第九章 封印がとかれた初恋
週が明けてぼくは社員寮にもどった。ただでさえ眠りにつきにくい体質なのにぼくはさらに眠りにくくなっていた。考えまいとしても夜になるとしのぶの面影ばかりが浮かんで来る。
「なんであのあとしのぶをいじめちゃったんだろ?」
アキラの指摘どおりぼくはしのぶが好きになっていた。涙を落としてイチゴをかんだしのぶを見て。それまではなんとも思ってなかったのに。
「変な意地を張らずにひらき直ればよかった。そうさ。ぼくは立原さんが好きなんだって」
ぼくは理解した。自分の心がしのぶの思い出を完全にかくしていた理由を。
寝てもさめてもぼくの胸はしのぶ一色に染まったから。
「しのぶはぼくの初恋でそれを罪の意識から封印したせいでぼくは恋のときめきと縁がなかったんだ。ぼくが女の子に興味がないんじゃなかった。ぼくはずっとひとりの女の子に片思いのしっぱなしだったわけか」
そんな考えをめぐらせて引っかかる点に気づいた。
「森崎はどうしてしのぶの事情にくわしいんだろ?」
森崎は小学五年生の夏休みにしのぶから話を聞いたって口にした。
「夏休みに会うほど森崎はしのぶと親しかったんだろうか?」
あのころ女子は森崎が先頭に立ってしのぶを仲間はずれにしていた気がする。
「そもそも正義感が強くて涙もろい森崎がしのぶの家の内情を知った上でシカトできるはずがないと思うんだけど? 森崎って弱い者やしいたげられている者を見れば積極的にお節介を焼きたがる性格なのに? 変だなあ? どういう理由なんだろう?」
森崎が社員寮まで同窓会の写真を持って来てくれた。それでその質問をぶつけてみた。
お金持ちのお嬢さんである森崎は寮がめずらしいらしくきょろきょろと見回していた。山田が紹介しろよとつめ寄って来たけど軽くいなして森崎を自室に案内した。
「ところでさ委員長。どうしてしのぶの事情にくわしいの? 夏休みに会うほど仲がよかったっけ?」
「痛いとこをつくね岡野は。仲がよくなくても。あっそうか。あなた。しのぶのうちがどこだったか知らないんじゃない?」
「うん。知らない」
しのぶは二月に越して来て九月にいなくなった。だから年賀状を出すこともなく電話番号も住所も聞いてない。ぼくはあの丘でしのぶから『誕生日は九月七日なの。乙女座よ』って教えてもらっただけだ。
「しのぶの家はあたしんちのとなりよ。仲がよくなかったって顔は合わすわ」
「ええーっ! 委員長んちって高級住宅街じゃない!」
ぼくの声が裏返った。しのぶはぼくらと同じ庶民だと信じていた。着ている服もありきたりの市販品だったし。
「しのぶの家ってすっごいお金持ちなのよ。しのぶのお父さんの実家の立原家がだけどね。しのぶのお母さんは貧しい家の人でさ。しのぶの両親は立原のおばあさんの反対で駆け落ちしてたわけ」
「えっ? そうなの?」
「うん。お父さんが亡くなったあとしのぶとしのぶのお母さんは立原家に呼ばれたの。けどおばあさんがせめるのよね。つらい生活で息子を殺したのはあんただって。そんなおり立原の家に出入りしてたフィンランド人商人とお母さんがというわけよ。で。お母さんの再婚とともにしのぶはフィンランドへ行っちゃったの。あたしにイチゴの話をしたのは引っ越しが決まったせいだと思う。もういじめられないって安心したんじゃないかしら? ところがお母さんの再婚は長くつづかなかった」
「どうして?」
「死んじゃったのよ。その外人さん。再婚して二年目かな。かなり年上でガンだったってさ。それでしのぶたち母娘はまた日本にもどって来たの。あたしが中一のときね。あたしどうしてそんなふうに頻繁に出たり入ったりしてるのか疑問だったからさ。しのぶから家庭の事情を無理やり聞き出したわけよ。なかなか話してくれなかったのをおどしたりすかしたりしてやっとね。ガーンって頭をぶんなぐられた気がしたわ。そんなかわいそうな子だったら小学生のときにシカトしなかったのにってね。小学校時代のしのぶってどんなにさそってもあたしたちとあそばなかったじゃない? いつもひとり離れて童話の本を読んでてさ。一学年に三十一人しかいない小学校で全員が身内みたいなクラスだったのにね。大金持ちの孫娘だから垢ぬけない劣等生のあたしたちとあそびたくなくて離れてるんだって思ってたのよ。人形みたいにととのった美少女ぶりを鼻にかけてってね」
「嫉妬してたんだ委員長」
「あれほどの美少女に嫉妬しない女はいないっての。あの顔を見たあと自分の顔を鏡で見たら自殺したくなる」
「委員長だって美人じゃない」
「どもありがと。でもあんたに言われてもなあ。岡野ってデパートのエレベーター嬢に話しかけるみたく女に接するからなにをほめられても実感が湧かないぞ。どゆこと?」
それはぼくが知りたい。けどきっとしのぶと関係ありそうだからと先をうながした。
「で。しのぶはそのあとどうしたわけ? また立原家を出たの?」
「そう。今度はドイツへ行っちゃってね。お母さんが日本人学校の語学の教師に採用されてさ。もともと語学の先生だったんですって」
声だけ聞くとあっけらかんと聞こえるけど森崎の顔には悔恨が深くきざまれていた。立原しのぶは一本のトゲらしい。おおむね平穏にすぎたぼくらの小学生時代に刺さった。
「じゃしのぶはまだドイツに? 向井は日本で見たって言ってたけどあいつの見たはあてにならないからなあ」
「そうね。里美の『見た』が的にあたったためしってないわね。しのぶが帰って来た形跡はないし特にパチスロ屋はしのぶのイメージと合わないわ。あたしいつも気になってるんだ。しのぶは追い出されるみたいに引っ越したでしょ。最後に会ったときに落ち着き先を知らせてねって言ったんだけどそれっきりよ。岡野くん。しのぶが気になるなら調べてくれない? 立原のおばあさんさうちのとなりでしょ? 立ち入った詮索はしにくいのよね。頑固者だし男尊女卑論者なのよ昔の人だから」
森崎がためらいがちに切り出した。勝手なときだけぼくをくんづけだ。女ってしたたかだからやだなあ。
がさつでざっくばらんな森崎にもしがらみってあるんだと意外だったが。
「なにを調べるのさ?」
「しのぶの現住所とか近況とかよ。あたし小学校の同窓会をやるたびにあの子が気にかかってしょうがないの。あたしたちのときはさ。一年から六年まで一クラスで転出者もいなかったから同じ顔ばかりだったじゃない? みじかいつき合いだけどあの子くらいでしょ途中でいなくなっちゃったの。だから同窓会をやるならしのぶも呼びたいなっていつも思ってるの」
「なるほど。そういうことなの」
「うちの親さ。『しのぶちゃんみたいによくできた子ならねえ』なんてしのぶとあたしをくらべるからやっかんでたのよねあのころ。ひと言あやまっときたいのよ。みんなと一緒になっていじめちゃったこと。あたしまだあやまってないんだ。あの子に向き合うとついあの美貌に嫉妬しちゃって胸の奥がどす黒く染まるの。醜い女だわ。あたし」
「うん。ぼくもあやまっときたい」
「あんたはいいじゃない。いじめたことよりやさしくした記憶がしのぶに印象深いみたいだもの。あたしがイチゴの話を聞いたのって夏休みの終わりだったからさ。すでにあんたはしのぶをいじめたあとでしょ?」
「えっ? あ。ああ。夏休み前に。いじめた。そんな気がする」
「ほらね。あたしたちなんていまでもしのぶの中じゃいじめっ子だわ。だから岡野くん。立原のおばあさんからしのぶの住所だけでも聞き出して。おねがい」
「わかった。やってみるよ」
とは言ったもののそれはなかなかたいへんだった。ぼくは実家に泊まって立原家の玄関に八回立った。
最初おばあさんのぼくを見る目はふりこめ詐欺の犯人を見る目だった。わたしはだまされないよ来ても無駄と。
次に行ったときはキャッチボールで窓ガラスをわった野球小僧を見る目だ。ガラス代を弁償してもボールは返してやらないよと。
次はこいつはいつも門の前でウンチをする犬だなという目でぼくをにらんだ。不作法な犬だが犬に罪はない。飼い主の森崎にこそ罪があると言いたげに。
ぼくはよほどシッポをまいて帰ろうと思った。森崎に安うけ合いさえしなければ。
森崎から飼い犬性格だって指摘されたせいでぼくはすっかり犬気分だった。ウーワンワンと立原家の玄関で吠えたい心境になった。
そんなこんなをくり返してついにぼくはしのぶからの年賀状を手に入れた! 重要アイテムを取ったさいの『ドラ×エ』のファンファーレが聞こえた気がする。
いやあ。レベルもあがったなぼく。
ついでにRPGにたとえれば最初に会ったモンスターが毎回成長してボスキャラ化して最後は魔王になって立ちはだかった。そんな感じだ。たった一匹しかモンスターが出て来ない安あがりなゲームのくせに手こずるクソゲーそっくりだった。
こんなばあさんが相手じゃしのぶのお母さんもたいへんだったはずだ。もし上司がこのバーサンだったらと思ったとたん目の前にまっ黒なカーテンが降りて来た。
こんなのにいびられちゃとっくに辞表を出している。ぼくは会社に入って初めて感謝した。上司がバーコードハゲの橋本係長でよかったと。世のなか上には上がいる。係長は毎日ぼくらを怒鳴っているが犬の排泄物を見る目では見ない。
たのみます係長。ぼくを犬の排泄物あつかいしないでね。
しのぶは毎年年賀状を書いているらしい。返事の来ない片道だけのたよりを。
ただドイツにいるせいで年賀ハガキじゃなくクリスマス用のポストカードだった。今年の賀状は雪のノイシュバンシュタイン城の上に『謹賀新年。がんばってます』と日本語で書かれていた。
張り切っている仕事があるんだろうか? 黒インクのきれいな楷書で几帳面そうな文字がたて書きにされている。おあそび気分のぬけない丸文字じゃなかった。軽い向井に言わせれば『お堅いしのぶのイメージどおり』なんてコメントをつけるだろう。
どんな気持ちでしのぶはこれを書いたのかな?
しのぶの近況なんてまるでわからない愛想のないハガキだった。
ぼくはハガキを手に森崎家のインターホンに呼びかけた。お手伝いさんらしき女性が出たので今日子さんとかわってくれとたのむ。
森崎とは小学校の六年間ずっといっしょのクラスだったけど女の子の家をたずねた経験はない。ぼくらの子ども時代は女の子とあそぶとはずかしいって空気が充満していた。女の子と話をするだけでアキラに冷やかされたし。
いまの小学生はきっと彼女のいない男のほうがからかわれてるんだろうなあ。
古風な洋館の森崎家は建売住宅のわが家とは広さがけたちがいだった。立原家と森崎家の玄関は信号ひとつぶんは離れていた。わが家が二十軒あいだに入るとなりんちだ。
こういうのって近所つき合いはほとんどないんじゃないかな? うちなんか隣家の夫婦喧嘩が丸聞こえだった。夜には子作りの音まで筒ぬけで学生時代は夏休みも家に帰れなかった。
ぼくが社員寮で寝つけないのはひょっとすると入寮者がすくなすぎて静かだからかもしれない。となりの部屋で子作りをしてもらうとよく眠れるんじゃ? 昔は勉強が手につかなくてイライラしたけどいまならそれをおかずに安眠できそう。
ぼくって成長した?
しばらく待つとインターホンに森崎が出た。
「委員長。しのぶの住所を手に入れたよ」
「きゃーっすっごーい! どこに住んでんの? どこどこ? 早くあがって来て! 早く!」
ぼくはお手伝いさんに案内されて森崎の部屋にたどり着いた。女の子の部屋というより変人学者の書斎だと思う。
ゆいいつ女の子らしいのは心理学書の本棚の一列にならぶ少女マンガだけだった。豪華な応接セットにお尻を沈ませてお手伝いさんにはこんでもらったコーヒーに恐縮しつつぼくはハガキをボサボサ頭の森崎に手わたした。
いくら自分ちだからってもうすこし身だしなみをととのえろよ。昔と変わらない実用主義者だなあ。
「委員長。しのぶはドイツにいるみたいだよ。毎年年賀状だけは書いてるそうだ。でもあのバーサン。自分からは出してないよきっと。うちとは関係ない女ですってくどいほど念押ししてからハガキをくれたもの」
「あいかわらずな家族関係ねえ。でもこれドイツはドイツみたいだけど」
「うーん。耳におぼえのない町だよね」
ハガキの住所を見ながら化粧っけのない森崎と地図をにらめっこした。手元のドイツ地図では見つけられられなかった。森崎がネットで検索した結果ドイツ北部の小さな小さな町だと判明した。
「ま。そんな辺境でも郵便はとどくだろさ。じゃあさっそく手紙を書きましょう」
「あ。あの。委員長」
気がつけばぼくは森崎に声をかけていた。明確な目的があったわけじゃない。ぼくの胸のもやもやがそんな呼びかけをしたみたいだ。無意識がそうしろってぼくをけしかけたんだろう。
森崎が年季の入った黒檀の机から取った万年筆を指にぼくの顔をまじまじと見た。よほど複雑な表情だったようだ。森崎の顔にいつものからかいが浮かばない。
「どうしたの岡野くん? 様子が変だけど? ははーん。さてはしのぶが気がかりでこまってる?」
「う。うん」
どうしてぼくの心の内がわかるんだろうといぶかりながらぼくはうなずいた。
「健忘がととけちゃったものな。とうぜん次はツァイガルニク効果よね」
森崎が自分だけうんうんと納得した。
ぼくにも教えろよ。ざんばら髪のおばさん。
「なにそのツアーニンニクって?」
森崎がこのバカとぼくをにらみつけてひとりツッコミを披露した。学者になるには生徒を引きつける話術も必須科目らしい。
「ツアーニンニクってのは首からニンニクをさげた団体がトランシルバニアまで吸血鬼退治に行く国際的迷惑行為よ。ちがうっての。ツァイガルニクって心理学者の証明した効果でね。『目標を達成した完了課題より目標が中断された未完了課題のほうが記憶の再生がしやすい』って現象なの。完了した課題は記憶から消去されるけど未完了の課題は終止符が打たれるまで記憶にとどめる必要があるってわけよ」
「心残り?」
「そう。下世話に言いかえると『実らない初めての恋はいつまでも鮮明に記憶されてうずいちゃうよぉ』って現象よ。それが『初恋におけるツァイガルニク効果』なの。あんたの場合は好きになってすぐしのぶがいなくなっちゃったでしょう? 普通そのときにツァイガルニク効果が起きて胸をうずかせるんだけどさ。いじめた罪悪感のほうが強くてしのぶの記憶を封印しちゃったわけよ。だからしのぶを忘れた。けどいまは思い出した。同時にツァイガルニク効果が起きてしのぶが気になって仕方がない。本来小学五年生の秋に起きなきゃならない現象が時間をずらしてあなたに起きてるの。実らなかった初めての恋がいまになってうずいちゃってる。そうでしょう?」
「そ。そう」
その答えはぼくの心の叫びだった。ぼくの胸のパンドラの箱から飛び出した不幸がぼくを昼夜せめる。寝てもさめてもと言うけどとにかく落ち着かない。
まさにうずいちゃってる。せつなくてたまらない。
神話では箱の底に残った最後のひとつが希望だったそうだけどぼくの箱の中にはその希望が入ってなかった。欠陥パンドラの箱だったらしい。メーカーに文句を言って交換してもらわなきゃ。
そう思ったけどとっくに保証期間切れだった。なにせ十年以上前の購入品だ。
行きづまったRPGなみにどこに行けば希望が手に入るのかぼくにはわからなかった。攻略本が出版されてないせいだ。
森崎ならこの胸の痛みの解消法を教えてくれるかもとぼくは期待した。
「一日中気になってとまらないんだよ。これどうにかならない委員長?」
森崎が万年筆を置いて鼻先にずれたメガネを右指で持ちあげた。
「それ専門用語で恋わずらいって呼びます。難病指定されてる感染症よ。美人の女の子から視覚感染するの。特効薬を開発すればノーベル賞まちがいなしね。そのうえ大金ウハウハよ。健保適用外の難治療症だから十割負担で料金を請求するけどいい?」
「十割負担はないよぉ。せめて七割にして」
「仕方がない。七割で手を打とう。ところでさ。いまが恋わずらいって事態だとあなたしのぶを封印したさいに恋する機能まで封印しちゃったんじゃない? これまで女の子と無縁で来たでしょ?」
「うん。こんな気持ちになった経験ってない」
「あちゃあ。最後の最後に厄介なのが来たなあ。同窓会になんかさそわなきゃよかった。あっち行けシッシッ!」
「そんなあ。犬じゃないんだから追っぱらわないでよぉ」
「あっ。いま思い出した。あんたに命びろいの話をした女の子は名乗らなかったのよね?」
「はあ? そうだけど? それがなに?」
どういう脈絡で森崎がその話題にかえたのかわからなかった。
「彼女はあんたとつき合いたいと思ったのよ。それでとっておきの話をした。でもあんたはエレベーター嬢にするような対応しかしなかった。そのために彼女は脈がないと見て名前も告げずにあんたから離れた。いまのあんたなら彼女も名乗ってくれるんじゃないかしら?」
「そ? そうなの? いまのぼくなら女の子とあまったるい会話ができる?」
「たぶんね。こないだまで小学生だったのが恋わずらいをするまでに成長したんだもの。あんた大人になったわけよ」
「なるほど。でも大人になるってこんなに苦しいの? 苦しくてたまらないんだ。なんとかしてよ委員長」
「うーん。まいったわねえ。ツァイガルニク効果の解消法そのものは簡単なんだけど」
森崎がいわくありげにぼくを見た。答えはもう出ているがそれが実行にうつせるかしらとはかっている顔だ。
「早く教えてよ。早く早く」
「うん。要するにね。未完了が問題なのよ。課題を完了させれば心の負担でなくなるの。それって好きな相手に好きだって言わなかったってことでしょ? だから『好きだ』とか『好きだった』って告白しちゃえばそれまでなのよ。いま現在に相手を好きなんじゃなくて過去に自分のできなかった課題が宙ぶらりんになってるだけだからね。たとえいまふられようが心の傷にならずに未完了課題に終止符が打たれるだけなの。つまりしのぶとあなたのふたりの問題じゃなくてさ。あなたひとりの心の問題なのね。失恋したってサバサバした気分になれるはずよ。けどこの場合しのぶはドイツにいる。ハガキでいきなり好きだじゃアブナイ人だし」
森崎がしのぶのハガキの対角線を両手の人さし指でささえてクルクル回しはじめた。答えははっきりしているけどその答えが本当にぼくらのためになるかを考えているときのくせだ。
小学生当時はまっ黒のプラスチック下敷きでやっていた。思い返せば思い返すほど幼いころから実用一点張りの可愛げのない女だったわけだ。
せっかく美人になってるんだからちゃんとスキンケアをしろよ。年取ったとき早く老けるぞ。
「ちょくせつ会うのがいいの?」
ぼくの問いに森崎の指先で回転していたハガキがピタッと動きをとめた。あたりだ。
「ええ。会うだけで解消されるケースは多いわ。心的な課題は正面からぶつかれば霧消するものがほとんどなの。案ずるより産むがやすしよね。うじうじ考えてるとどんどん妄想がふくらむわ。ストーカーなんてのも未完了課題じゃないかって言われてるくらいよ。ドイツ出張ってないのあんたの会社?」
「あるわけないよ。特にうちの課は国内向けスポーツドリンクのシェアを○・○一パーセントのばすのがもっかの課題なんだぜ」
○・○一パーセントってのは街角にあるコンビニの冷蔵庫の中にわが社の製品を一本ふやすということだ。たったそれだけだけど日本全国のコンビニに換算すれば莫大な利益になってもどって来る。
なにより他社のが一本へるわけでライバル社の営業部長の鼻をあかせるのがうちの部長と係長にとって大きい。そっちは些細な体面の問題なんだけど本来の目的みたいな騒ぎ方をふたりはする。課長はそのふたりとちがって利益重視だ。
「ドイツに出張はないか。こまったわね。うまくしのぶが日本に帰って来りゃいいけどさ。ずっとドイツにいてゆいいつの親戚縁者がうちと関係ないって言い張ってるんでしょ? しのぶが日本に帰る用事はないわね。あんた休みを取って自費でドイツに行ってみる?」
「そ。そんなのできっこないよ。こないだ七日の盆休みを消化したとこなんだ。しばらく休みはくれないよきっと」
「じゃハガキを出す以外に選択肢がないじゃない。決定ね。返事が来るかは疑問だけど」
返事が来なければぼくのもやもやは解消されないままか。
また森崎の指先でハガキがクルクルと回った。どうしようもねえやつだなと回るハガキがぼくをせめた。
幼い日のしのぶの声がぼくにささやく。あなたまでがわたしをいじめるの。
森崎がハガキを万年筆に持ちかえた。視線を天井におよがせて文面を考えはじめる。ぼくの治療はもうおしまいらしい。三割値切ったせいか?
森崎は昔から正論しか吐かない。ぼくの胸はすっきりしなかった。
たまには不可能な行動でもあんたならできるって保証してよ。石にかじりついてでもドイツに飛べってけしかけてよ。
そんなハッパをかけてもらっても実際には行けないってわかっているけど。