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箱庭の乙女は守りたい  作者: ISTORIA
第四章 不調和ハプニング
14/21

04‐04:救われたのは――

2025/08/30:一部修正しました。



 頭痛と不快な異臭の余韻(よいん)によって意識が戻る。

 凪祇は呻きながら、知らない空気を感じて全てを思い出す。

 海外組織による犯行を聞き、自ら誘拐されたのだ。


 起き上がろうとするが、体が満足に動かない。

 重たい瞼をこじ開けると、薄汚れた天井が視界に映る。周囲に視線を巡らせば、古びた洋館の寝室と思わしき場所だと察する。

 頭上に目を向ければ、寝台の頭部の板から鎖が伸び、自身の両手首と繋がっていた。


「悪趣味だな」


 頑丈な(かせ)で拘束されているのだと判り、凪祇はぼやく。


「あら、ずいぶんな物言いね」


 突然聞こえた、あでやかな女の声。

 目を向ければ、重厚な扉から西洋人が登場した。

 海面のように波打つ金髪に、切れ長な青い目の妖艶な美女。これまでの刺客と雰囲気が異なり、派手なスパンコールのエンパイアラインのドレスを纏う。

 赤い口紅(ルージュ)やら頬紅(チーク)やらアイシャドウで、凪祇には道化師のように感じる。


 あまりのけばけばしさに顔をしかめると、女は鼻で笑う。


「寝起きでそんなに元気なら大丈夫かしら」


 流暢(りゅうちょう)な日本語を聞き取り、凪祇は顔を(そむ)ける。


「何が大丈夫だ。こんな格好は気分が悪い。抵抗しないから早く外してくれ」

「それは駄目。いくら言っても信じられるはずがないわ」


 標的を逃すような真似はしない。

 口ぶりから人情味が薄いと感じた凪祇は、交渉すらできない相手だと分析する。

 どうしたものかと考え込んでいると、寝台の淵が沈み、(きし)む音が耳に届く。


「それに、暴れられると困るのよ」


 間近で聞こえた囁きに、心臓が嫌な音を立てる。

 嫌な予感が過り、凪祇は口を(つぐ)む。しかし、顔を掴まれて強引に向けられ――


「くさっ」


 女の顔が迫った瞬間、鼻につくものに思わず呻いてしまう。


「……は? 何ですって?」


 思いもよらない暴言に低い声が出るが、凪祇は衝動のまま文句を言う。


「臭いんだっ……! ファンデーションとか、香水が混ざったっ……うぇっ、何を使っているんだよっ……!」


 えづきながら悪態を吐いてしまうと、女は頬を引きつらせて黙り込む。

 息を止めて耐える凪祇の様子を観察して、仕方なさそうに離れる。


「まったく、(なえ)えるわ。仕方ないから猶予をあげる。私が戻るまで覚悟を決めなさい」


 身を(よじ)って咳き込む凪祇に冷たく言い放ち、女は部屋から出て行った。


 気配が無くなった途端、全身に冷たい感覚が襲いかかる。

 怖気、不快、嫌悪、それらを強引に煮詰めたような気持ち悪さに呼吸が乱れる。


「うそ、だろ」


 まさか襲われるとは思わなかった。

 経験上、国宝級の異能者である凪祇を傷つける敵はいなかった。誘拐犯でさえ縛ることはあっても暴行はしなかった。

 今回もただ海外へ運ばれるのだと思っていたのに、無体を強いられかけた。


 恐怖で体が震える。嫌悪感から吐き気がする。

 ただ天音を試すためだけのつもりだった。それがこんなことになるなんて……。


「だれ、か……っ」


 助けを求めても、この場に味方は誰もいない。

 これまでは護衛部隊の誰かが救助に来てくれたが、間に合わないかもしれない。

 刻一刻と迫る身の危機に、凪祇は自分の考えの足らなさを後悔した。



     ◇  ◆  ◇  ◆



 花咲凪祇の誘拐から一時間。

 白い雲が橙色に色づき始める頃、天音は(すた)れたビルディングの屋上に立つ。


 視線の先には古びた洋館。所有者がいない証に、大量の木蔦が壁に根付いている。

 規模は花咲家の別邸より小さいが、一般の一戸建てより広く、車が三台も収納できる。

 そこには黒服の男達が煙草を嗜み、中には拳銃の手入れをしている者もいた。


「どう? 遠視と透視を備えた眼鏡は」

「……問題ない」


 天音が告げると、後ろに控えている眞人は答える。

 普段の理知的な眼鏡ではない黒縁の眼鏡の性能に、驚嘆の吐息を漏らす。


「なら、手筈通りにお願いね」

「任せろ」


 眞人は固い意思を込めた声で宣言した。

 少し前の腑抜けた様子が嘘のような面構えだ。


 天音は薄い笑みを口元に浮かべ、後ろに控える五人の守護者に呼びかける。


「桜華は毒物除去のために広範囲に浄化を。天斗は分身、久遠寺君は【精霊師】で敵を捕縛。私と魁はオベリオンの『妖精の道』によって屋敷内へ突入し、花咲凪祇を救出。アリエルは念話による知らせを久遠寺君に伝達」

(うけたまわ)りました」

(かしこ)まりぃ」

「御意」

「了解」

「任せて!」


 桜華、天斗、魁、オベリオン、アリエルは承諾した。

 それぞれの個性的な応答を聞き、天音は告げる。


「敵に慈悲はいらない。思うままに倒して」


 殺しはしないが、手心を加える必要はない。


 一部の制限を解除され、魁は目を細め、天斗は口角をつり上げる。好戦的な彼等から溢れる闘気に、桜華は(しと)やかに微笑み、アリエルは無邪気に、オベリオンは酷薄に笑う。

 守護者達の底知れぬ威圧感を肌で感じた眞人は背筋が凍るほど恐れを抱く。


 天音は士気を高める『家族』に頼もしさを感じながら、眼前へ右手を突き出した。


「作戦開始!」


 合図を下した途端、桜華と天斗が飛び出す。

 空を駆け、洋館の上空に浮かんだ桜華は、『神具召喚』で錫杖(しゃくじょう)を出した。

 桜華の浄化と治癒能力を広範囲へ行き渡らせる神具『天錫(てんしゃく)清鈴(しょうりん)』。


 美しい金の飾りと鈴をふんだんにつけた錫杖を軽く振り、石突(いしづき)で宙を突く。

 足場のない空中だというのに、まるで地面を叩いているよう。

 金属が擦れる澄んだ音が鳴り響く。シャン、シャン、と単調に鳴り渡り、音の届く全域に淡い光が満ち(わた)る。


 音と光を感じた男達は慌てて戦闘態勢に入るが、彼等の背後に天斗が気配なく現れ、次々と倒されていった。

 地面に倒れ伏した直後、眞人の異能【精霊師】の指示に従う精霊達が男達を拘束する。


「くそっ……!」


 悪態を吐いた男が奥歯に仕込んだ毒を(あお)ろうとするが――


「……は?」


 仕込んでいるはずの毒薬がない。いくら顔を傾けても、舌で探っても、カプセル状の薬物独特の違和感がない。

 桜華の神技によって人体に害をなす薬物の全てが消えたのだ。

 自決できないのだと理解した途端、男達は絶望から青ざめる。


「無駄な足掻きはやめようねー。キミたちは殺さないけど、ご主人の仕事の邪魔をしたんだ。政府の暗部から存分に痛めつけられちゃえ」


 冷酷に嘲る天斗に恐怖を煽られ、男達は引きつった悲鳴をあげる。

 鼻で(わら)い、『千里眼』で確認すれば、洋館の周辺を警備する敵は全て捕縛した。


(ご主人、外は終わったよー)

(ありがとう。倒した敵は一か所に集めて)


 天斗が念話で天音に告げると、次の指示を出した彼女はオベリオンを一瞥する。


「オベリオン、お願い」

承知しました(イエス)我が主(マイ・ロード)


 天音の一声に応じ、オベリオンは『妖精の道』を通じて洋館の入口へ転移した。

 広々とした玄関広場(エントランスホール)には数人の武装集団がいたが、残像すら残さない魁の神速と金棒(かなぼう)の打撃を前になす術もなく再起不能に陥る。

 手加減はされているが、『怪力』の能力を持つ故に手加減とは言い難い威力。

 骨が折れ、中には粉砕する者もいる。

 普段なら極限まで力を押さえているが、天音の命令である程度の制限から解放された。


 ――「敵に慈悲はいらない」


 ならば遠慮なく(ほふ)るのみ。

 魁は無表情ながら、内心では嬉々と敵を打ち倒す。

 ……とはいえ魁が求める以上の敵が、隠密行動を主体とする誘拐犯にいるわけもなく。


「この程度か」


 僅か一分で片付き、魁は落胆した。

 武装したほとんどが操作系の異能者だった。

 武器や異能生命体を召喚する異能者も二人ほどいたが、今回の作戦の主題は救出。(たわむ)れている暇はない。それでも強敵を期待していたため拍子抜けだ。


「さすが最強の武人ね。魁、ありがとう」


 魁は式神の中で最強の武力を誇る。この結果は当然のもの。

 けれど天音は当然と受け止めず、笑顔で感謝の言葉を贈る。

 いつものことながら主人の称賛は心地よく、魁は得意げに微笑を返した。


「マイ・ロード、急がなくていいのかい?」

「あ、そうだった。魁、先陣をお願い」


 オベリオンの一声を機に、魁を先頭に洋館の階段を駆け上がる。

 天斗の千里眼のおかげで、凪祇の居場所は判っている。


 屋敷の二階の最奥、魁が重厚な扉を蹴り破れば、広々とした寝台に一人の女がいた。

 バスローブを着た金髪碧眼の美女は、煽情的(せんじょうてき)に胸元を開いている。


 その下には、凪祇の姿が。


『敵襲ですって!?』

「魁!」


 女は異国語で(わめ)きながら飛び退()く。

 しかし、直後に迫った魁に顔面を掴まれて壁に叩きつけられた。

 壁に亀裂が入るほどの衝撃と痛みに、女は白目を剥いて意識を失う。


 あっという間に幕を閉じた救出劇。

 天音は肩の力を抜くが、後片付けが残っている。


「この女はどうする」

「エントランスまで連れて行って。天斗を呼んで全員の拘束もお願い」

「主は?」


 魁が問いかけると、天音は寝台へ近づく。

 手枷で両腕を頭上に固定され、開きかけの開襟シャツ姿の凪祇が放心していた。

 外傷はないが、浅い呼吸と青ざめた顔色から精神的に参っているのだと見受けられる。


 流石にこの状態を放置できないと判断した天音は眉を(ひそ)める。


「メンタルケアが先かな。でもその前に、この鎖と枷を壊して」

「御意」


 魁は女を投げ捨て、凪祇を拘束する鎖を引きちぎる――かと思いきや手枷に触れる。

『怪力』の影響を考慮して軽く握った途端、枷が粉々に砕けた。


 自由の身になった凪祇だが、放心したまま動かない。

 眉間に皺を寄せた魁が彼の首に手を伸ばすが――


「魁」


 天音の一声で止まる。


「ありがとう。この子のことは任せて」


 真剣な眼差しで見据えられて、魁は溜息を吐く。


「すぐに戻る」


 魁は女を脇に担ぐと部屋から出ていく。

 後ろに顔を向けて頷けば、オベリオンは恭しくお辞儀して姿を消す。


 静かになり、天音はウエストポーチからブランケットを出して凪祇にかける。

 肌触りの良いブランケットの温もりで、ようやく凪祇は呼吸を整える気力を戻した。


「――で、何か言うことは無い?」


 ハッと凪祇は我に返って顔を上げる。

 自分を見下ろす天音の目が凍えそうなほど冷たい。

 暴行とは異なる恐怖を感じて、凪祇は生唾を呑む。


「自分から誘拐されに行った理由は、私を試すためでしょう」


 天音の断言で、言い逃れはできないと悟る。

 自分の愚行を理解しているからこそ、凪祇は気まずそうに目を背ける。

 その煮え切らない態度に、天音の中で何かが音を立てた。


「ふざけるなよ」


 自分でも驚くほど重苦しい声が出た。

 堪忍袋(かんにんぶくろ)()が切れる、とはこのことなのだと俯瞰的(ふかんてき)に感じる。

 凪祇は威圧が込められた天音の声を聞き、心胆が縮み上がった。


「私が嫌いなら放っておけばいいのに、どうして自分を犠牲にしてまで試そうとするの。その勝手な振る舞いで身を亡ぼす可能性をどうして考えない。そもそも貴方を守る霧島隊長達の想いを蔑ろにしてまですること?」


 天音の言葉は、凪祇だけではなく霧島達への思いが込められていた。

 顔を向けると、怒りと苦しみが綯い交ぜになった天音の表情を目にして息を呑む。


「私はこれまで異能を隠して生きてきた。そのせいで天ヶ崎家のみんなを危険に曝しかけた。私が貴方の護衛を引き受けたのは、それが最善の解決法だったから。それでも伊緒理さんは貴方を守るために、私に頭を下げて護衛を頼んだ」


 初めて顔を合わせた時の話を、今度は事詳しく直して言い聞かせる。

 前に聞いた話より掘り下げられた内容に、凪祇は戸惑う。


「貴方は実の親に愛されているんだよ。なのに……どうしてその愛情(想い)すら気付かないの」


 当主である伊緒理は、日々集まる魔物の魔核を消し去るために励んでいた。

 しかし、仕事ばかりで親子の時間を取れない日々が続き、とうとう我が子との関わり方が分からなくなってしまった。

 当主としての接し方はできても、親子としての接し方ができない。

 器用に見えて不器用なのだと、月に一度の面談で打ち明けられたのだ。


 本人から聞かされた天音は(くや)しくなった。

 天音は実の親に愛されなかったのに、愛されている凪祇は気付こうとしないのだから。


「伊緒理さんは不器用なりに貴方を守ろうとしているのに、どうして理解しようとしないの」


 理不尽な文句だと理解している。それでも天音は耐え切れなかった。

 実の親から与えられる無償の愛を蔑ろにする凪祇が、どうしても許せなくて……。


「みんなの思いを無碍(むげ)にして、自分を大事にしない貴方なんて……護る価値なんてない」


 冷徹な言葉を浴びせられた凪祇は胸の痛みを覚える。

 悲しさからではない。悔しさからではない。

 凪祇を否定している天音が、悲痛な顔で涙をこぼしているからだ。


「……ごめん」


 悲しませるために誘拐されたのではない。ただ天音のことが知りたかったのだ。それが天音を傷つけるとは想像できなかった。

 凪祇はどれほど自己中心で理不尽なことをしたのか、やっと自覚したのだった。


「本当に……ごめん。もう二度としないと誓う。だから……」


 泣かないで。――そう言いかけた時、天音の手が頬に触れる。


「怪我はないよね」

「え? あ、ああ……」

「不快なところは?」

「……服を脱がされかけたけど、それ以外は……」


 幸いにも未遂で済んだ。天音が来てくれなければ酷い末路を辿っていただろう。

 嫌な記憶が蘇って体の(しん)が震え、抑え込もうとすると冷え切った頬を撫でられた。


「よく我慢したね。……無事でよかった」


 悲しげなのに、ほっと安心した微笑み。


 ヒュッと凪祇は息を呑む。


 初めて自分に向けられる、凪祇が引き出した天音の笑顔なのだ。

 仄かでも優しい温もりが込められた微笑を見て、じわりじわりと熱が込み上げる。

 気付けば目の奥が熱くなり、視界がぼやけた。


「……ごめ、ん。ごめん、なさっ……!」


 震える手で天音の手を握り締めると、頭を撫でる手のひらの温もりを感じる。

 (こら)えきれない感情が一気に込み上げて、凪祇は衝動のまま縋りつく。

 天音は突然のことに驚いたが、寝台に腰かけて凪祇を抱きしめた。


「もう大丈夫。もう怖いものはないよ。貴方が必要とする限り、私が貴方を守るから」


 柔らかく包み込まれた凪祇の心に、優しい声が()みる。

 同時に何度謝っても気が済まないほどの罪悪感に襲われ、(せき)を切って泣き出した。


「っごめ……っ、ごめんなさいっ……!」


 曇っていた心が晴れていく。(よど)んでいた気持ちが洗われていく。

 優しい温もりに包まれて、癒されていく心を実感した。




 一頻り声をあげて泣いた凪祇は、ようやく気持ちの整理がついた。

 同時に自分の行動を振り返って羞恥に駆られて(うずくま)る。


「大丈夫? 水でも飲む?」

「……その、ごめん」

「いいよ、襲われかけたんだから。むしろ女性恐怖症になってもおかしくないんだよ」


 天音はウエストポーチから出した飲料水のボトルを開封して渡す。

 受け取った凪祇は半分ほど飲み、ようやく一息つく。


「……今までこんなこと、なかったんだけどな」


 これまで誘拐された経験上、浄化に特化した国宝級の異能者だから丁重に扱われた。拘束されても迂闊(うかつ)に自害しないための処置であり、心身を傷つける非道はされなかった。


 初めてのことに疑問が込み上げて、ぽつりと呟く。

 すると、天音は呆れた様子で溜息を吐いた。


「あのねぇ……高校生にもなれば、子供を作れる体に成長しているんだよ? 敵国の中には誘拐だけじゃなくて、貴方の子供を自国の人間に産ませて、自国の財産にする思惑もあるの。今回の誘拐は、その最悪の例の一つだよ」


 警視総監・久遠寺清香と伊緒理にも語った最悪の例。

 なるべく分かりやすく説明すれば、凪祇は絶句した。

 気持ちはわからなくもないが、天音はいま挙げられる憶測を続けて教える。


「産み落とされた子供は国に利用されるだけじゃない。研究材料にされる可能性もある。貴方の異能を持つクローンとか量産されるかもしれないし、適性のある子供を人体実験で異能を植えつけられるかもしれない。そうなれば多くの命が犠牲になるし、その恨みの矛先が貴方に向けられることもあるでしょう」


 推測だが、ただの絵空事とは言えない可能性に、ゾッと悪寒が走る。

 血の気が引くと、天音が背中を撫でて労る。


「だからもう自分を犠牲にすることはしないで」

「……わかった」


 青ざめた顔で頷けば、天音は痛ましそうな面持ちで凪祇の頭を撫でた。

 華奢でいて柔らかな手のひらの温もりに気分が落ち着く。

 そしてふと、あることに気付く。


「どうして俺の名前を呼ばないんだ?」


 普段から「花咲様」と呼んでいる天音が、今日は「貴方」と呼んでいる。

 名字すら呼ばれなくなるのだろうか。そう思うと悲しくなる。

 しかし、凪祇の一言で天音は目を丸く見開いた。


「名前で呼んでいいの?」


 きょとんとした天音の無垢な表情に心臓が跳ねる。

 自分自身の鼓動の変化に戸惑いながら、凪祇はぎこちなく頷いた。


「ふ、普通に凪祇でいい。俺も天音って呼ぶから」

「……うん。えっと……凪祇?」


 確かめるためなのか、首を傾げて名前を呼ばれる。

 上目遣いで呼ばれた凪祇は心臓が締めつけられたような苦しさを覚える。


「……ぁ、ああ。それで、いいよ」


 動揺を隠しきれないまま言えば、天音は嬉しそうに破顔した。


「ありがとう。じゃあ凪祇、改めてよろしくね。……って、どうしたの?」


 初めて向けられた満面の笑顔を直視した瞬間、凪祇は胸に手を当てて屈む。

 顔の熱が抑えきれない。脳がぐるぐると回転する。

 目を回してしまう中、天音の手が額に当たる。


「……熱? やっぱりストレス……? 早く安静にした方がいいかも」


 本気で心配する天音の言葉に焦るも声を出せない。

 何度も深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着いて顔を上げると、天音は立ち上がって右手を差し出した。


「帰ろう」


 天音の一言に、凪祇は息を詰める。

 今住んでいる家は、学生期間中の仮住まいでしかない。

 けれど、そこが凪祇の帰る場所だと天音は言ったのだ。


 ――「帰る」。

 今まで何も感じなかった言葉の響きが、じわりと胸に沁み込んだ。


「……ああ。帰ろう」


 とても大変な一日だった。怖い目にも遭った。

 同時に、それを上回る幸福を見つけた。

 天音に出会わなければ感じなかっただろう幸福感を知り、凪祇は穏やかに笑った。




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