第八章 森崎今日子の心理学教室
同窓会がおひらきになった。さっさと帰ろうと背を向けたぼくは中華料理店の出口で森崎に捕獲された。森崎がニヤニヤ笑いを浮かべてぼくの首をつかむ。
「十年以上も会わなかったってのにまた逃げる気? 二次会も参加してもらうわよ」
「あ。いや。その。ぼくあした仕事だから」
「明日は日曜日! くだらない言いわけはやめて。さ。行こ」
結局ぼくは森崎につかまったまま二次会三次会とつき合わされた。途中でにぎらされた森崎の名刺には大学の心理学教室の肩書きが刷られていた。森崎は将来大学教授になるらしい。大学そのものに森崎家の出資が大だから簡単になれるだろう。
道楽娘なんだ。森崎って。
酒に飲まれていたぼくがわれに返ると森崎とふたりっきりだった。高層ビルの最上階に位置するバーのカウンターにならんで腰をすえて窓の外を見ながら話していた。
夜空に浮かぶ宇宙船から見おろす街みたいだった。はるか眼下を流れるタクシーの車列が赤い光の帯を織っていた。都市のうす闇にテールランプのつらなりが真紅の天の川に見えた。
バーのネオン灯が七色にぼくをつつんだ。銀河を走る蒸気機関車にぼくは乗せられた気がした。ぼくは車窓におでこをつけて次の駅があらわれるのを待ちこがれる少年になった。
暗い窓に通過駅の駅名が飛び去る。カシオペア座のアルファトンネル駅と読めた。次は銀河七番地のキャンプ場だ。
むかし見た映画の一場面だった。夏休みのキャンプに向かうバスの事故で両親や友だちのすべてを亡くした男の子が助けたネコに連れられて銀河七番地に旅立つ。少年は宇宙の果てのキャンプ場で両親や友だちと水あそびをしてすこし大人になってネコと元いた街にもどる。それだけの単純なすじだったけど幻想的でほろ苦い二〇一五年作の印象に残るB級映画だった。
女の子ってこんな店に連れて来たらよろこぶんだろうなあ。そう思いながらぼくは森崎に愚痴をこぼした。陽子にいまだに弱いこと。仕事がうまく行ってないこと。ぼくのせいでもないのに係長から怒鳴られるつらさを身ぶり手ぶりするぼくがいた。
「ふーん。仕事に行きづまってるのかあ。でもね最初からうまくはこぶなんてそうそう世の中にはないのよ。あなたのせいでもなくしかられるなんて企業じゃあたり前に起きる現象じゃない。二年目や三年目で順調なんてほうが異常かもね」
「それなぐさめになってないよ委員長」
ぼくは口をとがらせた。もっとあまい言葉を期待しているのに。
「あらあら。彼女でもないあたしに安らぎを求めないでよ。抱擁がほしかったら恋人を作りなさい。あたしはただの委員長。あんたたちが悩みやわからない難問があるときにだけたよりにされる存在じゃない」
「なるほどそうだった。じゃあさぼくの人生は受験生活しかないって説があるんだけどどう思う?」
美しい思い出を持たないと係長にののしられたことがぼくの胸から離れない。服にこびりついたガムのかみカスのように。
答えの出ない問いだろうがなかろうが森崎は誰の質問にでも真剣に考えてくれた。あのころぼくらはみんな森崎の真剣さに救われたように思う。打ち明けたからといって難問が解決した例はなかったけど。
「うーんそうね。美しい体験がひとつもないなんて悲しいわね。けど探してみれば誰だってひとつやふたつはいい思い出があるものよ。あなたは特に忘れっぽいから思い出せないだけじゃないの? バーテンさん。イチゴパフェひとつね」
森崎が突然そんなオーダーを通した。森崎はうわばみでここに来るまでも酒をカパカパのどに落としていた。なのにいまさらイチゴパフェ?
不審顔のぼくに森崎が目を流した。メガネでノッポでお下げの色気なんかまるでなかった委員長が唐突に口紅の似合う大人の女に姿を変えてぼくはとまどった。美人の女教師に指さされた新入生みたいにだ。
「なんでイチゴパフェって思ったんじゃない? あたしイチゴにトラウマがあるのよね。言っとくけどトラウマって虎と馬の遺伝子結合生物じゃないわよ?」
「そのくらいはぼくだって知ってるさ。過去の精神の傷でしょ?」
「そう心的外傷と訳される場合が多いわ。よくできました。えらいえらい」
森崎がぼくの頭をなでた。
子どもあつかいかよ。
バーテンからイチゴパフェを受け取った森崎が笑顔でイチゴをスプーンに乗せた。イチゴの紅さがうれしいみたいだ。
「小学校五年の夏休みだったのよね。あたしが『年中イチゴ食べたい病』なんて不治の病にかかっちゃったのは」
「年中イチゴ食べたい病? そんな病気あり?」
「ありあり。季節を問わずまっ赤なまっ赤なイチゴが食べたくなるおっそろしーい病気なのよ。イチゴを舌に乗せるまでイライラがとまらないの。とんでもない難病でしょ? あたしが知ってるかぎりこのまれな業病にかかってるのは世界中でひとりだけなの」
森崎が自分を指さした。
「ふうん。なんでそんな妙な罹患をしたのさ?」
「話せば長いからかいつまむわね。小学五年生の夏休みにいい話を聞いちゃってイチゴが食べたくなったのよ。ところがその年はやたらイチゴが不作な年でさ。高いくせにまずいイチゴしかなかったわけよ。きっとあたしその年ずっとまずいイチゴしか食べてなくておいしいイチゴ渇望症だったのね」
「へえ。ぼくらの小学五年生ってイチゴの出来が悪い年だったんだ」
「そうなのよ。しかも話を聞いて食べたくなったときはもう夏休みでしょう? とっくにイチゴの時期をはずれてて近所のくだもの屋さんにないって言うママをこまらせてさ。デパートまで連れてってもらったわけよ。でもやっぱりおいしくなくてさ。以来年中イチゴ食べたい病なの。あの年おいしいイチゴが食べられてたらそんな罹患はなかったわ。そのあとママがくだもの屋のおじさんから興味深い話を聞いて来て病状がちょっとましになったけどね」
「くだもの屋のおじさんの話なの? イチゴに練乳をかければいいとか?」
「ううんちがう。デパートですらまずいイチゴしか売ってない年にどうやったらおいしいイチゴが手に入るか。そうママがくだもの屋のおじさんに相談したわけよ。そしたらおじさんはその年の五月に受けた妙な注文の顛末をママに語ったの。とあるおばさんが特別にたのんで極上のイチゴを購入したってね。いいのがなくて高い年なら料亭に回す超高級品をすこしでいいから手に入れてくれって近所のおばさんが無理を言ったそうなの。そんな注文を初めて受けたおじさんは気合いを入れて皇室におさめる『石垣イチゴ』ってのをおばさんに回したってママに自慢したわ」
「石垣イチゴ?」
「そう。静岡県の久能山東照宮の石垣で育てはじめたイチゴだそうよ。料亭用の超高級品なんてのは一般価格の十倍はするそうでさ。右から左に横流すとサラリーマン家庭には高価すぎるから超高級品の品質はそのままに市価の倍におさえた商品を調達したって胸を張ったらしいの。おじさんの出身は静岡市だそうで親戚の人にたのんで久能山の農家を一軒一軒おがみ倒して一粒ずつかき集めてもらったってさ。形のいいのは皇室や料亭に行くけど不ぞろいのは商品にならないから自家消費用に農家に残るんだそうよ。味もおかしな形をしてるほうが上なんだってさ。うちもそうすりゃよかったって翌年からそれおねがいしてるんだ。実際のところは集める人件費がかかるから親戚の人のサービス残業がなけりゃ大赤字だろうけどね」
「じゃ毎年おいしいイチゴが?」
「うん。でも突発的にぶり返すのよね。年中イチゴ食べたい病。特に夏場に」
「それでいまほうばってるわけか。そういやイチゴと言えばぼくも最近イチゴが出て来る夢を見たよ。昔見た映画の一場面をぼくが主人公になって再現した夢みたいなんだ。委員長。その映画のタイトルがわかったら教えてくれない? つづきが見たいんだけど題名が不明でさ」
ぼくがこないだの夢の話を持ち出すとイチゴという単語に興味をひかれたらしく森崎がぼくをうながした。年中イチゴ食べたい病と自称するだけあってすでにイチゴパフェは空だった。
「聞かせて聞かせて。どんな夢だったの?」
「海を見降ろす丘公園で女の子が泣いてるんだ。主人公がぼくだから舞台はうちの近所になってるけど気にしないでね。女の子は泣きながら海に落ちる夕陽に向かって『赤とんぼ』を口ずさんでた。ぼくはバスケットにまっ赤なイチゴをすこし持ってる。夕暮れの海を見ながらイチゴが食べたかったんだけど女の子がいてぼくは公園の入口で悩んだ。イチゴを女の子にあげるとなくなるな。もったいないなって。ぼくもイチゴは大好きなんだ。けどその子があんまり悲しげだったんで引き返せなくなった。ぼくは女の子に近づいてイチゴをさし出した。なぐさめようと籐のバスケットごと。しぶしぶだったけどね。イチゴはちょっとしかなかったから」
森崎がにわかに真剣な顔になった。
「そのあとをおぼえてる?」
「は? つづき? ちょっとだけね。女の子が食べてもいいのと訊くからぼくはうんと首をたてにふった。それでも女の子がまだためらうんでぼくは口にイチゴをほうりこんでやった。そういやあのイチゴも不ぞろいだったな。自家菜園のイチゴだったのかなあ。女の子からありがとうと言ってもらって目がさめたよ。たぶんこのあとカメラがロングに引かれて夕陽が沈む橋の上でふたりがキスするラストシーンが来るんだ。そこにエンドタイトルをかぶせて映画の終わりなんだろうね」
脳天気にB級映画なはこびを活弁するぼくを森崎が深刻な顔でにらみつけた。
「それ映画じゃないわ岡野くん。現実よ。あたしの年中イチゴ食べたい病はあんたがいま説明した話が発端だもの。その女の子ってしのぶじゃない。立原しのぶ。よく思い出してみなさいよ」
「え? ええっ? そ? そうなのぉ?」
あまりの意外な展開にぼくはのけぞった。そんな記憶はまったくない。
立原しのぶってだいたい誰だ? 小学校の同級生って話だけどぼくはその子を知らないぞ?
どうなってるんだと思ってぼくはハッと気づいた。いまは真面目な顔だけどさっきまでずっと森崎はうす笑いを浮かべていた。
「いや。やっぱり委員長も映画を見たんだ。それでぼくをからかってるんだろ?」
「バカ。あんたをからかってあたしになんの得があるわけ? 男をからかうのならハンサムでかっこいい男の子にするわ。あんたはあたしのストライクじゃない。あたしは『おれについて来い』的な男がこのみなの。あんたは『女に頭があがりません』男じゃないさ。あんた自分が陽子ちゃんに弱いって愚痴をたれてたけどそうじゃない。あんたは女全般に弱いの」
「そ? それ本当?」
「はい。心理学的に見てもそうよ。女の子が白と言えば白。右と指示すれば右。女の子にシッポをふらざるをえない典型的『飼い犬男症候群』よあんた。進路を的確に示してくれるしっかり者の女性と結婚しなさいね。可愛いだけでたよりにならない女の子と結婚すると失敗するわよ。いまのうちに認識を改めるべきね。でさ。そんなに映画の話だって固執するならインターネットで検索しなさいよ。イチゴ五粒で検索すりゃきっとすぐにヒットするわ」
「イチゴ五粒? ぼくイチゴの数まで説明した?」
「だからねえ。あたしがあんたといっしょの映画を見たって信じこむのは勝手だけどさ。あたしはしのぶから聞いたわけよ。あんたの話した以上の一部始終をね。しのぶが海を見降ろす丘公園にいたときある男の子があらわれたんだってさ。バスケットに五粒のイチゴをつめてね。ひとりで夕陽を見つめるさびしがり屋の女の子に笑ってイチゴをわけてくれたそうよ。その子は心やさしい男の子でふたりだとさびしくないだろっていろいろ話をしたってさ。あんたが持ってたバスケットの中身は紙おしぼりとイチゴが五粒入ってただけだったんでしょ? ほかになにも入ってないのにイチゴだけが五粒」
「そ。そう。そのとおり。なんでイチゴだけ五粒かわからないんだけどさ。紙おしぼりとイチゴが五粒だったよ」
「じゃまちがいなし。しのぶはすっごくうれしそうに話してくれたわ。そうか。しのぶは泣いてたのか。それでよけいうれしかったわけね。けどあたしその話をいまのいままでしのぶの作り話だと思ってた」
「どうして?」
「だってしのぶはその男の子が誰かを教えてくれなかったもの。うふふって笑うだけでね。だから空想の世界にふけってるんだなって思ってた。あの子いつも童話を読んでたでしょ? ひとりぼっちの女の子をなぐさめるために心やさしい男の子がバスケットにイチゴを五粒だけつめて夕暮れの公園に来た? おとぎ話だわそんなの。ありえなーい。しのぶって将来童話作家になりたいのかしらなんてあたしは思ったわ。まっ赤に熟れたイチゴの味を表現する口調がとっても生々しくて才能あるなあって感心したの。とどめは最後の一粒よ。押しつけ合ったすえ半分コしたんでしょ? 先に男の子に半分かじらせて残りの半分をしのぶが食べた。童話好きな女の子がつむぎそうな妄想そのものじゃない? しのぶは『間接キスしちゃった』って頬を赤らめてたわよ? 幸せを顔中からこぼしながらね。くやしいけど妬けたわ。小学五年生でファーストキスだもの。間接キスといえ創作童話といえうらやましすぎ」
「た。たしかにそんな展開だったけどさぁ。ぼくそのしのぶって子をおぼえてないよ?」
森崎がまたぼくをにらむ。お前の言葉はあてになんねえって顔だった。
「あんた受験勉強のしすぎでとてつもなく忘れっぽくなってるんじゃない?」
「じゅ受験? 受験がどうして関係するわけ? 忘れっぽいのと?」
「受験勉強に必要なのは記憶力より忘れる能力だって説があるの。受験ってのは大量のどうでもいい情報を一時的におぼえる作業でしょう? その場合おぼえた内容をおぼえっぱなしにすると記憶容量が足りなくなるの。だから終わった課目はさっさと忘れて次を記憶する。そのためには忘れ去る力が必須なのよ。役者や俳優がそういう記憶の達人だって話だわ。ひとつの芝居のセリフを完全におぼえる。その芝居が終わるときれいさっぱり忘れて次の芝居のセリフを暗記する。だから受験秀才って受験が終わると大した業績が残せない。記憶を書きかえる作業のスペシャリストでしかないからよ。あなたの記憶野はそういう訓練をされてるんだと思うわ。いま現在の役に立つ情報は記憶してるけど過去の情報は消去しちゃってすぐに思い出せない。そんな感じじゃなくて?」
ぼくはあんぐり口をあけた。そ。そうだったのか。
「思い出す方法ってあるの?」
森崎がまたからかう顔に変えた。にんまり笑う。
「あるわよ。まずお脳に電極棒を刺しこみます。次に引っかきまわすの。三分待てばアーラ不思議。赤ん坊の記憶にまでさかのぼりましたぁ。ノコギリで頭蓋骨に穴をあけなきゃならない特典つき。どう? やってみる? いまなら健保適用可よ。お安くしときますぜ旦那」
「そ。そいつはちょっと」
「じゃ自分で努力すれば? 記憶の想起ってのは細い糸をたぐって根元の太いところを引き出す作業なの。根気よくくり返せばちゃんと思い出せるはずよ」
「しのぶって子のことも?」
「たぶん。夢に見るのは記憶の底から浮上しつつある証明だからね。あーあ。あの話。現実だったのかあ。あんまりうれしそうに話すから空想の王子さまの物語だとばかり思ってた。まさかしのぶほどの美少女の王子さまがこいつだったとはねえ」
がっかりと森崎がぼくの顔を見て肩を落とした。これみよがしに。
「悪かったね。こんなさえない男で。そんなに面白い話だったわけそれ?」
「そりゃもぉ。あんなによろこんでるしのぶの顔を見たのってあのときこっきりよ。しのぶって優等生でいつもさびしそうな顔で沈みこんでるってイメージしかなかったもの。それがかがやくような笑顔でさ。こんな可愛い子だったのかってすっごく意外だった。あれほどおいしいイチゴを食べたの生まれて初めてなんて目をキラキラさせちゃってさ。おかげであたし年中イチゴ食べたい病に。あっ! ひょっとしてくだもの屋のおじさんに皇室御用達イチゴをたのんだおばさんってあんたのお母さん? それでしのぶがあんなにおいしいイチゴをって? 作り話だからおいしいイチゴって設定なんだと思ってたけど本当においしいイチゴだったんじゃ?」
「そ。そうか。それでハイキングでもないのにイチゴを籐のバスケットに入れて持ってたわけか」
ぼくは突然その記憶の真の意味に思いあたった。現実ではなく映画の一場面だと短絡的に思いこんだ理由も。
イチゴをバスケットに入れて公園まで持って行って食べるなんて普段の生活にはなかったせいだろう。
森崎が窓の外遠くに目を投げた。推理の糸で壁掛けを織るらしい。過去を思い返して検証する表情が窓ガラスに映っている。
小学生当時はぼくらの言葉にうそや矛盾がないかをぼくらから顔をそらせて考えていた。ぼくらがうそをついている顔を見たままだと怒鳴りつけたくなるかららしい。
森崎の頭の中で小学五年生当時の複数の出来事が関連づけられて組みあがりつつあるようだ。うまく織りあがれば一貫した物語が壁にかけられるはずだ。
窓に顔を向けたまま森崎がぼくに問いかけた。
「すっかり思い出した?」
「ううん。まだよく思い出せない。けどひとつ気づいた。うちの母は道々ものを食べるなんてみっともないって絶対に外で買い食いをさせてくれなかったんだ。駄菓子屋なんかもちろん出入り禁止でさ。そのイチゴのとき母が外で食ベてらっしゃいとぼくを追い出したんだ。自分のぶんを先に食べた陽子に見つからないようイチゴをバスケットにつめてね。年の離れた陽子にせがまれるとことわり切れないぼくだから」
でないと紙おしぼり入りのバスケットを持っているはずがない。ぼくは遠足用のバスケットがどこにしまわれているか知らなかった。父も陽子もきっと知らない。
森崎に家庭の内情を打ち明けられないからせがむと表現したけど正確には陽子にぶん盗られるのを母が阻止してくれたのだろう。
「いつもよりすこししかない特別なイチゴだからお母さんはあえてそうしたのね。自分の信念をまげてまで。あなたがイチゴを大好きなのを知ってたから」
「そうみたい。母がそんな行為をゆるすはずがないって思いこんでて映画の一場面だとばかり考えてたけどさ。ぼくのためをおもんばかった母の心づかいだったんだね。格別においしいイチゴだからって言われた気がするものな」
きびしいだけの教育ママと信じて来たぼくの中の母のイメージが微妙に変化した。
「いい話ね。ほら。いい思い出をひとつ発掘できたじゃない。あなたはそのすくない貴重なイチゴを泣いてるしのぶにわけてやったか。いいわあ。あたしそういう話大好き。やだ。またイチゴが食べたくなっちゃった。バーテンさんイチゴパフェもうふたつね」
バーテンに注文する森崎の横顔にぼくは問いを投げた。
「さっきひとつ食べたのにさらにふたつも食べるの?」
すでにいろいろ食べて飲んで来ているのにこの上ふたつのイチゴパフェ? すごい胃袋だな。
「バカねえ。ひとつはあんたのぶんじゃない」
「ええーっ? ぼ? ぼくも食べるのぉ?」
今日はめずらしくいっぱい酒を飲んだあとなのに。
「あったり前でしょ。あたしが『年中イチゴ食べたい病』なんて不治の病にかかっちゃったのはあんたのせいじゃない。責任取れ岡野。ところでさ。そのイチゴ事件のあとあなたひょっとしてしのぶをいじめたんじゃない?」
窓の外をながめていた森崎が不意にぼくに向き直った。美女と顔を突き合わせた経験のないぼくはまごつきながら答えを探した。
この森崎ってやつは核心に来た瞬間ぼくらの目をまっ正面から見つめて胸の奥底に切りこんで来る。ぼくらの言動を推理に推理したあげくぼくらの一番かくしておきたい恥部を図星するんだ。ここ一番までそっぽを向いてぼくらを見ないくせにね。
森崎の最大の特技でその呼吸はいつもにくいくらいするどい。単に底意地が悪いだけかもしれないけど。
「本当のところを言いなさいよ岡野。重要な転換点なんだからね。いじめたわよね?」
委員長時代の顔で森崎がぼくに適切な釘を刺した。ぼくはとまどいながら事実じゃない答ええらびを放棄した。すぐにバレるうそをついてもしょうがないと。
森崎はだてに六年間委員長を張ったわけじゃない。ぼくらのうそを見ぬく技術で森崎以上の存在はなかった。親や先生にバレなかったうそでも森崎はかならず見やぶった。
森崎はすでにさとったらしい。ぼくの胸の内で立原しのぶなる少女の顔が鮮明化しているのを。
すっかり忘れ去っていたのにきっかけひとつで浮上する記憶ってあるんだなあ。
「うん。いじめた。ような気がする」
ちゃんと思い出したぼくだけどいじめたと言い切りたくなかった。自分をかばいたい。
本当のところはしのぶとイチゴをわけ合ったあとしのぶをいじめた。長雨の教室に閉じこめられていた気がするから梅雨の時分だろう。しのぶにイチゴをあげたのは五月の中頃だ。丘をのぼるぼくはかすかに汗をにじませていた。
しのぶをいじめた理由はまだ思い出せない。けどみんなといっしょにいじめた記憶はよみがえった。しのぶはあなたもかという目でぼくを見た。ぼくはしのぶのそのつらそうな顔を直視できずにしのぶの視線から逃げつづけた。
梅雨が明けて夏休みに入るとぼくはホッと胸をなで降ろした。しのぶと顔を合わす機会がなくなったとだ。
夏休みが終わりに近づくとぼくはまたゆううつにのしかかられた。しのぶの視線をどうやってさければいいかと。
でも新学期がはじまってぼくは知った。それが杞憂だと。
しのぶが引っ越していたからだ。胸の重荷が取れたと安堵した記憶はある。
ただそのあとの記憶が不鮮明だ。そのころから中学受験に取りかかったせいもあるのだろう。よく思い出せない。
でもひとつだけたしかな点がある。ぼくはしのぶの引っ越しを先生から聞いたあと一度もしのぶを思い出さなかった。いまのいままで。
「やっぱりいじめたのか。だからあなたはしのぶを忘れた。いえ罪悪感から意識の深層が忘れようとしたんだわ。となるとしのぶの記憶は封印をとかれた箱みたいに次々に再生すると考えられるわね。どう? しのぶについていろいろ思い出したんじゃない?」
森崎が真剣な顔をぼくに向けた。ぼくらがいたずらしたおりにどうやって先生をごまかすかと対策を練っているときの顔だ。
こういうさいにうそをつくとかならず森崎は激怒した。事実を正確に語ってくれなきゃ有効な手が打てないんだからねと。
ぼくらがうそをついていると知っているくせに森崎はぼくら自身の口から真実を聞きたがった。ぼくらはさんざん抵抗してねばりにねばったあげく白旗をかかげる。
その小学生の森崎がいまの森崎と重なってぼくは不意にさとった。あんたたちがほんとの話を打ち明ければあたしがあんたたちを百パーセント守ったげる。そう言ってたんだあの当時の森崎は。
秘密をぼくらから受け取ることで罪のたすきまでぼくらから取りあげて走ってくれていたんだろう。森崎はいつもぼくらの最終ランナーだったんだ。
トイレ水びたし事件のとき森崎はぼくが最後に水道を使ったとの証言をえたらしい。森崎はぼくに白状をせまったけどぼくは森崎がなにをさして詰問しているのかわからなかった。そのかみちがいを森崎はかくしていると受け取ったんだ。わからない知らないとぼくが逃げていると。
だから森崎はおこってぼくを先生に引きわたした。あんたがかくしたいんならあんたの好きになさいあたしは助けてあげませんと。
普段は従順なぼくがあまりの大事件にビビッて逃げ通そうとしていると森崎は推理したのだろう。まさかぼくが質問の意味すら理解してないとはさすがの森崎も気づけなかったようだ。ぼくらの名探偵森崎今日子も万能じゃないんだ。
ぼくがふふっと笑うと森崎もウフフと返した。
こいつと結婚する男は浮気ができないだろうな。ここまで内面を見通す女と暮らすとなると男は細心の注意を求められるはずだ。ぼくじゃ太刀打ちができないだろうなあ。こんな関係だから笑っていられるけど。
「しのぶの顔。思い出した?」
「みたい。ほかにもずいぶん浮かんだよ」
ぼくの記憶の本棚は次々としのぶで埋まりつつあった。どこにこんな記憶がかくれていたのかと思うほど些細な出来事まで。
「やっぱり。しのぶの思い出はあなたの記憶の一番奥にしまいこんだ物語なのよ。シンクロニシティ。ユング心理学で言うところの『共時性』の発露ね。一方で同窓会がせまる。他方で会社の上司から美しい体験を持たないと非難された。そのふたつのストレスに無意識がこたえてしのぶの夢を見せたんだわ。あなたの人生でたぶん最もきれいな追想としてね。あなたがあたしに美しい記憶がないって相談を持ちかけたときすでにあなたの無意識は答えを提出ずみだったの。あなたが意識レベルで気づかなかっただけでね。わたしの役目はそれを適切な順番にならべかえるお手伝いをしたにすぎないわ」
「夢のお告げ? 虫の知らせ?」
「そう。それね。あるとき心にふと浮かぶの。祖父が死ぬかもとかね。すると数日後に祖父の死の知らせがとどく。ユングはそれを共時性と呼んだ。心に浮かんだ事象が現実化した一種の超自然現象だと。あなたの意識があたしのイチゴ食べたい病を知ってたとは思えない。だからあたしがイチゴにトラウマを持つと言い出したのは偶然に見えるはずだわ。けど気づかないだけできっかけは目にしてるの。無意識はそれをとらえてる。きっとあなたの無意識はあたしがメニューのイチゴパフェで目をとめたのを記憶にとどめたのよ。たぶんあたしがイチゴパフェを注文したのもあなたの視線がイチゴパフェの文字を示したからだわ。あなたが誘ったからあたしはイチゴの話題を持ち出したの。あたしがさっきイチゴを食べたくなったのはあなたのせい」
「そ。そんなバカな」
「ううん。まずまちがいない。あなたが美しい思い出を持たないって相談を唐突に切り出したのはそのイチゴの文字が引っかかったためよ。あたしがイチゴになんらかの関心を持つらしい。それが知りたい。そうあなたの無意識が反応したの。虫の知らせにはこまかく検証すればかならず連想のタネがあるわけよ。意識で気づかないだけで自分の望むように誘導してるの。子どもがクリスマスにテディベアがほしいなとねがってると口にしないのに親がテディベアを買ってくれたりするのよ。共時性ってのはそういう現象だわ。親は子どもの視線がテディベアで頻繁にとまるのを日ごろから見てたわけね。いつもいつもほしいなって顔で目をとめてりゃなにをほしがってるかわかるものよ。偶然に見える必然なの。あなた自分では口に出さないで求めてた答えを手に入れたでしょ?」
「ま。まあそう」
「じゃもうひとつ質問ね。あたしの推理だときっとこういう展開だと思うの。あなたはイチゴの件のあと誰かにしのぶとの関係を冷やかされたんじゃなーい?」
ぼくはハッと思い出した。
「そ。そういえばアキラが」
「またあいつか。ろくでもねえやつだなまったく。で。あなたは照れくさくなってしのぶをいじめたわけね? 惚れたのをごまかそうと?」
森崎のメガネがキラリと光った。
「う。うん」
ぼくは仕方なくうなずいた。こんなふうに根ほり葉ほり訊きはじめた森崎に言い逃れはきかない。それでもうそをつきたいごまかしたいと思うぼくを無理やりおさえつけた。
どうして女の子って他人の恋愛話をよだれをたらさんばかりに聞きたがるわけ? いやな趣味だぞそれって。
「ふむふむ。これでつながったわ。『少年はあるとき夕陽に向かって泣いていた女の子にイチゴをわけあたえた。そのさい少年は涙目の女の子が好きになった。けど悪ガキにからかわれてごまかそうと女の子をいじめた。少年の弱い心はいじめた罪の重さを背おい切れずにうじうじと悩んだ。長い夏休みが明けると女の子は転校していた。女の子が目の前から消えたのを幸いに少年の無意識は女の子の存在を最初からなかったものとした。いなかった女の子はいじめられないし惚れもできない。女の子が転校して来た二月から七月までの記憶を無意識が封印した。かくして軟弱少年の胸の平安は保たれたのであった。めでたしめでたし』ってわけね。あんたってばさ。すっごくいい被験者だわ。今度あたしの研究室に来ない? あたしいま児童心理学をやってんの。最近のガキよりあんたは子ども子どもしてる。好きになった女の子をいじめるしね。知ってる? 最近の小学生は好きになった女の子に告白はするけどいじめないのよ」
「そ? そうなの?」
「そ。時代は変わった」
森崎がイチゴパフェをほうばりながらあっけらかんと笑った。森崎今日子の謎とき教室はおしまいらしい。
ぼくもスプーンでまっ赤なイチゴを口にはこんだ。不意にあのときのイチゴはもっとうまかったなと思い出した。さすがは皇室御用達だったんだろう。涙を流す少女とわけたイチゴの芳醇な香りが鼻の奥にツンとよみがえってぼくの涙腺を刺激した。
初恋のほろずっぱさってこれなんだ。
ぼくはもうひとつ気にかかっている話を森崎にしてみた。
「ぼくは大学時代にある女学生の体験を聞かされたんだ。名前すら教えてくれなかった女の子との会話だけど聞いてくれる?」
「ええ。いいわよ」
「彼女は電車通学だったんだ。午前九時十三分発の電車にいつも乗るんだってさ。その朝もいつもどおりの時刻に駅に着いた。ところが自動改札を通ろうとして定期券の期限切れではねられた。いつもならそのまま改札を通って階段をのぼるとちょうど電車が着くんだそうだよ。二階のプラットホームに間もなくすべりこむ電車に乗ろうと彼女はあせった。あせるあまり券売機の挿入口から最後の百円玉がそれた。床に落ちた百円玉はコロコロと転がって見えなくなった。彼女は仕方なく千円札を券売機に挿した。百円玉を追って遅刻したくなかったんだってさ。彼女は皆勤をつづけてたそうなんだ」
「ふうん。それで?」
「でもお札が順調に飲みこまれなかった。二回入れ直したが吐き出された。彼女は千円札をあきらめて床に転がった百円玉を探した。すみまで走行していた百円玉をひろってやっと切符を買えた。いざ階段を駆けあがろうとこぶしをかためたおりだった。いつも乗る午前九時十三分の電車が頭上のプラットホームでドアをあける音が聞こえた。そのまま階段を駆けあがると間に合うか間に合わないかはぎりぎりでわからない。でもドアに乗客がはさまれるなどのトラブルが生じれば確実に間に合う。彼女は必死で息を切らせてプラットホームに駆けあがった。けど彼女の顔前で九時十三分発の電車がゆっくり動きはじめた。一歩おそかったそうだ。彼女はひとりごとをつぶやいたってさ。今日はついてない日だわと」
「あら。結局その子は遅刻したわけ?」
「そう。だけど遅刻にはならなかった。彼女が見あげたプラットホームの時計は九時十六分だった。九時十三分発の電車なのに発車したのは九時十五分だったわけだよ。彼女がひとり芝居についやした時間はきっかり二分だったわけだね。彼女はがっくりと首をたれた。いまの電車も遅刻だけどわたしも初めての遅刻だわとね。指から転げた百円玉を恨んで彼女はベンチにお尻を投げた。十分後に次の電車が目の前から彼女をまねいた。ところが乗りこんでもドアはあいたままだ。一向に発車しなかった」
「なんで発車しなかったの?」
「彼女もそう不審に思った。そこにアナウンスの声が降って来た。『当駅発九時十三分の列車がとなりの駅に未着です。いましばらくお待ちください』と。すぎゆくときが事故の重大さを明るみに引き出した。九時十三分発の列車は脱線して多数の死者を出してたんだ」
「ああ。その事故ね。聞いたことあるわ。百人以上が死んで五百人以上がケガをした大事故でしょう?」
「そうそれ。彼女は券売機に飲ませた百円玉を右手にもどしたいとねがった。あのひねくれ者の百円玉のおかげで命が助かったとね。『亡くなった人たちに気の毒だから大きな声で言えないけど』と彼女は吐息をぼくの耳に寄せた。もしも定期券の期限を事前にたしかめてたら? もしも百円玉がすんなり挿入口に吸いこまれてたら? もしも千円札が吐き返されなかったら? さらに二分早く彼女が駅に着いていれば? その偶然のどれかひとつが実現してたらぼくは彼女と話す機会を永久に持てなかったかもしれない」
「ふむふむ。なかなかおもしろい話ね」
「うん。考えさせられるものがあるよね。もうひとつつけくわえるとその二分電車が遅刻しなければ運転士は重大事故で死なずにすんだ。二分の遅れを取りもどすために電車はスピードを速めた。その二分が取り返しのつかない事態に足をふみ入れさせた。あえてあとひとつ『もし』を重ねると電車の遅れが五分以上なら事故は起きなかった」
「なるほど。二分というちぢめうる範囲の遅れだから運転士は無理をした?」
「そうだよ。五分以上の遅れなら運転士は速度をあげなかったにちがいない。遅刻は確定だからさ。ほんのわずかのあせりとあとすこしのゴールが眼前にちらついたとき運転士はなにを思っただろうね? 二分をちぢめたとこぶしをにぎりかためたろうか? よろこびの一瞬後だろうね。電車は速度超過のためにカーブをまがり切れなくなって永遠に次の駅に到着しなくなった。運命の岐路なんてそんなものらしい」
森崎がスプーンを持ちあげた。なにかを思いついたって顔だ。
「虫の知らせ。共時性だわ」
「はあ? どういうこと?」
「重大な飛行機事故や電車事故ってのは伏線があるの。その電車事故が起きた線はそもそもぎりぎりの運行時間に設定されてて事故前からスピードをあげがちだったそうよ。三十秒や一分の遅れを速度超過で取りもどすのが日常になってたの。事故現場のカーブがスピード過剰でこわいと感じた人もすくなくないって報道を見たわ。彼女はいつもその時刻の電車に乗ってた。つまり?」
「事故以前に速度超過で恐怖にふるえた経験を持つ?」
「そう。ではなぜスピードをあげるか? 電車が定刻より遅れるせい。事故車の運転士もきっと日常的に三十秒や一分の遅れを速度オーバーで取りもどしてたはずよ。その朝だけ速度をあげたわけじゃない。その伏線を背景に彼女の無意識は気づいた。頭上に来る電車が遅れてると。意識は気づかなかったけどね」
「切符を買おうと券売機の前に立ったときすでに八時十三分をすぎてたから?」
「たぶんね。電車がまだ頭上に着いてないと彼女の無意識は認知した。無意識レベルで答えがはじき出される。遅れた電車はスピードをあげると。それで彼女の指はふるえて百円玉をそらせた。乗りたくなかったのよ。速度を出しすぎる羽目になる電車に」
「じゃ千円札が返って来たのは?」
「それも無意識が拒否したんだと思う。お札をななめに入れればうまく飲みこまれないもの。電車の遅れが二分に近づいたとき決定的に乗りたくなくなったんじゃないかしら? 一分の遅滞はちぢめられても二分の遅れはつめられない。そこまでむちゃな運転をすると破綻すると。ただし事故が起きるなんて明確なビジョンじゃなくて原初的な恐怖を無意識が感じたにすぎないと思うけどね」
「だから彼女は百円玉をひろう選択に切りかえた?」
「ええ。すこしでも時間をつぶそうとね。別のお札を入れるよりタイムロスが大きそうだと。階段を駆けあがるときもきっと力をセーブして電車に間に合わないように走ったはずよ。そのため目の前で電車を見送る展開になった。本気で走れば定刻より二分遅れの電車なら乗れたと思うわ。偶然で彼女は命びろいをしたって信じてるはずだけどね」
「うん。たしかにそう信じてた」
「重大事故を回避した人の体験をよく聞くとどこかで本人が拒否した形跡があるの。飛行機事故だとその飛行機が以前に小さな事故を起こしてたとかね。操縦プログラムにバグが見つかったりした過去の報道を耳にした経験を持ってたりするの。命びろいをする偶然ってそんなにないのよ。九死に一生をえた人ってたいてい必然で命が助かってるの。逆の立場に視点をうつすと重大事故ってのは普段からの悪習が限界を超えた時点で発生するわ。重大事故も必然で起きるの。忠告したげる。このくらいなら大丈夫だろうなんて日常の業務をすこしずつゆるくこなすのはやめなさいよ。いつか致命的な事態をまねくからね」
「わ。わかった。肝に銘じるよ」
「あなたがその話を持ち出したのも無意識がその話の本質が虫の知らせだと認知したからだわ。あなたの意識では認識してないでしょうけど」
「えっ? あっ。そういうことか? 気にかかる。いま話さなきゃいけない。そんな感じがしたんだ。それって無意識がそうしろって指示してくれてるわけ?」
「そうよ。気にかかるってのは無意識の警告なの。命がかかる場面でそれを無視したら死んじゃうわよ。おぼえておきなさいね」
「なるほど。そうなんだ」
そのあと森崎は説明してくれた。しのぶを完全に忘れたのは心理学で言う『健忘』だと。いっぱしの女科学者の顔で。
仕組みは理解できたけどぼくにはこまった事態が到来した。しのぶの思い出はぼくにとってパンドラの箱だった。あけなければよかったのにあけたとたんさまざまな苦しみがぼくの中で渦をまいた。思い返せば思い返すほどしのぶはより鮮明化してぼくの胸をしめつけた。