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 第二十三章 天使の歌声はカラオケボックスにこだまする

 気づいたぼくは病院のベッドにいた。個室だった。点滴やギプスでがんじがらめにされていた。

 臨死体験からもどった? てことはぼくは死んでない?

 ホッとしたぼくに入室して来た医師が全身の打撲と太ももの骨がおれて全治一ケ月だと宣告した。

 おー天使の予言があたったぞ。臨死体験ってすっごーい。ちぇっ。今年の天皇賞の一着馬を聞いとけばよかった。失敗したなあ。

 ぼくが意識を取りもどすとそれまでベッド脇で泣きじゃくっていた母がにわかに所帯くさくなった。やぶれて血まみれになったぼくのスーツをゴミにするためポケットの中身をすべてポリ袋に入れてぼくに見せた。

 ぼくが死ねばそのスーツは形見として一生取っておく心づもりだったらしい。けど生き返ったからにはただのボロ布だ。

 ズタズタに裂けたスーツ浮かばれねえ。

 なくなっているものはないかと母がぼくにせっついた。誰かがどさくさまぎれに財布を盗んでやしないかって口調だった。ぼくが意識を取りもどすまではぼくを介抱してくれた人たちに感謝の言葉を雨あられと降らせていたって話なのに。

 よくもまあこんなにコロッと態度を変えられるものだ。女って存在はまったく。

 母がぼくにせまった。

「早く確認して。お昼までに出さないと清掃車が持ってってくれないのよ」

 次のゴミの日でもいいじゃないかと思いつつ確認するとぼくの持ち物はみんなあった。始末しようと思って忘れていた三津谷社長に無理やり連れて行かれたおさわりバーの女の子のエッチな写真入り名刺もだ。

 こんなのを形見にされちゃやだなあ。ボカシはかかっているけどオールカラーの全裸だぞ。

 しのぶにもらった壺もあった。でもまっぷたつにわれていた。

 車にはねられたときポンという音を聞いたけどあれはこの壺のわれる音だったんだ。だからあんな幻聴を聞いたらしい。これも共時性シンクロニシティってやつかなとぼくは思い返した。

 ぼくが助けようとした男の子は無傷でピンピンと飛びはねていた。母親に連れられて病室に顔を出したときぼくを『ドジなおじさん』と呼んで高笑いした。母親は必死に男の子の口をとめようとしたがむだな努力に終わった。母親の口ぶりではお礼を言う予行演習をしてから来たらしい。

 男の子はことわりもなくベッドわきにあった見舞いの果物を食いちらかして『おじさんこれクソマジーぞ』とぼくに文句を投げた。

 行儀のなってないただの悪ガキらしい。こんなガキを助けに飛び出したのかよお前と見舞いに来ていた社員全員と母と陽子がベッド上のぼくに非難の目を向けた。

 ちくしょうぼくをせめるなよ。ぼくは人助けをしようとして大ケガをしたんだぞと叫びたかった。

 けど『人助けをした』わけじゃなく『しようとしただけ』だから叫べなかった。『した』と『しようとした』では大きくことなる。ぼくのやった『勇気ある行動』って暴走した勇気が脱線したただのおマヌケ? ぼくが助けようとした男の子は天使じゃなくぼくもスーパーマンじゃなかったってオチらしい。

 現実なんてそんなものさ。ふふ。

 夜になるとぼくは熱と痛みにうなされて後悔する夢ばかりを連続して見た。どうせ幻ならしのぶを生き返らせてほしいとねがえばよかったと。

 しのぶにどうしてももう一度あいたかったから。泣きたいほど会いたい。

 ぼくは夢の中で顔の見えない悪魔に土下座してたのむからしのぶを生き返らせてくれよぉと哀願した。けど悪魔はせせら笑うだけだ。

『ねがいごとはひとつだよ。そう言ったろ。ちゃんとおぼえろよな与太郎』と悪魔が笑いながらぼくの頭をふみつけた。すぐに悪魔の顔が三津谷社長や係長やレナに変わった。

『みんながぼくをいじめるぅ』とぼくは夢の中で泣いた。いつの間にやらぼくは小学生になっていて母や陽子にもいじめられた。

 夜を通してぼくはそんな悪夢にせめつづけられた。

 けど夜が明けるとぼくは必死で気を取り直した。あれはあれでよかったんだと。

 たとえ幻でもあそこで男の子を見すててしのぶを生き返らせる選択をしていればしのぶに合わす顔がなくなっていた。二度と会えないより会ってふられるほうがつらいに決まっている。

 愛は愛だけじゃ完全じゃないんじゃないか? 愛し合った恋人たちが別れるのはたがいが信じられなくなったときじゃないだろうか?

 しのぶは最後までぼくを信じてくれた。ほんの気まぐれでイチゴをさし出したぼくを。

 そんなささいなやさしさをしのぶは一生信じこんでいた。そのぼくがしのぶを裏切るわけにはいかない。

 誓ったものなあのとき。しのぶが信じてくれたぼくはきっとあの場面で男の子を助ける選択をするぼくだ。だからあの決断はまちがってない。そうだろうしのぶ?

 ぼくは胸の奥のしのぶに呼びかけた。しのぶが笑ってくれたような気がして太ももの痛みがちょっとましになった。

 いくら臨死体験の幻聴とはいえしのぶを生き返らせてくれとねがわなかったのは弱虫のぼくにとって上出来だと思う。ぼくは心の底から安堵した。首尾よく天国に行ってもう一度しのぶに会えれば胸が張れると。今度は見て見ぬふりをしなかったよしのぶ。ぼくすこしはましな社会人になれたかな?

 そのときしのぶの笑顔を思い出したぼくはフュン島の丘の上でしのぶが素敵だと言った真の意味を唐突に理解した。素敵なのは海を見降ろす丘そのものだったんだ。

 あの丘はしのぶが泣きながら赤とんぼの歌を口ずさんでいた海を見降ろす丘公園の丘によく似ている。魂になったしのぶはいまころあの丘から海に沈む夕陽を見ているだろうか。

 それとも海を見降ろす丘公園にいるのかな。赤とんぼの歌を口にしながらぼくを待っているだろうか。

 入院してから四日目だ。個室で足をつられているぼくに母が妙なハガキを持って来た。

 サンタクロースの笑顔写真の下になぐり書きの読みにくい日本語が踊っていた。『すぐ帰る。しのぶ』。

 ぼくはドキッとしてハガキの表を返した。投函場所はフィンランドだ。消印は四日前だった。

 えええっとのけぞって気がついた。陽子だ。陽子のふくみ笑いが聞こえる。ここまでひどいいたずらをたくらむなんてもはや人間じゃない。あいつこそ悪魔だ。信長じゃなく悪魔だったんだ。

 ぼくは幼い陽子がサンタにハガキを書いたのを思い出した。フィンランドから返事がとどいたはずだ。消印はコンピュータで簡単に複製できるものな。

 昼をすぎたころその陽子が見舞いに顔をのぞかせた。実力テストで忙しいからしばらく来ないと言っていたのに。

 きっといたずらの成果をたしかめに来たんだ。ろくでもないやつだな。

 あおむけに固定されたぼくは新聞を見あげて読んでいた。陽子が個室に入りこんだあと閉めたドアにコンコンとこぶしをあてた。

 それは一般には入室前にする行為だぞ。

 ベッドに寄ってふふふと陽子がふくみ笑いをもらした。

「お兄ちゃん。お客さまを連れて来たわよ」

「うん? 入ってもらって」

 用心しつつ答えた。来客が帰ったあとでガツンと説教しなきゃとぼくは考えた。死者の名をかたってハガキを偽造するなんていたずらとは言わない。もはや犯罪だ。たまには兄らしい威厳も示さなきゃと。

 一方で来客は森崎かなとぼくは思った。森崎はぼくの命に別状がないと知ると論文を書くのでいそがしいから手があいてから行くねと言っていた。

 陽子のやつ森崎の持っているイチゴケーキが食べたくてやって来たな。昔からそうだが食い意地の張ったやつだ。

 ふくみ笑いのまま陽子が新聞を読みつづけるぼくの耳にささやいた。

「すっごい美人よ。お兄ちゃんもすみにおけないわねえ」

 委員長って外ヅラはいいからなあ。美人は美人だけどあのがさつさにはついて行けない。

 そうぼくは苦い顔をした。ハガキの件で動揺していると思わせないためにぼくは呼吸をととのえて新聞を読みつづけた。

「あゆむあゆむ! 帰って来たわ!」

 ドアをあけて入って来た女の子がベッドのぼくに飛び乗った。つられている太ももにずっしり女の子の体重がかかった。重くて痛い。

 陽子こんな非常識ないたずらまで仕組んだのか? いくらなんでもやりすぎだぞお前。

 ぼくは新聞を顔の上からどけた。口に黒蝶貝のペンダントがあたった。ぼくに乗る女の子の顔を見あげた。二度と見るはずのない顔がすぐ目の前にあった。

 ど? どうして?

「しのぶ?」

 ぼくはポカンとした。信じられない。

 けどわけがわからないまましのぶを抱き返した。夢でもよかった。しのぶを抱きしめられるなんてうれしい夢だ。

 陽子が目を丸めてベッド上で抱き合うぼくとしのぶを見つめていた。ぼくは『邪魔だから出て行け』と陽子に目くばせをした。

 陽子は『あら? なによそれ? せっかく連れて来てやったのに?』と口をとがらせたがすぐに病室を出た。ふくみ笑いをしたまま。よくできた妹だ。

「ほ? ほんとにしのぶなの?」

 ぼくは鼻の頭同士がくっつくくらいの距離にあるしのぶの顔を見つめた。あまい吐息まで嗅げた。どうなってるんだいったい?

「あなたがあゆむくんならわたしがその人だと思うわ。目がさめたらあのロッジのベッドの上だったの。だからまずハガキを書いたのよ。速達でね。着いたあれ?」

「あっ。あのハガキそんな意味だったの? てっきり陽子のいたずらだと思ってた」

「ううんちがうわよ。わ・た・し。起きてしばらくはわけがわかんなくてね。手探りでどうなったんだろと調べてたの。でも『とにかく日本に』って車の運転をして汽車にゆられて飛行機に乗って来たってわけ。ちゃんと管理賃もくれたしパスポートだってあったわよ。あのあとどうなっちゃったの? わたしたしか死んだよね? それとも眠ってただけ半年も? 肺炎じゃなくて『若年性冬眠くまさん病』にかかったのかしら?」

 そっちのほうが難病なんじゃないか? 毎年半年も冬眠する人が生きて行ける現代社会とは思えないぞ?

 不思議でしょうがないという目がぼくに語りかけていた。けどしのぶ以上にぼくが理解不能だ。

「たしかにぼく」

 墓地に埋めたと口にしかけて自重した。きみって幽霊なんて訊けない。はいと答えられてもいいえと返されてもとってもこわい。しのぶになら取り殺されてもかまわないけど朝のふとんの中でドクロの顔を見せられちゃ夜の作業にさしさわりが。

 ぼくとしのぶがおたがいにさぐりを入れるため顔を見合わせていると四日前の幻聴が聞こえて来た。

《あのさボケナスあゆむ。やっと出してもらえた一部始終を神さまに報告したらおこりやがんの。『お前はなんて融通のきかん天使だあ! 人の心がここまですさんだ時代にそこまで立派な行ないをする人間をなぜ幸せにしてやらんのじゃあ!』だって。ぼくはちゃんと言いつけどおりにしただけなのにさ。お前もそう思うだろ能なしあゆむ?》

「えっ?」

 なんの同意を求められてるんだぼく? そうぼくは首をかしげた。

 病室を見回すぼくにいまひとつ別の声がぼやきをぶつけた。

《勝手な言い草だよね。ひとつしかねがいをかなえちゃいけないっていつも念押ししてるのは神さまなのにさ》

 さらにことなる声が不満げにぼくに同意を求めた。

《そうだよ。『悪魔にだまされて壺に閉じこめられたぼくら三人よりきみらふたりのほうがよっぽど優秀だあ!』だってさ。行きあたりばったりなやつなんだ神さまって。自分だって悪魔に百四十九連敗中なのにさ。やんなるよねあのガミガミジーサンには。きみもそう思うだろあゆむくん?》

「は。はあ。きみたち三人って本当に天使なの? 悪魔じゃないわけ?」

 ぼくは見えない三つの声に呼びかけた。しのぶにも聞こえているみたいでキョロキョロと首をふっている。けど個室にはぼくとしのぶしかいない。

《まだその疑いをすててないのかカスあゆむ? どうしようもねえぞお前。ほんとは禁止なんだけどちょっとだけ姿を見せてやる》

 最初の声がぼくをしかりつけると病室全体が光につつまれた。まぶしさに目を閉じた。次に目をあけたぼくとしのぶの前に三人の空飛ぶ五歳児が浮いていた。裸で背中に白い羽根がはえて頭髪は金髪と黒髪と赤毛だった。可愛い顔をしているが小便小僧状態のブツを三本ならべられるのはうれしくない。

 天使の姿を見せられてぼくはもっと夢だって気がした。死んだしのぶがぼくの上だ。外人小便小僧が宙に浮かんで三人いる。それを現実だと思う人ってお脳に問題ありだ。

「わお外人三人だあ。よくできた特撮だぞこれ」

 ぼくは目の前にふわふわと浮かぶ金髪男児のほっぺをつねってみた。夢なら痛くないはずだと。

 金色のまき毛が蛍光灯にすけて瞳はカリブ海の青だ。頬はマシュマロみたいな指ざわりだった。陽子が見たらかじりたがるぞきっと。ぼくもよくかじられた。

 ぼくはつねりながら訊いてみた。

「どう痛い?」

《痛い痛い! 夢か現実かをたしかめるんなら自分の頬でやれこのうすらトンカチ!》

 金髪まき毛がぼくの手をふりはらってののしった。ぼくはあぜんと口をあけた。

「が。外人がうすらトンカチなんて」

 ぼくのおどろきを上に乗るしのぶがフォローした。

「日本かぶれの外人なのよあゆむ」

《ふたりともちっがうぅ! 天使だっつってるだろーが! いいかげんにしろよこの日本人! ぼくの愛くるしい姿を見てわかんないのかまったくもぉ! ぼくらを出してくれた人間三人のうち天使を信じなかったのはお前ひとりだぞブレーキすかすかリムジンめ! とまらないアメ車なみに役立たずな現実逃避をするな! おっと自己紹介が遅れた。ぼくはガブリエルってんだけどさ。だいたいあんた》

 金髪のガブリエルがぼくの上のしのぶに指を突きつけた。

《しのぶちゃんだっけ? あんただってぼくを信じたから買ってくれたんだろ? 天使くらい知っとけよ!》

 ガブリエルがしのぶに説教をたれた。しのぶはただハイとうなだれるだけだ。天使に説教をくらうぼくらって何者?

 ガブリエルがしのぶに説教をする間に宙に浮かぶ黒髪の五歳児がぼくに頭をさげた。こいつは髪も瞳も黒だけど顔つきはやはり日本人じゃない。イタリア映画に出て来る子役みたい。

《初めましてあゆむくん。ぼくはミカエル。ガブリエルを出してくれてありがとね。けど天使を信じないのもいい傾向だよ。ぼくとラファエルを買ったふたりは買うなり壺をたたきわってねがいごとをかなえろって命令したもの。買ってすぐお守りをこわすなんてバチあたりもきわまりない》

《おかげでふたりともちょっといたずらしちゃったよね。ぼくラファエル。よろしくねしのぶちゃん》

 赤毛のラファエルがぼくの上のしのぶに笑いかけた。ぼくがほっぺをつねった金髪の五歳児がしのぶの買った壺に入っていたやつでガブリエルだそうだ。

 ああそうそうとぼくは思い出した。最初の接触のときからガブリエルは日本語でぼくをののしっていた。だからぼくはてっきり日本人の幼児だと声から判断をくだした。ケチくさいまねをせずに最初から金髪を見せてりゃ外人だあなんておどろかなかったのに。

 よくよく考えりゃ天使って外人だよな。買ったのもデンマークだからメイドインヨーロッパだ。

 黒髪のミカエルと赤毛のラファエルが顔を見合わせて意味ありげにクスクス笑った。ぼくの上からしのぶが聞きたい聞きたいって顔で口をひらいた。

 そろそろ降りてくれないしのぶ? 重いんだけど? きみ太った?

「ねえねえどんないたずらをしたの? ミカエルラファエル?」

 しのぶの問いにミカエルがにっこり笑った。笑顔だけ見れば天使だと納得する優美さだった。

《なあに古典的なやつさ。お金持ちになりたいって言うから》

 ぼくとしのぶが声を合わせた。

「さわるものをすべて黄金に?」

《そんないいものじゃない。ぼくがやったのは歩くたびにポケットから小銭がドンジャラあふれ出すってだけ。お金持ちになれたでしょ? 億万長者になろうとすれば地球を数周しなくちゃならなかったろうけどさ》

 くふふとミカエルが笑ってラファエルとバトンタッチした。

《ぼくがかなえたのは手をパンって思いきりたたけば一番安いお札が一枚出るっての。たたきすぎて手が腫れあがっても大金持ちにはほど遠かったろうね》

「悪どーい」

 ほんとにこいつら天使なの? そうしのぶがぼくにひそひそささやく。悪魔だと思うとぼく。笑顔は可愛いけど行為は性悪そのものだ。

 金髪のガブリエルがぼくをにらみつけた。

《まーだそんな与太を吐いてるのかあゆむ。悪い忠告はしないよしのぶちゃん。こんなフヌケ男はやめるべきだ。天使を信じない不信心者には天罰がくだるに決まってる》

 ガブリエルは一番長く閉じこめられていた腹いせか可愛い顔をしてぼくの悪口ばっかだ。ぼくが大ケガをしたせいで出られたくせになんだよそれ?

 燃えないゴミの日に出して埋め立て地にうずもれさせればよかった。そうすりゃ永遠に出られなかったろう。燃えるゴミの日に出せば焼却炉の中で焼け死んだかな?

 ぼくは宙に浮かぶ三人組を見つめて考えた。悪魔が魂を持ち去る寸前ぼくにあまい夢を見せてそのすきに魂をかっさらう寸法じゃないか?

「でもほんとにほんときみたち天使?」

 悪魔でもかまわないとぼくは思ったけど魂を取られる前にひとつだけためしたい行為があるから訊いてみた。いくら悪魔だってしのぶにキスをするあいだくらいは待ってくれるだろう。こんな機会が二度あるとは思えない。

 ぼくの問いに天使三人が顔を見合わせた。ガブリエルが口をひらく。

《ちがうよ。ぼくらはお前の天使じゃない。お前の天使はいまどこにいるんだい?》

 天使たちの意味ありげな視線にぼくとしのぶは頬をまっ赤に染めた。

《わかったらいいんだ。そろそろぼくらは帰らなきゃ。そういうわけなんでしのぶちゃんはお前にまかせたぞあゆむ。結婚しようが離婚しようが好きにして。人間の愛なんてうつろいやすいものだからぼくらも神さまも期待してやしないから》

 天使か悪魔かぼくには判断がつかないけどまだしのぶは消えそうにない。キスの時間はありそうだ。ぼくは天使三人に疑問を投げた。もしこれが夢じゃなかった場合を考えて。

「いいのかいガブリエル? こんなずるをして? 死んだ人間を生き返らせて誰もこまらないの? 抹消された戸籍やお墓はどうするんだ?」

 ガブリエルがわけのわかんないやつだなぁとぼくを見た。

《誰がこまるのさ? 時間をゆがませて肺炎になる前の彼女を半年前からはこんで来ただけじゃん。お前が重いと感じてるのは健康の重さだぞ。お前はやつれたしのぶちゃんしか持ってないだろ? その重さだけでもぼくに感謝すべきだ。太ったなんて女の子に口にしたら張り倒されるから注意しな。そもそも記憶をつぎ足すほうが手がかかったんだぜ。ぼくのせめてのもお礼なのにおまえ気づいてないよな? 病気になる前のしのぶちゃんをただここに持って来ればお前としのぶちゃんはすれちがったままなんだぞ? せいぜい感謝してもらわないと合わないね。あそこまで盛りあがったのを白紙にされてもいいのかい? とっても頭の悪いあゆみちゃん?》

 ガブリエルの言葉にラファエルとミカエルが見つめ合った。なにをするのかとうかがうと赤毛のラファエルが目をうるうるさせて黒髪のミカエルを抱きしめた。しのぶの声色でラファエルが告白をはじめた。

《離れないわもう。あゆむくんだけ。あゆむくんだけが好きなの》

 黒い直毛のミカエルもラファエルを抱き返してぼくの顔をまねてうっとりと口をひらく。

《ぼくもきみだけが大好きだ。しのぶ。もうきみを離さないからな》

《ええ離さないで。ずっとずっと抱いてて》

 ミカエルとラファエルの口が急接近してぼくはあわてた。

「わあっ! や! やめてくれぇ! そんな再現はしなくていいっ!」

 ぼくはラファエルとミカエルを引き離した。裸の男同士でする行為かそれ。逆タカラヅカの世界みたい。

 なーんだつまんないと天使たちの顔が語った。ぼくは三人をにらみつけた。

「けどあのときキスなんかしなかったぞ。勝手に作るなよ」

 しのぶが顔全体をまっ赤にして両手で頬を押さえた。

「はずかしー。わたしあんなだった?」

 ガブリエルがふふふと笑った。

《いやーもっともっとあまかったよ。ぼく壺ん中でバターになっちゃうかと思った。ま。お墓だって百年もすりゃ確実にまた死ぬから無駄にはならないさ。だからあゆむ心配するな。戸籍もちゃんと修正しといた。なべてこの世はこともなし。ぼくなんか五百年も壺の中だぞ。もっと早く出せよアホあゆむ》

「壺の中はきみの落ち度でぼくには関係ないだろ。けどそういう問題なの? しのぶが生き返ってどこにも支障は出ないわけ? 死んだんだよしのぶ?」

《出るわけないない。現実に生きて動いてる彼女を見て死んだはずだなんて言うやつが正気を疑われる。ふたりとも残りの一生を気楽に生きてね。明日にでもまた交通事故で死んじゃうかもしれないんだからさ。けどひとつ注文をつけるとできれば死ぬまで優秀にね。ほんとはぼくらも神さまもきみらにちょっぴり期待してるんだ。んじゃ今度こそ本当にさよならを言うよ。バイバイあゆむ。きみと過ごした日々って楽しかった。人間もすてたもんじゃないって思わせてくれたからね。天寿をまっとうするんだよふたりとも》

 三人の天使がかがやきはじめた。光の中から交互にぼくらに笑みを投げると明るさが増した。目の前がまっ白になってなにも見えなくなった。

 ぼくの目が視力を取りもどしたとき病室にはぼくとしのぶしかいなかった。彼らがいた痕跡はいい音楽を耳にした直後みたいに胸がふわっとあたたかいだけだ。

 ぼくの上に乗ったまましのぶがぼくの顔をのぞきこんだ。

「いまの見たあゆむ?」

 自分の目が信じられない顔のしのぶだけど顔色は健康そのものだ。

 本当に生きてる。しのぶが生きてる。

「あれさ。きみのくれた壺に入ってたんだよ。きっと最初からきみに天使の守護があったんだ」

 しのぶを抱きささえるぼくの目から涙があふれた。しのぶの目からも涙がぼくの頬に降って来た。

「ね。あの約束まだ有効? わたしと結婚してくれる? それとも総務のレナちゃんとそういうところまで行った? 愛はうつろっちゃったかしら?」

 茶目っ気たっぷりな目でしのぶがぼくに顔を寄せた。ふるいつきたくなるくちびるがぼくにせまった。ぼくらキスすらしてないんだ。たのむからキスをするまで夢なら醒めないで。

「バカ言うな。レナとはそんな関係じゃない。きみがたとえ幽霊でもぼくはきみを愛してる。結婚だってなんだってしてやる。離婚なんか絶対にしないからな」

 いまここでしのぶとキスができたら死んでもいい。それだけでも悪ガキを助けようとして大ケガをしたかいがある。

「未来はわからないわよあゆむ。けどわたしは一生あなたを信じるわ。これまでと同じにね」

「ぼくだってきみを信じるさ。きみが信じてくれてるぼくを裏切らないよう努力するよ。だから結婚してよしのぶ」

「いいわよわたしだけの王子さま」

 しのぶがにっこり笑ってぼくのあごを指で持ちあげた。こんな素敵な夢を見せてくれるなんて天使もいきなまねをする。ぼくは泣きながらしのぶのくちびるに口をつけた。しのぶのくちびるから伝わるあたたかな拍動に胸が共鳴してぼくの涙がとまらない。

 目を閉じてしのぶと舌をからませるぼくの耳に病室の外にいる陽子のうれしそうな声が飛びこんだ。母が来たらしい。

「ねえねえお母さん。お兄ちゃんって大胆なのよぉ。いまね。あたしがいるのにまっ昼間からすっごい美人とベッドで重なってるわよぉ。いいのかなあケガ人があーんな激しい運動をして」

 こら陽子。重なってはいるがキスは激しい運動じゃないぞ。濃すぎるかんちがいすんな。

 あ。でもからませ合う舌に心臓ドキドキだからそうかも。

 まあっと母の息を飲んだ音がやけに生々しく聞こえた。病院のベッドだぞキスだけだって。

 ぼくはさとった。陽子のふくみ笑いの意味を。

 しのぶを案内したのちしばらくしてから母を来させてそのセリフをぶつけたかったらしい。陽子のやつファーストキスという兄の人生最初の重大イベントをチクるとはほんとよくできた妹だ。

 しのぶの舌のあまさに酔いながらぼくは眉をしかめた。どうやって母の誤解をとけばいいんだと。

 そのあとぼくはキスだけなんだとも言えずにしのぶを母に紹介した。気まずい。母の顔には疑惑が貼りついていたけど誤解をとく努力はしなかった。ぼくとしのぶの雰囲気を見くらべる母の顔をうかがうととけそうになかったし近い将来そうなりそうだから。

 しのぶはすぐに母と陽子と打ちとけた。ぼくは自分の頬をつねって夢じゃないと確認してからあらためてガブリエルに感謝した。

 けど太ももの痛みはしのぶにキスをしてもらっても消えなかった。ねえガブリエル。そこまでしてくれたのならついでにぼくの足も治してくれればよかったんじゃなーい? 五百年ぶりに出してやったってのに感謝の気持ちが足りないぞお前。

 母と陽子が帰るとしのぶがぼくに借金を申しこんだ。胸をなで降ろしながらこんなセリフを口にした。立原家にたよりたくないらしい。

「ああよかった。あゆむがわたしを引き取ってくれて。あゆむに結婚をことわられたら委員長に頭をさげて帰りの飛行機代を借りなきゃならなかったわ。日本に来るのにバイト代をみーんなつかっちゃったの。しばらく宿と生活費を貸してねあゆむ。返すつもりはないけど」

「それって借金と言わないんじゃ?」

「気をつかったげただけよ。夫婦になりゃ財布はひとつ。あゆむのおカネはわたしのおカネ。わたしのおカネはわたしのもの。このあと一生よろしくね旦那・さ・ま」

 ま。そりゃそうだけど。ぼくの天使ってしっかり者?

「じゃもしぼくがレナと結婚してたらどうするつもりだったのさ? 帰りの飛行機代もなしで?」

「そのときは黙ってふたりを祝福するつもりだったわ。委員長におカネをたかってまたヨーロッパで放浪生活を送るだけよ。あゆむを好きになってくれる女の子がいてよかったと思ったもの。わたしが死んだあとあゆむをなぐさめてくれる女の子がいるってわたしは安心できた」

「あ。そういやレナの話をしたとき安心した顔を見せたっけ」

 ぼくは思い出した。しのぶは死ぬ間際そんな心配をしてたのか。

 ぼくは口をとがらせた。

「ひどいなしのぶ。ぼくはしのぶと結婚したから一生独身をとおそうと決めたのにさ。きみはぼくをほかの女にまかせるつもりだったの?」

「だって死んじゃったんだものしょうがないでしょ? 生きてる女の子とそういうことをするほうが楽しいわよきっと」

「生きてるきみとそういうことがしたいのぼくは」

「そう言ってくれるのはうれしいけどね。わたしほんとに生きてるわけ?」

 しのぶがぼくの顔をのぞきこんだ。

 ぼくは口をひらく。

「さあ?」

 しのぶの指がぼくの頬をつねった。

「こらあゆむ! さあって答えはないでしょ。キスまでしといて」

 きみは生きてるよと太鼓判を押してほしかったらしい。あいかわらずぼくは女心がわからない。

「ごめん。そういやレナが指摘してくれたんだけどさ。どんな指輪なら似合うってしのぶが左手の甲を見せてくれた件があったろ? あれってぼくにプロポーズしてたわけ?」

 話の流れでそうなったのかプロポーズだったのかぼくはまだ半信半疑だった。あれがプロポーズだったらぼくは一生女心を読めそうにない。

 しのぶが小首をかしげた。

「本当のことを言わなきゃだめ?」

「だめ」

 ぼくはしのぶの瞳から目を離さなかった。惚れた男にうそをつかない女なんかいないって言っていたものな。

 しのぶがぼくの視線の意味に気づいた。

「もお。レナちゃんの入れ知恵ね。そこまで好きになってもらってよろめかないあゆむも問題ありねえ」

「レナはこんなにぶいぼくが好きって言ってくれたよ」

「ごちそうさま」

「なんだよそれ?」

「のろけって言うのよそれ。だからごちそうさま。女って欲深な生き物だわ。あゆむをレナちゃんにわたしてもいいって死んで行ったのに生き返ってみると誰にもわたしたくないって思ってるんだから。あれはプロポーズっていうか願望ね。あゆむから結婚指輪をもらいたいってのは小学生からのわたしの夢だったから」

「なんではっきりそう言ってくれなかったのさ? 言ってくれればすぐにでも結婚したのに」

「やーんそんなの言えなーい。委員長じゃないんだもの。普通の女はそんなのは言えないの。いまだってすっごくはずかしいのよ。あゆむだって言ってくれなかったじゃない」

 たしかにしのぶの顔はまっ赤だしぼくも言えなかったよな。

「なるほど。そういえば独身だって念押ししたときさ。ついでになにかつけくわえかけてやめたじゃない? あれってなにを言おうとしたわけ? レナはぼくがおこるからって教えてくれなかったんだ」

「そ。それもちょっと。ごめんもうすぐわかると思うからいまは勘弁して。そのときが来れば教えてあげるから」

「ふうん気になるなあ。あの流れからすると経験人数の話だったの?」

 しのぶが目をそらせた。

「ま。まあそうよ。わたしの初めての旦那さまでわたしの赤頭巾ちゃん」

「なにそれ?」

「わたしは北の大地から来た悪いオオカミなの。あゆむは可愛い赤頭巾ちゃん。足が治るとわたしに食べられちゃうの。かわいそうねえ」

「そ? そうなの? じゃもうひとつ。委員長に同窓会に出るって返事したんだろ? いいの? ぼくらを恨んでない? みんなできみをいじめてたのに?」

「恨んでる。思いっきり恨んでるわよ」

「えっ?」

 ぼくは意外だった。恨んでないって答えが返るとばかり思っていた。

「あのころ泣いてたのはクラスでいじめられたからじゃないの。父が死んで祖母が母をいびるからなのよ。祖母にせめられた母はわたしにあたるしね。人間ってなんでいがみ合うんだろって思ってた。父が生きてるころはわたしたちずっと笑ってたのに。あゆむはクラス中にいじめられたって言うけどわたしは最初からみんなをさけてた。いじめられても仕方のない覚悟はできてたの。だから泣かなかったんだけどさ。たったひとりろくでもないやつがいてね」

「アキラ?」

「ちがうでしょ。ひとりだけやさしくしてくれた極悪人がいたのよあのクラスに。そいつが今度わたしに惚れてるのをごまかそうとわたしをいじめるのよね。そのときだけ泣いちゃった。あーんわたしの王子さまがいじめるぅって涙がポロポロ。わたしあのときに誓ったわ。この子と結婚したら一生いじめてやるって。だからあゆむ覚悟しときなさいよね。死ぬまでねちねちいじめてあげるから」

「ええっ? そ? それ本当?」

「ほんとほんと。キスしてくれなきゃかんでやる」

 あたたかなくちびるとキスしながらもぼくにはしのぶが幽霊なのか生身の人間なのか判別がつかなかった。たぶん誰にもわからないと思う。目の前にいる人間が幽霊か人間かなんて。

 けど戸籍上『生きて』いたからギプスが取れるのを待ってぼくとしのぶは教会で結婚式をあげた。死者と結婚して本当にいいのかと最後まで疑いながら。

 立原のバーサンは来なかったけど小学校の同級生たちや会社の仲間は来てくれた。ミサと三津谷社長もやって来て牧師の前で誓いのキスをするぼくは大いに照れた。

 ぼくがしのぶにキスをし終えると立ちあがったレナが叫んだ。

「ずるーい。あたしにもキスしてよぉ」

 ドッと客たちが笑った。けどレナの目に真剣さを見て取ったしのぶが指でレナをまねいた。レナがおずおずとぼくらに近づいた。

「こんなのでよければどうぞ」

 しのぶがぼくをレナに押し出してぼくにささやいた。

「してあげてあゆむ」

 えっとぼくはしのぶをうかがった。レナが目をキラキラさせてしのぶを見ていた。

「だからレナさんにキスしてあげて」

 再度しのぶがぼくにうながすと牧師がぼくをひっつかんだ。

「神の御前でなんと不謹慎な! たったいま汝は新婦だけを愛すと神に誓ったではありませんか! その舌の根もかわかぬうちに別の女にくちづけるですと? 不誠実きわまりない! なにを考えておるのですかあなたは?」

「いやぼくが考えてんじゃないです」

 しのぶが口をひらいた。

「まだ籍は入ってないから夫婦じゃありません。お世話になった女性のねがいも聞けないような不誠実な男とはわたし結婚できません。右の頬を打たれたら左の頬もと言うじゃないですか。右の女にキスをされたら左の女にも」

 しのぶの言葉を聞いたミサが立ちあがってぼくらのところにやって来た。

「わたしにも。して」

 牧師がぼくに唾を飛ばした。

「左どころかまん中まであらわれましたぞ? しかも人妻。どうするつもりですあなた?」

 レナがぼくと牧師のあいだにわりこんだ。

「人妻も女よ牧師さん。人妻差別反対! それにどうするったってそんなの決まってるじゃない。こうするのよねえ」

 レナがぼくに抱きついて口をつけた。しのぶをうかがうと行け行けとけしかけていた。仕方なくぼくはレナにキスをしてやった。神さまに呪われたらしのぶ責任取ってよねと思いつつ。

 たっぷり一分間レナと舌と舌をからませた。やっとレナが離れたと思ったら今度はミサだった。しのぶはやっちゃえやっちゃえと無責任に腕をふっている。

 あんたぼくの妻だろと思いながらミサにもキスをした。三津谷社長は複雑な表情でぼくとミサを見て目をそらせた。レナは独身だからいいけどミサは人妻だぞ。神さま絶対におこるよなこれ。

 神さまがおこる前に牧師がカンカンになって祭壇を蹴飛ばした。

「か! 神の前でなんというふしだら! 今回は見のがしますけど次からはやめてくださいね新郎どの!」

 ミサからくちびるを離してぼくは牧師に抗議した。

「次からってぼくは二回も三回も結婚はしません。しのぶだけでいいです!」

 神の御前で三人の女にキスをしたぼくは客たちからやんやの喝采を浴びて結婚式はとどこおりつつ終了した。

 教会の前でしのぶがブーケを投げてやっと最後のイベントの幕が降りた。ホッとしたぼくとしのぶに笑顔の森崎が歩み寄った。手にしのぶが投げたブーケを持っていた。森崎としのぶは顔を見合わせたけどふたりとも口をひらかない。ふふふふふとふくみ笑いをするだけでにらみ合っている。

「なにをしてんだよふたりとも?」

 ぼくの問いにふたりが同時に相手を指さしてぼくに同意を求める声を出した。

「だってこいつ美人なんだもーん」

 ムッとまたふたりが向き合った。

 森崎が口を切る。

「あーら気が合うわね。あたしたち」

「そうね。委員長と男のこのみがちがってホッとしたわ」

 ほほほほほとふたりが笑い合っているけど横で見ているぼくはとってもこわい。美人同士はつるまないって聞くけどあれ本当だったんだ。

 そんなぼくら三人にレナが早足で駆けて来た。またキスをねだられるのかとぼくは身がまえた。

「ねえ岡野くん。変な四人組が来てるわよ? きみが助けた幼稚園児の知り合い? 五歳児三人と白ヒゲのジーサンなんだけどさ。四人ともサングラスに中折れ帽でピンストライプの三つぞろいってマフィアみたいなカッコをしてるわ。突きぬけてアヤシい四人組よ? 借金でもしてるのきみ? あっ来た」

 近づく四人組を見てぼくはゲッと声をもらした。レナはかかわり合いたくないらしく逃げた。森崎も場をはずした。

 中折れ帽の下から金髪をのぞかせたガブリエルがぼくのネクタイをつかんだ。

「おい痴呆あゆむ。お前なんてまねをすんだよ? 神さまの前で三人の女にキスしちゃシャレになんないぞ。ぼくの顔が丸つぶれじゃないか。神さまが人間の結婚式に出るのはとってもレアなんだからな。ぼくらだって正装して来たのにありゃないだろ? しのぶちゃんあんたもあんただ。亭主に浮気をすすめてどうすんだよ? とめろよな」

 白ヒゲの老人がガブリエルをぼくから引きはがした。

「こらガブリエル。そんな単細胞じゃからお前らは悪魔にしてやられるんじゃ。しのぶさんが正しい。世話になった女性のねがいをかなえてやれなくてなにが男か。奥さんが嫉妬をおさえておるのにお前が文句をつけてどうする。もっと修業にはげめガブリエルよ」

 は。はいとガブリエルが小さくなった。ぼくは白ヒゲの老人を見た。

「あのう。ひょっとしてこの方?」

 呪われるとぼくは首をすくめた。カエルにされたらどうしよう? しのぶはカエルになったぼくにキスをしてくれるかな? キスしてくれなければぼくは一生カエル男。

 老人が帽子を取って頭をさげた。

「初めまして。わしがたぶんそれじゃ。けどわしに人間をカエルにする力などない。安心しなされ新郎どの。ただカエルにするならこの三人組が先じゃろうな。こいつらかくれてわしをガミガミジーサンと呼んどるようじゃから」

 天使三人が首をちぢめた。しのぶがおじぎして神さまに礼をのべた。

「ありがとうございます神さま。このたびはわたしを生き返らせていただいて」

 変なあいさつとぼくは思ったけど神さまと話すこと自体が妙だから仕方ないか?

「いや。わしはそんなのは知らんよ。両親の感謝が天にとどいただけじゃないのかね? きみらふたりに助けてもらった子どもたちのな」

 ぼくはこわごわ異議をとなえてみた。

「あのう神さま。お言葉ですけどしのぶとちがってぼくは助けようとしただけです。あの子にぼくは指一本さえとどきませんでした」

 考えれば考えるほど情けない男だなぼくって。

「ふむふむ。ならば子どもを助けに身体を張った勇気ある行動が天にとどいたとしとこうか。成功しなくても立派な行為だと思えるな。泉に落とした斧が黄金じゃなかったと訂正するそのバカ正直さもわしは好きじゃよ。ま。とにかくわしは関係ない。きみが男の子を助けなかったと胸を張らんようにわしも死人を生き返らせるなんてせん。人間をあまやかせるとろくな目を見んからな。こいつら三人にもねがいをかなえるのはひとつだけと釘を刺してある。わしの言いつけにそむく出来の悪い天使はひとりで充分じゃ」

「出来の悪い天使?」

 ぼくとしのぶはガブリエルたち三人を見た。三人ともちがうちがうと手をふっている。黒髪のミカエルがぼくらに口を寄せた。

「悪魔のことさ。二千年ほど前から神さまは悪魔と賭けをしてるんだ。悪魔が毎年人間をひとりえらんでねがいをひとつかなえてやる。それでその人間が破滅しなければ神さまの勝ち。破滅すれば悪魔の勝ち。いまのところ神さまの百四十九連敗中なんだ。トータル五十七勝千九百五十一敗で圧倒的に悪魔優勢」

 神さまがヒゲをなでてぼくを見た。どこにでもいそうなジーサンとしか思えない。服のセンスが最悪な。

「きみらふたりのような人間を悪魔がえらんでくれるとわしは勝てるんじゃが」

 今度は赤毛のラファエルがぼくらにささやいた。

「先を考えないねがいをするとたいてい破綻するんだ。世界一の金持ちにしてくれとか永遠の若さがほしいとかね。世界一の金持ちになったら命さえ狙われかねない。永遠の若さなんてもっと悲惨だよ」

「どうして?」

 ぼくには理解できない。永遠に若けりゃ素晴らしいんじゃないか?

「だって考えてごらんよ。愛してる人と結婚して愛してる人が歳を取って行くのに自分は歳を取らないんだぜ? きみそんなうす気味悪いやつといっしょに暮らせるかい? もし好きな人がそれでいいと言ってくれたとしても大好きな人が歳老いて死ぬときに自分は若いままなんだぜ? それって悲しかないかい? 周囲の人たちだっておかしいと思いはじめるしね。不死身の人間なんて化け物だよ。百年も歳を取らないと飽きちゃうね。でも死ねないんだ。悪魔に一度おねがいしちゃったら」

「なるほどそうかも」

「さっき森崎ってきみの友だちと話してたんだけど彼女流に説明すると物欲ってのが未完了課題だからだよ。物やおカネがほしいってのはきりがないだろ? どこまで行っても完了しない欲望なんだ。自分から未完了課題をかかえこんじゃ幸せや満足をおぼえるはずがないじゃないか」

「未完了課題はいつまでも心に残って落ち着かない?」

「そのとおり。恋わずらいのひどいやつにかかってしかも一生かなわない恋なんだよ? 失恋さえしないんだぜ? 永遠の片思いをかかえてる人が幸せかい? もし悪魔が来たら注意してねがいをかなえてもらうんだよ。分不相応なものを望まないのが身のためだね」

「望みがないってことわるのは?」

「それって最悪。きみ一生なにも望めない人生になっちゃう。世界平和なんてのもねがっちゃいけないよ」

「なんで? 世界が平和になればみんな苦労はしないよ?」

「そのみんながいなくなればどうする? 人間がすべていなくなればこの地球はとっても平和よ。そんなことを言い出しかねないやつなんだ。相手は悪魔だぜ。ひとすじ縄じゃ行かない。最悪の恋人商法だと思ってよ」

「うっ。手ごわそう」

「手ごわいに決まってるじゃん。ぼくらだっておバカじゃないんだ。悪魔とは五百万年のつき合いなんだぜ。そのぼくらですら引っかかる。だから悪魔なんて呼ばれてるんだ。彼女は元々最上級の天使なんだから。神さまなんて百四十九連敗中だぞ」

「そんなのは強調しなくていいんじゃラファエル」

 神さまに頭をこづかれてはーいとラファエルが肩をすくめた。ぼくはひとつ気になった点を質問してみる。こんな機会はもうないだろうから。

「ところで神さまってどんな仕事をしてるんですか?」

「わしの作った生き物たちの管理じゃよ。ほかの生き物は問題を起こさんのに人間はやたら問題ばかり起こすので頭が痛い。以前は人間の一挙手一投足にあれこれ口を出すのが仕事じゃったな。あれしちゃいかんこれしちゃいかんと禁止ばかりじゃ。そのせいであまりにわしの評判が低下してしばらく前から人間の自主性にまかせておる。じゃが禁止しても問題だらけ。自由にさせても問題だらけ。悪魔のやつはちゃちゃを入れるわで最近じゃ人間をどうあつかっていいのかわしにもわからん。勝手にしてくれってとこじゃ」

 うーむとぼくとしのぶは頭をかかえた。ぼくらって勝手にされてるわけか。どうりで神も仏もない世の中になってるわけだ。

 ラファエルがぼくとしのぶの耳を引っ張った。

「ここだけの話だけどさ。悪魔は神さまが好きなんだ。けど神さまが人間ばかりにかまうんでやきもちをやいて人間にいやがらせをするんだ。女心ってやつだね。そのとばっちりがぼくらに来たりするからぼくらもやってられないよ。嫉妬に狂った女はたまんない」

 なるほどとぼくとしのぶがうなずく。神さまがぼくを見た。

「ところで岡野くん。カメの甲羅はもういらんのか?」

 そういやとぼくは思い出した。係長にしかられているときにそんなねがいをしたっけ。

「は。はい。けっこうです。ごめんなさい神さま。軽々しくおねがいなんかして」

「かまわんよ。人間のねがいを聞くのもわしの仕事じゃ。もっとも最近は聞くだけじゃが。変にかなえてやるとわれもわれもとみんなが努力を放棄する。こまった現象じゃな。で。お別れにガブリエルが岡野くんにあいさつをして最後をしめたいじゃと」

 神さまの言葉が終わる前にガブリエルがぼくに説教をたれはじめた。

「まあ人間が生きてりゃいろんな失態がつきものさ。悪魔に壺に閉じこめられるドジもふむだろう。そんなときも気落ちせず強く希望を持って生きるんだよ鈍物あゆむ。いつか誰かが出してくれるとかたく信じるんだ。そしたら五百年後に絶世の美女が壺を買っておバカな男にわたす日がきっと来る。ボケた男はそのあと子どもを助けようと車にはねられて大ケガをしちゃうんだけど壺から出ることはできるのさ。人生ってそんなものだ。なにが起きても気落ちするんじゃないぞイカレポンチあゆむ」

 そりゃきみの人生だろガブリエル? いや天使だから天生か?

 ぼくとしのぶは神さまたちと別れて新婚旅行に旅立った。母が商店街の福引きであてた国内温泉一泊二日の旅だけど。

 そのあと神さまとガブリエルたちは三津谷社長夫妻とレナとマユと森崎でカラオケにくり出したそうだ。羽目をはずしすぎじゃないの神さま?

 自己紹介で神さまはこんなふうに言ったって。

「世間の人はわしを神さまと呼んでおる。別名ガミガミジーサンじゃ」

 胸を張る神さまにレナが声をあげたそうだ。

「すっごーいカラオケの神さまなの? 行こう。すぐ行こう。みんなでカラオケ行っちゃおう!」

 それでカラオケボックスに行く顛末となったらしい。ちなみに三津谷社長はおさわりの神さまを名乗ってミサにつねられたそうだ。ミサもやきもちやきなようだ。

 レナの行きつけのカラオケ店でレナとマユがビールを片手にマイクをうばい合ったって。ラファエルと森崎は心理学談義だ。ミカエルとミサと三津谷社長はミの字つながりで気が合うらしくビールを飲みながらぼくの悪口に花を咲かせたって。

 五歳児がビールなんか飲んだら正体がバレるぞミカエル。

 金髪のガブリエルは神さまにカラオケの方法を伝授中だそうだ。

「あんなのってないよねえマユ。死んだと思った恋人が実は生きてたなんて詐欺よね。マユもそう思うでしょ?」

「そのわりにはレナうれしそうに祝福してたじゃない」

 よこしなさいよそのマイクとマユは手をのばしたって。だーめとレナはマイクを持ちあげたそうだ。

「だってうれしいんだもん。純愛ドラマの終わりはやっぱりああでなくっちゃ。しのぶさんのドレス姿きれいだったなあ。けどやっぱ。くやしい」

 レナは歯ぎしりをしたって。

「複雑ねえ」

「そうなのよ。よろこんであげるべきか悲しむべきか。ああそれが問題だ。ねえマユどっかに純愛のできる男いない?」

「そんなのいるわきゃないって一番よく知ってるのレナでしょうが」

「だって岡野がいたじゃない。シーラカンスみたいに日本のどこかに生き残ってるかも。生ける化石の純愛男が」

「ないない。そんなのありえなーい。純な男はシーラカンスより釣りあげるのがむずかしい。悪いことは言わないから元のレナにもどりなさい。そんな人間国宝みたいな男は探せっこないから」

「やだ。あたしやってやる。ぜーったいに見つけてやるんだ!」

「見つける前にババアになるわねきっと。それよりさあレナ。賭けは今度こそあたしの勝ちよね?」

 マユの言葉にレナはふくみ笑いをしながらスマホを取り出したそう。

「ううん。賭けはあたしの勝ち」

「な? なんでよレナ? 岡野をオトせなかったじゃん?」

「だって岡野はあたしにキスしたのよ。だからあたしの勝ち」

「あーそりゃないわよ。あんなキスしのぶさんのお情けじゃん。あれでオチたなんてインチキよ」

「ふふん。ちゃんと確約を取ってあるわよ。聞かせたげましょう」

 自信満々にレナはスマホの再生ボタンを押したって。

『もししのぶさんと岡野がうまく行ってもキスくらいはねだろうかなって思ってるの。それでもあたしの勝ち?』

『無理やりにくちびるをうばうんじゃなきゃそうかも』

 レナは再生ボタンをとめて神さまに同意を求めたそうだ。

「ほらあたしの勝ちじゃん? ね。じーさんもそう思うでしょ?」

「じ? じーさん? わしか? でもわしはいきさつを知らんからなんとも言えん」

 神さまが恨みを買わないよう軍配を手ばなすとマユは三津谷社長にふったって。

「ねえ社長。賭けはあたしの勝ちよね? 岡野をオトしたらって条件だったのよ。しのぶさんのお情けでキスさせてもらったらじゃないもん」

 呼びかけられた三津谷社長がマユに顔を向けたそうな。

「そうだなあ。たしかに岡野をオトしたんじゃなく奥さんをオトしたわけだから岡野をオトしたことにはならんのじゃないか?」

 三津谷社長の言葉にマユ・ミサ・森崎の女三人がハッと気づいたって。レナはにんまり親指を立てたそうだ。

「ほーらごらん。あたしの勝ちよマユ」

 マユはがっくり肩を落としてミサがレナの右手を持ちあげたって。

「この勝負レナちゃんの勝ち」

 三津谷社長をはじめ男全員があぜんと口をあけたそう。

「なんでだ? マユちゃんの勝ちだろ? レナちゃんは岡野をオトしてないじゃないか?」

 抗議する三津谷社長にミサがすり寄ったって。

「男はなにもわかっちゃいないわね。奥さんをオトせば男はみんな奥さんにしたがうに決まってる。岡野くんをオトすよりしのぶさんをオトすほうが話は早い。でしょう? あ・な・た?」

「あ。なるほど。間接的に岡野をオトしたって解釈か。将を射んとすりゃまず馬をだな?」

 歌の合間にレナはマイクに話しかけたそうだ。エコーがレナの自慢声を強調したって。

「そのとおり。ふっふっふっ。まいったかマユ。カラオケひと月分よろしくね。ドリンクつき。恋には負けたが賭けには勝った」

「どんな自慢よそれ?」

「うえーん自慢じゃないもん。悲しいんだよぉ」

「負け惜しみなわけね」

「そうとも言う。あのふたり今ごろエッチしてるかなあ?」

「岡野ひとりじゃだめでしょうけどしのぶさんがしっかりしてるから大丈夫よ。来年のこの季節には出産祝いをつつんでるでしょうねきっと」

「ふえーん。そんなのやだあ。あーんあーん」

 大声で泣き出したレナの肩をマユは抱いてやったそう。

「悲恋じゃなくてよかったねレナ。やっぱ恋はハッピーエンドじゃなきゃ」

「岡野にはハッピーエンドでもあたしには悲恋だよぉ。えーんえーんくやしいよぉ。悲しいんだよぉおぉ」

「はいはい。思いっきり泣きなさい。レナの初恋で生まれて初めての失恋だもんね」

 ミサが三津谷社長の肩に頭を乗せたって。

「わたしも失恋しちゃった。なぐめてねあなた」

 社長は岡野のおかげだとぼくに感謝したそうな。

 延々と泣くレナに『ま。そのうちいい男があらわれるって』とマユは声をかけたって。モニター画面を陽気なラブソングが流れてマユは神さまを引きこんでやけくそのレナといっしょにがなったそうだ。そのあいだ天使三人がひそひそと内緒話をして森崎は聞き耳を立てたって。

「神さまが女の子ふたりと肩を組んでデュエットしたなんて悪魔が知ったら頭から湯気を出すぞ」

「バレないようにしないとたいへんな騒動に」

「でもあいつ地獄耳だから絶対に知られるって。またぼくらに意地悪しに来なきゃいいが。もう壺に閉じこめられるのはごめんだぞ」

 森崎は眉を寄せながら赤毛のラファエルの頬をつついてふり向かせたそうだ。

「あのさ。あなたたち三人っていったい何者?」

「えっ? ぼくらただの幼稚園児。ガミガミジーサンの孫」

「うそおっしゃい。幼稚園児が心理学のはしばしまで詳細に説明できるはずがないわ。さっきからビールをがぶ飲みしてるくせに酔ってないしさ。会ったときからすごく変だと思ってたの。雰囲気が子どもじゃないんだもん。あたしは児童心理学の専門家なのよ。さあ納得できる説明をしてちょうだい。あなたたち人間じゃないんでしょ?」

 森崎のカマにあたふたしたラファエルはその態度で森崎にすべてを見やぶられたらしい。人間に正体がバレるようじゃたしかに悪魔にだまされても仕方がないぞ。

 森崎は天使と悪魔の関係や歴史を聞き出してうーむとうなったって。心理学の論文には使えないなだそうだ。

 神学の論文になら使えるけど日本で神学なんかやっている大学はまれ。役に立たないってんで森崎もカラオケに専念したそう。天使や神さまに会ったってのに論文の役に立てようと考えるところが森崎のすごい点だとぼくは思う。

 レナは涙ながらに無料のカラオケをたのしんだってさ。いつかあたしの上にも天使が舞い降りますようにと祈りつつ天使三人と『銀座の恋の物語』をデュエットしたそうだ。そのナツメロ好きな三人の幼稚園児がそうだってば。

 ガブリエルのやつぼくのポケットに入っていたときにカラオケをおぼえたみたいだ。ぼくが接待した相手がすべて五十代以上のオヤジだったせいで演歌やロマン歌謡ばかりがレパートリーになったらしい。

 ぼく自身はカラオケをやらないから最新の曲はまったく知らないようだ。ガブリエルたちの歌は接待の席にそのまま持って行っても拍手喝采がもらえるすんだ美声だったって。

 ま。天使の歌声だからそうだろう。天使が音痴じゃシャレにならない。


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