第十七章 ぼくのパンドラの箱
翌日ぼくはすり傷のできたおでこにバンドエイドを貼って出社した。三津谷社長がうちの商品を入れないと決めたらぼくはクビだろう。開発部主任なんてとんでもない。
二課室に入ると係長がぼくから目をそらしてあいさつすらしない。昨夜ハイヤーを降りたあとでヘルプコールを入れときゃよかった。そうすりゃ助けに来なかっただろと係長をせめられたのに。
このままクビにされたんじゃやられぞんだ。三津谷社長の要求どおり土下座をして頭をふまれてなお解雇じゃひどすぎる。
ぼくはふと気づいた。ひどすぎるのがわかっているから係長は目を合わさないんだろうなと。
クビや左遷は係長の意志と関係ない上層部で決定される。どんなに係長がぼくを守ろうとしても無駄なこと。
目をそらすだけの良心は持ち合わせているってわけか。ま。仕方ない。それが会社ってもんだ。
ぼくもちょっとだけ会社ってなにかがわかって来たかな。
ぼくはそこでひとつひらめいた。ぼくの心のパンドラの箱は良心をつめこむ箱だったんじゃないかと。
世間の悪やわざわいじゃなくてぼくが直面したこの世のゆがみに対してそのつど押し殺した良心をほうりこむ箱がパンドラの箱だったんじゃ? 世の中のほうがまちがっている。そう思いつつみんながそうしているからと見て見ぬふりをして来たぼく自身の悪行の数々がつめられていたんじゃないだろうか。
箱をあけないかぎりぼくはみんなと同じ大人で居つづけられた。そのたび箱に押し殺した良心の叫びがつめこまれる。
一生気づかずにすごせばそれはそれ。けど途中で箱に気づいてあければ過去に押し殺して来た良心の痛みを一度に受ける。
そんな痛みにたえうるほど人間は強くない。だからパンドラの箱はあけてはならない?
パンドラの箱にはあらゆる病苦や災難がつまっていたと神話は語る。けど最もタチの悪い厄災は人間の醜い心じゃないか。
病気は時間とともに克服されるけど人の心は永遠に克服されず害悪をもたらしつづける。すべての人が心の中にそれぞれパンドラの箱を持ってそこに押し殺した良心をつめこんでいるから世の中はむちゃくちゃ。
それが悪のつまった厄災の箱って意味じゃないだろうか? ひらくのが厄災ではなく押しこめてしまうのがこの世の厄災では?
自分が見て見ぬふりをした悪行のすべてを目の前に突きつけられて平気な人間はいない。最悪の災難だよなそれ。
一方で良心を押し殺しつづける者は知らず知らずに不満をためるからみたされない。しのぶをいじめた罪悪感がぼくにとって最も大きな押し殺した良心だったらしくその封印をといたからぼくはもう良心を押し殺せなくなった。
それでクビなら仕方ないとぼくは覚悟しつつビクビクしながら過ごした。ぼくのパンドラの箱は空になったものの小心者は変化しないらしい。気分は大幅に軽くなったけど。
結局ぼくはクビにも左遷にもならなかった。主任になって開発部に回されたのは左遷じゃないと思う。
寮にもどったとき山田が三津谷社長の近況を話してくれた。女の子にさわりまくる癖は変わらないが『さわらせろ』じゃなくて『さわっていいか』と訊くようになったらしい。
多少いいほうに向かっているようだ。三津谷社長は会社に告げ口をしてぼくをクビにするより自分の行動を変える選択をしたみたい。
ふられるかもしれないしのぶに告白するためにまかされたばかりの責任者の仕事をほっぽってドイツに行くのが良策かぼくには判断がつかなかった。しのぶはひとりで強く生きて来た。ぼくもせめて一人前の仕事をひとつなしとげたあとでしのぶに告白をしたい。
ぼくはそう考えてドイツ行きはひとまず延期に決めた。本音はふられるのがこわい。
レナの言葉どおりならいいけどレナのかんちがいならぼくはとんだ道化だから。レナじゃないけど本心を言うのは勇気がいる。
ぼくは勇気がほしい。大好きな女の子に好きだと告白できる勇気とまちがった行為にはどんなえらい人にでもまちがっていると言える勇気が。
開発部に出向になったぼくは係長の言葉がまったくのでたらめだったと教えられた。なにが昼寝をしてればいいだ。
会社ってのはそんなに楽をさせてくれる生き物じゃないぞ。こき使うだけこき使いやがる。
ぼくはプロジェクト責任者という名のマルチ雑用係だった。開発部と工場。資材部。営業部。ありとあらゆる連絡と調整。試作品の味見から缶のデザイン。果てはCM作成に至るまで存在するすべての雑用がぼくに押しつけられた。
ひとつの商品を製品化するのにこれだけの手間ひまがかけられているとぼくは知らなかった。ぼくらが売りこんでいる飲料ってすごい裏打ちを持つ商品だったんだ。
しかも管理職の肩書きで残業代は出なくなって残業させられ放題だ。これって出世じゃなく奴隷のまちがいじゃ?
開発部の廊下に置かれた自販機前のソファがぼくのベッドになった。次には資材室の床さえもがベッドと化した。
昼と夜がこま切れに分断されて二時間の昼と三十分の夜が交互におとずれた。日にちの感覚が完全に摩耗した。
ここはどこわたしはだれ状態になっても雑用がぼくを追い回した。商品化に成功する前に死んじゃうよぉと思ったときレナがぼくの前に立ちふさがった。
またおこっていた。仁王さまみたい。こわいぞレナ。
「どうしてこんなところで油を売ってるの岡野くん? さっさとドイツに行ってコクって来るんじゃなかったの?」
ぼくはよれよれでレナに口答えをするどころじゃなかった。
「そ。そんなこと言うけど」
「言いわけなんか聞きたくなーい! きみ恋人より仕事が大事なの? あたしそんなきみを好きになったおぼえはない! いつまでも女を待たすな! 待たせてるやつより待つほうがつらいんだぞ!」
「で。でも」
「意気地なしっ! 卑怯者っ! タマなしっ!」
「タ? タマなし? そ? そんな過激な表現をしていいの? 井坂さんは清純派だろ?」
「きみの前じゃ清純派じゃないもん。ただの恋する乙女だもん。遠い国できみを待ってるしのぶさんの身になってやれよ! ひとりぼっちの女なんて強いもんじゃないぞ! 悪い男に引っかかったらどうすんだ! いいかげんにしろよ岡野!」
ぼくはレナの目を見た。涙があとからあとからあふれてレナの頬をつたっていた。
「どうして? なんで泣くわけきみが?」
「女は誰だって泣いちゃうの! 遠い異国で大好きな男をひとり待つ女の気持ちになったらね! 待ってる男がこんなバカだと知ったらもっと泣けちゃう! 女を泣かす男なんかさいってーだ! 見そこなったよ岡野! きみなんか死んじゃえ!」
レナが子どもみたいに泣きじゃくりながら走り去ってぼくは途方に暮れた。ぼくの判断はまちがっていたのか?
仕事ひとつ達成できない男に告白する資格はないとふんだのに。勇気がないのもだけど。
ぼくは疲れに一気にのしかかられて打ちのめされた。レナに会うたびぼくは落ちこむらしい。
レナはぼくの鏡か? ぼくの目のとどかない部分をレナはぼくに見せてくれる。
それもぼくが見たくないと日ごろかくしているものばかりだ。レナがぼくを好きだってのもガンと来た。なにか魂胆があってぼくに近づいていると考えていたのに。ぼくには他人の心が理解できないのか?
ぼくって空回りばかりだ。なにもかもちぐはぐでかみ合わない。
ぼくがしのぶと仕事のどちらを優先するかふたたび悩みはじめたとき突然それはやって来た。試作品が完成して工場ラインの月産稼働わりこみの調整がついてぼくは三十分の眠りに抱かれた。
気がつくと橋本係長がぼくを見降ろしていた。
「どうしたんです係長? こんなところに?」
部門ちがいの係長がわざわざ資材室に足をはこぶのは異例だ。係長が怒鳴るでも笑うでもない複雑な顔をぼくに向けた。係長のこんな顔を見るのは初めてだった。
「なにがあったんですいったい?」
ぼくは不安に駆られてガバッと身を起こした。
「言いにくいんだがな岡野。今回のプロジェクト中止になった」
「中止? どうしてです? 社長も賛成してくれてやっと工場のライン調整も終わったんですよ? CMの手配だって三社から案を出してもらってます。製品に支障でも見つかったんですか?」
「いや。そうじゃない。あれが人体に危険なら市販のコーヒーゼリーはすべて危ない。ただ」
「ただ?」
「ただ。その」
係長の歯切れが悪い。『単純明快・瞬間湯沸かし器』が係長の通り名だ。簡単なトラブルじゃないらしい。
「なにがあったんです? はっきり言ってくださいよ?」
「えーとそのなあ。おまえ企画室長って知ってるか? 企画部を統括する?」
「副社長でしょう? 次期社長ってうわさの?」
「その副社長があれに猛反対しはじめたんだ」
「どうしてです? なにか問題があるんですかあれ?」
使っている材料はどれも安全なものばかりだ。採算性も工場の負担もオールグリーンだった。広告費は一時的にはねあがるが新製品を出すときは必要な経費だ。
「あれそのものに問題はない。コーヒーゼリーのうすいやつだからあらゆる食品法にふれん。わが社の。ああ。やっぱりおれの口からは言えん。営業部長に直接聞いてくれ」
係長はぼくを営業部長に回した。営業部長はハッハッハッと笑って『あれは中止だ』と口にした。
ぼくにはなにがなにやらわからない。営業部長に食いさがっても高笑いだけで要領をえなかった。
笑顔部長のあだ名はだてじゃないらしい。なんなのさとぼくは開発室の先輩にも聞いてみたが理由は不明だった。
みんな『上から中止命令が出た』としか言わない。ただ製品に問題があっての中止じゃないと誰もが口をそろえた。
けどそれはいっそうぼくの怒りと疑惑を深めるだけだった。あたれば業界全体を引っ張る新製品と誰もがほめてくれたのにどうして製品上の欠陥ではなくボツに?
ぼくが調べを進めるにつれて社全体がぼくに冷淡になりはじめた。あれはもう終わったんだ。終わったものをほじくり返すなと上の人ほど眉をひそめた。
どういうわけだ? どんな理由であそこまで進めたプロジェクトがとつぜん取りやめになったんだろ?
ぼくの疑惑はますますふくらんだ。国家的陰謀にまきこまれた新聞記者になった気がした。B級アメリカ映画によくあるパターンだ。
けどぼくがどんなに必死になっても真相はつかめなかった。ぼくは主役じゃないらしい。
ぼくはまた元の営業二課にもどされた。そのときふとひらめいた。レナをつかまえようと。
ぼくは非常階段をのぼるレナを下からつかみとめた。レナがぼくをふりはらった。
「きみの顔なんか見たくない! あたしにつきまとわないで岡野くん! きみなんかもう他人よ!」
「もともと他人じゃないか。ぼくはきみの手をにぎったこともキスしたこともないんだぜ」
レナが足をとめて階段の下にいるぼくをにらんだ。
「誰が手をにぎってなんてたのんだ? キスしてなんて告白してないわあたし」
レナの目にまた涙が浮いた。
「ごめん」
ぼくはレナに背を向けて階段をくだる。なぜかはわからないけどレナは本当にぼくが好きらしい。その気持ちにこたえず悪用だけしようなんてぼくは卑劣だ。自分の行動がいやになった。
階段を降りるぼくのシャツを今度はレナが追いついて引いた。
「待ってよ。あたしになんの用? 考えてみりゃきみから声をかけてくれるのって初めてよね。なにか妙なたのみでしょ? これで最後でいいなら聞いたげる。あたしこれ以上きみをきらいになりたくないから泣きたくなるたのみはしないでね」
「きみのコネがある専務に会わせてほしい。事業本部長だったろ?」
「会ってどうするの?」
「わけが知りたい。ぼくだけじゃないんだ。開発部から工場に資材部までまきこんだプロジェクトがなぜとつぜん中止か現場の人間は誰も理由を知らなかった。これじゃ納得できない」
レナが不機嫌に眉を寄せた。
「仕事仕事仕事。男ってなんでそう? 仕事に命をかけても女に命はかけないわけ? キスしてくれくらい言ってよきみ。ま。いいわ。たのんだげる。でもこれがきみと会う最後よ。社内で会ってももう声をかけないでね」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあたしがきみをまだ。こらあ。なにを言わせんのよ! いくらあたしがきみに惚れててもきみはあたしなんかこれっぽっちも眼中にないじゃんか! そんなんで声をかけられちゃあたし泣いちゃうもん。あっ。告白しちゃった」
われに帰ったレナがあわてて口を押さえた。
「ぼくを好きだっての内緒だったんだ。じゃ聞かなかったことにする」
このあいだのは気づいてないらしい。
「こら。それも悲しいぞ岡野。さっさとドイツに行ってしのぶさんにふられろ。そのあと失恋の傷をかかえてあたしと結婚しろ。ならゆるしてやる。ちゃんとなぐさめてもやる」
「あのう。もしぼくがふられなかったらぼくはどうすればいいわけ?」
「そのときはあたしに口をきかないで。失恋の傷がうずくから顔も合わせちゃや」
「わかったそうする」
「おーい。そんなにあっさり承諾しちゃやだ。結婚してもあたしと不倫しよ。ねっ?」
「どっちにすりゃいいんだよぼく?」
「あたしにだってわかんない。きみと一緒にいたいけどきみが好きになってくれなきゃ悲しいんだもん。顔すら見たくないのに離れたくないって思ってるの。あたしもどうすりゃいいの?」
「むずかしいね男と女って」
「そうね。なんかあたし初恋だそうよ。これまでいろんな男を引っかけてポイすてにして来たけどきみだけは別。さんざんスレたあとに初恋が来るなんてバカみたいねあたし」
ニコッと笑った顔にいつものグラビア的な仮面は貼りついてなかった。素の笑顔のが可愛いんじゃない?
「初恋か。ぼくもこの歳になって初恋に悩まされてるよ」
「バカはおたがいさまってか。波長が合うなぁあたしたち。ほんとにしのぶさんとうまく行っても行かなくてもあたしをすてないで。不倫でも愛人でもいいからきみのそばにいたい」
「そ? それって本気?」
「半分ね。でもきみってバカだからそんな器用なまねはできないなきっと。あたしきみのそのバカが好きみたい。だからあたしなんか気にしないできみはバカなまま生きろ」
「ほめられてるのかけなされてるのかわからないんだけど?」
「あたしもほめてるのかけなしてるのかわかんない。けどこれだけはたしか。きみの駆け引きのなさが好き。素直なきみが大好きよ。自分をかざったりよく見せたりなんてしちゃや。きみは純粋さが可愛い」
「うーんほめられてるとは思えない。ぼくを単純バカだと思ってない?」
「思ってるに決まってる。女心がわかんない天然さがだーい好き。愛してるわ。んじゃ。あたし仕事があるから。専務に連絡がついたら知らせるわね」
レナが階段をのぼってぼくは降りた。階段をのぼり切ったところで腕組みをしたマユがレナを待っていたそうだ。
「あの賭けどうするのレナ? あたしの勝ちでいい?」
「バカおっしゃい。これからよ。たしか条件は岡野をオトせばだったわよね? 結婚しろじゃなかったわよね? 不倫でもいいのよね? ベッドインまで行かなくても岡野をその気にさせればいいのよね?」
「ま。そうね。いつもレナの自己申告まかせだからあんたがオトしたと実感すりゃあんたの勝ちよ」
「もし岡野がしのぶさんとうまく行ってもキスくらいはねだろうかなって思ってるの。それでもあたしの勝ち?」
「無理やりにくちびるをうばうんじゃなきゃそうかも」
「やったね楽勝じゃん。あたしあいつが大好きだもん。キスだけならきっとしてくれるわ」
「さっきコクってたもんね。あんたから男に告白するの初めて聞いた」
「ええーっ。あれ聞いてたのマユ? やっだー。超はずいっ!」
「まあ顔をまっ赤に染めちゃって。そんなあんたを見てるあたしが超はずかしいわ。たしかにメロメロのトロトロにくだけてるわねえ」
恋に狂った女にゃ勝てないなあとマユはあきれると同時にうらやましいと思ったって。いつもの作り笑顔以上のかがやきがレナの顔にあったとさ。