第二章 総務課の井坂レナと中村マユはカラオケが好き
ずっとあとで聞いた話だ。その日の朝に総務課の井坂レナと中村マユのコンビはナンパ談義に花を咲かせていたそうだ。こんな会話だったらしい。
マユは女子トイレの洗面台で化粧をととのえながらとなりのレナを見た。
「どうレナ。昨日の男オチた?」
レナは鏡に向かってマスカラを掃いていた。
「オチたオチた。ちょろいもんよ。でもガッカリ。ごはんを食べ終わるといきなり結婚しようだってさ。バッカじゃない? あんまりあきれたんでそのままリセットして置いて来ちゃった」
「リセット?」
「そう。もうおしまいってリセットボタンを押したわけ」
「セーブしなかったわけレナ?」
「あったり前でしょマユ? ロールプレイングゲームでオープニングの王さまの説明を聞き終わったとたんエンディングテーマが流れ出すようなもんじゃん。初デートで食後すぐ結婚しようだなんてさ。ラスボスすら出ないでどうしろっつーわけ? そんなゲームをセーブするバカいる? あんなクソゲーもうやりたかねえスよ。あーあ。どっかにもっとましな男いない? あたしを夢中にさせちゃうやつ? 心臓がドックンドックン肺がヒーヒー息切れしちゃうような意表外の男よ。これでもかってメロメロのトロトロにくだけさせてくれる男ね」
レナが自分を最高に清純っぽく見せる化粧に仕あげて鏡にくちびるを突き出した。あどけなさの底にりりしさが透けている。目の細めかげんで天使にも小悪魔にも見える。うん。これでよし。この笑顔にオチない男なんているはずがない。レナはそう満足した。
マユがあきれ顔で鏡のレナをのぞきこんだ。くやしいけど無邪気な仮面を顔に貼ったレナはアイドルなみに可愛い。ぼんやり顔のレナならあたしにだって勝ち目があるのに。
「だめだめ。レナみたく百戦錬磨の女に対抗できる同年代の男はいないって。駆け引きを楽しみたいならもっと年上を狙わなきゃ」
「オヤジはやだな。脂ぎってて好みじゃないわ。かといって食後すぐ結婚しようもねえ。あたしゃ即効性の胃薬かっつーの。やっぱ恋愛は山あり谷ありでなきゃ」
レナが今日の化粧の乗りはとマユに飛びきりの笑顔を向けた。毎朝だけどマユはドキッとした。
目があいた直後の仔猫を思わせる天使の笑顔だった。わたしの心のどこにもやましさはありませんといった純真さが結晶していた。実物のレナはブランド物と高級レストランとカラオケが好きな低俗きわまる女なのにだ。
男のこのみが一致しないでよかったとマユはつくづく思った。もっとも一致していれば最初から友だちになってないけど。
「レナぁ。あんた男あそびのしすぎよ。その清純そのものの外づらにみんなコロッと引っかかるもんね。たまにはフラれてみりゃいいんだわ。したらちょっとは男を見直すんじゃない?」
「あはは。このレナさまをふる男がいるはずないじゃん。あんたバーカ? どんな貞淑な妻子持ちだろうが一週間ありゃオトしたげる」
レナが目だけを小ずるそうに細めてマユを見くだした。ムカッと来たマユは必死でレナにオトせそうもない男をまぶたの裏で選択した。
「じゃあいつをオトせるかな? あたしのオッパイにまるで反応しないのが営業二課にいるのよね。女にゃぜんぜん興味ありませんって感じのやつが」
マユは自慢の胸をゆすりながらひとりの男を想起した。
「やだよマユ。この前みたいにあたしの魅力に反応しないんでさぐってみれば二次元フェチだったなんてのは」
「今度のはそんなんじゃないわ。仕事がうまくかみ合わないから女の子に反応しないだけみたい。もっか女の子よりも仕事って感じの子」
「子? 年下なの?」
「ううん年上。二十四歳。でもたよりなさそう。素材はいいんだけど線は細いわね。磨き方しだいで光るかなって感じ?」
「ふうん。あんまり面白くなさそう。ほかにないのマユ?」
「おや逃げる気レナ? 自信ないわけ?」
マユがにくにくしげに口元をゆがめた。レナはこめかみにカチンと来た。口は清純派のままレナが目を毒リンゴをかかえた魔法使いのオババに変える。
「あーら。このレナさまにオトせない男なんていないわよ。やったろうじゃん。で。いくら賭ける?」
「待ってました! 負けたほうがカラオケひと月分ね! ドリンク代こみ!」
やったあとマユが笑みくずれた。うまく乗せるのに成功したと。
「ふふふ。いいわよぉ。勝ったつもりでしょうけど負けてからとぼけてもゆるさないかんね。あたしの実力をとくと見せてやる。で。ターゲットの名は?」
「岡野。岡野あゆむ。営業二課よ」
「まあ。なんて軟弱げなお名前。やりがいありそ」
というしだいで二課室を出たぼくにレナが声をかけたらしい。変だと思ったんだ。女の子にもてたおぼえのないぼくにちょっかいを出す子がいるなんてさ。
けどそのときのぼくは恋人商法だろうと考えていた。まさかぼくをダシにカラオケをひと月分賭けたなんて予想もしなかった。
通常そんな事態は考えないよなあ。このふたりの賭けがぼくの人生を大きく変えるとはもっと想定外だったけど。
ぼくがレナを無視して山田と去るとぼくの背中にレナがにくまれ口をぶつけたそうだ。
「なによぉ。人がやさしくしてやってんのに! 死ね岡野!」
様子を見に来たマユがレナに声をかけた。
「あれあれ女カサノバのレナさんもかたなしね」
「ちょっとマユ。声が大きいわよ。新入社員一清純で通ってるんだからね。正体をバラす言動はつつしんでよ」
「ごめんごめん。それよりさ今夜カラオケに行こうよぉ。新しい店できたんだ。タダ券もらっちゃった」
マユのうれしそうな笑顔にレナは目をすがめた。ポケットから束になったチケットをパラリと取り出す。
「それってこれじゃないマユ? 朝から男どもにいっぱい誘われたんだけど?」
「ほよ? じゃ先約あり?」
「バカねえ。そんな約束するわけないじゃん。あたくしいまどきめずらしい清純派ですもの。カラオケなんて低俗なあそびはなさいませんわよ。オーッホッホッホッ」
「この二重人格女。じゃこれまずいわねえ。うちの男どもも行く店じゃ」
「そーゆーことね。まだ化けの皮ははがしたくないもの。ま。いつもの店でがまんしてよ。玉のコシに乗れたあかつきにゃノドがつぶれるまでつき合ったげっからさ」
「バーカ。そのころにゃあたしが先に結婚退社してレナとカラオケなんか行かねーっての。あたしゃあんたみたいに高望みしてないもん。大学だって二流でけっこう背だって標準でいいの」
「けど医者か青年実業家を狙ってんでしょ? それが高望みって辞書に書いてあるけどね?」
「だってえ。どうせ結婚するなら給料は高いほうがいいに決まってるじゃん」
「マユってウソつきだから信用できないわ。ところでさ。あたしちょいとフケるから言いわけしといてね」
「どこへ行くの?」
「市場調査。岡野のあとをつけて戦略を練るの。んじゃたのんだわね」
「はあ。市場調査ねえ」
レナは一方的に告げるとあきれ顔のマユを残してぼくを追ったんだってさ。ずっとのちにマユがレナの一連の行動をぼくに告げ口してくれた。いやーこんな意表をつく展開になるとは思ってもみなかったんだけどねと笑いながらだ。裏の事情を知っているマユがそれならぼくはもっと動転するに決まってるよなあ。
男の子が近所のおばさんと去ったあともぼくが立ちつくしているのをレナは電柱のかげから見ていたそうだ。レナは腹立たしさにとらわれたらしい。どうして誰も男の子を助けてやらなかったのかと。
足をとめたぼくがなにを考えているのかレナは首をひねったんだって。
あいつ。自分が飛び出してたらどうなっただろうなんて考えてんのかな? あの子を抱きかかえて安全な場所へ逃げられたかなんて? 無理無理。きみの運動神経じゃきみごとはね飛ばされてふたりとも死んでたか重症だったはずよ。そんな無茶しちゃだーめ。
レナはぼくの背中にそんなつぶやきを投げたそうだ。
その夜レナはマユとデュエットをしたって。行きつけのカラオケボックスでね。ぼくがレナとマユのたくらみを一から知っているのはマユが結婚祝いにって暴露してくれたせいだ。一連のレナの行動があまりにおもしろかったためにマユは誰かに話したくてうずうずしていたらしい。レナが気を悪くするから関係者以外には打ち明けられずにゆいいつの関係者がぼくってわけ。
歌い疲れてソファに腰を降ろしたレナにマユが訊いた。
「で。どうだったレナ? 岡野オチた?」
「やーねえ。さすがにまだ反応ないわよ。けどありゃ難物みたいね。昼間なんかさあ。男の子がトラックにひかれかかってんのに助けようともしないのよ」
「やーだ。それって最悪ぅ。あたしならそんな男ごめんだわ」
きゃははとマユが軽く笑い飛ばす。
「うーん。でもね。助けに行こうとは思ったみたいよ。ただ足がすくんで動けなかったみたい。絶対に死んだって思った男の子がトラックの下から這い出して来たときすっごい後悔した顔をしてた。まわりにいっぱい人はいたけどそんな顔をしたのは岡野ひとりだったわ。山田なんかまっ先に飛びのいてヘラヘラ笑ってたわよ」
いつもならレナも軽く笑っておしまいなのにめずらしくレナが考えこんでいる。調子が悪いのかしらとマユはレナの顔を見た。レナの顔にいつもの軽さがなかった。
「ならさレナ。あんたはなにをしてたの?」
「あたしは岡野たちに見つからないよう電柱のかげにいたの。あたしの位置からじゃ助けるにもぜんぜんとどかなかったわね」
「要するにあんたも助けに行かなかったのよね? 見殺しにしたんだ」
罪悪感かなとマユは思った。
「だ。だってぇ。信号はまだ赤なのにいきなり車道に飛び出したのよ。ありゃ親のしつけが悪すぎんの。もしひかれてても男の子のがわにも過失ありだわ」
「ふうん。で。岡野ひとりが助けに行こうと考えてたってわけ? でも思うだけじゃあねえ」
「そうよねえ。スーパーマンをやって子どもが助かりゃいいけどふたりとも助からなきゃ喜劇だわ。マユ。あんたそれでも子どもを助けに飛び出す?」
「やーよそんなの。自分の身が可愛いに決まってるじゃん」
「やっぱそうじゃん。よくそれで他人をけなせるわねえ」
「自分をけなしちゃバカだもん」
「それもそっか。けど」
レナとマユは顔を見合わせた。要領のいい男はどこにでも転がっている。けどそんなバカはもう絶滅したんじゃと。