ネコと和解せよ
歳をとると、うっかり身体のバランスを崩すことがある。
小さな段差や階段はもちろん、ごく普通の平坦な道でもつまずいてしまう。足腰が弱っているのである。
最近とみに足腰が弱ってきた老人は、散歩に出ることにした。
杖をつきながら、自宅の前の段差を乗り越える。
ふうとため息をついて腰を伸ばし、再び歩きはじめようとしたところで、老人はよろけて隣の家の盆栽棚にぶつかった。
ガラガラとものすごい音がして、植木鉢が転がり落ちる。いくつか割れてしまった。
通りを歩いていた黒いネコが足を止めて、じっとその一部始終を見ていた。
「あらあら! まあまあ! ケガはないですか?」
「悪いねぇ。割れてしまったよ。……急にネコが飛び出してきたもんだから」
雷のような音にあわてて飛び出してきた隣の奥さんに謝ると、老人はネコに濡れ衣を着せた。
妙なところでプライドだけは残っているのだろう。
何もない平坦な道でよろけたとは、言いづらい。
「うちのネコが、すみませんねぇ」
飼い主が現れたというのに、ネコは近づきもしない。
少し離れたところでじっと黒目を丸くして、飼い主と老人のやりとりを見つめている。
隣の奥さんが庭の隅にあったホウキとチリトリを持ち出し、割れた植木鉢を手早く片付けはじめた。
その横で老人はぼんやりと立ちつくし、ネコに言い訳をするかのように、しわくちゃの口をもごもごさせた。
「お宅のネコは、ときどきピャーッと走り出すね。あれは危ない」
「ネコですからねぇ。言ってもあんまり聞かないんですよ。おじいちゃんも気をつけてください」
ネコがアスファルトの道路に、尻尾をびたんと打ちつけた。
明らかに不満の表明である。
感情の読みにくい、丸い目で人間を見ている。
老人は内心うろたえた。
己のなけなしのプライドを守るためとはいえ、ネコに濡れ衣を着せてしまった。
どうせ獣になどわからんだろうと高をくくっていたが、あの黒々とした目はどうだろう。
その一件以来、老人はネコとの和解に躍起になった。
***
「最近お隣のネコちゃん、来ないわねぇ」
しばらくして、リクライニング式のベッドの上で妻がそう呟いたのに、老人はギクリとした。
ギックリ腰になったときほどの衝撃である。
老人の妻は認知症を患っており、外に出ることが少ない。
週に一度か二度、介護施設からやってくる職員と車椅子で散歩をする程度だ。
そんな妻の心を慰めていたのが、まさかお隣のネコだとは思いもよらなかった老人は、内心あわてた。妻想いである。
「他に楽しいことでも見つけたんじゃろ」
老人は虚勢をはって妻をなだめたが、自分がお隣の盆栽棚にぶつかって植木鉢をひっくり返したことを覚えている。
それをネコのせいにしたのが原因で、ネコに嫌われてしまったことも、彼は理解していた。
ネコは獣だが、意外と賢いようだ。
妻のためにも、どうにかしてネコと和解せねばならないと、老人はしわがれた拳を握りしめた。
***
まず老人は、マタタビを用意した。
ネコといえばマタタビだろう。
これさえあれば、ネコはまた元のように妻の前に姿を見せるに違いない。
老人はネコの額ほどの小さな庭に、マタタビをばらまいた。
お隣の家との境界には、特に念入りにマタタビを設置した。
これで再び、ネコもやってくるだろう。
所詮は獣である。マタタビの魅力に抗えるはずもない。
しかし老人の思惑ははずれ、隣の家のネコがやってくることはなかった。
よそのネコがやってきただけである。
妻は、マタタビにつられてやってきたよそのネコを隣の家のネコと同じようにかわいがろうとしたが、毛がボサボサであったり、目ヤニで目が開かなくなっていたり、いかにもノミやダニがついていそうだったりで、老人がさっさと追い払った。
ネコを介して、妻に何かあってはいけない。
あまりのままならなさに、老人は内心、地団駄を踏んで悔しがった。
足腰が弱っているので、実際に地団駄を踏むことはできなかった。
杖がイライラと、地面を突ついただけである。
妻が認知症になって以来、日課となった庭の水やりをしていると、隣の家から声が聞こえてくる。
「タマちゃん、ご飯よー」
「にゃー」
餌だ! と、老人はしわにうずもれた目を見開いた。
***
老人は、歩いて15分ほどの大きな商業施設にあるペットショップに出かけた。
ここならネコの好きそうなものが、たくさんあるだろう。
そう考えてやってきたものの、「ネコ」のコーナーは意外と広い。
一口に餌と言っても、ドライフードやネコ缶、おやつと、大量のネコ用の食べ物がある。
どれだ──と、老人は眼光を鋭くした。
全ての品を試すことはできないし、どうやらネコの年齢や、好みによっても違うらしい。
隣の家のネコは、ササミ味とマグロ味の、いったいどちらが好きなんだ──意外とカツオ節だったりはしないか──。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「……はい?」
若い女性の店員に声をかけられたとき、老人は最初、気が付かなかった。
「何か、お探しですか?」
少し大きな声でゆっくりとくり返した店員を、老人はじっと見つめた。
餅は餅屋ということわざが、老人の頭をよぎった。
ペットショップの店員であれば、きっとネコの好きなものにもくわしいだろう。
「いや……大丈夫です」
しかし老人は、聞くことができなかった。
隣の家のネコに濡れ衣を着せて嫌われ、仲直りをするために餌を探している……などと、伝えるわけにはいかない。
ペットショップの店員ともなれば、動物好きが多いだろう。
まさか客に無礼は働かないだろうが、「ネコに濡れ衣を着せて嫌われたおじいさん」として認知されるのは避けたい。
老人はプライドが高かった。
そのプライドの高さゆえに、ネコとの確執が起きたことを、まだ彼は理解していなかった。
***
老人はペットショップでネコ缶を買い、自宅に戻った。
「ネコが飛びつく!」というキャッチコピーが目に留まったのである。
問題は、いつネコ缶を開けるかだ。
朝と夜は、隣の奥さんが餌を与えるだろうから、ネコも満腹のはずだ。
ならば昼が狙い目だろうかと、老人はいくらか髪が薄くなってきた頭をなでた。
つけっぱなしのテレビから昼の料理番組の軽快な音楽が流れてきた頃、老人は庭に出ると、これみよがしにネコ缶を高く掲げて、パキリと缶詰の封を切った。
庭のマタタビにつられて遊びにきていたネコたちが、一斉に動きを止める。
なかには声をあげずに鳴いているネコもいる。
通称サイレントニャーという親愛を示すサインだが、老人には知るよしもない。
次々と足元にすり寄ってくるネコたちの中に、隣の家のネコがいないか、老人は必死に探した。いない。
他のネコたちは、大喜びでネコ缶を食べている。
「ネコが飛びつく!」というキャッチコピーに飛びついたのは、老人と他のネコたちばかりであった。
これでもダメか──と、老人は思わず空を見上げた。
隣の家の屋根で、黒いネコが毛づくろいをしているのが目に留まった。
あのネコだ。
「ネコ!」
老人は呼びかけるが、当のネコはちらりと老人を見ただけで、ごろりと身体を横たえただけだった。
惨敗であった。
***
膠着状態がつづいていたある日、老人はつけっぱなしにしているテレビのCMに、釘付けになった。
チューブに入ったネコ用のおやつのCMである。
次々とネコたちが映し出され、どのネコもおやつに夢中だ。
これだ! と老人はあわててチラシを取り出し、CMで流れた商品名を裏にメモした。
最近ではチラシも両面印刷が増えて、メモ用紙に使えるものが少なくなってきた。
老人はメモをしたチラシを持って、いそいそとペットショップに向かい、CMで流れていたネコ用のおやつを買うと、すぐに帰宅した。
昼の三時を待って、チューブ型のネコ用おやつの封を開ける。
これ見よがしに隣の家に向けて掲げてみるが、黒いネコは隣の家の屋根から降りてこない。
庭に遊びにきていた他のネコたちがおやつに飛びつくのを、老人は目を細めてながめた。
「お前たちは素直だねぇ。あいつとは大違いだ」
ちらりと隣の家の屋根に目を向ける。
当の黒いネコは伸びをしながら大きなあくびをすると、隣の家のベランダに降りて行った。
獣のくせに、なかなか手強い。
プライドの高いやつめ──と、老人は自分のことを棚に上げて、唇をへの字に引き結んだ。
「お隣の家のタマちゃん、最近ずっと見かけないわねぇ」
「他のネコは来てるじゃないか」
妻がリクライニングベッドの上から投げかけた声にそう返すと、老人は庭用のサンダルを脱いで、部屋に戻った。
「タマちゃんはね、福ネコなんですよ」
「福ネコ?」
「耳も肉球も黒いでしょう? そういう黒猫を福ネコと言うのよ。福を運んでくる、って」
「でも黒猫が目の前を横切ると、不幸が訪れるって言うじゃないか」
「福を運ぶ黒猫にそっぽを向かれるから、そう言うんですよ」
老人は妻の言葉に衝撃を受けた。
ならばその福ネコにそっぽを向かれつづけている自分には、不幸が訪れることになるではないか。
「タマちゃん、また遊びにきてくれたらいいんだけれどねぇ」
妻の何気ない呟きが、老人の胸に刺さった。
結局、あの黒いネコとは似ているところがあるのかもしれないと、老人は自分のプライドの高さについて考えた。
しかし老人は、ネコに濡れ衣を着せた。これでは福ネコも近づくまい。
老人の家が近所でネコ屋敷と噂されるようになっても、当の福ネコはやってこなかった。
ネコと和解せねばならぬ──と、老人は静かに目を閉じた。
***
老人は、ついに観念した。
意を決して、隣の家の呼び出しベルを押す。
少ししてから「はーい」と、隣の奥さんの声がした。
「あら。お隣のおじいちゃん。どうかしましたか?」
「先日お宅の盆栽棚を壊してしまったので、おわびの品をお持ちしました」
「まあまあ。ごていねいに、どうも。うちのタマが驚かせちゃって、すみませんね」
「そのことなんですが……。原因はお宅のネコちゃんではないんです。ただ私がよろけてしまって。お恥ずかしい限りです」
「そうでしたか」
隣の家の玄関に、黒いネコが座っている。
何度も戦いを挑んでは惨敗してきた好敵手の登場に、老人は眉を下げた。
「お前にも悪かったなぁ。またうちにも遊びに来てくれよ。妻が寂しがるから」
隣の家の福ネコは目を細めると、にゃあと鳴いた。
小さいけれど立派な牙だと、老人はほんの少し居住まいを正した。
<おわり>
参考資料
『神と和解せよ』の看板の文字が一部消えて『ネコと和解せよ』になっているもの




