アムスタス迷宮#35 エム-8
その瞬間、エムの意識ははっきりとした。相変わらずここが暗闇の中で、立っているのか座っているのか横になっているのかもわからない状態なのは変わらない。しかし、はっきりと今までの経緯を思い出せる様になっていた。
エムはシロシルに連れられて四阿の中に入ったのち、あの時と同じように石柱の上に手を置いた。その瞬間、手のひらを通じてエムの身体の中に何かが入ってくる様な感覚がした。
咄嗟に手を離そうとしたものの、手は石板に張り付いたかのように動かすことができず、その違和感はどんどん体を蝕んでいった。
(なに、いったい、なんなの?)
内心取り乱しながら、必死に手を引き剥がそうとした。けれども手はぴくりとも動かず、そしてその違和感は首を超えて頭に達した。
(いやっ、やめて、たすけて)
そう思うばかりで声は出なかった。そして違和感が耳に達した時、何かが聞こえた。
[regnuoysawinehwemnoilivaprehtonadniferehsdrawkcabogtonnacuoygnitnioppasidsawti]
綺麗な声だった。どこか聞き覚えのある様な声。その声は今感じている違和感とは別物の様に感じた。その直後、エムの意識は闇に消えた。
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「……、ここはどこなのでしょうか」
辺り一面は何も見えない暗闇だった。しかし、不思議なことに自分の体に関してははっきりと見ることができた。そして、遠くから何か声が聞こえていた。
止まっていてもしょうがない。とりあえず、声のする方に歩き出そう。そう考えるとエムは行動を開始した。
入った時はあたりは白く、誰もいなかったのに。そう思いながら歩みを進めた。今は暗いけれど、何か声が聞こえる。その声を頼りに歩き続けた。
けれど、いくら歩いても声のするところには辿り着かなかった。もうどれだけ歩いたことだろう。喉の渇きも空腹も感じないけれど、疲れだけはしっかりと溜まっていった。足が棒の様になり、一歩踏み出すことすら億劫に感じるほどだった。それでも、あと一歩、もう一歩と聞こえるわずかな声を頼りに歩き続けた。
もうどれほど歩いたことだろうか。気がつくと、徐々に自分の体の見える範囲が狭まっていることに気がついた。感覚はあるのにも関わらず、いつの間にか太ももから下は見えなくなっていた。
時間感覚はとうの昔になくなった。自分がまっすぐ歩けているのかも定かではない。そもそも、声を頼りに歩いているけれど、それがあっていると言う保証もない。
脚が、上がらない。
もう何日歩き続けているのでしょう。
足が、痛い。
声は相変わらず遠くから響いています。
あしが、うごかない。
暗闇の中、気がつけば胸より下は黒く染まって見えません。両腕も、二の腕から先は見えなくなりました。
そのまま、エムは倒れてしまった。けれど、不思議なことに倒れたと言う感覚はなかった。確かに自分は倒れ込んだはず。なのに一体ーー?
そう感じていると、目の前に小さな灯が見えた。せめてそこまではーー。その執念だけで、エムは這う様にしてそこへ進んだ。
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灯りの場所まで辿り着くと、そこはあの四阿にそっくりな空間が広がっていた。もう、エムは自分の身体を見下ろしても何も見えなかった。這々の体でそこまでたどり着くと、中には誰かいる様な気配がした。
もはや起き上がる気力もなかったが、エムは柱の一つにもたれる様にして上体を起こした。その光に照らされ、エムは身体がどす黒い『闇』としか言いようがない何かに覆われていることに気がついた。けれど、それを振り払うこともできなかった。
四阿の中から誰か近づいてくる気配がした。エムはその人影に訊ねた。
「……すみません、ここはどこでしょうか?」
『……此処は貴女の中であって世界の全て』
訳が分からない答えが返ってきた。けれど、その声はどこか聞き覚えがある様な気がした。
「ここからはどうやったら出られますか?」
『ここは牢獄であって開かれた鳥籠。出るも留まるもあなたの心の赴くままに』
その人影はエムの隣に座り込んだ。気になって顔を伺うものの、髪に隠れてよくわからなかった。けれど、最初に感じた印象の通りで、その人影は女性の様に見えた。
女性ならば背は高い方の部類に入るだろう。少なくとも、いまのエムより頭ひとつ分は高そうだ。立てば腰ほどまであるような青みがかった黒髪は束ねられることもなく彼女の体に沿う様に流れていた。
「貴女は一体何者なんですか」
『いずれ、会えます』
『今回は、先達からのお節介。ある意味反則技の様な形で今、あなたに会っているので』
そこだけはっきりというと、彼女はエムの両手を包み込む様に握ってきた。彼女の両手は白手袋で覆われていた。少なくとも肘くらいまではありそうだ。見える限りでは、様々な刺繍が施されたその手袋の質は明らかに高級そうだった。
『一つ、忠告します。入り口と出口はきちんと見分けること。見分けないと代償を支払うことになります。今回の代償は、わたしが支払いますが、何度もできる手ではありません』
そう言うと、エムの両手から黒いモヤの様なものが彼女の方へ流れていくのが見えた。
(ダメ、私の責任をこの人に全部押し付けては……)
そう思って手を離そうとするものの、彼女はエムの手をしっかりと握り込み、離そうとしなかった。けれど、その動きから何かを察したのか、彼女は語りかけてきた。
『薬も過ぎれば毒となる。わたしにとってこれは薬にもなりませんが、あなたにとっては猛毒です。それでも気に止むと言うのなら、いつかあなたの様な存在を救ってください』
そう言い切ると同時にエムの全身を覆っていた違和感が消えた。
『それでは、これで』
そう言うと、彼女は立ち上がって姿を消した。
次の瞬間、世界は暗闇から白へ転じた。四阿の中には石柱が立っている。そこまで辿り着いて両手を石板に置いた時だった。光が弾け、その眩しさにエムは目を瞑った。
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「ッ! 開いた!」
「今だ急げ、回収しろ!」
そう叫ぶ声が遠くで聞こえた。全身が切り刻まれた様に痛む。お腹を押される様な鈍い痛みで、ようやくエムは自分が石柱にもたれかかっているのだとわかった。
次の瞬間、エムは誰かに抱えられ、そのまま運び出された。自分がどうなっているのかもわからないまま運ばれ、草原に寝かされた。まだ視界はぼんやりとしている。音も遠い。何度か目を瞬かせていると、誰かが顔を覗き込んできた。
「私がわかるか? わかるなら2回素早く瞬きをしろ」
その声に従ってエムは2回瞬きをした。するとその声の主は立ち上がり、何事か指示を出した。丁寧に身体を支えられ、水を飲まされた。一息つくと、周りに人が集まっていることに気がついた。
まだ朦朧とした感覚は続いているものの、恐らく先程まで四阿の周りにいた人たちだろう。エムはそう結論づけると、静かに目を閉じた。
呼びかける声が煩かった。
心配なのはわかるけれども少しは寝かせてほしい。
足の疲れはもう耐え難いほどの痛みを発していた。
否、全身に耐え難いほどの疲労感が溢れていた。出来ることならこのまま地面に身を委ねて泥の様に眠ってしまいたい。いや、もう起きているのも億劫だ。
先ほどまではボヤけていても見えていた景色が、焦点が合わずに滲んだ世界と化している。遠くから何か聞こえるけれど、意味を持った言葉に聞こえない。何人かが集まってきている様だけれど、何をしたいのでしょう?
腕や脚を引っ張られる様な感覚を受けながら、エムの意識は深い眠りに落ちていった。
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目が覚めると、日がもうだいぶ傾いていた。辺りを見渡すと、遠くの方で野営の準備をしているのが見えた。エムは軽く伸びをしながら状態を起こした。そこでエムが起きたことに気がついたらしく、コウカが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 気分は?」
「……えっと、ありがとうございます。だいぶ良くなりました」
「それは良かったです。けれど……」
そう言うと、コウカは気遣うようにエムの様子を確認していた。それが気になり、エムも自分の身体を確認しようとした。
視線を下げると、気を失う前に来ていた服ではなく、別の衣服に着替えさせられていた。しかし、気になることにそれらの衣服は丈が長く、肌が全く見えなかった。
「あの、魔術師の方々を呼んでくるので少し待っていてください」
そう言うと、コウカは走って行った。
すぐにシロシルやアラコムを先頭に魔術師が走って来た。しかし、気になることに全員女性ばかりだった。
今、男手が不足しているのかしら?
その疑問が頭をよぎった。しかし、それについて考える間もなくエムの周りを彼女たちは取り囲んだ。
「さて、何があったのかを聞く前に、自分の状況を把握してもらおうと思う」
シロシルがそう言って、エムの衣服を脱がし始めた。突然のことに目を白黒させたが、肌が見えた瞬間、それを遥かに上回る衝撃を感じた。
「心配するなと安請け合いはできない。だが、今の所は害をなしている様子がない」
そう言うシロシルの声も耳に入らなかった。
エムの身体には、両手から胴体、爪先に至る全身に不思議な紋様が刻まれていた。




