オゼ迷宮#32
サクの話は、周りで聴いているものにとって、荒唐無稽な話にしか聞こえなかった。
扉を抜けた先には木造建築からなる建物が一面に広がり、道の代わりに水路が人と人の往来を結ぶ都市など、聴いたことがない。そして、そこに住む人々の中には、獣の耳や尻尾をもつ者もいたと言う。そのような、明らかに人の身から外れたものなど、御伽話の中の存在でしかない。
事実、サクやモチでさえ、サクが実際に見たと言うまでは、そのような国があるなど、噂話としても聴いたことがない。では、アカラや『森の民』の反応はというと、サク達以上に怪訝な顔をしていた。実際、生まれてから老いて死ぬまで、環礁内の世界しか知らないーー下手したら島から出ることさえない人々にとっては、サク達が当たり前に理解している『他の国の存在』など、想像もつかない話でしかなかった。
だが、サクの辿々しい語り口や、途中途中に垣間見える苦しげな表情から、本来はもっと詳細に説明したいにも関わらず、語彙の問題から簡易な言葉に言い換えることしかできなかったのであろうことが伺えると、そのような考えもどこかへ行ってしまった。
【……と、言うような世界、広がってました。正直、わたしも、ネマさん、声かけなかったら、どうなっていた事か】
そう言ってサクは口を閉じた。
その頃には、周囲は静けさに包まれていた。皆が皆、今聞いたばかりの話を受け止めるのに精一杯となっていた。それも無理のない話だろう。サクも、このように『異なる世界へ転移する』と言う経験がなければ、まともに受け止めきれたかどうかわからない。そして、同じ経験を有するからこそ、モチも受け止めるのは早かった。
「……そうか。まぁ、オレ達にしてみれば、ここと対して変わらんような感覚もするな……」
そう呟いてはいたものの、やはりヒトに似た、人ならざる者がいる世界と言うのは想像が難しいのだろう。渋い顔をしてモチは黙り込んだ。
【確かに、サク達にしてみれば、ここも『不思議な世界』には変わりないのかもね】
アカラも同意するように小さく零していた。彼女はサク達と長く触れ合っていた分、『サク達がいた場所』に関する知識も多少は存在する。そのために、『異なる世界』と言われても、なんとか受け止めきれたのだろう。
一方で、モチ達のように感覚の共有もなければ、アカラのように彼らの話を『記録』ではなく、『記憶』で聞いたこともない面々の中は、そうはいかなかった。だが、彼らの中で受け止めが早い者もいた。特に、『森の民』の長はいち早く気を取りなおすと、目の色を変えてサクに尋ねてきた。
【サク。その世界は貴方にとってどのような感覚でしたか?】
【実際は、覗いただけ、と思う。夢の中、みたいな】
【なるほど。では、あちら側からここへ来る可能性は?】
【わからない。けど、あの扉、あっちにもある、可能性、ある。それだと、ある、と思う。それに……】
そこまで言った時、サクはこのことを正直に伝えるべきか一瞬迷った。もしかしたら偶然かもしれない。実際は、彼ーー乃至彼女ーーは、サクが見えていなかった可能性も十分にある。
それに、断定できないことを彼に伝えて、混乱させてしまったらどうしよう。そう言った不安の思いも湧いてきた。
【それに、どうかしましたか?】
だが、自分の3倍以上は歳をとっているような人物が、将来、己が身に降りかかるかもしれない火の粉を払うために必死になっている様子は、そうそう切り捨てられるものではなかった。いくらネマが『なんとなく感じ取った』程度の情景と一致するからと言え、余所者の言葉に真剣に耳を傾ける。それだけで、この長が自身の民のことをどう考えているのか分かると言うものだった。
だからこそ、サクはあの瞬間を話した。
【これは、勘違いかもしれない。けど、向こう側のヒトに、見られた。と、思う】
【なんと……】
そう言うと、明らかに長の顔色が変わった。
【なぜ、それを先ほど……】
【確信、ない。見られた、1人だけ。周りの人、見えない、みたい】
【……ふむ、偶然と言う線も? 確かに、10人くらいいて見えたのが1人だけ、となれば躊躇うのも……】
そう言うと、少し黙り込んだが、すぐに顔を上げて尋ねてきた。
【あなた方は、ここに来る際そのような経験をしましたか?】
【ない。貴方の世界、見えない】
そう言った時、アカラに訳してもらいながら話を聴いていたモチが、口を挟んだ。
「だが、霧をくぐる中で、一瞬変な感覚があったろ」
「ですが、それは……」
単純に世界が一変したことを示していたのではないか。サクはそう思った。事実、霧を抜ける途中で変な感覚はあったが、霧を抜け始めるまでは、海は凪いでいた。嵐に呑まれたのは霧を抜けてからの話だ。
故に、伝える話とは論点がずれているのではないかとサクは思った。だが、彼にしてみればほんの些細な情報でも欲しいものらしい。サク達が突然彼にとって聞き馴染みのない言葉ーー『連邦語』を話し始めたことから、疑問を感じたらしい。
【なんだ? 何かあるのか?】
【世界、超える時、変な感覚、あった】
【……では、こちらは見えないものの、何か一線を超えた感覚はあった、と?】
問いかけにサクは頷いた。
だが、それだけでも彼らにしてみれば、値千金の物だったのだろう。すぐに、彼はネマ達『森の民』数人に何事か指示を出していた。そして、その指示に頷くと、数人がその場を辞して他の場所へ駆け出した。
【彼らは……?】
【サクさんの話で、ある程度目処はつけられたのでな。準備に行ってもらった】
そういう彼の顔は、少しばかり晴れやかになっていた。
その時、この四阿に近づいてくる人影が見えた。最初は、先ほど駆け出した人のうちの誰かが戻ってきたのかと考えていた。だが、近づいてくるにつれて、そうではないとわかった。
先頭に立ってこちらへ進んできているのは、おそらく『森の民』だろう。目の前の長やソウガラマ、イロ、ネマ達と似たような作りの服を着ている。また、体格や肌の具合など見た目で一致するものも多かった。
だが、その背後に立っている二人組は異質だった。
2人とも、外套で体をすっぽりと覆い隠していた。文字通り、頭のてっぺんからつま先まで、余すところなく肌を覆い隠していた。フードまでつけて、顔すら見えないのだから徹底している。さらに、外衣にはかなり余裕を持たせているようで、体格すらはっきりとは分からなかった。
そして、背丈はおそらくサク達と同じか少し高いだろう。先導している『森の民』の男性の背丈がわからないことには正確なことは言えないが、彼の身長をソウガラマと同程度と仮定すると、そのような背丈になりそうだった。
(こんな暑い中よくあんな格好できるな……)
それがまず初めの第一印象だった。
サクの視線から、何かあると察したのだろう。他の人たちもその方向を向いた。そして、アカラや長達が彼らを見ると、小声で話し始めていた。内容はよく聞き取れないし、その上アカラも『森の民』の言葉を話しているため、判りようがなかった。だが、雰囲気から察すると、少しアカラが批難しているような雰囲気があった。
「アカラ、彼らは?」
【彼らは、『山の民』よ。そして、サク達をポワントゥ山の、彼らの聖地へ案内してくれる人たち】
そう説明しているうちに、彼らは四阿のすぐそばまで来ていた。そして、彼らは出迎えるため外に出た『森の民』の人々と話し合っていた。
「さっきは何を話してたんだ?」
【予定がかち合うなんて聴いてない。そう言ったの。特に『山の民』は……】
そう言った時だった。
〔『山の民』が、何だって? アカラ〕
〔日中はあまり出歩かず、夜型の生活だって教えようとしただけよ、カロナ。それにナイラも〕
彼らの問いに、アカラがそう返していた。今まで聞いたことのない言葉。これが『山の民』の言葉なのか。そうサクはぼんやりと思った。
【君たちが山に来る、と言う人たちかな】
【あ、はい】
【さっきアカラから言われたと思うけど、『山の民』の案内人、カロナです。彼女はナイラ】
そう言ってフードを外した下から出てきた顔に、サクは驚いた。
2人とも肌がとても白く、まるで月の光のようだった。特にナイラと呼ばれた女性は、髪の毛も真白に染まり、その中で瞳だけが鮮血のような色に染まっていた。
【よろしくね】
そう言って、彼ーーカロナは手を差し出した。