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楽園

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/19






「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」


僕は太宰の書いた一節を声に出して読んだ。

正に今の自分にピッタリな言葉に思え、つい声に出してしまった。

そしてふと我に返り、周囲を見渡す。


新幹線の中は静まり返り、イヤホンを付けて動画を見る人や、缶ビールとナッツで顔を赤らめる人。

漫画や週刊誌を開いている人。

そんなモノも今の時代はスマホで読む事が出来る。


僕はボロボロになった文庫本を閉じて、隣の座席に放り出す。

この本は中学生の時に年の離れた兄にもらったモノで、当時読んだ時にはまったく意味が分からなかった。

どうしてこんなモノが絶賛される文学なのかって何日も何日も考えた事があった。

それからこの本を何度読み返しただろうか。

ふと気付くと兄が一度だけ読んだと言っていた文庫本はボロボロになり、独特の匂いまで発していた。


恥の多い生涯……。

生涯などと宣う程長く生きてもいないが、この二十余年の人生はとても人に自慢できる人生ではない。

現に今も東京という街に敗北を喫し、生まれ育った田舎に逃げ帰ろうとしている所だ。


東京の大学に進学し、田舎の町を出る時に、育った風景を振り返った。

多分、二度と戻る事は無いだろうとその時思ったのだが、結局は盆と正月にもちゃんと帰って来て、ノスタルジーで腹を満たしていた。

そしていつしかそれが自分の支えになっている事に気付いた。


「いつかお前にもわかる時が来る……」


東京に行く時に親父に言われた言葉。

太宰よりも親父の言葉に、僕は何度も熱い溜息を吐かされている。


親父は田舎町で小さな造船所をやっていて、僕が東京に行く時は何人か雇い、町の漁師の漁船の修繕などをやっていたが、その人達も高齢になり、今は親父が一人で細々と造船所を切り盛りしている様だ。

間違いなく、祖父から受け継いだ造船所も親父の代で終わる事になる。


兄貴は福岡の大学へ行き、そのまま就職した。

そして結婚して子供も二人いる。

僕と違い、週末に家族皆で良く帰って来るらしく、楽しそうに海岸でやったバーベキューの写真などを添付してメッセージを送って来る。

家族の写真よりもその向こうに見える風景の方が懐かしく思えた。


東京から帰るのに新幹線を選んだ。

負けて帰る奴に飛行機が似合わない気がしたからだ。

本当なら寝台列車や夜行バスでも良かった。

今は新幹線よりも飛行機で帰る方が安くて速い。

でも僕にはこの東京駅から新幹線に揺られる五時間程の時間がどうしても必要だった。

その五時間で僕は僕自身の何かを変えなければいけない。

そんな気がしていた。


東京駅構内のコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲む。

とっくにお茶は温くなっていて、買った時に期待した爽快感は既に無かった。

僕は前の座席の後ろに付いたポケットにそのボトルを戻し、窓の外を見る。

九州に入ると「もう帰って来た気分になるだろう」と誰かが言っていたのを思い出したが、実は小倉を出てから博多までは結構距離もある。

しかも僕の田舎までは、その博多駅から更に二時間は掛かる。

到底、帰って来た気分にはなれない。


空いた隣の座席に放り出していたスマホが光っているのに気付いて手に取ると、何度も兄からの着信やメッセージがあった。


ごめん。

気付かなかった。


僕はメッセージを返して、またスマホを座席に放り出した。

すると直ぐに兄から返信がある。

僕は放り出したばかりのスマホをまた手に取った。


何時に博多に着く予定かな。

迎えに行くから。


そんな端的な文章だけが書かれていた。


兄も僕が帰って来る事を知っている様だった。

親父が話したのだろうが、どんな顔をして兄に会えば良いのか、その最適解が浮かばない。


良いよ。

電車で帰るから。


僕は少し迷ってそう返した。

また返信が直ぐに来る。


一人で帰るより、俺が一緒の方が良いだろう。

遠慮せずに俺を頼れ。


兄らしい言葉だと思い、自然に微笑む。

兄とは仲は良い方だと思う。

兄には、


「お前も福岡の大学へ行け」


と兄の出身校を勧められたが、僕は兄程成績も良くなく、兄と同じ大学など夢のまた夢で、東京の大学に進んだ。

その分、親父たちに迷惑を掛けた事も否めない。


何なら、うちに一泊して、明日帰っても良い。


兄から矢継ぎ早にメッセージが来る。


ありがとう。

じゃあ、甘える事にするよ。

もうすぐ博多駅だから、何処かでお茶でも飲んでるよ。


僕がメッセージを返すと同時に博多駅に着くアナウンスが流れた。


これ以上、兄の心遣いを断るのは兄を拒む様に思われるかと思った。

それに、兄と一緒に親父と会うのであれば、僕自身も少し楽だと思った。

それ程に親父に会う事が居間の僕には高い壁だった。


僕は横の座席に置いたリュックに文庫本とペットボトルを入れた。






博多駅に着くと、新幹線の改札の中にある喫茶店に入る。

外で喫茶店を探すのも大変そうに思えたのと、曇った空が寒そうに思えたからだった。


「九州は暖かくていいな」


東京の友人は決まってそう言うのだけど、実はそうでもなく、北九州は玄界灘から吹き込む風で、東京より寒い事が多い。

勿論雪も降るし、積もる事もある。

東京よりも雪に慣れている街かもしれない。

それもあり、冬の快晴の日のこの街の記憶が僕には無い。


湯気の立ち上るコーヒーを口に運ぶと、その湯気で眼鏡が曇る。

僕はコーヒーを飲むと眼鏡のレンズをハンカチで拭いた。


兄の家から博多駅までは一時間近く掛かる筈で、僕はリュックから文庫本を出して、コーヒーカップの前で広げた。


この太宰の作品のテーマは自己愛だという。

難しい事に、僕にはその自己愛というモノの意味がわからなかった。


自分を愛する……。

他人さえ愛する事の出来ない自分。

そんな欠陥品の自分を愛する事など出来るのだろうか……。


子供の頃に読んだ時には、なんという体たらくな人間を書いた作品だ。

こんなモノが太宰の代表作で良いのか……。

と考えた。

しかし、大人になるにつれ、その体たらくさが自分の中にも芽生え、そしてそれが心地良い事に気付いた。


僕は一向に進まない文庫本を閉じて、溜息を吐いた。

気のせいか新幹線の中で何度も吐いた溜息よりもその温度は下がっている気がした。


外が見える窓から曇った空を見上げた。

ビルの隙間から流れる雲が見え、今にも雪が降り出しそうな形相だった。

そんな空をいつかも見た気がした。

そしてそんな風景と共に、懐かしい匂いを感じた。

その匂いは良い思い出でも悪い思い出でもなく、限りなく中性……、ニュートラルに近いモノだった。


投げ出す様に置いていたスマホが鳴った。

手に取り画面を見ると兄からのメッセージだった。


筑紫口に着いたぞ。


早い……。

もう到着した様だ。


僕は文庫本をリュックに入れて、飲み掛けのコーヒーをもう一口だけ飲んだ。

そして立ち上がるとレジで金を払い、外に出た。


兄に会う事に抵抗が無い訳では無い。

しかし、逃げ帰って来た身で、普通に笑って話を出来る程、僕も図太い神経は持ち合わせていない。


改札を抜けて、筑紫口から外に出る。

写真で見た兄の車がハザードランプを点滅させながら停車しているのが見えた。

僕がそれを見付けるのと同時に兄も僕を見付けたのだろうか、兄もドアを開けて、背伸びをしながら僕に手を振っていた。

僕は兄に頭を下げると、小走りに兄の車へと向かう。


「ごめんね。わざわざ」


兄は首を横に振ると、僕のリュックを取り、後部座席に置いた。


「何ば言いよっとか。久しぶりに弟に会うっちゃけん、お安い御用たい」


兄はそう言って、僕を助手席に乗る様に勧めた。

僕はドアを開けて兄の車に乗り込んだ。


「こっちは寒かろう。今日は風もあるけん」


兄はシートベルトをして車を走らせる。


僕は「うん」とだけ返事をして、兄の横顔を見た。

その視線に気づいたのか、兄は僕の顔を見て微笑む。


「何ね……。俺の顔に何か付いとるね」


僕は慌てて首を横に振り、青になった信号で走り出す前の車を見た。


「老けたなって思ってね……」


四つ上の兄は大人の顔になった気がして、成長しない自分が少し小さく見える。


「子供もおるし、腹も出て来た」


兄は自分の腹をポンと叩いて笑った。


「腹へっちょらんか……。ラーメンでも食おうか」


兄の言葉に僕は小さく頷いた。






国道沿いの定食屋の駐車場に兄は車を入れた。

ここに来るまで、僕と兄に会話らしい会話は殆ど無かった。

兄も気を使ってくれたのだろうか、僕が答え辛い事は何も訊かなかった。


「福岡にも横浜って所があるとぞ」


兄は目の前に掛かる住所を記した街区表示板を指差した。

確かに横浜と記されていた。


「此処に大学が引っ越して来てな。この辺もどんどん街になって行っとるとよ」


兄は僕が車から降りたのを確認してドアをロックする。


もっとラーメン屋らしい店を想像していたが、どうやら兄の勧めはこの定食屋のラーメンらしい。


店に入ると、ストーブの熱気で暑いくらいだった。

僕も兄も上着を脱いで、端の方の席に座った。

年季の入ったテーブルと椅子、そして壁に貼られた色の変わってしまったメニュー。

独特な豚骨スープの匂いが充満している。


「とりあえず、ラーメンとかしわ飯で良かか」


兄の言葉に頷き、僕は上着を椅子に掛けた。


「此処のラーメン。美味かったい。遠いけん、なかなか来れんばってんね……。近くに来たら必ず食うったい」


兄はテーブルの上の水をコップに注いで、僕の前に置いた。

僕は兄に礼を言って、その水を一口飲んだ。


「東京にも美味いラーメン屋はあるっちゃろ」


兄は温度差で水滴の付いた窓の外を見ながら言う。


「こっちにも東京のラーメン屋はどんどん出店して来よるばってん、博多の人には合わんっちゃろか、直ぐなくなりよるもんね」


僕は無言で頷く。


「東京じゃ、美味い豚骨ラーメンは少ないかもな……。こっちに帰ると豚骨ラーメンは食いたくなるよ」


兄はうんうんと頷き、また外を見た。


「兄貴……」


僕は外を見る兄の横顔に言う。

兄は僕を一度見て、また外を見た。


「何も言わんで良か……。俺もわかるけん。お前の気持ちは……。こうやって帰って来るだけでん、キツかろうが……」


兄は振り返るとコップの水を一気に飲み、またピッチャーから水を注いだ。


その時、ラーメンとかしわ飯がテーブルの上に置かれた。


「ほら、食え……」


兄は箸立てから箸を取り、僕に渡してくれた。

僕は手を合わせて、ラーメンをすすった。

僕には少ししょっぱいラーメンになった。






ラーメンを食べ終え、また兄の車で親父の待つ田舎へと向かう。


怪しい雲行きだった空からは、雪が舞う様に落ち始めていた。


「ラーメン、美味かばってん、喉ん渇くね……」


兄はそう言うと、自販機の並ぶ、海の見えるパーキングに車を入れた。


「何か飲もうか」


と僕に言うとエンジンを切った。


兄は自販機の前に立ち、小銭を出していた。

僕はそこから見える白波の立つ玄界灘を見ていた。

冷たい風が容赦なく吹き付ける。


「ほれ、コーヒー」


兄は僕に缶コーヒーを投げた。

そして二人でその荒れた海を見た。


「東京で海は見とったか」


僕は兄に微笑んで、首を横に振った。


「何回か見たかもしれんけど、こんなに荒れる事は無いからね……。色もインクみたいな色だしな」


兄はコーヒーを一口飲むとクスリと笑った。


「東京の海はインク色か……」


僕はその言葉に頷く。

そしてポケットからタバコを取り出し咥えた。

僕は兄がタバコを吸う事に驚いた。


「お前も吸うか」


兄は僕にタバコを差し出した。

僕は手を出してそのタバコを断った。

兄はタバコをポケットに入れると咥えたタバコに火をつけて、煙を吐いた。


「兄貴がタバコを吸うなんてな……」


僕はベンチに座り、缶コーヒーを開けた。

兄も僕の横に座り、コーヒーを飲んだ。


「タバコを吸うなんて風潮に逆らってるわな……。ばってん、人ってのはどっかに逃げ道ば作ってやらんと潰れるとよ……。タバコが逃げ道とは言わんばってん、何て言うか……、汚れる事も必要なんと違うかな」


兄は煙を吐きながら言う。

何処か言葉を選びながら話す兄が僕の知っている兄とは少し違う様な気がした。


「兄貴も汚れたとね……」


僕は久しぶりに方言を口にした。


「ああ、汚れまくりたいね……。タバコも吸うし、酒も飲む。女買う事もあるしな……」


兄は歯を見せて笑った。

僕もそんな兄貴を見て頬を緩める。


「金、金、金って……。仕事してると金の話にしかならんたい。そげな日々ば過ごしてると人はどんどんすり減って、荒んでいく」


兄の言う通りだった。

僕が東京から逃げ出したのも同じ理由で、どんどん荒んでいく自分に気付いたからだった。






僕は大学時代に友人たちと会社を設立した。

ソフトウエアの会社で、AI技術を駆使したシステムを開発し、それなりに経営も好調さった。

そして会社は順調に大きくなって行き、大学を卒業する事には想像してなかった程に大きな会社になっていた。

それは同時に僕の手には負えないモノになった事を意味していた。


親父にも兄にも、自慢の息子、自慢の弟と煽てられ、故郷に錦を飾る気分で帰郷している自分が居た。


そんなある日、事件が起こった。

会社を辞めた社員が重要なプログラムを盗み出し、ライバル会社にそれを売りつけた。

そしてそのプログラムは国境を越え、ある国で軍事利用され、会社はその責任を取らされる事になった。

もちろんその件は、国を揺るがす程の大事件となり、プログラムを持ち出した元社員は自殺し、その元社員からプログラムを買った会社は倒産、そして僕の会社も叱責だけでは済まされない状況に陥った。

そんな会社を立て直すために金、金、金と金のために動く日々が数年続いた。

僕を含めた学生時代からの仲間は疲労困憊の状況下で何とか会社を立て直した。

しかし、今度はその仲間が株式を売却し、海外の投資家が経営への参加を要求してきた。


僕たちは、もう疲れ切っていたんだ。

これを跳ね除ける力は残っていなかった。

僕は会社を辞めるとだけ仲間に伝え、逃げる様にこうやって九州までやって来た。







「キツかったね……」


兄はタバコを消して僕に言う。


知らない間に涙が流れていた。

僕はそれ以上、涙が流れない様に我慢しながら頷いた。


「逃げただけだ……。自分の居た場所が嫌になって……」


僕の言葉に兄が頷く。


「お前の居場所なんだから、お前が決めたら良かっちゃないとか」


兄はまたポケットからタバコを出し、咥えた。


「生きる事の辛かけん、もっといい場所を人は捜し求める。自分の居場所って楽な場所とは限らんっちゃないとか……」


兄は手摺に肘を突いてタバコに火をつけた。


「辛か場所やけん、此処は俺の居場所やなかって思うのは正解なんやろうか……。自分の居場所が人より辛か事なんて往々にしてあるっちゃなかろうか……」


僕は立ち上がり、兄の横に立ち、同じ様に肘を突いて、荒れる海を見た。

兄は僕を見て、微笑む。


「お前とは背負っとるモンも、金額も違うけん……、一つも偉そうには言えんばってん、逃げる事に負い目を感じる事はなかとぞ。逃げる事が悪だって思うちょるけんが、キツいっちゃろ……。俺は全力で逃げる事も有りやと思うぞ」


僕はその言葉にじっと兄を見つめた。

兄は僕の顔を見て頷き、その表情から笑顔を消した。


「ばってん、辛かけんが逃げるってのは止めろ。それは大人のする事じゃなか。逃げた方が得なら逃げろ。それが大人の戦い方たい」


兄はそう言うと再び、表情に笑顔を戻した。

僕もそれに釣られて微笑んだ。


「兄貴」


僕の言葉に海を見ていた兄は振り返る。


「タバコば一本くれんね……」


僕はその時、数年ぶりにタバコを吸った。


ちらほらと降っていた雪は、大降りになり、荒れた海にも降り頻っていた。






生きる事は辛い事。


太宰は僕にそう言う。

そしてその辛い場所は自分の居場所ではない。

自分の居場所はもっと楽しい場所の筈なんだ。


太宰が追い求めていた場所は「楽園」。

そう彼は楽園を求めていた。


太宰は今、その楽園に居るのだろうか。

彼の求めていた楽園とは、自分に正直に生きれる場所で、周囲が作り出した太宰という人間を演じる必要の無い場所だったのだろうと僕は思う。


兄と話したあの日、僕も自分を演じる事をやめた。

そして、自分の居場所は此処しかないと、東京という街に戻った。







「親父には俺が上手い事言うとくから」


兄は空港の駐車場で僕に言う。

僕は頷いて、兄に礼を言った。


「済まない……。此処まで来て親父の顔を見ずに帰るのも気が引けるが……」


そう言う僕の肩を兄は強く叩いた。


「何ば言いよっとか。親父もお前ん、そげな顔は見とうなかったい。前みたいに、もっと自信満々の顔になったら……、ゆっくり帰って来い」


僕は眼鏡を上げて、兄に頷いた。


「そうするよ」


僕は床に置いたリュックを手に取った。


「じゃあ、行くわ。皆によろしくな……」


僕は歩き出す。


「おい」


僕は兄の声に振り返る。

兄は車に寄り掛かったまま、


「誰が何と言おうと、此処だけはお前の楽園やけんね。楽しむために帰って来い。苦しむために帰って来る場所やなかけんね」


僕はその言葉に何も答えずに歩き出した。

兄も太宰の苦しみを覚えている様だった。






僕は喫煙ルームでタバコを咥えたまま、太宰治の『人間失格』を開いていた。

もう何度読み返したかわからない。

しかし、ようやく太宰の言いたかった事がわかる様な気がしてきた。


もしかすると我々は元々失格の「人間」なのでは無いだろうか。

この世界に生きる人々は人間になる事に失格したから此処に居るのではないのだろうか。


恥の多い生涯……。


生きていれば山程の恥を重ねて行く。

その恥を積み重ね、生きる強さを得て行く。

それが人間という存在に合格出来る唯一の方法なのでは無いのか。


僕はそう思った。


太宰は自ら命を絶つ事は無かったんだ。

もう少しで人間に合格する所だったんだ。

まず、生きる事の恥に気付く事。

そしてそれを恥じずに続ける事。

それが人間なのかもしれない。


窓の外に広がる大都会を見る。

大勢の人が日々に追われ、街の中で生き急ぐ。

人より前に出たい。

そのためには金と時間が必要で。

それを追い求めると、恥をかく。

恥をかかずに生きたいと思う。

それは人としての完成体から遠のく事になる。


神はこの世界を残酷に作った。

それはこの世界が地獄という場所だからだろう。


僕たちは地獄に産み落とされた存在で、だからこそ、行きながら辛い思いをして、人間になるための試練を与えられる、そして、人間になるための条件さえも自分で捜し求めるしかない。

恥を重ねる事。

それが唯一、人間になれる条件であるのならば、人はまた、地獄に生まれる事を選ぶのかもしれない。


僕はボロボロの文庫本を閉じて、カウンターの上に置いた。


この中に描かれる主人公は何も特別な存在ではなく、誰もが同じ様に流され、そうなる可能性を持つ。

そして僕自身もそれに属する。


生きていくために汚れる。

それは必要悪と言われるモノなのかもしれない。

それが、必要悪であるのならば、僕はその悪を飲み込み、自分の「恥」の一つとしようと思う。

そうやって重ねて行く恥を糧に、いつか自分の楽園に辿り着けるのであればそれでいいのかもしれない。


家を出る時に親父に言われた「いつかお前もわかる時が来る」という言葉。


今ならそれがわかる様な気がする。

親父にとってあの町は楽園であり、安住の地なのだろう。

僕にとって、あの町がそうなるまではまだ時間が掛かる筈だ。

そして親父はもう人間に合格出来たのだろうか。

僕や兄のために随分と恥の多い生涯を送ってくれた気はするが……。








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