オゼ迷宮#38
風を感じない。
寒くない。
背中の荷物越しに硬い感触がする。
何もかもが、今までと違う。気がついた時、サクはそう思った。いつの間にか眠っていたらしい。視界が闇に閉ざされ、一瞬焦ったものの、何かちらちらと動いている様子が感じられた。そこでやっとこの闇が、まぶたが閉じられていることによるものであることを理解した。
ゆっくりと目を開けると、そこは見覚えのない景色だった。さほど遠くない場所に焚き火が焚かれ、その炎が揺らめくたびにその光に照らされて影がちらちらと揺れていた。先ほどから視界に揺らめくものの正体はそれか。そう納得しながらサクは顔を上げた。
「……っつ」
その瞬間、サクは軽く呻いた。寝違えた時の痛みや強張りといったものが、頭を上げた瞬間に両肩から首筋にかけて走った。後ろの壁に寄りかかるような姿勢で、かつ俯いて寝ていたせいだろう。すっかり全身が強張っていた。
(洞窟、か? ここは……。寒さはだいぶマシになったとはいえ、まだまだ寒いな)
少しでも暖かい場所へ行こう。そう思い、痛みを訴える身体を労わりながら立ちあがろうとした。
【……起きましたか?】
【カロナさん】
静かにしていたつもりだったが、元から起きていた人間には関係のないことだったのだろう。物音を聞きつけたのか、はたまた視界に入っていたのかは定かではないが、カロナが焚き火の近くから声をかけてきた。
この闇の中では、焚き火の灯りでさえ強烈な光源になる。さらに、今まで目を瞑っていたため、暗いところに視界が慣れている。そのため、あまりの明るさに目が眩んだ。だが、目を抑えながら辺りを見るうち、周囲の様子が少しずつ見えてきた。
カロナは焚き火の火を絶やさないようにしながら、サク達の中で比較的体調が悪くない者たちの面倒を見ていたのだろう。周囲を見てみれば、サクの記憶の中でも自力で山を登ってきた者が多かった。
一方で、焚き火の向こう側では、ナイラを中心として、比較的症状の重かった者達への看病が行われていた。おそらく、白湯を飲まされていたり、手足の指を擦るようにして温められたりしている者も居れば、口元に紋様が描かれた布を被せられている者もいた。
(……やっぱ、疲れてたのかな)
目を擦りながら、サクはそう思った。見間違いでなければ、それらの布の紋様が光っているように見えたのだ。だが、焚き火の光を反射しているだけという可能性もある。それほどここは暗いのだ。銀糸や錦糸と言わずとも、白い糸でさえも十分に光って見えるだろう。
そう思いながら、サクは両脇に眠る者を起こさないように気をつけながら立ち上がった。そして、静かに焚き火のそばへ寄った。
【ここは?】
【『下の洞窟』と我々は呼んでいます。先人達の記録によれば、ここからでも拝殿には繋がっているはずですが、いかんせん滅多に使われることがない道のため、どこまで当てに出来ることやら】
カロナは静かにそういった。その表情からは、茶化すような雰囲気もなく、単純に、この状況をただそこにあるがままに受け入れているような、ただ事実を伝えているだけといったような、そんな顔に見えた。そして、サクに隣に座るように示した。
別段断る理由もない。サクは促されるままに隣に座った。すると、静かにカロナから飲み物を手渡された。
【飲んだ方がいいですよ。山の上は、身体の温もりだけでなく水の精霊の力も弱めます】
【あ、ありがとう】
礼を告げながら、サクはその飲み物を受け取った。見た目は暗くてよくわからないが、白湯のようだ。だが、一口飲んで驚いた。蜂蜜と思われる甘みの中に、確かに刺激的な辛さがある。おそらく、香草の類だろう。その不思議な味に少し面食らいながらも、サクはふうふうと息を吹きかけて冷まし、少しずつ飲んだ。
【ゼンゼロ茶はどうですか?】
【慣れればクセになりそうな味だ。だが、なぜこんな場所に……?】
【覚えていないのですか?】
【ああ】
そう答えると、周りを起こさぬようにだろう。カロナは静かに語り始めた。
【我々がここに辿り着いたのは、今から四半日ほど前のことです。その時点で、いつ、誰が死んでいてもおかしくなかった】
【何だって?】
驚きのあまり、声を上げそうになった。それを口に手を押し当てられて止められ、カロナは静かにするよう目で訴えかけてきた。サクも素直に謝ると、続きを促した。
【正直、ここまで他の民の人々が登ってくることは前代未聞に等しい。故に、我々はあなた方がどこまで平気なのかを知らなかった。これは我々の落ち度でもあります】
【いや、そこはいい。それを言えば、こちらだって無理を聞いてもらっている身の上だ】
【そう言っていただけると有り難い。……話を続けます。ともかく、『下の洞窟』についた時点でまともに歩ける者は『山の民』を除いて居ませんでした】
【アカラも、か?】
【ええ。彼女も、です】
それは正に衝撃的な知らせだった。彼女は何時もサク達のことを気にかけ、気丈に振る舞っていた。サク達の世界に興味を示し、いろいろなことを話す代わりに、ここについていろいろなことを話してくれた。ある意味、彼女の存在がなければ、ここまでサク達は自棄にならずに居られただろうか。また、友好的に『海の民』や、他の民の人々と関係を築けただろうか。いつしか、それほどまでに大きな存在へと変わっていた。
【彼女の、様子は?】
【君たちの中では一番の軽症だ。一晩寝れば良くなるだろう。だが、彼女にしてみてもこの環境は厳しいものだったらしい。前回の『禊』のときも、時折きつそうな表情は見せていたが、実情は分からなかった】
【そう……】
軽症と聞いて、ほっとした自分がいる。そして、仲間よりも先に彼女の安否を気にかけていることに気がつき、驚いた。
だが、その驚きを他所に、カロナは話を続けた。
【本来ならば、ここよりもさらに上の『外堀の洞窟』と言われる水路と道が入り乱れた洞窟から入るつもりだった。だが、そこまで登るのはあなた方の生命に危険だと判断した】
現に、先頭を我々と同じペースで進んできていたあなたの記憶がないのがいい証拠です。カロナの言葉が耳を抜けていった。言われてみれば、確かにそのような記憶は朧げに浮かんでくる。だが、その記憶の全てが夢のようで、思い返せばしようとするほど、手から砂がこぼれ落ちるように消えていった。残る記憶も、酷く曖昧なものばかりだ。
【……確かに、記憶にないな】
【他の人に至っては、症状が重いもので眠りそうになっている者も居ました。メイラ曰く、『死に瀕している。冥府の精霊が迎えにきている』との事だったため、本来の予定を早めて洞窟へ入った、というわけです】
そう言いながら、カロナは薪を焚べた。そこでサクは気になったことを尋ねた。
【……確かに、暖は必要だと思うが、ここで火を焚いて大丈夫か?】
【一応、洞窟内は風の精霊の紋様を各所に刻んでいるため、息が詰まることはないと思います。ですが、ここらの洞窟はその保証も確たるものではない。念の為にわたしの方でも刻み直してます。なので問題ありません】
だが、それは逆に言うとここから先はその保証がない、と言うことだ。
【ここでみんなが回復したらどうするんだ? その、本来の目的地まで行くのか、それとも……】
【洞窟の中を行きます。外の寒さやその他の要因にあなた方が耐えられる保証もない。それに、何かあった時手当がしやすいのは洞窟の中ですから】
カロナの目にははっきりとした意志が灯っていた。これ以上、サク達に負担を強いるわけにはいかない。たとえ遠回りになったとしても、安全に届ける。そう言った意志が。
【だが、道は?】
【今、フドウが過去の記録を尋ねに言ってます。彼が戻ってくれば出発出来るでしょう】
それまで、あと2日ほどはここで待機です。
小さく話しているはずのカロナの声が、洞窟内に響いて消えていった。