夜を閉じ込める彼女の話
夜の国立魔法学園の校舎には、空気よりも冷たい“何か”がいた。
その何かは、窓の隙間から月の光を浴びて、教室の片隅でただただじっと、待っている。
気づいてほしい。
見つけてほしい。
叶えたい。叶わない。
足音が二つ、静かに床を踏んだ。
ひとつは小さな足音。
ふわふわと落ち着きなくウェーブした真っ赤な髪に、今にも涙が零れ落ちそうな大きな紫色の瞳。
平均よりも小さいだろう背丈に真っ白な肌の真ん中に浮かぶそばかすが、彼女を少し幼く見える要因だろう。
フィーネ・フェルナー伯爵家令嬢は、狼を警戒する小動物のように体を震わせながら歩いていた。
もうひとつは重く乱雑な靴音。
貴族が多く通う学園には珍しい焼けた肌に、無造作な灰白色の髪。
本来かっちりとしたはずの制服は着崩され、赤い瞳は獣のように鋭い。
彼の名前はアッシュ・レイファルド。
3年前に引き取られたレイファルド侯爵家の私生児である。
教室の扉を開けた途端、フィーネはひいっと声にならなかった息をもらした。
生徒のいない教室は、いつもよりも広く見えて、そんな小さな息でさえも反射するかのような錯覚がする。
「ア、アッシュ……あそこ、見える……黒板の前……誰か……」
震えるフィーネの手が、アッシュの袖をつかむ。
その細い指はひやりと冷たく、今にも力が抜けそうだった。
「視えるだけでビビってんなよ」
「ご、ごめんなさい……でも、怖くて……!」
フィーネは思わず彼の背中に隠れる。
顔を出すこともできず、瞳をそっと閉じた。
アッシュは舌打ちした。
「……いいか、ビビっててもいい。けど目は明けてろ。お前が見ないと、どこに幽霊がいるのか分からないだろうが」
彼の声は乱暴で、数年前までスラム街で暮らしていたという生い立ちにぴったりである。
侯爵家での教育という名のしつけはあまり上手くいっていないらしい。
貴族社会の表面だけはお奇麗な世界で生きてきた令嬢には、幽霊と同じくらい怖い口調である。
それでもフィーネは、ぎゅっとアッシュの制服の裾を握りしめている。
「椅子に……座ってる……女の子。……苦しそうな顔してる」
とうとう、フィーネの頬が濡れた。
アッシュは一瞬、彼女の方を振り返り――
「……チッ、泣くな。前は俺が行く。お前は、視るだけでいいから、とりあえず目を開けろ」
フィーネは恐る恐る目を開けると、ひっと小さく身をかがめた。
だたでさえ小さな背丈が、さらに小さくなる。
「どこかに、閉じ込められていたみたい……そ、それで、死んじゃって、ま、魔力に惹かれてここに…」
「……わかった」
緩慢な動作で、アッシュが前に向かって手をかざす。
彼の掌に、淡い赤の火が灯った。
「すぐに終わらせてやる」
彼が歩みを進めると、火に照らされて霊の姿がさらに浮かび上がった。
制服は汚れ、美しかっただろう栗色の髪は無造作に刈られてしまっている。
少女の霊は、歪んだ顔のまま、恐れと悲しみの狭間にいた。
アッシュが、火をその絶望に向けて差し出す。
「痛くない。大丈夫だ」
見えていないだろうに、そこにいるはずの霊に話しかけながら、アッシュはそっと火を手のひらから放った。
次の瞬間、霊の身体に火が触れた――が、燃え上がることはなかった。
ただ静かに、音もなく、灰がほどけるように空中へと舞っていく。
黒い瘴気は崩れ、空気が澄む。
霊の姿が、透き通る光となって、夜の静寂に溶けていく。
その顔には、もう苦しみはなかった。
天に昇っていく直前、少女の霊は、最後に二人を見て、ほほえんだようだった。
「……消えたよ」
「消えたんじゃねぇ。あるべきところに“還った”んだよ」
アッシュの声が、少しだけ優しくなっていた。
フィーネはそっとアッシュの背中から離れ、少女がいた黒板のあたりを見つめた。
「……ありがとう」
「礼は要らねぇ。仕事だ」
そう言いつつも、彼はフィーネの頭を軽くこづいた。
「もっとしっかりしろ」
「っ……こ、怖いのは無理です……」
「だから俺がいるんだろ。霊は浄化の炎で俺が送る。お前には手出しさせない。お前は俺の“目”なんだからな」
さっさと歩き始めた彼だったが、女子寮のやたらと重厚な扉の前まできちんと送ってくれた。
彼が送るのは霊だけではないらしい。
翌朝はよく晴れていた。
生徒たちが起きてくる前に、さっさと食堂で朝ご飯をすませる。
女子寮と男子寮の間には食堂があって、こちらは男女共用だ。
ベーコンをはさんだコッペパンをさっと食べ終え立ち上がったアッシュの後ろを、まだリスのように口をもぐもぐさせて、フィーネが付いていく。
悲しいことにコンパスが違いすぎるので、一緒に歩くとき、フィーネはだいたい小走りになる。
まだ生徒が登校していない歴史ある校舎は、日中と違って活気がないが、不気味さは夜よりも何倍もマシである。
三階廊下の多くにある、他よりも豪華な装飾の扉。
生徒会室である。
アッシュはこんこんと小気味よくノックすると、返事を待たずに扉を開けた。
重厚な木の家具、緋色のカーテン、整えられた書棚とユリの生けられた品のよい花瓶。
すべてが計算された“美しさ”の中に、リオネラ・フェルナーは優雅に座っていた。
腰まで流れるまっすぐな深紅の髪。
緑の瞳は宝石のように冷たく、完璧に整えた制服の襟元には生徒会長の証である金のブローチが光っていた。
その姿はまるで王宮の肖像画のようで、フィーネがうっかり見上げると、足がすくんで動けなくなるほどだった。
「お、おはようございます。お姉様……」
フィーネは、扉の隅に立って身を縮めた。
ワンピーススタイルの制服をぐっと握りしめて、ちょこんと頭を下げる姿は、庇護欲はそそる貴族としては満点とはいいがたい。
リオネラのため息が聞こえてきそうだ。
アッシュは無造作に袖をまくり、白灰色の髪をかき上げた。
「朝から気軽に呼び出しやがって。俺らを便利屋かなにかと勘違いしてんじゃねえか」
粗雑な言葉に、副会長のルシアン・グリモワールがピクリと眉を動かしたが、静かに書類をリオネラへと差し出した。
黒髪を一つに結び、眼鏡の奥の瞳にはわずかな諦めと観察の色。
「でも事実、“便利”なのよね。君たち」
リオネラを受け取ると、フィーネをじっと見つめた。
「……フィーネ。あなた、魔法実技が下から三番目でしょう。それを“幽霊対策委員”の活動で加点してあげているんだから、文句はないでしょう」
「は、はい。感謝しております……」
リオネラはゆっくり立ち上がると、フィーネのすぐ近くまで歩いてきた。
目の前に立たれただけで、フィーネはひゅっと肩をすくめる。
「よしよし、今日も可愛いわね、うちの小動物ちゃん」
わしゃわしゃわしゃ。
リオネラは容赦なくフぃーネの頭をかき混ぜた。
赤髪はすぐにぐしゃぐしゃになり、フィーネは情けない声で悲鳴を上げる。
「や、やめてくださいぃ……!乱れます……っ!」
「だって可愛いんだもの。怖がってる顔、ほんとに癒されるわあ」
アッシュが横からぼそっと言う。
「お前、小動物好きって言ってるけど、その調子だとだいたい逃げられてんだろ」
「それでも近づきたくなるでしょう? 好きな子ほど、いじめたくなるのよねえ」
涙目の妹を見下ろして、リオネラが満足そうに微笑む。
そして、ふっと表情を変えて書類を一枚持ち上げた。
「それにしても……困ったわ」
アッシュとフィーネの背筋が同時に震えた。
「困ったわ」――それは、リオネラが“何か面倒ごとを押しつけるとき”に発する合図だった。
「旧校舎の音楽室に、幽霊の目撃情報。深夜、だれもいないはずの音楽室からピアノの音がする。さて、誰が確認に行くべきかしら?」
アッシュが小声でぼやいた。
「言い方がもう、決定事項じゃねえか……」
「アッシュ。あなたも筆記試験が壊滅的なことを忘れないでいてほしいわね」
「ちまちました作業は苦手だ」
「勉強をちまちまと表現する人は初めて見たわ」
姉のため息に、フィーネはびくっとして、アッシュの背中に半分隠れた。
「あらやだ。私よりそいつのほうに懐くなんて」
「妹を動物みたいに言うな」
「お、お姉様……音楽室なんて、わたし、むりです。怖いです……旧校舎って、ただでさえ幽霊ばっかりなのに…」
「大丈夫よ。アッシュがいるでしょう? 彼、浄化魔法だけは信用できるから」
「だけで悪かったな」
ルシアンがすかさず補足する。
「アッシュは素行に問題がありますが、さすが火魔法の名門レイファルド家出身といえるだけはありますね。その中でも浄化の能力は群を抜いています。卒業条件の補填として最適です」
「お前ら貴族は人使いが荒い」
「今はあなたも貴族でしょう」
「不本意ながらな」
アッシュはため息をつき、諦めたように答えた。
「わかったよ。行ってやるよ。どうせ、断っても無駄だろうしな」
リオネラは隠れるフィーネに近づき、わしゃわしゃと再び頭を撫でた。
「アッシュが守ってくれるのなら安心でしょう? 頑張ってね。わたしの小動物さん」
フィーネはもはや抵抗する力もなく、涙目になった。
こうしてまたひとつ、“困ったわ”が夜を連れてくる。
白い月が空を満たし、学園ご自慢の庭園の薔薇のつぼみがそっと風に揺れる。
女子寮の門柱の影には、白灰の髪をした少年が腕を組み、無言で立っていた。
制服はいつものように着崩し、袖はまくり上げ、ブーツの先にはわずかな泥。
その顔に浮かぶ不機嫌そうな陰は、待ちくたびれたというより――照れ隠しに近かった。
「……ったく、遅ぇよ」
ちいさな音を立てて、寮の扉がきぃと開いた。
ふわふわと波打つ赤毛が、夜風にふわりと浮かぶ。
整えようとした跡はあるが、寝癖なのか生来の質なのか、髪はまとまりきらずに広がっていた。
制服の襟も少し曲がっていて、手には小さなランプ。
紫の瞳が、おそるおそるアッシュの姿を見つめる。
「……あ、アッシュさん……その……迎えにき、来てくれて……」
「“さん”つけんなっつってんだろ。むず痒い」
「で、でも……その、ひぎゃあ!」
「なんだよ」
「風で、葉が……ちょっと、音がして……」
「はぁ? 葉っぱ擦れるくらいでビビんなよ」
その瞬間、背後の木がざわ、と揺れた。
「ひっ……っ!? な、何か……何かいますっ!」
アッシュは盛大にため息をつく。
だが、肩は少しだけ脱力していて、怒っているというより――慣れていた。
「……お前、ほんとよくそれで夜歩けるな……」
「……む、無理です、歩けません……」
言い終わるより早く、アッシュは歩み寄り、フィーネの頭にぽす、と手を置いた。
「っ……!」
大きな手。指は節くれ立ち、でもどこか、乱暴なようで丁寧だった。
フォーネのふわふわした髪が、くしゃりと押し込まれる。
「お前のその頭、ほんとまとまりねぇな……」
「ひ……や、やめてくださいぃ……」
アッシュは顔を背け、やや早口で言う。
「……お前見てると、スラムにいた頃のガキどもを思い出すんだよなあ。まあ、どうせ一人で音楽室なんか来られねぇだろ」
フィーネはうつむきながら、小さくつぶやく。
「……来てくれて、ありがとう……」
「だから、礼もいらねぇっての」
気まずさを紛らわすように、アッシュはさっさと背を向けて歩き出す。
フィーネは慌てて追いかけるが、歩幅がまったく合わず、二歩遅れてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください……! 置いていかないで……!」
「……だったら、最初から俺のすぐ後ろにいろ。どうせお前、俺の背中に隠れてばっかなんだから」
フィーネの紫の瞳が、ちらとアッシュの背中を見る。
その背は大きくはないが、不思議と安心できた。
校舎の中は、昼とはまるで違っていた。
月光だけが廊下に満ち、窓の外の影が床に揺れる。
ふたりの足音が、床に吸い込まれるように響いては、消える。
フィーネはアッシュの背中にぴったりとついて歩いていた。
一歩でも離れれば、暗闇のなかに呑まれてしまいそうで、指先が彼の上着の裾をほんの少しだけ、握っていた。
「……なあ、あんまり引っ張んな。歩きづらい」
「ご、ごめんなさい……でも……暗くて、風の音も……」
風が廊下をすり抜けた。
フィーネがひゃっと飛び上がる。
天井の梁が、かすかに軋む。
古い建物特有のきしきしとした音が、ささやくように耳に触れる。
「……あの音楽室だ」
音楽室の扉の前に立つと、すっと扉を開ける。
かすかに――音がした。
壊れかけのピアノが、誰かに弾かれている。
鍵盤はまともに揃っていないはずなのに、美しい旋律は、確かに流れていた。
フィーネの紫の瞳が、大きく見開かれた。
「……います。誰か、ピアノの前に……座ってる」
「……行くぞ。絶対、俺の後ろから離れるなよ」
扉が、きぃ、と軋む。
音楽室の中は、月の光がほのかに差し込んでいた。
その光の中――白い制服を着た少女が、ピアノの前に背を向けて座っていた。
ゆっくりと鍵盤に触れる指。
でも、音は鳴っていない。
鳴っていたはずなのに、今はただ、静寂だけがそこにあった。
フィーネが一歩踏み出しかけたとき――
「おい、勝手に行くなと……!」
確かに聞こえていたはずのアッシュの声が、ふいにかき消された。
軋む蝶番の音すら、夜の静寂に溶けていく。
フィーネの足元に、月光がすうっと差し込み、床にまっすぐな道を描いた。
その先――そこに、少女がいた。
壊れたはずのピアノ。
その前に座る女生徒は、不思議そうにフィーネを見た。
フィーネと同じ学園の紺色に白い襟の制服姿だ。
漆黒の美しい髪を窓からの風になびかせながら、細い指先が鍵盤をなぞっている。
「どなた?」
女生徒の声は、そのピアノの音色と同じく、透き通るように美しい。
琥珀色の瞳がやけに目に付く。
月明かりに照らされたその姿は、夜を切り取ったような幻想的な雰囲気がある。
「あの、わたし、ピアノの音が聞こえて…」
「あら。うるさかった?ごめんなさい」
「ううん。きれいな曲だなって」
「え、本当?ありがとう!」
ふふふと笑うと、目が三日月の形になって、フィーネはふと緊張を解いた。
彼女の声は水面をなでるように柔らかく、フィーネの心をそっと撫でていく。
フィーネはそっとピアノの前に立った。
紫の瞳を譜面台の上の楽譜に向ける。
「……この曲、聞いたことない」
「私が作曲したのよ。素敵でしょ?」
「うん。きれいな曲だったよ」
「ありがとう。でも、最後の一小節だけがまだ完成していなくてね。夜にここのピアノを使わせてもらっているの」
少女は優しく微笑む。
「私の夢は、作曲家なのよ。まあ、お父様に反対されているんだけどね。だからこうして、こっそり作曲しているのよ」
「夢かあ。素敵」
「音で、誰かの心に触れたいの。もし作曲家になれなくても、名前も残らなくてもいいわ。ただ、音だけでも、誰かに届けば……」
そのとき、ふわりと風が吹いた。
音楽室の窓が少しだけ開いていて、カーテンが揺れる。
その隙間から、月がよりいっそう強く光を差し込んだ。
ピアノの鍵盤と譜面が、光に包まれる。
少女とフィーネの影が重なって、揺れた。
「……ピアノは弾ける?」
「嗜み程度だけど……」
「十分よ!この曲、本当は連弾用なの!一緒に弾きましょう!」
少女が、鍵盤の左側に少しだけずれた。
フィーネは、小さく頷く。
手を伸ばすと、白く光る鍵盤が指先に触れた。
冷たいはずのそれが、不思議と――温かかった。
ひとつ、音を重ねる。
少女が応えるように、もうひとつの音を添える。
楽譜を追いながら、ぼろんぼろんとピアノを奏でる。
「月みたいな曲だね」
「わかる?わたし、ここで三日月の夜をイメージしながら作曲したの」
「綺麗な曲だね」
「最後の一小節、どうしようかなあ。夜の終わり」
ちょうど楽譜の最後まで弾き終えて、少女は首を傾げた。
フィーネも一緒に考えて、ふと提案してみた。
「三日月が満月になるのは?」
「ええ?でも、夜が終われば朝になるのではなくて?」
「ずっと夜でいいじゃない。月の満ち欠けだけを曲の中に閉じ込めるの」
少女は隣に座るフィーネに距離をつめると、興奮したようにぎゅっと手を握った。
「それ素敵!」
それから、そっと鍵盤を叩く。
満月に相応しい、幻想的で優しい旋律だった。
「ずっと美しい夢の夜でありますように」
そのとき、音楽室の扉のあたりで、何かが光った。
淡い、炎のような光。
ふいに、低くくぐもった声が響く。
「――フィーネ」
少女の横顔が、月明かりに透けて、まるで夢のように揺れている。
「きれい……」
月明かりが差し込む音楽室。
ふたりの少女は並んで座り、鍵盤に指を添えていた。
ひとつ、またひとつ、音が生まれ――
やがてそれは旋律へと育ち、空間そのものを柔らかく震わせ始めていた。
フィーネの紫の瞳は、楽譜だけを見ていた。
視線は遠く、頬には涙が一筋流れていたが、気づかない。
指は止まらない。
音の一粒一粒が、心に刻まれる想いのように響いていた。
それは、夢を綴る旋律。
未完成のまま残された、最後の願い。
そのとき、楽譜とフィーネを遮るように、真っ赤な炎が現れた。
フィーネははっと鍵盤から手を放す。
のろのろと呆けたように、いつの間にか隣に立っていた彼をみた。
「……フィーネ! おい、フィーネ!!」
アッシュの怒声が、夜の静寂を割って響いていた。
音楽室の中央。
そこには、ピアノに向かって座ったままのフィーネがいた。
彼女のふわふわの赤毛が、揺れに揺れ、鍵盤をたたく指は止まらない。
まるで夢遊病者のように、ひたすらに美しい曲を奏でる。
「くそっ……何してんだ、こいつ……!」
音楽室に入ったかと思うと、いきなり聞いたこともないような曲を一心不乱に弾き始めた。
アッシュはフィーネの肩を掴み、揺さぶろうとした。
けれど、彼女の体はまるで何かに守られているように動かない。
「……ああもうっ、だから勝手に中に入るなっつったんだよ!」
焦りが怒りに変わる。
一緒に行動し始めてから半年ほどだが、このようになることは珍しくない。
共感能力が無駄に高すぎるのだ。
臆病なくせに。
ずっと後ろで隠れていればいいのに。
そうしたらーー
アッシュは手を構え、彼女の周囲にゆっくりと炎を灯した。
炎というのは、浄化の力があるらしい。
霊は、魔力に影響して変質しやすいもので、そうなると天に昇ることが難しくなる。
アッシュの炎は、未熟な魔法使いたちの宙に転がり出た邪な魔力を浄化する。
温かく、優しく、触れたものを痛めない火。
けれど、その炎が静かにフィーネを囲んだとき――
彼女の手が、ぴたりと止まった。
そして、はっとしたように顔を上げた。
突然目の前に現れた炎を見た時、フィーネはふと呟いた。
「……ア……ッシュ……?」
「やっと戻ったか……っ」
アッシュは怒りと安堵が混ざった目で、彼女を見下ろしていた。
「勝手に音楽室入って、勝手に取り憑かれて……どんだけ手間かけさすんだよ、お前は!」
その言葉に、ピアノの前の少女がふと目を伏せた。
「……もう、お別れなのね……」
声は悲しみを含んでいたが、どこか安らいでもいた。
「ありがとう。連弾、楽しかったわ」
楽譜を大切そうに胸の中に抱きしめて、少女が笑う。
フィーネの周囲の炎がふわりと揺れた。
それは、まるで彼女の背中に翼を与えるかのように、
霊の少女を優しく包み込み――
その身体は、炎の光とともに、空へと溶けていった。
その間、フィーネは、呆然と立ち尽くしていた。
「……え?あれ?……あの子……」
そこで、白い顔が青白くなる。
「幽霊!?」
ひいっと悲鳴をあげて立ち上がる。
「……気づいてなかったのかよ」
「だって、音楽室を借りて作曲してるだけだって……」
「この旧校舎が使われていたのは7年前までだな。それ、何年前の話だよ」
涙目のフィーネに、呆れたようにため息をつくアッシュ。
月が静かに、鍵盤を照らしていた。
連載にしようか迷い中……