第四章 人生経験がゼロの男
そんなことがあっても翌朝ぼくは社員寮から会社に向かう。会社では誰も昨夜の件など気にもとめない。係長はあいかわらず怒鳴っているし山田は調子のいいホラばかりだ。
ぼくと山田は会議の準備をはじめた。山田はコピーを取りに行った。ぼくは会議に出すスライドの整理にかかる。
するとレナが二課室のドアの外を行ったり来たりしているのが目に入った。ぼくの動向を気にしているように見える。レナが入室して来た。手伝ってやればあたしに関心を持ってくれるかもと考えたそうだ。
「あの。岡野くん」
レナが接近したときぼくの机で電話が鳴りはじめた。ぼくはこのあいだからウロチョロしているレナを無視して受話器をにぎる。
レナに声をかければきっと巨額の請求書がぼくの机の引き出しにおさまるはずだ。気の弱いぼくはセールストークをことわるのにいつも苦労する。さわらぬ女の子に祟りなしだ。ふれてもいない係長は祟りだらけだが。
誰か係長を呪い殺してくれと思いながら電話に出た。
「はい営業二課。なんだ陽子か。会社に電話するなっていつも言ってるだろ。で。なにか急用?」
『急用ってんじゃないけどね』
妹の陽子の脳天気な声が受話器からとどいた。気楽でいいよな女子高生さんは。
ぼくはそんなオヤジそのものの感想を抱いた。こんな発想をするのってバーコード頭の人とばかりいるせい? ぼくも三十歳をすぎるとバーコード?
陽子はぼくより七歳若い。女子高の夏休みという天国にどっぷりひたっている。ぼくの大学に就職説明に来た先輩は『うちの会社なら入社後も夏休みが取り放題』なんて調子のいい勧誘をしたけどとんでもない大ウソだった。
ぼくは腹立ちのあまり陽子に『会社ってとこは有給休暇で海外旅行に行き放題だぞ。会社中どこにでもビアサーバーとビールジョッキが置いてあって業務中も飲みまくりだ』と去年証拠写真を見せながら吹いてやった。
高校一年生の陽子が目を丸めて信じこむのを見てぼくはちょっとの罪悪感とそれ以上の優越感を味わった。陽子はわが社をおかしな会社だと信じているはずだ。ノーテンキなオジサンたちがまっ昼間から酔っぱらって宴会に明け暮れる破天荒な会社だと。
去年はたしかにそんなまねをしていた。けど社長命令だっただけで宴会をたのしんだ社員はひとりもいない。地ビールのインターネット通販に手を染めようとたくらんだ社長の案は厚いコストの壁にはばまれて頓挫した。
昼間っからビールをぐびぐび飲むのもつらい仕事の一部なのだ。ひっひっひっ。就職してから世間のきびしさを思い知れ。
ぼくの心の声と関係なく陽子が話を進めた。
『あのさお兄ちゃん。森崎今日子さんって女の人から『土曜日に小学校の同窓会をするけど出席しますか』って。どうする?』
「小学校の同窓会? そんなのことわっといて。出るひまないない」
ぼくが電話を切ろうとするとぼくの背後で聞き耳を立てていたレナが後頭部からぼくの耳たぶに声をぶつけた。
「岡野くん。同窓会くらい出なきゃだめよ。つき合いが悪いのって社会人失格だぞぉ」
ぼくが受話器を置く直前の差し出口だった。陽子が打った相づちが受話部からぼくのてのひらを小さく振動させてあわてて受話器を耳にもどす。
『うんうんそうよねえ。いいこと言うわ。さすが社会人ねお姉さん。お兄ちゃんって日ごろからつき合いが悪すぎるのよ。だから友だちがいないのね。ねえお兄ちゃん聞いてる?』
「き。聞いてるけど」
『よかった。じゃ『出席する』って森崎さんに返事しとくからあたしの顔をつぶさないように同窓会は絶対に行け。でないとあたしすねるから。わかったわねお兄ちゃん!』
陽子がたたきつけるようぼくに命令してプツンと通話を打ち切った。ぼくはあっと受話器に呼びかける。
「陽子。陽子ぉ」
ぼくは必死で無機物の受話器を説得した。けどいったん切った回線をつなげてくれる電話機が存在するはずはない。ツーツー音だけが耳にひびくのみだ。
かけ直そうかと考えた。でもぼくはこれでもかとばかりに思い知らされた過去を持っている。頑固者の陽子が考えを変えないと。
ぼくは背後のレナに向き直った。怒鳴りつけてみる。
「きみ! よけいな介入をするなよ! 陽子はすねさせると厄介なんだぞ。一晩中ぼくの部屋の外で泣くんだからな。どうしよう同窓会? 陽子のやつ勝手にお膳立てをするに決まってる。ことわればすねるし」
ぼくはレナに怒鳴った。けどレナはしょぼんとしなかった。ぼくから話しかけられて作戦成功とニッコリ会心の笑みを浮かべやがった。
レナに声を荒げたこの瞬間ぼくの運命は大きく進路を変えた。あとから思い起こすとそうなる。ぼくが不思議の国でまよう第一歩はこんな些細な小石のつまづきだった。
「陽子って妹さん?」
にこやかにレナが質問した。ぼくはこのときに突っこむべきだった。せっかく怒鳴ったんだから恐縮してくれよと。
でも動転中のぼくはつい口をひらいた。レナの問いに答えちゃいけないのを忘れてだ。
「そうだよ。七つ年下のわが家の皇帝なんだ。こまったな。きみのせいだぞ。横から妙な口を出すから」
ふふふとレナがほくそ笑んだ。会話をつづければ勝機は来ると。
ぼくはレナの思うツボにはまったわけだ。そもそもぼくって気が弱い。『怒鳴りつけた』じゃなくて『怒鳴りつけてみる』だもんな。
「同窓会くらい出りゃいいじゃない岡野くん。それとも昔いじめられてたの?」
「そうじゃないよ。酒がきらいなだけなんだ。あっ」
ぼくはふとわれに返って時計を見た。会議の時間だった。
「ごめん。ぼくこれから会議なんだ。行かなきゃ」
失敗したなあと思いつつぼくはレナを残して部屋を出た。恋人商法をことわるには最初から話をしちゃだめなんだ。相手は専用のマニュアルを準備してあらゆる答えに対応可能な訓練ののち勧誘に来る。だから言葉で拒絶するこころみはかならず失敗に終わる。ひと言も口をきかないのが正しい恋人商法のことわり方だと入社直後の研修で教わった。
ぼくが二課室を出るとレナはポカンと口をあけたって。あまりにそっけないぼくの反応に。
この時点ではどうして自分を無視するのかわからなかったそうだ。ぼくがレナをチャッチセールス嬢だと思っているなんて知らないから。
レナは周囲を見回した。一瞬ぼうぜんとした自分のマヌケ顔を誰かに見られなかったかと。レナの目が自分を見つめているマユをドアのかげにとらえた。
「いまの見たマユ?」
「見たしっかり。やっぱレナでもだめじゃん。ぜんぜん脈がなさそう。この勝負もらったね」
「んなとこ見てんじゃねえ。大丈夫だって。これからよ。あたしの魅力でオチない男なんていないの」
「じゃせいぜいがんばってねえ。ご失敗のあかつきにはカラオケひと月ぶんどうぞよろしく。かかかかか」
コピー用紙をかかえたマユが高笑いを残してうなじを向けた。
「べー! やな女!」
レナがマユの背中に舌を出した。
マユはぼくに『しっかり逃げるのよ』と声援を送ってくれたそうだ。ぼくって吸血鬼レナの毒牙にかかる美少女かい?
会議が終わってぼくと山田は係長の机の前に立たされた。別段ぼくらに落ち度があったわけじゃない。レナと話はしたけど会議にはぎりぎりで間に合った。しぼられている理由はアイデアをぼくらが出さなかったせいだ。秋に向かって降下するシェアを回復させる起死回生のホームランを打てだとさ。
真夏以上にスポーツドリンクを売る方法なんかあるかい。特に今年の夏は猛暑だったんだぞ。
ぼくの胸の内と関係なく係長が説教をたれる。たれ流しという気もするが。
「どうしてお前ら会議中に発言しないんだ? なぜ提案を出さない? お前らの頭の中は空っぽか?」
「は。はあ」
係長だってひとこともなかったのに。
ぼくは胸の奥から湧く不満をもう一度深く沈めた。
ため息だけのぼくらに係長がどうしようもないという顔を見せた。このハゲはさじを投げましたってときにこんな表情をする。次に来るのは雷だ。
ただその前にニヤッと笑う。それが低気圧通過の前ぶれだった。そのニヤッが来た。ぼくはカメだ。のろまなカメなんだ。そう自分に言い聞かせて首をすくめた。山田もおそろいの動作をした。
神さま。ぼくらふたりにも頭を収納する甲羅をください。カメにだけあたえちゃずるいです。
「ま。しょうがないか。お前ら一流大学出ってのは青春がないからな。あるのは受験受験でまっ暗けの毎日だ。おれたちの時代はろくでもないまねばかりしたもんだ。まだまだ自然が残ってたしおれはガキ大将だったからな。お前らなんか一途な恋の経験もなきゃ大ケガをした喧嘩もねえだろ。どうだ岡野山田? 勲章のようないい思い出や美しい青春の傷痕なんてあるか? 受験に成功したとかテストで百点取ったってんじゃなくな。そんな教科書しか見ない世間知らずだから会議でまともな意見が出ねえんだ! もっと社会勉強をしろ! このたわけ者どもっ!」
雷を落とすだけ落とすともういいと係長がぼくらを放免した。手をひらひらさせて行けと。次にその手がバーコードハゲをハンカチでキュッキュッと磨きはじめる。いまどきの若い者になにを説教してもはじまらんとばかりに。
なにを説教してもはじまらないんだったら最初っから怒鳴るな!
ぼくと山田は顔を見合わせた。渋柿を無理やりかじらされた顔に見える。山田の目は涙が表面張力を起こしてこぼれそうだった。ぼくの目もきっと同じだ。
神さまの意地悪。ぼくらにだってカメの甲羅をくれてもいいじゃないか。
係長の的を射ない叱責はいつものこと。秋に向かう二課は誰にだってどうしようもない事態なんだ。
ぼくは自分を説得した。けどくやしさに涙が頬にこぼれた。
係長がぼくらを怒鳴るとき目尻のさがったいやらしい笑みから布石を打つ。この笑顔でぼくらを安心させといてホッとしたぼくらにもっともらしい説教をたれる。それが第二段階だ。第三段階はぼくらが話に聞き入った瞬間とつぜん怒鳴る。これが効くんだ。いったん気をゆるめて話に聞き入ったタイミングを見はからってドカーンと来る。心臓をもろに直撃して痛いんだよぉ。
仕事はできないくせに怒鳴り方だけ抜群にうまいろくでもない上司だ。もっともサラリーマンの上司に好人物がいるはずはないか。
部下にきらわれない上司はサラリーマンにあらず。リストラ担当の人事部スパイだ。気をつけようあまい上司などいるはずない。そう先輩たちがぼくらに智恵をつけてくれた。先輩たちも仕事はできないくせに妙な智恵だけ達者だった。
わが社ってこれでいいの?
サラリーマンはおこられるのが仕事だ。だからなれろ。そんなふうに研修合宿中に教えてくれた先輩もいた。それは本当だと思う。
ぼくらの仕事って自分の努力と関係なく業績がぶれる。他社のCMの出来がよかったり夏が暑かったり寒かったりするだけで売りあげは目に見えて上下する。
特にこの夏は暑かったから秋になると売りあげが激減するはずだ。その責任をぼくらに取れってのは理不尽としか思えない。自分の失敗でもない不振でおこられるのはいつになってもなれない。係長の怒鳴り声が苦痛だ。
ぼくってサラリーマン失格?
山田は涙をかくすためにトイレと言いつつ部屋を出た。そのままさぼって喫茶店に駆けこむはずだ。
ぼくは当分パソコンをいじりながら仕事のふりをして涙が引っこむのを待つとしよう。
自分の机にもどったぼくにレナが寄って来た。手に新品の直管蛍光灯と脚立をかかえている。総務のレナは蛍光灯を取りかえる途中らしい。
「ねえ岡野くん。あの係長さ。自分が三流大出だからやっかんでるだけだわ。あんなハゲのいやみを気にするとハゲが伝染するわよ。がんばがんば」
レナがハンカチでさりげなくぼくの目元をぬぐってくれた。顔をあげたぼくの眼前にレナがとっておきの笑顔を作って待ちかまえていた。レナは泣いているぼくをからかわなかった。いまならレナの言いなりに契約書にハンコを押しそうだった。
「きみさ。最近ぼくの視界にたびたび入って来るけどぼくになんの用?」
ぼくはレナの顔をまじまじと見た。雑誌のグラビアによくこんな顔の女の子が水着姿になっている。けど毎週毎週同じ女の子な気がするのはぼくだけ? 同じ笑い方。同じ胸の谷間。同じ媚びる目つき。
「用がなきゃ来ちゃだめ?」
レナがあまえ顔でぼくの机に両ひじをついた。
「だめじゃないけどね。用があるなら教えてくれるとうれしいな」
恋人商法ならおカネだけの問題ですむけど宗教の勧誘だと後々まで厄介だ。
まさか営業二課に入りたいなんてたのみはないよな? 山田に気があるってわけでもなさそうだ。山田は見た目も本性も暗いやつだから。
「やっだあ。女の子にそんな質問をしないでよぉ。きみに興味があるからじゃない」
レナがなれなれしくぼくの肩をたたいた。蜂蜜のようなあまい声がぼくに警戒心を取りもどさせてぼくは身を引く。
「宗教ならぼくはいらないからね」
「ちがうって宗教じゃないって。きみが気になるだけなの。ほんとよ」
「ぼくの財布がじゃないの?」
ぼくの根強い不審にレナがパッと顔をかがややかせた。ぼくがレナをさけている理由にやっと気づいたという表情だった。
「あったり前じゃん。あたし恋人商法じゃないよ。だいたいさ。年収二百二十三万八千五百三十円で社内預金が七万二千円しかない男の子の財布を狙うなんて時間のむだだわ。コストパフォーマンス悪すぎよそれ」
「えっ? な? なんでぼくの年収を? 社内預金まで?」
「あっ。いえ。あてずっぽうがあたっちゃった? うちの課の先輩の年収なのよね」
このときレナは内心冷や汗をかいたそうだ。同期を買収して経理のパソコンデータを盗み見たなんて裏事情はバラせないもんねと。
レナは知っていたって。きみをオトせばひと月分のカラオケ代がタダになるだけなのよと自身に言いわけしつつ本当のところは女の意地だと。マユを見返すのもだけど自分の魅力にまいらない男がいるのがたまらなかったそうだ。歌いにくい歌ほど挑戦したいのはカラオケマニアの習性なの。そうレナがあとで打ち明けてくれた。
マユがぼくに解説するには冷や汗をかいたのはすでに最終到達点に変更があったせいだと。
「じゃ本当にぼくに興味が?」
信じられないとぼくは疑った。自慢じゃないがぼくは女の子の十五センチ以内に近づいた経験がない。まわりの男たちが女の子の話題で盛りあがっているときもぼくひとりが話題にくわわれなかった。かといって男が好きでもない。
これまでの経緯からぼくは女の子に向き合う感情の一部が欠けていると思う。美人だなと認める子はいても胸がときめく体験は一度もない。
レナが照れた顔を作って上目づかいにぼくを見た。駅の巨大ポスターにありがちな表情でさまになっていた。あとで教えてもらったところレナのとっときの決め顔だそうだ。
「きみだもん。きみが気になるの。やだ。はずかしいから何度も言わせないで」
「本当に本当。ぼくの財布が目的じゃないの?」
「うん。それだけはたしかよ。うんうん。絶対にぜーったいにそれだけはたしかなの」
レナは胸の奥でピンクの舌をのぞかせたって。あんたの財布じゃないのよねえと。
胸に陰謀をかくし持つ笑顔にぼくの疑惑が払拭されるわけがなくぼくは再度念を押した。
「本当?」
「マジよマジ。だからあたしなんか気にしないで日常業務にはげんでね。仕事してるきみって素敵よ」
レナの歯の浮くセリフにもぼくはドッキリしなかった。山田や大学時代の同級生たちなら目を大きく見ひらいて敏感に反応したろうが。
レナが『なにを考えてるんだこいつ』とけわしく眉を立てるのをぼくは見た。こんなぼくにだって近づく女の子がいなかったわけじゃない。けどそんな女の子たちもぼくの反応を見てすぐ遠ざかるのが常だった。ぜんぜん話題について来ないし自分に興味を示さない男といて楽しいはずがない。
レナがぼくの顔を深くのぞきこんだ。最高に可愛い顔を作ってやったのにまるで反応がないなあといぶかっているようだ。レナがぼくに探り針を刺した。
「ところでさきみ。さっきから悩んでない? 気がかりがあるわけ? 女性関係じゃないよね?」
「うん。女性関係じゃない」
レナの針はぼくの現在の気がかりは突かなかったもののぼくの長年の懸案をつらぬいた。ぼくは目の前にいるレナを女の子と思えない。
どうもぼくは近づいて来る女の子を恋愛対象ではなくデパートのエレベーター嬢に見ているらしい。女の子がなにをたずねても『お客さま何階にまいりますか』と質問しているとしか思えない。それでぼくはいつも『五階の文具売場まで』とどんな可愛い女の子にも事務的に答えてしまう。あとからあのときちがう答えをすればよかったのかもと反省はするんだけどさ。
ぼくだって男だからガールフレンドや恋人がほしいんだ。けどそういう雰囲気の会話にならないんだよ。
しばらくあまくもねばっこくもない会話をしたのちぼくに近づいた女の子たちはみんな興味をなくした顔で去って行く。目的の階に到着したエレベーター嬢が『またお越しくださいませ』とお辞儀して送り出してくれるときの顔で。
きっと心の中では『二度と来るんじゃねえストーカー野郎』と舌を出しているはずだ。どうやったら世間なみな恋人同士のあまい会話ができるんだろう? よく喫茶店で意味のない会話のくせにネトネトの言葉を交換しているカップルがいるけどあれってどんな才能が必要なのさ?
レナが煮えきらないぼくに腹を立ててうながした。
「きみってつかみにくい男ねえ。はっきりしなさいよ。悩みがあるなら男らしく言っちゃえ。ほらほら」
総務の女の子に『秋になって落ちこむ売りあげを』なんて愚痴ってもしょうがないとぼくは判断した。
「う。うん。ぼくにはさ。美しい思い出がひとつもないんだって」
係長の小言はいつもだけどその部分はあたってるんじゃないかと気にかかった。ぼくには胸を焦がす恋の記憶もなければ取っ組み合いの大立ち回りもない。
係長の指摘どおりぼくの過去にはこれといって悲しかった出来事もなけりゃ楽しかった思い出もなかった。試験でいい点を取ったとか悪い点を取ったとしか浮かんで来ない。回想するだけで涙ぐんだり頬がゆるんだりなんてない。
レナが考えこんでぼくはあやぶんだ。また『五階の文具売場まで』と答えたんじゃないだろうな?
レナが宗教の勧誘でも恋人商法でもないとすれば通常の女子社員に対する受け答えの必要がある。総務の女の子をエレベーター嬢あつかいしちゃ先行きまずい。社内の全女子社員から意地悪をされるぞ。
ぼくの不安に反してレナの顔にいつもの女の子たちの冷たさは浮かばなかった。すくなくとも次の言葉は『またのお越しをお待ちしています』じゃないみたい。
「誰にだっていい思い出のひとつやふたつあるに決まってる! きみにだってきっとある!」
レナが腕を回して力説した。冷たくなるどころか逆に熱くなっているようだ。
「でもさ。係長の指摘を受けて思い出そうと努力したんだ。けどなにも浮かんで来ないんだよ?」
「いまは動揺してるからでしょ。あんなにこっぴどくしかられたんだもの無理はないわ。きみさあ。長男で親から可愛い可愛いって育てられたんでしょう?」
「えっ? ま。まあそうかも」
うちの両親は世間なみな親でぼくはぼく自身のいたずらで両親にとことんまでしかられた経験はない。
しかし妹の陽子は問題児だった。妹の陽子のやんちゃぶりは世間なみを大きくはずれていた。ぼくが小学五年生のとき七つちがいの陽子は四歳ですでに暴君だった。陽子が成長するにつれておこられるのは陽子になったけど陽子が幼稚園のころがぼくの最悪の時期だった。
三歳までの陽子はぼくをかじりはしたけどどこにでもいる幼児でそれ以上じゃなかった。幼稚園の年中組にあがったころからだ。めきめき本性が露見しはじめたのは。
ぼくの宝物のプラモをぼくが学校に行っているあいだに粉みじんにする。教科書には『バカ』とおぼえたてのゆがんだ文字でしょっちゅう落書きをされた。ごはんのおかずは盗り放題だし。
陽子にとってぼくの物は陽子の物だった。いまでも気に入ったおかずがあると勝手にぼくの皿からつまんで口に入れる。最近ようやく口に入れた後でちょうだいねとことわる儀礼をおぼえたけど手をのばさなくなったわけじゃない。
唯我独尊で傍若無人が陽子の天生らしい。あまりに自然だから後天的じゃないとぼくは思う。織田信長ってきっとこんなやつだと小学六年生のぼくは『わが家の信長』なる作文に書いた。会心の出来だと自負したけど担任の女先生が『これって書かなかったことにしたほうが身のためよ』と小声でささやいた。ぼくもハッと気づいてこっそり作文をやぶりすてた。
学校で深刻ないじめにあわなかったぼくは家での切実ないじめ被害に困惑していた。スクールカウンセラーに相談して解決する事案じゃなかったし。
ぼくは陽子のそんなふるまいに腹を立てて毎日のように陽子を怒鳴りつけた。すると陽子は顔をくしゃくしゃにして泣く。泣き声を聞きつけた母がぼくだけをしかる。幼稚園児と本気でケンカをする小学生がありますかと。
しかられているぼくを母のかげにかくれた陽子がアカンベーをしながら表情だけで笑った。陽子のその笑顔はくやしいくらいに可愛いかった。ウソ泣きの名人としかられながらぼくは妙な感心をしたものだ。姿形は幼稚園児でもあいつは筋金入りの悪ガキだぞとぼくは母に泣かされながらいつも奥歯をかみしめた。
小学五年生のぼくにとって母と妹は結託してぼくにいやがらせをするシンデレラの継母と姉だった。血のつながりを知りたくて区役所に戸籍を取るため足をはこんだ記憶もある。ぼくも陽子ももらい子じゃなくてがっかりしたが。
小学生のぼくは夜になると魔法使いのカボチャの馬車がぼくを助け出してくれるのを待ち望んだ。王子さまとのダンス会はごめんだったけどこんな家にいたくないと真剣にねがっていた。かげのうすい父はぼくが眠ってからしか帰って来ないし。
中学受験で遠い進学校に合格できたときさびしさより安堵した。これで可愛い顔の悪魔から離れられると。陽子が幼稚園から小学校に進んで数々の事件を引き起こすにいたってようやく母も悪いのはすべて陽子だとさとったようだ。でもぼくにとっては遅すぎた。
ちょっと待てよ。陽子のうそ泣きで母にしかられるのは毎度だったけど考えてみればぼくって自分の不始末で怒鳴られた経験はないぞ? 家でも会社でもぼくと関係なくしかられてばかりだ。ぼくってそういう星の下に生まれた?
レナが至近距離に顔を寄せた。可愛い顔だと思えるけどやはりピンと来ない。ぼくって欠陥人間?
「ちなみにあたしも長女なの。長男と長女って相性がよくて長男はたいてい長女と結婚するのよ。知ってた?」
「ううん知らなかった。ぼくって人生経験がゼロだからそんな一般常識も知らないんだよ。ぼくの人生って受験だけなんだ」
ひょっとして女の子を前に人生相談な話題をえらぶところが女の子の気に入らない点じゃ?
でもどんな話題をえらべばいいのかぼくには見当がつかない。料理のおいしい店や夜景のきれいな場所をあげればいい。そう聞くけど下心が見え見えすぎるんじゃない? 見え見えの下心を期待している女の子ならよろこぶだろうけどねえ? それとも女の子はみんな見え見えの下心を期待しているものなのかな?
「うーむ。人生経験がゼロの人間なんている? 単にいま思い出せないだけじゃないの? あっ。ほらさ。妹さんが言ってた同窓会。あれやっぱ出てみたら? なにか思い出すかもしれないわよ。きみさ。きっと疲れてるのよね。もうすぐ九月だってのに毎日ギンギンに暑いしさ。バーコード魔人にガンガン怒鳴られまくってるもの。ちょっとショボくれてるだけよたぶん」
レナがぼくの手に指をかぶせてマウスを操作した。係長をデフォルメした『薄毛ナンバーツー』と名づけられた線画をモニターに呼び出した。社内の女の子たちの裏サイトらしい。橋本係長は当社不人気ランキングの八位に位置していた。あれ以上に人気のない人がうちの社にはあと七人もいるようだ。
レナがぼくの耳に口をつける。
「わが社不人気ランキング第一位を発表いたしまーす。栄冠は企画室長の久住副社長にかがやきましたぁ。堂々の五十七週連続第一位でーす。あのね久住企画室長は人事と財務本部長兼副社長で次期社長と目されてるの。だからきみ企画室には近寄っちゃだめよ。とんでもなく意地悪なオヤジらしいわ。部下の提案にことごとく反対するってうわさなの。きみの上司は八位だからたいしたきらわれ者じゃないって」
上には上がいるのよとレナがぼくの肩をたたく。上位十傑に入っている不人気男に不満をおぼえるぼくは正常か? それともそんな男の下に配属された不運を口にすべき? はたまた不人気ランキング七位以上の人の下に配属されなかった幸運に感謝をささげなきゃだめ?
どれも不幸は不幸って気がするぞそれ?
「そ? そうかなあ? ぼくってちょっと落ちこんでるだけ?」
「うん。ただの夏バテね。たまには目先を変えるのも夏バテ解消にいいわよ。あっそうだ。蛍光灯をかえなきゃ。脚立を押さえててね。でも下からのぞいちゃやーよ」
いまいいもの見せてあげっから元気を出しなよとレナは思ったそうだ。レナが脚立にのぼった。ぼくの机の真上にある切れてもいない蛍光灯を取りかえる。脚立から降りたレナがスカートのすそを引いてなぜかぼくをこわい顔でにらみつけた。
いったいぼくなにをした? ぼくはレナの言いつけどおりスカートの中を見ないよう顔をそむけてたのに?
レナがけわしい顔のまま無言で部屋を出た。ぼくにはさっぱりわからない。レナはなにに腹を立てたんだろう? 頭の上の蛍光灯はまだ大丈夫だと思ったんだけど変だなあ? 切れてもいない蛍光灯を早く交換しろってぼくが総務に電話したって誤解かなあ? さっきはいい雰囲気だと思ったんだけど?
二課室を出たレナをマユがからかったって。
「ねえレナ。ほんとにあいつをオトせるの? あんたのスカートの中をチラッとも見なかったわよ? せっかくの勝負下着がだいなし。女カサノバのレナさんの魅力ゼロなんじゃなーい?」
「うるさい! バカマユおだまり!」
「うわあ! ごっきげんなっなめー! こっわーい!」
レナはぷんぷんしながらマユに背を向けたそうだ。