オゼ迷宮#36
登山は特に大きなトラブルもなく、順調に進んでいるらしい。実際のところはどうかはわからない。現にこれまでも、突然天気が崩れ、回復するまで近くの洞窟で丸一日足止めされたり、大きな鳥や狼、さらには熊と言った猛獣に襲われたりする事は少なくなかった。だが、少なくとも『山の民』の案内人達はそう言っていた。
確かに、日々の最後に夕陽に照らされながら見える景色は徐々に遠くまで見渡せるようになっている。また、服装もいつの間にか薄手のものから厚手かつ重ね着といった装いへと変化していた。周囲の地形も、当初は背丈の高い木々が山道沿いに生えていたのに、それが少しずつ背丈を減らし、下草となり、今では地表のほとんどは丈の低い草か苔で覆われていた。
少しずつ、ちょっとした変化の積み重ねではあったが、改めて比べてみると、案外変わっているものだ。言われて気がついたことではあるが、サクはそう感じた。
「それにしても、こんなところで本当に作物が育つのか?」
「確かに、もうだいぶ寒さも厳しくなってきたしな……」
休憩時、サクは欠伸をこらえながらそう相槌を打った。眠いわけではないが、ここ数日欠伸がポツポツと出る。それは決してサクだけではなく、周囲を見れば皆どこかすこしぼうっとしていたり、欠伸をしたりしていた。
だが、確かに気になる。以前、アカラに聞いた話では、『山の民』は狩猟も行うが、作物も育てるし牧畜も行うと言っていたはずだ。樹の姿は見えないが、周囲の様子を見る限り、まだ寒さに強い作物なら育つ可能性もあるだろう。農業の素人ゆえに、断言することは出来ないが。とはいえ、作物が作れたとしても、この寒さではあまり収量は見込めない。頑張って開拓しても、そこまで余裕は無いはずだ。
【ここらへんじゃあ、もう牧畜としても限界のはずだよ?】
【それ以前に、この辺りではそのようなことをする人はいませんよ】
その疑問に対し、アカラが口を挟むと、それに呼応するようにナイラがそう応えた。
【なぜ?】
【気がついて居なかったかもしれませんが。本日出発した集落、あの辺りを登った先に『俗世』と『聖域』を別つための『門』が作られています。そして、『聖域』ゆえ、そういったものは基本的に認められて居ません。……あなた方はすでに、我らが『聖地』に足を踏み入れているのですよ?】
彼女の言葉に驚いた。特に周囲をはっきりと見て居たわけでもないが、彼女のいう通り、『門』があったにも関わらず、それに気が付かなかったとは。だが、そのようなものがあれば気がついてもおかしくない。なぜ気が付かなかったのだろうか。不思議に思っていると、アカラが答えを教えてくれた。
【気が付かなくても当たり前だよ? だって、『門』って言ってるけど、どちらかといえば概念的なものに近いし。側から見れば、道の両脇に石が積まれただけに見えないしね】
言われてみれば、確かに出発してしばらく経った頃ーーおおよそ2回目の休憩の時だろうか。そのようなものが近くにあったことを思い出した。あれが目印だったのか。確かに、言われてみれば、それ以降畑や牧畜の光景も見ない気がする。
サクが思考に耽り、ふと顔を上げると僅かに険悪な雰囲気が漂っていることに気がついた。その大元をみると、ナイラがあからさまに気分を害したような表情でアカラを見つめていた。
〔……臨時とはいえ、曲がりなりにも貴女も神官でしょう。そう思って居たのですか?}
【仕方ないじゃない。最初に来たときはわからなかったんだし。それに、それを言うなら貴女達だって私たちの神域に来たときは、目立つようにわざわざ『星砂虫』まで使ったのに気づいてなかったじゃない】
〔あのような波に揺られて位置を変える目印など論外です。そうでなくても、そもそも海底の紋様など海の上から見えるはずもない〕
【それはこちらの台詞よ。私たちにとっては海底に刻まれた紋様が海神へと通じる『道』となる。それしか知らないのに、いきなり積まれた石を見せられて、『これが目印です』なんて言われてもわからない】
ナイラの言っていることはわからない。だが、アカラの返しから、2人が互いの聖域に関して討論を交わしている事は間違いなさそうだった。
「なあ、あいつら何をそんなに揉めてるんだ? 同じ神を崇める仲間じゃないのか?」
「……ややこしくなるから、今は口を挟まないほうがいいと思う」
サクはシンにそう返すのが精一杯だった。
確かに、連邦の常識で語るならば、そう言う発想になるだろう。連邦の宗教は主神の他に神の名は存在せず、精霊や天使というのはあくまでも主神を支えるための補佐にすぎない。ゆえに教会などで祈りを捧げるときは神に祈りを捧げ、精霊や天使を特に崇めるようなことはほとんどしない。
そして、彼女らは『精霊』に関しては色々口に出しているが、『神』に関してはあまり口に出していない。精々が、アカラのいう『海神』くらいしか聞かない。だから、シンは勘違いしてしまったのだろう。
彼らは精霊を重視して信仰しているだけに違いない、と。
当初、サク達もしていたような勘違いをシン達はしている。そうサクは感じ取った。
確かに、彼女らは『精霊』という言葉を多用する。だが、その本質はサク達が崇める『神』と同一視してもいいものだろう。アカラから彼女らの神話を聞き、説明された後にサクはそう感じた。
おそらく、彼女らーーこの島、否、環礁に住まうもの達は、唯一絶対の主神が天地創造をしたのではなく、天や地、海から火や風、森、水などそれぞれの役割を担った神々が連携してこの世界を作ったと考えている。そして、『山の民』が崇めている神と『森の民』が崇めている神、『海の民』が崇めている神の中に明確な上下関係は存在しない。少なくとも、アカラはそう言っていたはずだ。
この辺りのことに関して、サクは特に口を挟むつもりなどない。これが例えば商人たちの話の中に聞く『アムスタス皇国』や『アガク諸藩』、その他にも『アソツ国』などの人間相手だったならば、信仰のあり方から何か言う気にもなっただろう。熱心な信徒ではないとはいえ、生活の中にその教えは根付いているのだ。そのくらいの信仰心はサクの中にもある。
だが、ここはサクたちの知る『世界』ではない。もしかしたら同じ『世界』なのかもしれないが、明確に断定できる証拠が無い。だからこそ、サクは『ここは異なる世界だ』として無闇に自身の常識を振りかざすつもりはなかった。
それに、彼ら彼女らの助け無くしては、サクたちはここから帰るどころか生きることすら難しい。なればこそ、迂闊なことを口にして彼らの気を損ねるのは得策ではない。そう考え、そう言った論争にはあまり関わらないように話題を避けていた。
(そう言えば、彼らは割と俺たちの話を聞いても、特に何か拒否するような姿勢を見せなかったな)
ぼんやりとそのことを思い返した。だが、いつまでも現実から目を背けているわけにはいかないだろう。そう思って彼女らに視線を戻すと、意外なことに先ほどの雰囲気は一掃されていた。
これは一体どう言うことだろうか?
そう疑問に思っていたが、カロナがいつの間にか近くに来ていることに気がついた。
〔頭は冷えましたか? 2人とも〕
〔〔ハイ……〕〕
〔よろしい。それぞれ信ずるものは異なれど、今は一つの目的へ邁進する同志です。故に、崇める場所の区切がどうこうと言った些事に気を取られ、本質を見誤る事がなきようにしなさい〕
言葉はわからないが、おそらく見かねたカロナが仲裁に入ったのだろう。2人ともすっかり落ち着いていた。
それにしても、とサクは思う。こうして叱られているのを見ると、まだ見た目年相応の子供のようだ。アカラのしょげている姿を見ながら、サクはそう思った。