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雪の中 【恋愛】


 夕方のホームは学校帰りの高校生たちで溢れていた。今年始めの雪が降る中、両足を晒して戯れている女子高生たちを横目に、少しばかり遅れて到着した列車に乗り込む。ベッドタウンに向かう列車の中は疲れた人々で埋まり、生暖かく湿っていた。

 こうして列車で二駅の距離を移動するのも今日で最後だった。

 僕が二つ目のアルバイトとして始めた家庭教師は、週に二度、高校三年生の数学と化学を教えるものだった。高校を卒業して一年、始めは久しぶりの教科書に戸惑いもしたが、受験で詰め込んだ記憶は埃さえ払えば確かにそこにあった。もともと真面目だった生徒の力もあって、一年を通して順調に学力は向上し、先週彼は無事、志望校に合格した。

 滑り止め校に向けて予定していた今週の授業を、せっかくだから、といってキャンセルしなかった彼女の真意は僕にはわからない。ただ僕は、彼女にまた会えることがほんの少し嬉しかった。

 ぎゅうぎゅうの車内の片隅で押しやられるようにドアにもたれかかる。水蒸気に白く曇ったガラスの向こうでは町がやはり雪に白く曇って、まるで別世界のように僕の心を捉えた。

 一体どうして、こんな気持ちを抱くようになってしまったんだろう。

 生徒は地元の私立高校に通う、ごく普通の男子高校生だった。ときどき、男同士の話をしてやると少し上気して、大人はいいよな、と皮肉を言う。誕生日に秘蔵のビデオを渡したときは、どんな指導をしたときよりも尊敬されたものだ。僕たちは、ごく一般的な家庭教師と生徒として、申し分ない信頼関係を持ち、結果を出し、友情さえ感じていた。

 しかし僕は彼を一方でひどく裏切っていた。

「すいません、雪で送れてしまって」

 改札を出ると、彼女は雪の中で傘を差して、いつもの場所に立っていた。

「しかたないわ。この雪ですもの。寒かったでしょう」

 ゆっくりと柔らかく彼女は微笑む。小柄な体をピーコートで包み、ブーツを履いた姿はとても高校生の息子を持つ母親には見えなかった。

「無理を言ってすいません。義明がどうしてもって言うもので」

 歩き出しながら、彼女は傘を僕の上にかかげた。

「大丈夫です」

 見下ろすような慎重さの彼女が伸ばした手を制して、傘をその手から取った。

「僕が差したほうがいいでしょう」

 彼女は一瞬僕の目を見て、小さく頷いた。

 駅前のロータリーをぐるりと回った先に、彼女は駐車場を借りていた。ベッドタウンに名乗りを上げたばかりの住宅地は駅から車で十五分の距離だが、バスは一時間に一本有るか無いかで、道には街灯もまばらだった。安いからってだけで家を買っちゃだめね、彼女はいつかそう愚痴をこぼしたが、夫と息子を駅まで送り迎えすることに、それなりにやりがいを感じているのを僕は知っている。

 そして僕にとっても、送り迎えの十五分は貴重な時間だった。

「時子さん」

 車に乗るなり、僕は抑えきれないように彼女の名前を呼んだ。

「先生、ちゃんとシートベルト締めて下さいね」

 彼女はまるで僕の切に迫った声なんか聞こえなかったかのように、自分のシートベルトを締めると、真っ直ぐに前を向いて車を出した。

 僕はゆっくりとシートベルトを締めると、静かに前方の白い景色を見つめた。

 カーステレオから、彼女の好きなミーシャの歌声が聞こえてくる。ボリュームを下げた愛の歌がゆっくりと車内を満たしていく。

「義明君の部屋は見つかりましたか」

 僕は家庭教師らしい台詞をようやく見つけて口にする。

「ええ、先生がアドバイスしてくれたおかげでいい部屋が見つかりました」

「そうですか。一人暮らしがはじまる前に、ちょっと練習させてあげた方が良いですよ。僕も、最初は料理とか、ひどいもんでしたから」

 彼女は口元をほころばせて、お母さんらしい台詞を見つける。

「そうね、先生みたいにかわいい彼女の一つでもできればいいんでしょうけど」

 僕は惰性で付き合ってる彼女の料理があまり上手くは無い事を伝えるべきかを迷いながら、当り障りの無い言葉を選ぶ。

「義明君ならすぐできますよ」

 傷をえぐるような会話は、そこでぷっつりと途絶えた。

 小さな信号待ちがやたらと重くのしかかる。彼女はカーステレオのボリュームを上げた。

 信号が青に変わり、すべるように車が動き出す。

 僕は彼女に伝えたい言葉が渦のように自分の中で荒れ狂うのを感じた。そしてそのどれもが彼女を傷つけ、追いやり、消えない罪を露にすることを僕は理解していた。

 どうして彼女は僕にこんな気持ちを与えたのだろう。僕は彼女をぼんやりと憎む。となりでハンドルを持ち、神経質にワイバーが行き来するフロントガラスの向こうを見つめている、年上の彼女をぼんやりと恨む。

 しかし同時に、汚い劣情を向けた自分の悪を棚に上げていることも解っている。

 僕はどうして。

 どうして僕は。

「時子さん」

 もういちど名を呼ぶと、彼女はびくりと小さい肩をいっそう小さくした。

「僕は、時子さんが好きだよ」

 どうとでもなれ、という気持ちで口にした。言葉がこぼれたあとの心は静かに凪ぎ、まるで世界の全てが時間を止めたように感じた。

 彼女は、何も言わなかった。車が家に着いても、いつも軽やかに口にする、到着を知らせる声もなかった。ただ無言のままに僕らは車を下り、今までで一番静かに玄関を潜り抜けた。

「よお、先生」

 車の音に玄関に出てきた義明に僕は明るい顔を作る。

「雪すごいぞ。おまえどうせ、今日も外に出てないんだろ」

「当然じゃん、学校も無いのにさ」

 どやどやと会話をしながら、二階の義明の部屋に僕は逃げ込む。

 机の上におざなりに勉強道具を広げて、僕たちは先生と生徒として最後の時間をすごした。義明はこれから始まる大学生活への希望に満ち溢れ、嬉々として僕の日常を聞きたがった。僕は当り障りの無い大学生活をひけらかしながら、彼のきらきらと輝いた瞳を直視できずにいた。

 いま、時子さんはどうしているだろう。

 そんなことばかりが頭をよぎる。義明は僕の裏切りにまったく気付いていなかった。いや、もしかしたらこの賢い男子高生は気付いているのかもしれない。そして僕を憎んでいるのかもしれない。

 妄想が頭の中でふくらみ、僕は耐え切れなくなってトイレに立った。

 いったいどうしてこんな苦しみを抱えることになったのか。僕の記憶は夏へと遡る。

 受験勉強に拍車をかけようと、夏休みの間、僕は週に四日、義明の勉強を見ることになっていた。尋常ではないやり方だったが、彼の熱意と通える予備校も無い状況がそんな事態を作り出した。別段、バイト以外にやることの無かった僕は、高収入でストレスも無い仕事に不満は無く、電車で二駅の道のりを行き来し、時子さんに送られて日々を過ごした。そうして僕たちは狭い車内でいろいろな話をした。

 話の端々から、僕は時子さんが夫と上手くいっていないことを知り、さらには夫が浮気をしているらしいことも知った。

 思えば僕は時子さんにとって、あのとき、僕は唯一の救いだったのかもしれない。

 夏が終りを迎えようとするころ、一つの事件が起こった。急速に近づいた台風によって、帰りの電車が止まってしまったのだ。たった二時間の間の出来事に、彼女は慌てて僕を車で送ると申し出た。そうして出発した僕たちの車は、すぐに渋滞につかまり、たった二駅の道のりは長く長く引き伸ばされた。

 彼女はそこで、突然僕にキスをした。

 どんな話の流れだったかはもう思い出せない。ただ、僕たちは普通の恋人同士のように見つめあい、唇を重ねた。それが罪だと気付いたのはクラクションの音に彼女がはなれ、何事も無かったかのようにアクセルを踏み込んだ時だった。

 僕は動転した。しかし同時に胸のすくような快感を味わった。彼女はもう四十も半ばという年齢だったが、身だしなみは十分に整えられ、うっすらと化粧をした顔は凛とした美しさを持っていた。その横顔は僕にとって背徳という言葉に少しも恥じないものだった。

「保之さん」

 僕の安アパートの前で、彼女は僕をそう呼んだ。僕らは黙ってアパートのドアを開け、抱き合った。

 狭い八畳間は窓から入る街灯の明かりに青白く照らされ、ガラスに叩きつける雨粒の音が全てを掻き消すように僕らを包んでいた。

 僕は一瞬だけ、義明の顔をまぶたの裏に見た。しかし考えが繋がるよりも先に、抱きしめた罪の誘惑に僕は奈落へ落ちるように引きずり込まれていった。

 これは、恋ではない。そうだろう?

 これは、愛でもない。そうなんだろう?

 これは、なんだ?

「保之さん」

 彼女の甘い声が絡みつくように耳の中に響く。

 ぎゅっと唇の端をかみ締めると、僕は義明の部屋のドアをあけ、再び先生としての顔を取り戻した。

「おせーよ、先生」

「しょうがないだろ、自然の摂理さ」

 僕は笑う。

「そういえば、お前、部屋決めたんだって?」

「おう。いいとこだったよ、田舎だけどさ」

 彼は春から国立大生としてこの家を出て行くことが決まっていた。彼女はこの家に一人で残ることをどう思っているんだろう。

「先生がいったとおりに言ったら、不動産屋が困ってたよ。結局風呂だけ妥協してユニットバスにした」

「いいのか?」

「どうせシャワー派だもん、俺。うちで毎日風呂に入るのは母さんだけだって」

 はっきりと聞いたわけではないが、義明は父親の浮気については知っているようだった。時々言葉の先に、何日も帰ってこない父親を軽蔑し、見放したような感情を覗かせる。そうすることで、彼なりに折り合いをつけているのかもしれなかった。

 家庭教師を始めた頃、僕はそんな彼にどんな声をかけたら良いのかわからなかった。初めて踏み入れた他人の家庭に、僕は最初、第三者としてその問題の深さに圧倒され、部外者の悲しさを知った。そして今は問題の一部に手を貸す当事者として、なおさら彼にかけるべき言葉を見失っている。

「お前、やっぱりここが苦手だよなあ。ちゃんと克服してから卒業しろよ」

 お喋りと少しの復習を詰め込むと、あっというまに二時間は過ぎさった。教師らしく今後の勉強方針まで指導すると、僕はゆっくりと勉強用具をかばんの中にしまい、義明に向き直った。

「一年、ありがとう。お前が頑張ってくれたおかげでクビにならずにすんだよ。春から大学生だな。一人暮らし、頑張れよ」

「うん。先生、いろいろありがとな。俺ほんと感謝してるよ。こんなに頑張れたの、先生のお蔭だって」

 義明はすこし潤んだ目を隠すように、笑った。

「またメールしろよ」

「先生こそ、忘れんなよ」

 僕たちは硬く握手をした。

 義明は熱くなった目頭もそのままに階下にいる母親に声をかけに行き、僕は上着を着るとゆっくりと階段を下りた。

「どうもありがとうございました」

 玄関先につくと、コートを手に持った彼女が深々と頭を下げた。

「先生のお蔭で無事に希望校に合格できました。ほかにもとても良くしていただいて、本当にありがとうございました」

 彼女は良い母親として丁寧にお礼を述べ、ささやかですが、感謝の気持ちです、と小さな紙袋を差し出した。

「義明が選びましたの。先生の気に入ると良いんですけど」

 デパートの紙袋の中には、彼女がよく持っているブランドの包み紙にくるまれた小さな小箱が入っていた。

「ありがとうございます。あけても良いですか」

「ええ」

 包装紙を丁寧にはずすと、中から現れたのは品の良い時計だった。

「こんなもの、いいんですか」

「ええ。感謝の気持ちですもの」

「先生、就職活動で忙しくなるっていってたろ。いつものじゃ、スーツには合わないからさ。どうせもってねえんだろ、そういうの」

 後ろから義明がからかうように言った。

「ありがとう」

 スーツに合わせて安物は買ってあったが、僕は素直に礼を言った。

「また、よろしかったら一度お食事でも一緒しましょう」

「はい。どうもありがとうございます」

 お決まりのような台詞を交わす。彼女の顔を見るのは忍びなく、僕は深々と頭を下げた。

 これで最後なんだな、と不意にわきあがった実感をかみ締めながら、僕は義明に手を振り、玄関を出た。そしていつものように彼女の隣に乗り込んだ。

 相変わらずカーステレオが愛の歌を垂れ流す車内で、僕らは無言だった。さっきまで被っていた母親と家庭教師の皮が分厚く張り付いて、僕たちはもう一つの役柄を演じ始めるのを留まらせた。

 窓の外を見慣れた景色が過ぎ去っていく。彼女にとっては僕もまた、過ぎ去ってゆく景色の一つでしかないのかもしれない。

 今までで一番長い十五分間が過ぎた。

 ロータリーをぐるりとまわり、車がいつもの場所へと収められる。彼女はギアをパーキングに入れると、ふうっとため息をつくように手を止めた。

 僕はその一瞬を掴み取るように手を伸ばしてカーステレオのスイッチを切った。

 驚いて彼女は僕を見上げる。

「時子さん。僕は、時子さんが好きだよ」

 テープを巻き戻した様に僕は息の車内で口にした言葉をもう一度言った。

「だけど、今日でお別れだね」

「保之さん」

 彼女の目が潤み、僕をじっと見つめた。そして周りの視線を気にするように顔を伏せ、表情を曇らせた。

「ごめんなさい」

 小さな声だった。

 解っていたとはいえ、僕はその言葉に少なからず傷ついた。

「いいよ。僕は」

 ずしりとシートに全体重を預け、空を見つめるようにして僕は言葉をつないだ。

「いつも考えたよ、もし僕がもう少し大人で、せめて仕事に就いていたならって。だけど、それでもきっと時子さんは僕のところには来てくれないだろうなって思った」

「ごめんなさい」

「いいんだ。ただ僕は、あなたが幸せになってくれたらって思うよ」

 僕の心は張り裂けようとしていた。手に入れた宝物を自分の手で粉々に砕くことに、僕はああ、最後まで耐えられるだろうか。

 でも僕は、耐えなければいけない。

「ごめんなさい。私」

 彼女は言葉を嗚咽に変えた。はらはらと涙が流れていく。僕は横目でそれを眺めて、少しだけ、救われたような気がした。

「わたし、保之さんのこと好きだったわ。本当に、もっと早く出会えたならって思った。だけど、わたし」

 その先を彼女は飲み込んだ。僕としても、聞きたくは無かった。

「もう行くよ。元気で」

 僕はシートベルトを外し、ドアに手をかけた。

「待って。私、義明がでてったら、夫と別れようと思ってるの」

 涙で赤く腫れた目を僕は見つめた。僕は彼女の真意が掴みきれなかった。ここまできて、いまさら、どうしようっていうんだ。

「だから、私たち」

 彼女は笑おうとしていた。泣き顔のまま笑おうとするその姿は鈍い衝撃で僕に突きつけられた。

「だめだよ。僕はもう、決めたんだ」

 僕はずるずると引きずられそうなその瞳から目をそらし、ドアをあけた。

「まって!」

 彼女は再び鋭く叫んだ。その声に耳をふさぎたい衝動に駆られながら、僕は車を降りた。

 振り返らずに、駅へと向かう。

 彼女の足音は聞こえてこなかった。僕はもはや何に傷ついているのかもわからず、ただ、痛みに耐えていた。

『二番線に下り列車が参ります』

 雪まじりの風が吹き付けるホームでひとり立ち尽くし、僕は少しだけ泣いた。

 一体何を信じればいいんだろう。

 全てを覆い尽くそうとしている真っ白な雪に、言葉を放り投げ、僕は考えることをやめた。ただ心の中で、粉々になった気持ちがちりちりと燃えていき、真っ黒な灰になって、僕を満たしていた。


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