第二十二章 春の日はこともなし
桜のつぼみがほころびはじめるころぼくと山田はまた係長にしかられた。あわてて不備な書類をかかえて社を飛び出した。
信号のない横断歩道をわたろうと一瞬足をとめた。車が来なければすぐ飛び出せるよう足ぶみをしながらぼくらは左右をうかがった。
右から白い乗用車が走って来るのが見えた。ぼくらは足ぶみをやめて車が行き過ぎるのを待った。
そのとき道の向かいから三輪車に乗った男の子が横断歩道に入るのが見えた。男の子は違法駐車してある車が邪魔でせまる乗用車が見えないらしい。
白い乗用車はスピードが出ていてとまれそうにない。まわりに五人の大人がいたがおどろいた顔をしつつ誰も動く気配がなかった。
山田は下を向いて男の子が見えない顔を作った。
ぼくは意を決して車道に一歩ふみ出した。しのぶに会ってぼくの中のなにかが変わったんだろう。
すくみもせずに足が出た。しのぶにできてぼくにできないはずがないとぼくは地面をけった。
「バカッ! やめろ岡野! 間に合わねえぞ!」
山田の叫び声がぼくの背中に飛んで来た。
そのとき白い乗用車のフロントガラスの奥が見えた。右手でメールを打っていた青年が顔をあげてやっとぼくと男の子に気づいたところだった。けどブレーキをふむどころかパニックにおちいってハンドルから左手まで離した。
三輪車の男の子は猛スピードで接近する自動車におびえて手足が硬直していた。逃げもよけもできないらしい。
乗用車のスピードが落ちずに間に合わないとぼくは痛感した。山田の言うとおり最初から無理なタイミングだった。
それはわかっていた。でもぼくは飛び出さずにいられなかった。
ぼくのパンドラの箱はやはりあけちゃだめだったんだ。あの箱をあけたばかりにぼくは普通の日本人にも普通のサラリーマンからもはみ出しちゃった。もうみんなと同じ見て見ぬふりなんてできない。
車が眼前に近づいた。男の子に手をのばしたぼくは急速に大きさを増す車を横目に一瞬でよくそんなところまで見えるなと思うほどさまざまなものを見た。
やっちゃったとバンザイしているドライバーのあいた口。恐怖にすくんで引きつる男の子の頬。歩道の大人たちのそむけた顔。逃げ腰で叫んでいる山田の泣き笑い。
そういや山田のやつ警視総監賞を何回もらったか訊いたらそのうそをついた事実そのものを忘れたらしく『なんの話?』としばらく口をあけて考えこんでたっけ。あきれたぼくのほうが『いやなんでもないんだ』とごまかす始末。
うそつきってそういうものらしい。最初から自分の言葉に責任を持たないやつがホラを吹くんだろう。
空に淡くかすんだ春を背にのび行く飛行機雲が一の字を書いていた。遠くの信号が青から黄色に変わる空白の一瞬にビルの谷間にめぐらされた電線の一本一本が時間差で風に身を踊らせていた。ビルの窓の中で制服姿の女の子たちがいそがしげに書類の束をかかえて足を動かしていた。あの中に未来のぼくにお茶を出してくれる人もいるのかな?
男の子の三輪車をつかもうとのばした指の下にぼくの靴が見えた。横断歩道の白ペイントをふんだ黒靴はほこりまみれだった。
ああ帰社する前に靴を磨かなきゃまた係長に怒鳴られる。
脳裏をそんな思いがかすめて時間の流れがさらにゆっくりになった。白い車は進路を変えずにスローモーションで突っこんで来た。男の子の目は絶望の色に染まっていた。三輪車のハンドルを手がギュッとつかんだままだ。
ぼくは男の子のわきの下に腕をまわして一気に男の子を持ちあげる。はずだった。すくなくともぼくはその予定で行動していた。
けど指が男の子にとどかないうちに白い乗用車はどうしようもない位置にまでタイヤを進ませていた。
ちくしょう! あとすこしなのに!
ぼくの指が男の子の腕にあと五センチまでせまった。
その瞬間だ。
白い乗用車が男の子をはねあげた。目の前に見えているぼくの手から男の子だけがすりぬけて消えた。
ぼくの指が空気をつかむ。男の子は三輪車ごと車のボンネットを越えてフロントガラスを背中でわって上空に舞った。車をやりすごしてかたいアスファルトにグシャッと頭から落ちた。
悔恨がぼくの頬をゆがませた。次の一瞬ぼくもバンパーに引っかけられてアスファルトを転がった。
視界がぐるぐると回転した。ドンッとガードレールの支柱に脇腹をたたきつけられた。
左ポケットでポンと音がして回っていた周囲の風景が停止した。
シンとすべての音が耳から消えうせた。静寂のなかで誰かがぼくの鼓膜にささやいた。ハンドベルのようなすみ切った男の幼児の声だった。
《ありがとう。やっと出られた。なんでもねがいごとを言ってよね。どんなたのみでもかなえてあげるから》
「ええっ?」
《ぼくは天使だよ。きみの恋人から聞いてるだろ。五百年ぶりの外なんだ。お礼にねがいをかなえてあげる。ひとつだけね。どんなたのみだって可能だよ。ぼくは天使だからね。たとえばきみが三つのときに死んだおじいさんを生き返らせるなんてのもできるよ》
家の仏壇に遺影がかざられているけどぼくにその祖父の記憶はない。
「て? 天使ぃ? なにそれ? そんなものがいるはずないじゃないか。非科学的な。どういう冗談なんだよこれ?」
ぼくは悩みながら口にした。車にはねられたのはおぼえている。そのあとどうなったんだ? 電柱で頭を打ったのか?
《冗談なんかじゃない。ぼくは正真正銘の天使だよ。聞こえてるんだろぼくの声?》
「うーん。たしかに聞こえる。幻聴かいこれ?」
ちょっとわかった気がする。ぼくは車にはねられて死にかけてるんだ。これって臨死体験ってやつだろう。宙に浮かんだ花園が見えたり死んだ人がむかえに来たりするんだ。
かわいそうなぼく。二十四歳で死ぬなんて。
《おやおや幻聴とはごあいさつだねえ。ま。信じても信じなくてもいいからねがいごとをひとつ言ってごらん。なんでもかなえてあげるよ。神さまからきつく釘を刺されてるんでひとつだけだけどね》
「ねがいごと? 金持ちにしてくれるとか出世させてくれるとかかい?」
《そうそうよくわかってるじゃないか。実はさ。ぼくにできるのってたいしたことじゃないんだ。大金を手に入れさせるとかさ。社長にするとかそのていどなんだよな。勇気をあげるなんてのはできない》
「なるほどわかったぞ。ぼくがねがいを言えばその代償にぼくの魂を取るってわけだな。大金持ちにしてくれとねがうとさわるものすべてが黄金に変わるってやつだろ? 消えろよ悪魔」
《あ? 悪魔? 神さまとまちがえるやつはたまにいるけど悪魔とかんちがいしたのはきみが初めてだ。天使と悪魔を取りちがえるなんて東洋人は本当に学識がない。天使ってのはさ。背中に白い羽根がついてて赤ん坊みたいにあどけない顔をしてて》
「説明してもらわなくてもそれくらいは知ってる。じゃ訊くけどさ。なんで天使がなにもいい行ないをしてないぼくのねがいをかなえてくれるわけ? おかしいじゃない? お金持ちにしてくれる。出世させてくれる。どれもあまい話ばかりだ。いまどきの若者をバカにするなよ。宗教詐欺も募金詐欺も恋人商法もみんなことわった経験があるぞ。努力しないで出世するなんて本物の天使なら決して口にしないはずだ。悪魔だろお前?」
《おいおいあゆむ。おまえ悪魔に誘惑されるほどきれいな心は持ってないぞ。うぬぼれるのもたいがいにしろよな。ぼくが下手に出りゃつけあがりやがって。悪魔は美しいものが好きなんだぜ。あいつ自身が絶世の美女だからな。お前みたいなゴミ人間をあいつが相手にするもんか。本物の悪魔に会った経験がないから気安く悪魔の誘惑なんて口にできるんだ。彼女のあまい笑顔を見たらポーっとなってぼくら三人みたいに。ああいやいやぼくらはいいんだ。とにかくあゆむ。早くねがいごとを言え。でないとぼくは空に帰れないじゃないか。早く帰りたいんだ。ねがいごとをしろ。ねがいごとをするんだ。ねがえよぉ》
すんだ声が泣きはじめた。
「泣くなよ。情けないやつだなあ。ぼくの魂と引きかえじゃなければねがいごとくらいしてやるよ。お金持ちになれる。社長になれる。ほかにどんなおすすめがあるのそのメニュー?」
《お前。天使をファミリーレストランとかんちがいしてやしないか? このでくの坊?》
「ああそうか。その手があるか。じゃ本日のサービスランチでいいや。ドリンクつき。ハンバーグでも海老フライでもいいからさ。どうせ幻聴なんだ」
《幻聴じゃないぞボケナス! いいかげんに目をさませ昼あんどん! たくもぉ。お前のケガを治すなんてのもできるぞ。お前はいま太ももの骨がおれてる。入院しないと治らないぞ。痛いぞぉ。注射をされるぞぉ。お医者さまはこわいぞぉ》
「そんなのこわがらないって。子どもみたいなやつだな。子ども? そういやあの男の子はどうなった? はねられたあの子は?」
ぼくは自分が助けそこなった男の子を思い出した。あの子が先にはね飛ばされたはずだ。
ぼくが目玉だけを回すと男の子はアスファルトにたたきつけられたままぐったりしていた。血はたいして出ていない。
《あの男の子か。あの子はもうだめだよ。あと五分ともたない。頭を強く打ったんだ。お前は全治一か月だよ。さあどうする? お前のケガを治すか? それともぼくを買ってくれた女の子を生き返らせようか? あの女の子はお前にとって大切な人だったんじゃないのかい?》
ぼくはあわてた。
「ちょちょっと待てよ。しのぶを生き返らせる? そ? そんなのできるのかい?」
《当然できるに決まってる。ぼくは誰だって生き返らせられるんだ。えっへん》
いばらなくてもいい。そう思ったけどそれが本当ならいばる場面だろう。
ぼくは考えた。その結果やはりこいつは悪魔じゃないかと結論した。
こいつはずっとあまい誘いばかりをならべている。その最たるものがしのぶを生き返らせてくれるじゃないのか? 悪魔がぼくをためしているならこれほどの誘惑はまたとない。
たしかにしのぶを生き返らせてほしい。けどしのぶを生き返らせてもらえばどうなる? どんな事態が起きる? ハッピーエンドが待ってるか?
考えろあゆむ。もししのぶが生き返ればなんて言う? しのぶはなんて言ってた? しのぶならこんなときどうする?
ぼくは必死で考えて答えをひとつ見つけた。
「いま死にかけてるあの男の子を助けるなんてのもできるかい? 五分ともたないんだろ? そんな大ケガでも治せる?」
《お安いご用さアンポンタン。ぼくに不可能はない。でもひとつ正すとぼくにできるのはケガの治療じゃないんだ》
「は? なんだいそりゃ? じゃどうしてケガが治るんだ? ぼくの骨折だって治せるって言ったじゃないか? どういうことだよ?」
《こういうことだよ。ぼくにできるのはさ。時間を細工するだけなんだ。お前を金持ちにしようとすればあたりの宝くじを売る瞬間の窓口にお前を連れて行けばいい。出世させようとすればヒット商品が出る前にその情報をお前にわたせばいい。死んだ人を生き返らせるんじゃなくてその人が死ぬ前の時間から現在に連れて来るだけなんだ》
「ならケガを治すんじゃなく?」
《そう。ケガをする前の時間にいるあの男の子を現在に連れて来ればいい。そうすれば車にはねられる前の男の子がただ道で転んで泣いているとなる。お前たち人間はぼくや神さまを万能だって言うけど本当はちがう。死んだ人間を修復するのはぼくらにだってできない。ほんのちょっとお前たちよりよけいな力を持ってるだけなんだ。悲しいけどね。だからお前たち全員のねがいをかなえてやるほど膨大な力はない。ぼくらが持ってるのは小さな小さな力なのさ。さ。どうするあゆむ? ぼくを買ってくれた女の子をいまここにもどしてやろうか?》
ぼくは歯を食いしばった。そんな誘惑をしないでくれ。それはぼくがのどから手が出るほどほしい言葉だぞ。ひと言しのぶを生き返らせてくれとねがえばまたあの笑顔に会えるなんて。けど。
生き返ったしのぶになんて言うんだあゆむ? 目の前で死にかかっている子どもを見殺しにしてきみを生き返らせました? そんな醜い男をしのぶが愛してくれるもんか。
ぼくは無言で首をふって悪魔の誘いをはねのけた。こいつが悪魔ならきっと生き返らせたしのぶにふられて絶望するぼくをあざ笑うにちがいない。
「あの男の子を助けて。いま死にかけてる男の子を助けてやってくれ」
《いいのかいそんなねがいで? かなえてあげられるねがいごとはたったひとつだぞ。神さまからきびしく釘を刺されてるんでこればっかりはぼくにはどうにもならないんだ》
自称天使がとまどった声を出してぼくはまたまよった。
天使の姿は見えないが話しているかぎりでは悪魔と思えない。しかしもし悪魔でもぼくの魂と引きかえにしのぶがもどるならこころみる価値はあるんじゃないか? 見ず知らずの子どもの命を助けたためにしのぶは死んだ。いま目の前の男の子の命を見すてるかわりに今度はしのぶを助けてやってもいいじゃないか。彼女はすでにひとり助けているんだから。
ぼくが誘惑に負けそうになったときぼくの耳にしのぶの声がひびいた。誰かがこまってたり苦しんでたらその場にいる人が助けてあげればいいのよ。人は誰かを助けるために生きてるんだから。
ぼくの決心がついた。ぼくって結局ひとりではなにもできないやつだよな。ダイエットコーヒーだって三津谷社長とレナのおかげだ。しのぶの言葉どおりみんなが助けてくれるからいまのぼくがいる。だからせめて幻覚の中くらい人助けがしたい。
「うん。あの男の子を助けてやって。ぼくが助けてやれればよかったんだけどぼくって運動神経がにぶいから」
《本当にそれでいいのかあゆむ? そんなねがいだとお前の大切な人にはもう二度と会えないぞ?》
天使もぼくがしのぶを生き返らせる選択に期待した口調だった。しのぶが気に入っているみたいだ。
「いいんだ。ぼくの一番大切な人ならきっとそう言う。しのぶは他人に助けられるうれしさを知ってたよ。ぼくがいまあの男の子を助けずにしのぶを生き返らせてもらったりしたらしのぶにふられる。だからあの子を助けてやって」
《そう。後悔しないな?》
残念そうな声だった。ぼくも一瞬つまる。けどぼくはもう決めた。
「後悔なんかしない。ぼくはこれ以上ないって後梅をすでにした。あれ以上後悔するなんてもうない。さあ早くあの男の子を助けてやって。しのぶもそう望んでるはずだ」
ぼくは最後の未練をしのぶの名で断ち切った。どうせ臨死体験なんだ。これから死のうってのにこれ以上なやまされてたまるか。ぼくは安らかに眠りについてしのぶに会うんだ。ぼくが天国に行ければだけど。
《よしわかった。じゃこれでお前ともおわかれだ。出してくれるのが遅すぎたけど礼は言う。ありがとな。ぼんくらのとんちき》
どんな礼だよそれ?
ぼくが胸の奥で突っこんだとき自称天使の声がフッと消えた。とまっていた景色が動きはじめた。街の騒音が耳にもどった。
ぼくはいきなり襲って来た太ももの激痛に血の気が引いた。口の中がザラザラした。
けど歯を食いしばって男の子を見た。死んでるんじゃないぞと祈った。
あの子が死んでいたら飛び出したぼくは道化だ。重症でも生きていてほしい。でないともうすぐ死ぬぼくが浮かばれない。
男の子がなにもなかった顔できょとんと立ちあがった。ひっくり返った三輪車がかたわらでタイヤだけをカラカラと回していた。男の子はひどくゆがんだ三輪車を見て大声で泣きはじめた。
「あーん! ぼくの三輪車ぁ! ママにしかられるぅ! またお尻をぶたれちゃうよぉ!」
元気をありあまらせた叫びがぼくの鼓膜を打った。ツノを生やした母親の怒り顔がちらつくおびえ声だったけど。
ああ。あいつたいしたケガじゃなかったんだ。よかった。
ぼくの全身から緊張がぬけた。ぼくは襲って来た全身の痛みに指一本動かせなくなった。
アスファルトに転がったままのぼくは山田をはじめ五人の大人に抱かれてケガの具合を調べられた。男の子は手足の屈伸をためしてもらっていたけど三輪車をこわしてママにしかられると泣きつづけた。
ぼくにはみんなが耳元で『大丈夫か』とか『がんばれよ』とかはげましてくれた。救急車のサイレンが近づいて激痛と安堵の重奏にぼくの意識は遠のいた。




