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 第二十章 フィンランドの涙が落ちない冬

 街を離れると広大な湖と小さな湖が交互に連なって途切れなくなった。湖の国の自称どおりこの国は湖だらけだと感心した。

 ロッジや別荘は湖に沿ってぽつりぽつりと建っていた。湖の数が多いからまばらに感じるらしい。

 日本のように湖がひとつしかなければ別荘ラッシュに見える数だろう。大きな湖のほとりにはバンガロー村もあった。夏は白樺の林を散策したりボートを浮かべるキャンプ地になるようだ。

 小さな遠浅っぽい湖にはこじんまりした別荘が数多くならんでちょっとした建売別荘郷を形成していた。レストランや真新しい大病院も通りすぎた。

 夏は気持ちよさそうだ。けど冬は寒いぞぉ。暗いし。

 よそ見をしながら走ると些細なくぼみで凍った雪にすぐタイヤを取られる。ぼくは車線にだけ目線を固定して脇見運転をやめた。対向車が一台も来なくて後続車もないから安心して左右を見てられたんだ。

 連続する小湖をぬいはじめてからひたすら貸し切りの道路がつづいた。日本でたとえれば東京と名古屋間を湖で埋めつくした区域だ。

 とにかく雪と湖ばかりだった。チェーンははいているがプラスチック素材なせいか案外すべった。

 左ハンドルのアンチロック車を借りりゃよかったと悔やんだ。でもなれない雪道で不なれな左ハンドルだとかえって事故りそう。きっと左ハンドル車を借りれば今ごろは右ハンドル車にすればよかったと後悔しているだろう。 

 レンタカー屋のおばさんの指示どおり北の小道に車を進ませるとロッジがどんどんへりはじめた。行けども行けども雪と湖それに林と岩ばかり。そのくせ山はどこにもない。でこぼこの平地だけだ。

 まっ黒な溶岩が流れ出してそのままかたまりましたって感じ。こんな妙な景色は日本にはないぞ。

 ぼくは激しく吹きつける雪にへきえきしながら湖の周回道にさびしく建つロッジのベルを順番に鳴らして回った。番地表示の法則がわからなかったからだ。

 GPSの搭載された機種を借りればよかったとまた後悔する。すでに人影も民家もまるでない。

 あるのはひとけのうせた別荘とロッジが少々だ。現実に寒いがうす闇の風景も寒々しい。

 これが地球上とはとうてい思えない。ぼくって遭難しそう。軽食だけじゃなくチョコレートも買っとけばよかった。

 そのうちの一軒に赤い車が駐められているのが見えた。あ。ここかも。

 つりさがるカウベルをカンカンと鳴らすと玄関のドアがあいてしのぶが顔をのぞかせた。

「えっ。あゆむ? くん?」

 しのぶが信じられないと顔に書いた。しのぶの胸元にぼくが贈った黒蝶貝のペンダントが七色のきらめきをはなっていた。

 告白するぞと息をすったぼくの脳裏を失敗に終わったプロジェクトがかすめた。本来ならあれを成功させて胸を張ってしのぶに求愛できたはずなのにと思うとぼくの決断はしなしなとしぼんだ。ぼくは情けない笑顔を作った。

「どうしたのしのぶ? ぼくのかっこう変かな? こんな北まで来たの初めてなんでいっぱい着こんで来たんだ」

 ぼくはそんな話題をえらんだ。ぼくってやっぱり軟弱者だ。レナに張り飛ばされそう。

 ぼくは頭の先から靴まで毛皮でモコモコだった。日本でこんな姿の男はまずいない。ヘルシンキでもいなかった。

 イチゴを買いに寄ったデパートで親切にすすめられて買ったけどどうも田舎者専用防寒着らしい。この湖だらけの土地には合っているみたいだけど。

「いいえ変じゃないわ。この辺じゃみんなそのかっこうよ。さ。中へ」

 ぼくをロッジにまねき入れて自分の部屋に案内した。しのぶがぼくに椅子をすすめる。自分はベッドに腰を降ろした。

「コーヒーでもいれるわね」

 そのときしのぶがひどく咳こんだ。

「大丈夫しのぶ? 風邪?」

「うん。ちょっとね」

 厚いローブをまとったしのぶは蛍光灯の下ではやつれて見えた。

「医者には行ったの?」

「ううん行ってない。この国の健保に入ってないの。でもすぐ治るわ。わたし丈夫だから」

 ぼくは不意に思い出した。レンタカー屋のおばさんの言葉を。

「しのぶなの? 湖に飛びこんだ女の子って?」

「あらバレちゃった。誰に聞いたのそれ?」

「レンタカー屋のおばさん。助けられた子どもがお礼を言いたいんだって」

「そう。よかったあの子が無事で」

「知ってる子なの?」

「ぜんぜん。買い物の途中でたまたま」

 首を横にふってしのぶがまた咳こんだ。

「コーヒーはぼくがいれて来るよ。ぼくはさ珈琲会社の社員なんだぜ。だからきみは寝てなよしのぶ」

 しのぶの笑顔と胸元で光る黒蝶貝のペンダントにしのぶはぼくをきらってないらしい。そう安堵して気楽に椅子から立った。

 ぼくは無人の廊下を歩いて台所を探した。

 ロッジはちょっとしたペンションくらいの広さで二階にも部屋が見えた。社員寮とぼくの心に浮かんだ。

 ただ夏専用の作りらしく冬の防寒対策はとられていない。キツネが入りこむのも理解できる隙間風スースーの安っぽい建てつけだった。

 窓に面した流しは洗いものがたまっていた。湖が窓外に見えた。けど降る雪にまぎれて切れ切れだ。

 夕陽は落ちたか落ちてないかわからないくらいうす暗い。そろそろ日没なのはまちがいないけど太陽はうっすらとも見えない。風にふるえる白樺の幹も寒そうだった。

 舞う雪が窓ガラスに次々とぶつかって来た。しのぶの部屋では暖炉にまきが燃えていたけど台所は冷たい。ストーブがないせいで指がかじかむ。

 ぼくは軽食を皿に盛ってコーヒーにそえた。イチゴはバスケットづめにした。

 イチゴをしまおうとあけた冷蔵庫は中が空だった。これってまずいんじゃと思いつつ余分のイチゴを庫内にほうりこんだ。

 ここは一番近い町からでも二十キロはある。コンビニなんかもちろん手近にない。食べ物の買い置きがなくてもいいのかとぼくは疑問を抱いた。

 ただこんな話を聞いたおぼえはある。寒い地方の場合は冷蔵庫の温度より室温が低い。

 そのため冷蔵庫は凍らせたくないものを保存する役にしか立たない。腐敗防止の目的なら室温か外の土に埋めておけば充分と。

 極寒地なりの食料保存法があるのではないかと考えた。

 ぼくはしのぶの部屋にもどってしのぶにサンドイッチをすすめた。

 しのぶがひと口だけかじった。

「食欲がないの。ごめんね」

 ぼくは旅行用に持って来た風邪薬を飲ませながら訊いた。

「じゃイチゴ食べるしのぶ?」

 きゃっとしのぶが小さく声を立てた。

「すごいわあゆむくん。どうしてわたしの食べたいものがわかるの? わたしこないだからずっとイチゴが食べたかったの。魔法使いなのあゆむくん?」

 ベッドに寝たしのぶが小首をかしげてぼくを見あげた。その目におぼえがあった。海を見降ろす丘公園で『食べてもいいの』と訊いたときの目だった。

 落ちる夕陽に孤独をまぎらわせていた少女の救いを探すまなざしがいままたぼくを求めていた。いつもいつもひとりぼっちで生きて来た女の子がぼくには急にいとおしくなってつもりにつもった言葉がぼくの中ではじけた。

「ぼくは魔法使いなんかじゃない。きみの気持ちをまったくわかってやれないバカ男だ。森崎が好きだなんてとんでもない。ぼくはあのころからずっときみが好きだ」

 一気に吐き出すとしのぶが期待に満ちた目をぼくにすえた。

「本当? ほんとに?」

 痛いほど強いしのぶの視線にぼくは負けそうになった。

「ああ本当だ。ぼくが愛してるのはきみだけだ」

 ぼくはごまかしそうになる気弱な自分をおさえてまっ正面から告白した。しのぶに逃げたり茶化したりしたくない。ぼくの勇気のふりしぼり所はしのぶの前だって気がした。

 しのぶがぼくの顔を見つめたまま黙りこんだ。

 ぼくは不安に駆られた。やはりしのぶはぼくが好きじゃない?

「ごめん。迷惑だった?」

「ううん迷惑じゃない。あなたが本当にあゆむくんなのかしらって思ったの。あゆむくんがわざわざこんな遠くまで来てくれるわけがないもの。夢なら醒めないでほしい。こんな幸せな夢って見た経験がないもの」

 ぼくは見た。しのぶが目を伏せる前にしのぶの瞳に恐れと期待が目まぐるしく交代しては消えたのを。

 レナの忠告どおりしのぶの目だけを見ていたぼくは手をのばした。しのぶの頬をつたう涙を指でぬぐった。しのぶの不安を消そうと。

「夢じゃないよしのぶ。ぼくはちゃんと飛行機に乗って汽車にゆられて車を運転してやって来たんだ。きみに会うためだけにね。ここに着くまでに凍った雪道にすべってばかりで苦労したんだ。これが夢ならやってらんないよぼく」

「本当? ほんとにこれって夢じゃない?」

 顔をあげたしのぶが涙目でほほえんだ。幸せになれてない者のぎこちない笑顔だった。ささやかなささやかな笑みだ。ぼくまで涙があふれそうな。

 そんな幸せそうな顔をしないでくれよしのぶ。

「ああ夢じゃない。イチゴを食べてごらんよ。ヘルシンキで買って来たんだ。あのときのほどじゃないけどなかなかいけるよ」

 ぼくは涙をこらえてしのぶの口にイチゴをほうりこんでやる。あの丘の上でもこんなふうに口に入れてやったっけ。

「ほんと。おいしい」

 かみながらしのぶが涙をかくそうとさらにイチゴをつまんだ。小学生のときはうつむいてかんでたよな。

 ぼくはしのぶのうれしそうな顔を見ているだけで胸がつまった。

 しのぶは三つ食べたあとまた激しく咳こんだ。

「大丈夫かい? やっぱり医者に行くべきだよ。なんなら呼んで来ようか?」

 苦しそうなしのぶにぼくは腰を浮かせた。来る途中で見た真新しい大病院がぼくの脳裏に浮いた。

「いや! ひとりにしないで! せっかく会えたの。どこにも行っちゃや。どうせ長くはいられないんでしょう?」

 雨に打たれたすて猫の目でしのぶがぼくの手をつかんだ。すがりつきたい。でもまたすてられたらどうしよう。

 そんなおびえを瞳にたたえてしのぶがぼくを見すえた。しのぶの手は熱かった。発熱しているらしい。

「ごめん。ドイツで手間取ったからあしたいっぱいしかいられない」

「今日だけでいい。今日だけでいいの。今日だけわたしひとりのあゆむくんでいて。おねがい」

 切実な声がぼくの名にひびいた。

「わかった。わかったからきみは眠りなよ。だるそうだ」

「そうね。でも絶対にどっかへ行っちゃやよ。目がさめたら夢だったなんてもういやなの」

 必死のまなざしでしのぶがぼくの手をつかんだ。安心させようとぼくもしのぶの指をにぎり返した。

「大丈夫。ちゃんとここにいるから」

 しのぶがゆっくり目を閉じた。ぼくはしのぶのひたいに指をあてた。すごく熱い。ぼくは台所にあった大鍋に水を入れてしのぶのひたいを濡れタオルで冷やしてやる。

「気持ちいい」

 しのぶがつぶやいて浅い眠りに落ちた。力つきたみたいな寝つき方だった。

 ぼくは濡れタオルをかえていたけどしのぶの咳はひどくなる一方でただの風邪じゃないみたいだった。ぼくは決心してしのぶの眠りの深まりを待った。

 先に飲ませた薬が効いたのかひたいを冷やした効果か。咳がましになって呼吸が規則正しくなった。

 荒い呼吸ながらしのぶの眠りが安定したのを確認して車のエンジンをかけた。町に車首を向けた。

 フィンランドの救急車をどう呼ぶかぼくは知らなかった。大きな湖のそばに建っていた大病院に直接かけ合って救急車を派遣してもらえばとぼくは目算した。しのぶを車ではこぶ選択も考えたけどもし道にまよえばしのぶもろとも遭難しかねない。

 雪の夜道は街灯がなかった。雪に反射するヘッドライトが目に痛い。

 ハロゲン灯をはじく路面の強烈な白だった。とまどう右側通行にせいいっぱい慎重にハンドルをあやつった。

 舞う粉雪にセンターラインを見うしなう。目をきょろつかせた。視線がずれた一瞬だった。犬くらいの生き物がライトの光をよぎった。ハッと青ざめてブレーキをふみにじった。次の瞬間もっと血の気が引いた。

 しまった! 強くふみすぎた!

 後悔に飲まれた。けれど取り返しはつかない。

 車がコントロールをうしなった。スピンをはじめた。プラスチックチェーンはふん張りが効かない。

 ふられたライトが生き物のうしろ姿をとらえた。キツネだった。冬毛の頭がぼくをあおぎ見た。危機が去った安心感にきょとんと目が丸かった。こちらは危険のまっただ中だ。

 ちくしょう! とまってくれ!

 遊園地のコーヒーカップみたいにふりまわされた。気づかずポケットに左手を挿した。

 天使の壺をにぎりしめた。ブレーキもアクセルも地面をかんでくれない。回転がまるでとまらなかった。

 タイヤが凍った路面をかき立てる。車が回転しながら湖へすべった。

 だめだ!

 絶望にくちびるをかんだ。かき氷がフロントガラスにつもって視界を消された。なにも見えない。観念してまぶたをかたく閉じたとき車が回転をとめた。

 うす目をあけると正面はまっ白だった。ドアの窓から見た外は蹴立てた雪煙がおさまりつつあった。

 ドアをあけてみた。雪は舞っているし気温は凍えそうだけど雪に閉じこめられるほどつもってはいない。見通しも低速なら走れそうだった。

 フロントガラスの雪を落とすべくホッと息を吐いて靴をふみ出した。とたん。えっと目が見ひらいた。

 靴底が地面にふれなかった。つま先がスカスカだ。底がない。

 とっさにドアに右手をかけて体重をささえた。グラッと車体そのものが右にかしいだ。あわてて車内に身をもどした。

 車がゴンと元の水平にタイヤを着地させた。ゆっくりとドアを閉じた。窓をあけておそるおそる首をのばした。ライトからの光の反射がタイヤの真下を映していた。

 右のタイヤの真下に道路がなかった。かわりにみぞれ氷が湖面を移動していた。あんがい流れが急だった。

 ゾッと身体を助手席に寄せた。ふうとため息を吐いた。

 あと一ミリブレーキをふみこんでいれば今ごろ湖の底だった。

 冷や汗をぬぐうためにハンカチを出そうと左指に意識をうつした。左手はポケットの中でにぎりこぶしをかためていた。

 力をぬくとてのひらにコロリと壺の感触をおぼえて壺をにぎりしめていたと知った。

 天使のお守りか。効いたのかなとお守りをなでて汗をぬぐった。

 窓から慎重に車の周囲を確認した。幸い道から落ちたのは右の前輪だけだった。

 ふたたびハンドルをにぎる。バックで道路に四輪を落ち着かせた。

 ゆっくり慎重に車を走らせた。

 道沿いの大病院に車をつけた。これほど大きな病院なら夜間緊急外来もやっているだろうと。

 ところが緑の非常灯は光っているものの建物はガランと空虚な感じがぬぐえない。インターホンは押せども押せども返事がない。

 正面ドアは自動ドアのくせに前に立ってもあく気配がなかった。夜だから通用口から入るのかなと建物の横に回りかけて貼り紙に気づいた。大安売りと書かれていた。

 フィンランド語はわからないぼくだけどヘルシンキの街でひとつだけおぼえた熟語があった。赤い紙が商店のガラス窓にべたべたと貼られていた。あれはなにを書いてあるのと訊いたら店の女の子が『大安売りよ』と教えてくれた。

 へえ大病院のくせに治療費が安いんだと感心したあと気がついた。病院『が』大安売りをしているんじゃなく病院『を』大安売りしているんじゃないかと。この病院そのものが大安売りってことはつまり廃業したんだ。

 わーおっ! たいへんだあ!

 ここに病院があるから雪の夜道を走って来たのにその病院が売り物になっていただなんて!

 ぼくは途方に暮れたが仕方なく最も近い町に車首を向けた。フィンランドは人口がすくない上に田舎の国だ。そこへもって来てここはフィンランドでもド田舎でしかも夏のリゾート地だった。冬は人の姿がかけらもない。

 さらに夜だ。病院の場所を訊こうにも車一台通らない。

 たしかにこんなところに大病院を建てたって冬は客が来ないだろう。病院を建てた人も冬が来て気づいたのかな?

 吹雪を裂いてたどり着いた町は凍ったように眠っていた。ぼくは眼前にある家のベルを鳴らして戸をドンドンとたたいた。

「なんだいうるさいねえ! こんな真夜中に!」

 三軒目の家の中から太ったおばさんが出て来て露骨すぎる迷惑顔でぼくをにらんだ。パジャマにガウン姿でまっ白な息を吐いている。気温はすでに氷点下だろう。雪はだんだん激しくなって来た。

「すみません! 医者は! 病院はどこですか!」

 ぼくに気をつかう余裕はなかった。

 ぼくが英語で訊くとおばさんは一瞬ハッとしたあと英語に切りかえた。

「急患かい。病院は三十キロ先にしかないよ。でもすこし走れば散髪屋のとなりに小さな医院跡がある。そこのおやじはすでに引退した老いぼれだけど腕はたしかだし真夜中だろうが診てくれる。ボランティアだから外人でもカネは取らない」

 おばさんは不機嫌そのものの声でポケットからかじかむ手を出して道順を指さしてくれた。声や表情と裏腹なていねいな説明にぼくはおばさんの真意をくみ取った。

「ありがとう!」

 ぼくは涙を流しながら頭をさげた。

「ふん。お大事に」

 おばさんが無愛想につぶやいて怒り顔をくずさずにドアを閉めた。

 ぼくはひどくなる粉雪が吹きつける中を教えられた医院跡の家に行った。ベルを鳴らしてはドアをたたきドアをたたいてはベルを鳴らした。

「誰じゃこんな夜中に?」

 ドアのすき間から顔をのぞかせたのはやせっぽちで山羊ヒゲの老人だった。

「急患なんです! いっしょに来ていただけませんか?」

 ぼくは必死でたのみこんだ。半分は演技だったが真にせまっていたのだろう。医者が真剣な顔つきに変わった。

「ああわかったわかった。すぐに行ってやる。用意するあいだ入って患者の容態を説明してくれ」

 ぼくはイライラしながら医院の診察室でしのぶの状態を話した。しのぶが目をさましてぼくを夢だと思ってないか気が気じゃなかった。

 医者がふんふんとうなずきながら薬や注射器をカバンにつめた。

 ぼくは医者の車を先導した。ロッジにもどったときしのぶはまだ眠っていた。

 山羊ヒゲの医者が無言のまましのぶの診察をはじめた。

 すぐにしのぶの気がついた。

「あゆむくん? あゆむくんどこ?」

 手をのばしてぼくを呼んだ。ぼくはその手をにぎって安心させてやる。

 山羊ヒゲの医者はひととおり見終わると注射をした。しのぶに薬を飲ませて腕に点滴をつないだ。胸と喉をあたたかくくるんだあと指でぼくを部屋の外にまねいた。

 ぼくは不審顔で医者の背を追った。

「なんです?」

 ぼくの問いにふり向いた医者が難しい顔で声をひそめた。

「バカ者! どうしてここまでほっておいた? 手遅れじゃ」

「えっ?」

 ぼくは医者がなにを言ったのか理解できなかった。医者がゆっくりとくり返した。ものわかりの悪い子どもにしみこませるように。

「もう助からんと言っとるんじゃ」

「ま? まさか? つ? ついさっきまで元気で話してたんですよ?」

「話すくらい瀕死の病人でもできるわい。せめてあと三日。いや二日早ければのう。あの若さなら肺炎なんてこわい病気じゃないんじゃが。一週間ほど前から症状は出とったろうが?」

 医者がせめる目でぼくを見た。

「ぼくはきょう日本から彼女をたずねて来たばかりなんですよ! なんとかならないんですか!」

 逆切れしたぼくは医者につめ寄った。

「わしにできる限りはつくした。彼女は肺炎もじゃが身体そのものが衰弱しとる。しばらくなにも食べとらんのじゃないか? 栄養失調の一歩手前じゃよ」

 ぼくはハッとした。たしかに冷蔵庫は空だった。流しもしばらく使った形跡がなかった。

「な? なら助からないんですか?」

 ぼくは信じられなかった。普通の風邪より重いだろうと思ったけどそこまで悪いとは。

「助かるまいな。わしは前の戦争のときよくあんな症状を見た。点滴してやっとるがもって今夜いっぱいじゃろう。たぶん夜明けが山じゃな。もっと栄養状態のいい者でもあそこまで衰弱して助かった者はおらん。覚悟しておくべきじゃ」

「か。覚悟って」

 ぼくはうろたえた。たかが肺炎だろ? しのぶはまだ二十四歳だぞ?

「残念じゃがわしに打つ手はもうあるまい。気休めについててほしいと望むならいてやるが最後にふたりっきりで別れを惜しむほうがいいんじゃないか? わしはあす朝にまた来てやろう。どうする? わしはここにいるべきかね?」

 どうすると訊かれてもぼくにはどうすればいいのかわからない。

「ほんとに助からないんですか?」

「かわいそうじゃがな。症状があそこまで進んで持ち直した者を診た経験はない」

 医者が静かだがきっぱり断言した。年の功とぼくの頭に浮かんだ。

「そう。ですか。じゃ今夜はもうけっこうです。あしたまたおねがいします。わざわざ来てくださってありがとうございました」

 考えてみればこんなところまで真夜中につき合ってくれただけでもありがたい。往診してくれただけでよしとしよう。

「暖かくしてやれよ。朝一番にまた来てやる」

 医者を送り出したあとぼくは医者から聞き出した緊急医療センターに電話をかけた。あんなあやしげなオヤジがあてになるものかと。

 しかしセンターの担当者がぼくに告げた。ここから五十キロの医院は交通事故の急患のため緊急医療室に空きがない。百五十キロの医院にはこぶには合計で十時間かかると。

 低気圧の通過中でヘリが出せずに救急車しか手段がないそうだ。雪国に不なれなぼくは外の雪をあたり前に思っていた。だけど十年に一度の大雪と低温で救急車すら走行困難だそうだ。

 チェーンをはいていてもすべりまくったのはそのせいらしい。ないよりましだと救急車を要請したけどここにたどり着くまでに五時間かかると聞かされた。

 ぼくがしのぶをはこぶのも考えたけどカーナビのない車で百五十キロもの夜道をまよわずに走れるとは思えない。さっきもあやうく湖に落ちかけたものな。

 ぼくは受話器を置くと暖炉にマキをさらにくべた。窓の外でうなる吹雪がやけに耳についた。

 吹雪は死神のまねき声。そんな昔話がぼくの脳裏をよぎった。

 ぼくはしのぶの手をにぎりながらひたいのタオルをかえつづけた。まさかしのぶが死ぬなんてと否定するけどしのぶはハアハアと苦しげだ。

 呼吸もとぎれとぎれだった。いったんさがった熱がまたあがりはじめた。

 ふいてもふいても顔に汗が浮く。そのくせ身体はふるえつづけている。

 ここに着いたときに青白かった顔色はいまはまっ赤だった。

 ぼくは台所で鍋の水をかえながら吠えた。

「どうしてしのぶが死ななくちゃならないんだ! 見ず知らずの子どものために? そんなガキほっとけよ! 見て見ぬふりすりゃいいじゃないか!」

 目から涙がこぼれた。あとからあとから。

 ぼくはそのときそばで見ていて飛びこまなかった者たちを恨んだ。

「大の男が傍観してどうするんだ! しのぶみたいな女の子が氷の湖に身を投じるなんて!」

 怒りに突きあげられて壁をなぐった。こぶしに血がにじんだ。痛かった。

 でもとぼくは思い出した。ぼくだってあの夏の日に男の子を助けに飛び出さなかった。

 たまたまあの子が助かったから平気な顔でいるけど目の前で死なれていた可能性だってあった。ぼくも傍観者だ。

 他人をせめればせめるだけ自分に返って来た。ぼくに他人をせめる資格はない。

 そもそもぼくが前回のドイツでしのぶに好きだって伝えてりゃ最初からフィンランドに来ていたはずだ。二日前にはここにいたろう。ぼくが勇気を出して告白していたら。

 痛烈な自己嫌悪にぼくの涙がとまった。自分をあわれんで泣くなよぼく。

 自身にツッコんだはずかしさに笑いが口もとにきざまれた。こんなぼくには泣く資格さえない。

 自嘲しながら気を取り直してしのぶの部屋にもどった。あの医者はとんでもないやぶ医者で誰にでもああやっておどすのが老後のゆいいつのたのしみなんだとうそぶきながら。

 しのぶは殺したって死にゃしない。きっとあした朝あのジーサンは笑いながら顔を出すに決まっている。どうじゃびっくりしたじゃろなんて。

 ぼくは医者が置いて帰ったレトルトの重湯をうす目をあけたしのぶにすすめた。気休めにしかならなくても食べ物を口に入れれば持ち直す可能性はあるらしい。ほんのわずかだが。

「ううんそれはいい。わたしイチゴがほしい」

 しのぶが弱々しい声を出した。ぼくは冷蔵庫からイチゴを取って来てベッドで半身を起こしたしのぶの口に入れてやる。

 固形物は胃が受けつけなくなっているようで医者を呼びに行く前に口にしたサンドイッチとイチゴも嘔吐した形跡があった。しのぶはイチゴが食べたいんじゃなく思い出をかみしめたいんだろう。

「おいしい。ねえあゆむくん」

 すわるしのぶがゆっくり慎重にイチゴを飲みこむとぼくに声をかけた。

「ん? なに?」

「人間ってねえ自分ひとりじゃ生きて行けないの。けどみんな自分が大切なのよ。だから自分さえ安全ならいいって思っちゃうの。でもねみんながみんなそう思ってそれを実行すれば誰も安全じゃなくなっちゃうわ」

 しのぶがぼくの目を見つめた。なにかを伝えたい目の色をしていた。

 けどぼくにはしのぶの伝えたいなにかがわからなかった。しのぶに無理をさせちゃだめだと思う一方しのぶの真剣な瞳に押し切られた。

「どういうこと?」

「たったひとりの全力で身を守ってもたかがしれてるの。たったひとりの全力なんて大勢の人のほんのちょっとの力の合計にも足りないでしょ? みんなが自分だけを守るのに必死になればなるほど限られた力しか集まらなくてかえって自分の身も守れなくなっちゃう。わたしはそう思う」

 またしのぶが咳こんだ。咳がどんどんひどくなっている。咳は体力をけずるらしい。このまま咳がとまらなければしのぶは本当に助からない。

「しのぶ。黙るほうがいいよ。きみはゆっくり眠るべきだ」

「ううん。わたしあなたに誰もにくんでほしくない。さっきの聞こえたわ。ねえあゆむくん。わたしね。ずっといろんな人に助けてもらったから生きて来れたの。さっきのお医者さまだって見ず知らずの人じゃない」

 しのぶの瞳がぼくに問う。あゆむくんは誰にも助けてもらわなかったのと。

 ぼくは思い出した。病院を訊いたおばさんだって他人のぼくにちゃんと教えてくれた。黙ってドアを閉める選択だってあったのに。

 最初に不機嫌な顔を作ったせいで最後まで迷惑顔をくずせなかっただけだろう。いきなり笑顔にするとばつが悪いと。

「あゆむくん。人間ってね誰かが助けてくれるから生きて行けるの。誰の助けも受けないで生きて行ける人なんていない。誰かがこまってたり苦しんでたらその場にいる人が助けてあげればいいの。助けられた人はそれで人間が信じられるでしょ?」

「そうなの?」

「そうよ。信じられるものがなきゃ人間って弱いの。わたしそう思う。あゆむくんが海を見降ろす丘公園でイチゴをくれたときわたしはどうしようもなくうれしかった。あゆむくんはわたしの人生で一番つらいとき一番苦しいときにイチゴをくれたの。たった五粒のイチゴをわけ合って食べた思い出のおかげでわたし今日まで生きて来たわ。あゆむくんきっとそれがわたしでなくてもイチゴをわけてあげたはず。わたしあゆむくんのあのやさしさだけをささえに生きたの。誰かがこまってたり苦しんでたらかならずほかの誰かが助けてくれる。人は自分を助けるために生きているんじゃない。誰かを助けるために生きる。それが人間なんだって」

 しのぶが必死のまなざしでぼくを見た。ぼくはしのぶの話をとめられなかった。

 医者との会話を耳にしたんだろう。逆切れして食ってかかったものな。

「クスッ。やーだ。そんな深刻な顔をしないの。わたしねいつも想像してたのよ。いつかわたしだけの王子さまがわたしの前にあらわれるのって。あゆむくんがわたしに会いにドイツまで来てくれたときほんとにうれしかった。観光の途中なんてうそだったんでしょ?」

 息がつまりそうな沈黙をしのぶが笑顔でとき放つ。

「う。うん。ごめんねうそをついて」

「わたしに会うためにわざわざ来たんだって告白してくれるとわたし最高に幸せだったのに。もっともあとで気づいたけどね。あゆむくんったらカメラひとつ持ってないしドイツの観光名所をどこも見てないんだもの。とんでもなく方向音痴な観光旅行の末にこんな辺境にまよいこんだのかしらってあのとき思ったわよ? デンマーク観光のついでならコペンハーゲンから来るはずだものね」

「そ。そうだね。きみへの恋わずらいで方向感覚がむちゃくちゃだったんだ。自分がなにをやってるのかもわからなかったよ。夢の中を歩いてるみたいだった」

「わたしも夢を見てるみたいに舞いあがったわ。素敵な夢だった。これ夢よって否定しても否定してもあゆむくんが消えないの。あんなこまる夢って初めてよ。でもわたし最初は思いきり腹が立ったわ」

「な? なんで? 昔にいじめられたのを思い出した?」

「ううん。あゆむくんが森崎さんの名前ばかり出したから」

「あっ。やっぱり? 総務のレナって子にそれ指摘された」

「レナさん? あゆむくんの彼女?」

「ちがう。ちがうけどぼくが好きらしい」

 ふっとしのぶが頬をゆるめた。安堵の顔を見せる。

「なにを安心したの? しのぶ?」

「ちょっとね。けどほんとにわたしおこったんだからね委員長と恋人同士だと思って。あんなに心安そうに話すんだもの。わたしのあゆむくんよなんてツノが生えそうだったわ。でもしばらくしてあゆむくんはわたしが好きなんだって気づいたけどね」

 しのぶが茶目っ気たっぷりにニッコリと頬をくずした。ぼくの心をほぐそうとだろう。ぼくは笑えなかった。笑おうとしたけど口もとがこわばるだけだった。

「どうしてさ? ぼくの気持ちに気づいててなんで『森崎とぼくがお幸せに』なんてハガキに書いたの? 委員長おこってたよ。あゆみちゃんがあたしの恋人じゃ立つ瀬がないって。委員長は『おれについて来い』ってタイプがこのみなんだってさ」

 ぼくもこわばったままの頬をすこしゆるませた。時間がないんだと叫びたかった。

 のんびり話をしていていいのかと思う。けどしのぶは真剣な目をくずさなかった。

 ぼくと語り合っていたいんだろう。いまこのときを。救急車はまだ着きそうにない。

「ふふふ。そんな感じね。あゆむくんじゃたよりなさすぎるわ」

 泣きそうになりながらぼくは軽い相づちを打った。ぼくが泣いてどうするんだと。

「それってひどくない?」

「でもわたしの王子さまよあゆむくんは」

「ど。どうもありがとう」

「わたしね。ひとりでいままで来たでしょ? 誰にもたよらずに。あゆむくんのやさしさにあまえたらわたしはもうひとりじゃ生きられなくなる。たよることをおぼえた女はもろいの。母を見て来て知ってるのよ。あゆむくんに好きって言いたかったんだけどわたしはそのあとでひとりになるのがこわかった。ひとりきりの生活にきっと耐えられない。だから委員長にあんなハガキを書いてあゆむくんをあきらめようとしたの」

「そ。そんなあ。あきらめる必要はないじゃないか。ぼくもきみが好きなんだから」

 しのぶがつらそうに顔をそむけた。

「あゆむくんは小学校のころのわたしに恋してるだけって思ったの。とつぜん引っ越して行った初恋の女の子の面影に恋をしてるって」

 幻じゃなくいまの現実のわたしを愛してと瞳がぼくに語りかけた。恋に恋をした男の子か。たしかにそのとおり。ただしドイツで大人になったきみに会うまではだ。

「そうじゃないよしのぶ。ぼくはきみを愛してる。あのころのきみじゃなくいまのきみを愛してるんだ。最初はきみの指摘どおりだったけどきみに会ってよくわかったんだよ。いまのきみだけが大好きなんだって」

 しのぶがくちびるをかんだ。あふれる涙をにじませてぼくを見た。

「わたしもあゆむくんに会って思い知らされたわ。あゆむくんだけをずっとずっと求めて来たんだって。ひとりで生きて行くのは苦しいの。あゆむくんと会ったあとひとりで生きるのが苦しくて仕方なかった。忘れようと努力したのよわたし。けど忘れられなかった。忘れられないの。ひとりがつらくてたまらなかった。八年間ずっとひとりだったのに。一度も泣かなかったのに」

 ひとりぼっちはもういやなのという目がぼくを見すえた。ぼくをせめる瞳がぼくを射ぬいた。

 誰にもたよらず生きて来たのにどうして今ごろになってあなたはあらわれたの? そんな痛いほどぼくを恨む目だった。

 わたしがどんなに苦しい思いで生きて来たのか知らないくせに。

 あなたに会えないなら死んだほうがまし。

 そんな涙色のまなざしがまっすぐぼくに向けられた。

 ぼくはしのぶのその目に決心した。いまここでしのぶと結婚しよう。もう決してしのぶをひとりにするまいと。

 うなる吹雪がぼくの背中を押した。勇気を出せよあゆむと。

「しのぶ。日本に帰ろう。日本に帰ればこんな病気すぐに治るさ。日本に帰って結婚しよう。一生いっしょにいようよ。ねえしのぶ。帰ろうよぼくと。きみだけを愛してるんだ」

 声をつまらせて口に出した。涙をこらえるのがつらかった。

「ほんと? 本当にわたしと結婚してくれる? 信じていい?」

 しのぶがすすりあげながらぼくを見た。あの丘の上でイチゴを食べてもいいと訊いたときみたいにだ。

 ぼくはしのぶのこの目を一生忘れないだろう。裏切られつづけた人生にいままた裏切られるのを恐れてよろこびをせいいっぱい押し殺そうとするしのぶの心のゆらぎがのぞきこめるまなざしだった。

「もういいんだしのぶ。二度と裏切られない。そんな心配はせず心の底からよろこびなよ。ぼくはきみを絶対に裏切らない。誓うよ。ぼくを信じてしのぶ。ぼくと結婚してよしのぶ」

「ええ。信じる。わたしあゆむくんと結婚する。どこまでもどこまでもついて行く」

 しのぶが涙をぬぐって笑みを浮かべた。ぼくの想いがとどいたのか不安のかけらすらない手ばなしの安心とよろこびに瞳がきらめいた。きれいだ。

「きっとだよ。しのぶ。ぼくから離れちゃやだよ」

 しのぶをなごませようとぼくは笑顔を作った。

「離れないわもう。あゆむくんだけ。あゆむくんだけが好きなの」

 しのぶがいつものしのぶみたいに真摯に答えてくれた。

「ぼくもきみだけが大好きだ。しのぶ。もうきみを離さないからな」

「ええ離さないで。ずっとずっと抱いてて」

 ぼくは今度は真顔でしのぶの両手をにぎった。

 しのぶを抱こうとしたぼくはしのぶの目に虚無を突きはなす努力を見た。遠のく意識を必死でつなぎとめてまだ逝きたくないの逝くわけにはいかないのと訴えるはかない努力を。

 忍び寄る黒い影に言いようのない不安をおぼえてぼくはしのぶを抱きしめた。

 ぼくの腕の中でしのぶが遠い目を投げた。

「母はこの国が大好きだった。死の床でフィンランドの涙が落ちない冬に抱かれて死にたいってつぶやいたわ」

「どういう意味? 涙が落ちない冬って?」

「この北の大地で冬の寒い日に外で泣くとね。目からこぼれた涙は一瞬で凍って粉々になるの。粉々になった涙は風に溶けて地面に落ちない。涙の跡がどこにも残らないの。母はそんなこの国が好きだった。日本じゃ泣くたびに涙の跡がどこかしらに残って哀しみはいつまでもいつまでもつづいたわ。涙が乾くなんてなかった。おかしなものね。あんなにここで死にたいとねがってた母じゃなくわたしがこの国で死ぬなんて」

「バカッ! きみが死ぬはずないじゃないか! きみはぼくと日本に帰るんだ! 帰ってぼくと新婚生活をはじめるんだ! そうだろしのぶ?」

 弱々しくしのぶが首を横にふった。あなたにうそはつきたくないのと。

 目の光が弱まっていた。咳に力がこもらない。

「ごめんねあゆむ。あゆむごめんね。もっと長く愛してあげられなくて」

「ご! ごめんだなんて言わないでくれ! きみはなにも悪くない! 悪いのはぼくじゃないか!」

 ううんとしのぶがまた首を横にふってぼくを抱く腕に力をこめた。せいいっぱい。

「大好きよあゆむ。ずっとずっとあなたが好きだった。あなただけを愛して来たの」

 ぼくは息がつまるほどしのぶに抱きすくめられた。

 しのぶが告白し終えたとき唐突にしのぶの身体から力がぬけた。

 ハッとぼくはしのぶの目を見た。光が消えて行く。

「しのぶ? しのぶ。しのぶーッ!」

 ぼくは力のかぎりしのぶを呼んだ。けどしのぶはピクリとも動かない。

 どれだけ呼んでもしのぶは動かなくなった。ゆすってもゆすっても反応しない。しのぶの身体のどこにも力が残ってなかった。

 ぼくは二度と帰らないしのぶの名を呼びつづけた。ひとりで暗い旅路をあゆみはじめたしのぶにふり向いてもらおうと。

 泣きじゃくりながら腕の中のしのぶをベッドにそっと横たえた。しのぶの胸に顔をうずめて耳を押しつけた。

 聞こえたのはマキがはぜる音とぼくの嗚咽だけだ。聞きたくて聞きたくてたまらないしのぶの心音は聞こえなかった。

「誰かこんなのまちがいだと言ってくれよぉ!」

 ひとしきり泣いた。だが涙がとめどない。

 涙をぬぐわずにしのぶを見つめた。眠りについたとしか思えない。安らかな寝顔に見えた。このまま待っていれば朝にはきっと目をさます。

 涙でぼやけるぼくの目に小学生のしのぶがあとからあとからよみがえってとまらなかった。泣きながら夕陽の海に歌っていた赤とんぼの歌が聞こえた。五年生のしのぶがぼくに顔を向けた。ほほえんだ。ありがとうの声が鮮やかなこだまをぼくの耳の奥にひびかせた。

「もう一度笑ってくれよ。しのぶ。ぼくはここにいるよ。きみのそばにいるんだ」

 涙が頬をつたってとまらなかった。

 涙をぬぐうためにぼくは左ポケットをさぐった。しのぶがくれた天使の壺に指がふれた。ポケットから壺を出して目の前にぶらさげた。

「ちくしょう! なにが天使のお守りだ! ぼくを守ってくれたってしょうがないじゃないか! しのぶを! しのぶを守ってくれよぉ! お前が本当に天使ならぼくじゃなくてぼくの天使を守ってくれよぉ!」

 怒りにまかせて壺をにぎった。腕をふりあげた。壺を床にたたきつけようと。

 けどぼくのこぶしは肩でとまってたたきつけられなかった。この壺はしのぶがくれたたったひとつの思い出の品だったのだから。

「バカヤローッ! もどって来いよしのぶ! 帰って来いよぉ! これからじゃないか! これからふたりで生きるんじゃないか! たったひとりがつらいってぼくに教えてくれたのはきみじゃないかぁ! ぼくをひとりぼっちにするなよぉ!」

 怒りのぶつけどころをなくして壺を手に叫んだ。ぼくの声にこたえたのはのびやかで張りのある声じゃなかった。闇からひびく吹雪のうなりだけだった。

 もうあの声は耳にできない。ぼくの天使の声は聞けはしない。二度とぼくの天使はもどらない。

 そう知りつつぼくはいつまでもいつまでもしのぶの名を呼びつづけた。

 到着した救急車と山羊ヒゲの医者がしのぶの臨終を看取ってぼくは休暇を延長した。ヒエタニエミの彼女の母の元にぼくの贈った黒蝶貝のペンダントをとともにしのぶを眠らせるために。

 しのぶが最後まで身につけて離そうとしなかったあのペンダントがすこしでもぼくの代わりにしのぶをなぐさめてくれるよう祈りながら。

 ぼくの天使の笑顔をずっと見守ってくれたペンダントに感謝しつつぼくは粉雪のフィンランドをあとにした。

 帰る道すがらぼくを呼ぶしのぶの声に何度もふり返った。行かないであゆむ。帰らないであゆむ。連れて行ってあゆむと。

 風の音だったり街の雑音だったり他人の会話の断片だったりしてそのたびにぼくは肩を落としつづけて飛行機に乗った。一生ぶんの悲しみを花束にしてぼくはフィンランドに埋めた気がした。

 日本に帰るとぼくにまたいつもの日々がもどって来た。いつもと同じ日々。ぼくはそれが救いに思えた。

 みんなが変わらない日々を生きている。ぼくがしのぶを亡くす前と同じ日々を。

 ぼくは泣いてばかりいたわけじゃない。山田のくだらない冗談にも笑えたし前以上に張り切って仕事もできた。

 レナをからかうことだってできたし酒を飲むコツもおぼえた。係長にもびくつかないで意見したし三津谷社長をはじめ得意先のオヤジたちにだってしちゃいけないことはしちゃいけないと胸を張れた。

 ぼくはしのぶに負けない男になりたい。しのぶはたったひとりで生きて来た。ぼくが泣いてばかりじゃしのぶに笑われる。

 ぼくはそう自分に言い聞かせて毎日毎日歯を食いしばった。また春が来る。そして夏が来て秋が来る。

 ぼくはぼくの天使が逝った季節をすこしだけましな社会人でむかえたい。正直言うと酒に飲まれたい夜もあった。後悔に押しつぶされない夜はなく死にたいとも思った。

 けどそれじゃしのぶに笑われる。

 レナはぼくから一部始終を聞いてしばらくそっとしといてあげるからその気になったら教えてねと言ってくれた。しのぶと結婚したから誰とも結婚する気はないよと告げると愛人でいいのよとレナは笑顔を見せた。どこまで本気やら。


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