたしは、あの時止めれませんでした・・・その悔いをなくすがための転生にございます。信じていただきたいと申すは勝手と承知。なれどなさねばなりませぬ。どうか・・・どうか、わたしにお任せいただきたく存じます。されど雅仁の公は、わが夫三郎と共に力を絞ってご供養せねば・・・。」

「三郎じゃと!」

十郎の念は再びすさまじい怒りに変化した。

「三郎だけは許せぬ!地獄の果てまで追い込み、八つ裂きにせねばならぬわ!」

かおるはその怒りを受け止め、そして返した。

「我が夫も、雅仁の公に踊らされたのでございます!」

それ以上の言葉は不要だった。十郎の姿は再び元の姿に戻り、穏やかな表情でかおるを見て語りだした。

「左様か・・・そなたの想い、受け止めた。あ奴も踊らされたか・・・源家も平家も皆、あのお方に踊らされた手駒に過ぎなかったのか。」

「はい、しかし夫はかろうじて公の勢いを止めることができました。十郎殿、あなた様の御霊を高天原にお戻しせねばなりませぬ。あなた様の想い、武家の想い、さらには公家、民の想い全てを・・・それがわたしの使命。毘沙門天のお役目にございます。」

十郎こと新宮十郎行家は、平家打倒の宣旨を各地の源氏に伝えていった、初期の功労者である。だが結果的に非業の死を遂げてしまった。

「政子殿・・・あい分かった。わしの無念ともども、天に返してくだされ。」

十郎は右手に持っていた太刀をかおるに差し出した。

「これを持ってゆけ。雅仁の公より授かったものよ。何かの役に立つやもしれぬ。御台よ・・・我が魂を鎮めてくれ。」

十郎の姿は消えた。かおるの周囲には再び、平穏な現代の風景と匂いが戻ってきた。かおるはかろうじて倒れずにいたが、しばらくは座したまま上体を上げることができなかった。それほどにエネルギーを消費していたのだ。

10分ほど後、ようやくかおるは顔を上げた。何度も芸能プロにスカウトされた美しい顔がげっそりとやつれていた。かおるは持ってきていた水筒を持ち、中の麦茶を一気に飲んだ。そして深く息を吐き、立ち上がった。

「これでようやく・・・阿修羅の懐に入れたわ。あとは・・・。」

かおるの顔は、西に向いていた。


17  


この日のニュースは、かなりの割合でミャンマー紛争がメインだった。解説者たちはあらゆる知識で事件をわかりやすく説明していたが、羽間とさなえには全く何の参考にもならなかった。川北署に戻った2人は、所長室で山内と会っていた。

「今になってみると、お前への脅迫状なんてのも、この紛争のひとつの前触れのような気がするな。」

山内の手元には多くの報告書があった。

「署長、どういうことです?」

「これだけ報告書が届いているんだが、全部ミャンマー関係なんだ。例えばだ、麻薬課からはミャンマーからの渡航者たちが集まって麻薬を製造しているそうだ。」

「国内で、ですか?」

「ああ、何らかの方法でケシを倉庫内で栽培し、麻薬を精製していたそうだ。しかもそいつら全員がええと・・・そうそうプラーナ・ペイチャックの信者たちだ。」

羽間とさなえは顔を見合わせた。

「それ、信者たちがそのために来日していたってことですか?」

「それがだ。働いていた連中は逮捕後に意識がなくなり、目が覚めたら何をやっていたのか全く覚えていないと、そう報告されている。どうやら、暗示か何かにかけられていたようだ。麻薬反応も微量ながらあるそうだが、精製過程で吸い込んだ可能性が高いそうだ。」

何もかも新しい手口だった。従来のテロとは違っていて、純粋な信者たちを暗示で動かくという手法はかつてないはずだ。

「それでお前たちの方はどうだ?」

山内の問いに、さなえは首を振ってこたえた。

「いえ、わたしたちの調査では全然・・・。」

「ありました。」

羽間の返答に、さなえは驚いた。

「な、なに?なにがあったの?」

まだ羽間は父親のことを話してはいなかった。羽間が話す間、山内とさなえはじっと聴いていた。


「・・・ということです。それ以上はまだわかりません。ただ行真という姓、珍しいと思うんですよ。父親の養子前の名字が、今回の脅迫状と繋がっているのかどうかはわかりません。ただ・・・もしあの脅迫状が、自分を遠ざけるものだとしたら・・・。」

「偶然かもしれんが、説得力はあるな。」

山内は腕組みをしたまま話した。

「よし、調べてみよう。大進くん、すまんが羽間の親父さんについて調べてみてくれんか。行ってきてくれ。」

「行ってって・・・?」

「羽間、お前の親父さんの里は?」

「あのアルバムには京都って書かれていました。」

「そしてお前の親戚は大阪だったな。ということは大進くん、京都大阪に出張してこい。」

「えー!」

「いいな、どうも事を急いだ方がいいようだ。ミャンマーの、ええと・・・。」

「プラーナ・ペイチャック、です。」

「ああ、そうだ。あれはどうやらバラモン教原理主義集団のようだ。考えてみろ、アジアにどれくらいバラモン教教徒がいる?反応したらえらいことだ。我々ではさほどの影響力はないかもしれんが、取り組まないといけない。政府には政府の仕事があるが、我々には我々にしかできない仕事がある。羽間、色々教えてやれ。そしてお前は当分の間、俺と動く。いいな。」

そして羽間は山内と再調査に取り組むことになった。さなえは羽間から情報を仕入れ、その日のうちに京都へ飛んだ。うっかり寝込んでしまったようで、最終便に間に合った。

しかし急に京都出張を命じられたさなえは不満だらけだった。さなえは川北では結構年配男性に人気があったのだが、さなえにはオジサマ方の相手をする気など毛頭なかった。

だが、よく連絡あって食事の誘いを受けるのだが、それを女優のように受け流し、やんわりと断ることが生き甲斐のようになっていた。優越感に浸れるからだ。

しかし県外だとそうはいかない。ましてや天下の京都である。誰も知らないということは、そういう誘いもないということになる。

「あーもう、つまんない!」

思わず声に出しそうになり、慌てて抑えることは数回あった。

「なんであたしなのよ。筋肉馬鹿の謎なんだから本人に調べさせればいいんじゃない。」

何度も何度もその思いが頭をよぎった。だが結果的に、山内の判断は間違っていなかった。

さなえは京都で一泊し、ファミレスで夕食を取ったのだが、疲れが出たのか軽く寝てしまった。無理もない。ここしばらくずっと資料室で調べていたのだから。途中一度揺らされたような気がしたが、眠気の方が勝っていて起き上がれなかった。それから間もなくしてもう一度店員に起こされるまで熟睡していた。

「お客さん・・・お客さん!」

「ふえ・・・あ、あら、あたし、寝てたの?」

「はい。もう閉店です。」

「あ、あら、すみません!」

「お連れの方はもうお先に出られたようですけど・・・。」

「連れ?連れなんていませんけど・・・。」



「あら?そうでしたか?見間違いかな。てっきりお連れさんだとばかり思っておりました。何やらお話になっておられたように・・・失礼しました。」

(何が連れよ。あたしはロンリーレディだっつーの!でも誰か起こしてくれたのかな?京都の人って親切だしね。でも京都に来てからこれじゃ先が思いやられちゃうわ。あー相性悪い!)

なんだかんだあってさなえは不満タラたらだったが、翌朝京都の東山区に向かった。羽間が母親から聴いた話では、古い写真に写っていたのは『八坂の塔』のようだとのことだったからだ。さなえはまず当該警察を訪れ、趣旨説明をした後に行真姓について訊ねた。

「行真ですか・・・この辺りにはもうおまへんねえ。」

「え?もうその苗字はないんですか?」

「そうですねえ。ちょいと待ってください。ひょっとしたら戦前の資料にあるかもしれません。」

調べてもらったところ、戦前には確かに行真という姓の家が一軒だけあったらしい。しかし後継ぎがおらず、結果として絶えてしまったようだ。

「でも・・・おかしいわねえ。だったらなんでお父さんを羽間の家に養子に出したのかしら?」

さなえは急に興味が出てきた。

「で、行真の家があったところってどのあたりなんですか?」

「三十三間堂辺り・・・ですねえ。でももうそこはマンションが建ってますよ。」

「他に情報ないんでしょ?行ってきます!」

さなえは呆れる署員を尻目に、さっさと三十三間堂に向かった。

京都という古都は、地方在住の人間にとっては憧れでしかない。捜査で来たさなえだったが、やはりそこら辺を見渡しても至る所に国宝級建築が並んでいると目が移る。

タクシーの車窓越しに観る京都の景観は圧倒的だった。

「いつか素敵なハニーとゆっくり来てみたいものよねえ・・・。」

さなえは理想の男性のイメージをしようとしたのだが、こういうときに限って羽間の顔しか浮かんでこない。捜査で来ているし、羽間の謎解きであるのだから仕方ないのだが、それには本当にイライラさせられた。

好きでたまらないはずの推しイケメン俳優の顔がどうしても出てこない。

「もうっ!消えてよ、筋肉馬鹿!」

「へ?あたしは痩せてますけど・・・。」

「あ・・・す、すみません・・・。」

思わず声に出してしまい、ドライバーに反応されてしまうという失態に、余計にイライラが募った。

「着きましたよ。」

さなえは降りてすぐ目の前に広がる三十三間堂の姿に声を失った。

「すごい・・・やっぱり京都はすごい。」

地方ではまず見られない荘厳な建築は、人の心に突き刺さ洲ものがある。三十三間堂は、後白河上皇と平清盛によって建立されたものであり、後に豊臣秀吉によって改修され、現在に至る。だがいつまでも京都に浸っているわけにはいかない。

さなえは一礼して捜査を再開した。当該警察に教えてもらった住所に行ってみたが、署員が言うようにそこはマンションになっていた。

そしてそこのマンションには行真家は入居していなかった。

(さて、と。これからどうする、さなえ?)

さなえは近所の聞き込みを開始してみたが、どこにもその情報はなかった。羽間の祖父の世代情報を知っている人などすでにいなかった。ここではもう無理なんじゃないかなと思いつつ歩いていると、さなえのスマホが鳴った。

「あら、筋肉馬鹿・・・。」

羽間からだった。

「もしもし、なに?」

『あ、先輩、お疲れ様です。今は京都のどのあたりです?』

「わからないわよ。三十三間堂の近くにはいるんだけど。」

『あれから調べてみたんですけど、行真ってワードでこれかもってのが一件だけヒットしたんですよ。』

「なにそれ?」

『ええと・・・有名な人でした。後白河天皇が出家して法皇になったときに、行真法皇と称された、そうです。』

後白河天皇・・・日本史上きっての怪人であり、源家平家を手玉に取り、結果的に平家を滅し、鎌倉幕府を誕生させた古代公家政治の最後を飾った天皇である。鳥羽天皇を父に持ち、権勢を誇った祖父白川天皇の院政を行った。

「その人なら知ってる。日本史で習った人よね。だけどさ、その人とケンちゃんと何の関係もないじゃん?」

『まあ、そりゃあそうですけど、他に情報が・・・.。』

「あのさ、あたし、あんたの謎解きで京都まで飛ばされたのよ。もっとまともな・・・。」

さなえは言葉が止まった。

『もしもし、先輩?』

「ちょ・・・ちょっと・・・また、連絡する。」

さなえはゆっくりと電話を切った。今が今まで気がつかなかったのだ。さなえは京都の案内を持ちながら歩いていたのだが、現在いる三十三間堂のところにこう書いてあった。

「後白河法皇御所聖跡 天台宗 法住寺」



鎌倉政権の初頭にカリスマとなった頼朝は、それだけ多くの犠牲の上に成立していました。

カリスマであるということは、体側にある闇も深いということです。

3部にわけざるを得ませんが、面白いかなと思います。

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