きみの気配 【青春】
多田君の行儀の悪い足音が、ザッザッとついたての向こう側を移動する。左耳から右耳に移動する音を追いかけて、私は画面の中に大きく映し出された99円という文字をじっとみつめた。多田君がコピー機の前に到着したのを聞き終えて、私の視線は再び画面の中を動き始める。ずらりと並んだ文字たちを拡大したり、縮小したり、わずかな調節を施して私は全体の統一を図っていく。
社内で中堅職にあたるアートデザイナー、という肩書きは一見、創造性の高いステキな職業を想像させる。けれど、実際の作業内容は与えられた文字をレイアウトに沿って並び整えていく、とても地味な作業だ。とくに私に割り当てられた契約は、大手とはいえ生鮮スーパーの安売り広告で、フロアでも一、二を争う地味さを誇っている。二色刷りの配色に、数字ばかりが太文字で並び、たまに画像が入ったとしても、使いまわされた食品の切り抜き画像を、さりげなく差し入れるだけ。それでも、私はきちんと文字たちを整列させ、粛々と仕事を片付けていく。
ぐるりと机を囲んだついたての向こうで、内山さんの多田君を呼ぶ声が聞こえた。「はーい」と明るい多田君の返事が降りかかり、また右から左へザッザッとフロアのカーペットをこする、行儀の悪い足音が通り抜けていく。社内履きのサンダルを引きずる癖は、内山さんが二度注意しても直らなかった。私も、最初はこの足音が耳障りで仕方が無かった。でもいまは、多田君の足音を追跡するのがすっかり癖になっている。
多田君はこの小さなチラシ屋に、インターンとして所属している。インターンというと聞こえが良いが、実際は学生を低賃金で雇うための口実に過ぎない。カタカナ書きで実態をごまかすのは社長の得意技。それでも多田君はバイト同然の雑用を、少しの屈託も無く、楽しそうにこなしている。多田君は大学でグラフィックアートを専攻していて、卒業後は印刷物関係の会社に就職したいらしい。それで、うちの会社のインターンに応募した、そうだ。パートの村山さんが聞き出した情報はすっかりフロア中の女性にインプットされている。それから、多田君は同じ大学の彼女と同棲中で、ラブラブ、だそうだ。これは笹山さんが聞いた話。それでも、明るくてまじめで、少し行儀の悪い若者である多田君は、あっという間にうらぶれた職場に咲いた、一輪のバラとなった。
内山さんと話を終えた多田君の足音が、再び左から右に移動していく。多田君の足音を聞いていると、ふと、もっと幸せな世界がどこかで待ち構えているような、不思議な期待感に包まれる。それは、ずっと昔に、放課後の教室で嗅いだ甘酸っぱい感情にも似ていた。次の瞬間に、なにか素晴らしいことが起こるかもしれない、という淡い希望の感覚。
誓って多田君に、恋しているわけじゃない。けれど、転げるように笑い、ちょっとしたアドバイスに感激し、甘ったるい口調で夢を語る多田君の存在は、私の日常を晴れやかに彩った。多田君に笑ってもらえるように、優しさと気配りを思い出し、多田君に尊敬されるように、仕事に精を込め、多田君の夢を聞いてあげられるように、自分の夢を引っ張り出してみたりした。
「宇野さんの数字って、イキオイがありますよね」
指定された字体を使って、指定されたように配置しているだけの私の作業を、多田君は分かったような口ぶりで褒めた。私は恐縮し、曖昧に否定したけれど、その言葉は香ばしく記憶されている。だって、多田君みたいな男の子に褒められるなんて、滅多に無い。ついつい、嬉しくなってしまう。
多田君が自分をめぐる単純な右往左往を、どう思っているかはわからない。多田君はきっと、すごくいい男になるか、すごく悪い男になるんだろう。どちらにせよ、多田君の将来を愛でるように、噂話はフロアを飛び交った。
ザッザッと多田君が移動する。その足音に、ついたてをすり抜けて、淡い期待感がぞろぞろと引きずられている。恋愛がしたいわけじゃない、そんな面倒はごめんだ。だけど、多田君の笑顔が見たいし、褒めてもらいたい。多田君が来たばかりのころ、まるで犬みたい、と誰かが言った。けれど、本当は私たちのほうが犬みたいに、多田君に認めてもらうことを欲しているんじゃないだろうか。その想像は私を少し戸惑わせた。
多田君はあと一週間あまりでインターンを終え、退職していく。それが名残惜しいような、ほっとするような、中途半端なまま、私は今日も、この幸せな足音を楽しんでいる。




