冬空 【恋愛】
辛い事があると、ポケットの中でクマのキーホルダーを握りしめる。拓己が残してくれた物だった。鼻先の色がはげ、左耳が少し欠けている。十二年。あっという間に時間は流れた。やがて私は三十歳になる。私一人が、大人になってしまった。
「笹原さん、それじゃお先に失礼します」
「お疲れ様。また月曜にね」
笑顔をつくって、化粧を直した後輩を事務所から送り出す。金曜の夜、私は事務所で一人、FAXを待っている。やがて送られてくる図面を元に、本部に報告の電話を一本入れなければならない。
誰でもできる仕事だった。誰かが取引先からのFAXを待っていればいいだけだ。誰か。それはいつも私の事だった。暗黙の内に、そうなってしまった。メールにしてくれれば良いのに、という愚痴は聞き飽きた。けれど、慣習はいっこうに変わる気配がない。
私は窓の外、向かいのビルで動く人影を追う。道路に列ぶテールランプを数える。ガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺める。事務所はしんとして、パソコンの低いうなりだけが聞こえていた。
あの日、拓己と手に手を取って海岸を歩いた時も、しんとして波のうなりだけが聞こえていた。冬空は曇り、低気圧が近づいていた。
二人で海に向かって立った時、世界がどんよりとのしかかってくる様な気がした。
どうして二人で死ぬ事に決めたのか、今となっては定かではない。生々しい感情は分厚い繭にくるまれて記憶の底に沈んでいた。きっとたいした理由じゃない。ただ、なんとなく、死ぬ事に取り憑かれてしまっていたのだ。
踏み出したつま先が濡れて、冷たい。寒さで肌が痛い。それらもしかし、演出でしかなかった。首元まで浸かった時、血が凍る、と感じた事は、鮮やかに覚えている。ああ、死ぬんだ。そこで私は気を失った。しかし私の体は、拓己によって砂浜へと連れ戻された。気が付いた時は病院で、人づてに、拓己が再び一人で海へと潜っていった事を聞いた。
彼は持っていたクマのキーホルダーと、砂浜に短い手紙が残していった。
――先にいってるよ。
砂浜に指先で書いた手紙は、私が助けられる間にかき消され、判然としなかった。君を置いて先に行くよ。そんな事が書かれていたという。謝罪の言葉もあったそうだ。
彼がどうして私を置き去りにしたのか、何度も考えた。先に行ってるよ。彼は今も私を待っているだろうか。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
泣いて泣いて、時間は過ぎる。
キーホルダーを握るたびに、手の平の向こうに、ずっと先で待っている拓己を思う。あの日置いていかれた私は、ゆっくりと彼を追いかけていく。そのうち行くよ。拓己の後ろ姿を見ながら、もう少し先まで行けると、私は前を向く。