アムスタス迷宮#8 エム-3
女騎士の人に指示された場所まで荷物を運んでいる最中、風に乗って美味しそうな香りがした。
エムがそちらの方向をみると、一部の兵士たちが牛を解体して焼いているのが見えた。何もせずに気楽そうに食事をしている光景に一瞬怒りが芽生えかけたが、どうすることもできないためそれらに背を向けた。
言われた場所の近くまでくると、丘の向こう側が見渡せた。登ってきた斜面の裏側に当たるここは急ながれ場となっていて滑り落ちたらタダでは済まないことを感じさせた。そのままめを遠くに向けるとおおきな湖が見えた。湖の向こうは残念ながら霧がかかっており見渡すことができなかったが、それでも見える範囲から考えると相当の大きさだと考えられた。周囲を見渡してみると、遠くの方には森や山が見えた。
ひとまず荷物を下ろそう。エムはそう考え、肩掛けの一つに手をかけた瞬間だった。
(何か、居る……)
全身に悪寒が走った。エムのこれまでの人生の中でも最大の警鐘だった。今まで感じた最大の悪寒は7年ほど前の冬に村の近くの森に山菜取りに入り、穴もたずの熊を見かけた時だった。
(けど、そんなものじゃ、ない)
あの時の熊がまるで猫の威嚇のように感じるほどの恐怖だった。
(それに、もう見つかっている……?)
送り狼をうけた時のような見られていると言う感覚が拭えない。けれど、何処から。エムは周囲を見渡したが、丘の上にはそのような動物は見当たらない。見慣れない私たちがいるからだろうか、先程まで姿が見えていた牛や山羊は姿を消していた。そしてここで脅威となりそうなのは精々が兵士たちだが、彼らも今やほとんどが焼肉を堪能しているくらいだ。じゃあどこから。
(もしや、上?)
そう考えて空を見上げた瞬間、焔が降ってきた。その焔は丁度焼肉をしていた兵士たちに直撃した。
『GRRRUUVAAAAAAAAA』
そして焔と同時に空から降って来た咆哮はエムにとって雷鳴が轟いたように感じられた。そのあまりの光景と咆哮は時間にしてみれば一瞬のことだったのだろう。しかし、それだけで、エムは恐怖に凍りついた。
直後、猛烈な熱風が吹き荒れ、エムは木の葉のように吹き飛ばされた。地面を何度も転がり、体を何度も打ち付けた。さらには肩掛けの紐が食い込み、体のあちこちに引き裂かれるような痛みが走った。
ようやくエムが止まった時、エムはがれ場の斜面のそこそこ大きな窪地の中にいた。
(……っ)
辺りを見渡そうと思っても全身に痛みが走り、痛みのために気絶と覚醒を繰り返しているように感じられた。それでも未だ治らぬ悪寒から逃れようと歯を食いしばってエムは自身の状況を確かめた。
状況はとてもひどいものだった。全身に肩掛けと背負いの紐が絡まり、荷物の下敷きになるような状態で地面に転がっていた。手足を動かそうにも、力が入らない。全身が限界を訴えてくる。転がった時の痛みと全身を縛り付けられる痛み、さらには荷物で押しつぶされる痛みでエムは呻いた。
(……これならさっさと荷物を下ろしておくべきでした。)
そう後悔しても遅く、それでも何とか首を動かそうとした瞬間、大きな振動がエムを襲った。それと同時に、エムは揺れた方向にいる生き物がこの悪寒の原因であると悟った。恐怖はもはや麻痺したのか感じず、それどころか痛みも何もかもの感覚が消え失せた状態でエムは茫然とをソレを見た。
そこには一頭の化け物がいた。それをエムの持つ貧弱な語彙の中で表現するならば、それは蝙蝠のような羽を持つ蜥蜴になるだろうか。しかし大きさが段違いだ。少なくとも片方の翼だけで大人三人から四人分ほどの大きさはあるだろう。表面は蛇のような鱗でおおわれており、光を反射して暗い緑色に光っていた。だが、どんなに言葉を尽くしたところで、エムはソレの姿を正確に言い表せられるとは思えなかった。後世、ドラゴンと呼ばれるソレは、エムが今まで生きてきた中で、それを言い表すのに適した言葉を持ち合わせていなかった。
飛蜥蜴はこちらを睨みつけるように地面に立っていた。そして飛蜥蜴が下に目を向けたとき、エムは自分の失敗を悟った。ーーしっかり目があってしまった。
カチカチと音がする。こんな近くで音を鳴らしているのはだれだろう。そう頭の片隅でほんやり考え、その音が自分が歯を震わせている音だとようやく気付いた。未知のものに対する恐怖が全身を覆う。わたしは偶然顔に斜めに巻き付いていた紐を口に咥えて食いしばり、音を立てないようにした。
それでも飛蜥蜴はエムから目をそらさず、それどころかこちらに近ついてきた。一歩一歩地面を踏みしめる度に地面が揺れ、エムは軽く地面から跳ね上げられ、そして叩きつけられた。
とうとう、飛蜥蜴はエムの目の前まで来た。わたしは恐怖で目を閉じることもできないまま、ソレの鋭い爪が生えた足を眺めていた。
突然、背中の荷物からドスッという音が鳴り、体が軽く揺れた後にエムは持ち上げられた。恐怖で動くこともできないまま、エムは飛蜥蜴の眼前へと運ばれた。口の中には鋭い牙が生えそろっている中、歯と歯の隙間に糸屑のようなものが見えた。それが牛の残骸であることに気づき、エムはそれが自分の少し後の未来を示しているように感じられた。
もしかしたらそれはわずかな時間だったのかもしれないが、エムは感覚的にゆっくりと口に運ばれているように感じた。そして後わずかで頭が食いちぎられる、そう頭の片隅でぼんやりと考えていた時、突如遠くから飛んできた矢により口に入れられる寸前で止められた。何が起きたのかわからない。それでももしかしたら生き延びられるかもしれない。心の中に希望が芽生えた瞬間、飛蜥蜴はエムをひっかけた爪を降ろし、矢が飛んできた方向を向いた。
様子を伺うと、それは丘の上を見ているようだった。エムは自身から飛蜥蜴の意識がそれていることがわかると、そこでようやく目線だけ動かし、その方向を見た。
どうやらわたしは思ったより遠くまでは飛ばされていなかったらしい。しかし、先ほどまでいたのが丘の上だったため、斜面を転がったことで煙の上がっている箇所はかなり遠くに見えた。だが、動いている人影が見えたことで、先程飛んで来た矢はあの人たちが射ったらしいということが分かった。
するといきなり飛蜥蜴は翼を広げ、その勢いでエムはぽんと放り投げ出された。幸いなことに背中から落ちたため、背中の荷物が下数きになってくれたおかげでエムはあまり痛い思いをせずに済んだ。
けれども幸運はいつまでも続かなかった。落ちた勢いのままエムは斜面を転がりはじめた。さらに運の悪いことに斜面は大きな岩が剥き出しで多くある急な下り坂であった。そのため、エムは先程とは比べ物にならないほど全身を地面や岩にぶつけることとなった。転がり落ちる途中、空が赤く染まったような気がしたが、その直後に何か塊が顔に直撃し、目の前に星が舞った。それが肩掛けであることに思い当たる間もなく、エムは意識を手放した。