アムスタス迷宮#9 イグス-1
(なんだ、あの化け物は……)
それは突然空から降ってきた。
突如天空から降り注いだ炎はそれだけで一個中隊を壊滅させるほどの死傷者を出した。その炎にイグスが巻き込まれなかったのは単なる偶然と言って良かった。
イグスは皇軍の小隊長として今回の探索に参加した。もともとイグスは精鋭と名高い近衛騎士団入りを目指していたが、その枠は同期入隊のアルカゼラディス家の次女が取ってしまった。そのため、今回与えられた小隊長というのは子爵家の次男という立場から与えられた名誉職のようなものと考えていた。
そのウズナは今設営隊長から仕事を丸投げされ奴隷たちを駆使して野営地を設営している最中だった。
(俺から騎士団入隊の機会を奪った才能なしの魔女が雑務をしているとはな)
その様子を内心軽蔑しながら率いていた小隊の方を見てみると、隊員たちはこの丘に住んでいる牛を捕まえていた。
「おいおいお前ら、何やってるんだ」
「あ、小隊長。なにぶん野営地が出来るまで暇だったものですからせっかくなら食料の現地調達でもしようかと」
「それに見てくださいよ。あいつらが先に捕まえてたせいか逃げてく最中だったんすよ」
示された方を見てみると、別の隊の連中は呑気に焼肉を始めているのが見えた。さらにあたりを見渡してみると、其処彼処で皇軍の兵士や騎士たちが牛やヤギなどを捕まえている光景が広がっていた。その中にはついてきた学者もおり、早速彼らの知的好奇心を満たしにかかっているようだった。遠くで設営をしたり周辺の状況を偵察している奴隷や特別任務部隊からは目を逸らし、イグスは隊員たちに視線を戻した。
「お前ら牛なんて捌けるのかよ」
「火ぃ通せば平気なんじゃないっすかね」
そう軽口を叩き合っているうちに捕まえた牛に隊員が止めをさそうとした瞬間のことだった。
遠くで焼肉をしていた一団の中心が突然爆ぜた。そのことにイグスが気付いたのは衝撃で吹き飛ばされ起き上がった時のことだった。そこで目にした光景はこの世のものとは思えないものだった。先ほどまでの弛緩した雰囲気は消え、ただ寒寒とした空気が広がっていた。そしてイグスの視線の先ーー爆発の中心地の地面は黒々と焼け、人の形をした炭がぼつぼつと少し離れた場所にに立っていた。今なお爆心地の地面は山火事にでもなったかのように煙をあげていた。ふと足元近くを見てみると、全身に大やけどを負った騎士が一人、すでにこと切れていた。
『GGGGUUURRRYYYYAAAAAAAAAAAA!!!!!』
突然空から咆哮が轟き、ついで地面が揺れたことでそれでやっとイグス達は辺りを見渡し始めた。
「お、おい。あれ……」
呆然とイグスがあたりを見渡していると、近くに同じように飛ばされへたり込んでいた兵士が遠くの方を指差していた。その指の先を追うと、丘の向こう側に蜥蛆の化け物がいた。
何だ、あれは。
蜥蜴に蝙蝠の羽をつけたかのような見た目をしているそれは、足元の何かが気になるのかこちらを直接は見ていなかった。しかし、イグス達のいるところから見てあの大きさということは、近くでは大人10人分にでも匹敵するのではないかと思われる体躯をしていた。
そこまでイグスが考えたところで“蜥蜴”が前足に何か引っ掛けているのが見えた。イグスのいるところからでは遠くでよく見えないその何かは赤く染まっており、やけに丸々として、下の方に何か棒のようなものが四本垂れ下がっている様に見えた。それが何なのかはっきり見えた瞬間、その場にいた人は全身の血の気が引いた。丸々として見えたのは背中に背負っていた荷物であり、垂れ下がった棒に見えたものは細い人の手足だった。そこまで認識した時、無謀か勇敢か矢を放った兵士がいた。この距離だと届くはずがない。そうイグスは思っていたが、その予想を裏切るように矢は飛び、蜥蜴に当たったかのように見えた。そこでやっと“蜥蜴”はこちらを向いた。次の瞬間“蜥蜴”は勢いよく翼を広げ空を飛んだ。前脚に掴まれていた人はその勢いで球のように放り投げられ、そして丘の向こうに見えなくなった。
目で追えたのはそこまでで、“蜥蜴”はこちらに飛んできた。イグスは慌てて立ち上がると抜剣した。あたりを見ると其処彼処で騎士や兵士たちは各々の武器を構え始めていた。一方で学者や魔術師、そして奴隷たちは今なお固まったままだった。“蜥蜴”は一直線に飛んできている。その翔ぶ方向を見ると、奴隷たちが一塊になったままだった。もう時間がない。そう思った瞬間、ウズナが「荷物を捨てて、逃げて!」と叫んでいるのが聞こえた。彼らが荷物を捨てたかどうか、動き出しているかどうか確認する余裕はなかった。“蜥蜴”に視線を戻した時、目の前にはすでに奴がそこまで迫ってきていた。大声を出したウズナに反応したのか、顔をウズナの方に向けていた。その“蜥蜴”の顔を見たウズナはみるみるうちに顔を青ざめさせた。そして、周りの人々に「退避‼︎」と叫びながら顔の正面から外れるように走り出した時だった。“蜥蜴”の吐息が陽炎のように揺らめいているのが見えた。
次の瞬間、奴はすさまじい勢いで火を噴いた。
おそらく着弾地に近かったものは即死したに違いない。“蜥蜴”が吐いた炎は蒼白く、通り過ぎた後は一直線に地面が炭と化していた。そして不幸にも近くにいたものはその姿の残滓を残す事なく消滅していた。ウズナはと言うと間一髪で射線から逃れたようで、体勢を立て直して側面から斬りかかろうとしていた。しかし彼女に続いて動こうとしたものは少数であり、大多数は目の前の光景を受け入れることができずにいた。
そして“蜥蜴”は斬りかかってきたウズナを調査隊の中で最大の脅威と判断したのか、ウズナを執拗に狙っていた。そこまで認識が追いついた時、イグスは一つの考えが浮かんだ。辺りを見渡すと、小隊の部下達は皆近くに飛ばされていた。そのことを確認するとイグスは“蜥蜴”を刺激しない程度の声量で部下に呼びかけた。
「おい、お前ら集まれ」
呼びかけると不安だったのかすぐに集まった。人数を数えると幸いなことにイグスの部下は全員軽傷以下で済んでいた。
「た、隊長」
「どうするんすか、隊長」
「あんな化け物相手は無理っすよ隊長」
そう口々に訴えてくる部下たちを宥めながらイグスはその案を囁いた。
「いいか、お前ら。よく聞け。今、あの化物蜥蜴は『魔女』を狙っている。つまり俺たちには気を向けていない」
「まさか隊長、それに乗じて俺たちもあいつらみたいに奇襲を……」
「いや、撤退する。丘を下って逃げるぞ」
「「「えっ」」」
「考えてもみろ。あんな化け物に敵うわけないだろう。それともお前らここであの消炭になった奴隷達のようになりたいか?」
そう言うと、部下たちは先程までの光景が頭をよぎったのか頷いた。そうと決まればさっさとここを離れるに限る。そうイグスが考えた時にはあたり一面で混乱が広がっていた。悲鳴を上げ、何もかも放り投げてとにかく“蜥蜴”から逃げようとするもの。身体に火が付き、絶叫を上げのたうち回るもの。幸運にも炎は直撃しなかったけれど、恐怖のあまりにその場にへたり込むもの。辺りは混乱し、誰かが指揮をとって何かするどころの話ではなくなっていた。
そのような状況の中で“蜥蜴”は相変わらずウズナを集中的に狙っていたが、その余波や流れ弾は容赦無くあたり一体に降り注いでいた。その様は逃げ遅れ攻撃範囲内に巻き込まれた人を噛笑うかのようだった。そこから先の出来事は、悪夢の一言だった。逃げ遅れたものから蒼炎に巻かれ、その痕跡をこの世から消した。それは物言わぬ骸と化し黒い炭へ変わっていった者とどちらが幸福だったのか。炎の直撃を免れても、蜥蜴が動いた瞬間運票く下救きになってしまう人もいた。“蜥蜴”が身動ぎする度に揺れる地面に足を取られ、巻き起こる突風や振り回される尻尾で簡単に人が宙に舞った。
幸いなことに戦域はイグスから徐々に遠ざかっていったため、この機を逃さずに丘を下ることにした。そしてイグスたちが丘を降り始めた時のことだった。イグスの頭上を閃光が駆け抜けた。その衝撃に突き飛ばされるように斜面を転がり落ちた。
「痛っつつ……。何が起きた?」
イグスは痛みに頭をさすりながら丘の頂上の方向を見上げると、後ろについてきているはずの部下の姿は前の方にいた10人くらいしか見えなかった。
「お前ら、後ろの奴らはどうした?」
「あ、小隊長。それが俺たちも何が何やら……」
「何だったんすかねあの光」
「全くだ、さっさと下りるぞ」
そう言って立ち上がった時、それまで見えていなかったものがみえた。打ち身や擦り傷に顔を顰めながら立ち上がったのはイグスを含めてわずか5人だった。では残りの地面に横たわっていたものはというと、身体の上の方が消し飛んでいた。首から上がなかったり上半身がなかったりとその程度はさまざまだったが、一つ共通していたのは全て断面が炭と化していた。
「……これってまさか」
「……恐らくその通りだろうな」
あの“蜥蜴”の炎がイグスたちの居た場所を薙ぎ払ったであろう事は想像に難くなかった。
イグスたちは恐々と頂上を見上げ、一目散に逃げ出した。




