第十六章 カネならあるぞほれほれ
その夜以来レナとの会話がぼくの耳にこびりついて離れなくなった。しのぶがぼくを慕ってくれているなんて信じられない。
けどぼく自身しのぶといたときにずいぶんとぎこちなかった。初恋の思い出以上に現実のしのぶに恋をしたみたい。
どんなに言いたかったろうか。きみが好きだ。愛してるんだって。
ぼくは思いきってそう言えばよかったんだろうか? 結局ぼくがしたのは逃げてばかりごまかしてばかりだった。しのぶはぼくに真剣に向き合ってくれたのにぼくはしのぶの目さえ満足に見られなかった。
ぼくはそう考えてハッとした。ぼくのゆううつはぼく自身がぼくをせめてるんだと。
勇気のないぼくを誰がせめるわけでもないがぼく自身がゆるせないんだ。しのぶはこれまでの人生をひとりで突っ張って生きて来たみたいだ。
逃げたりごまかしたりではとっくに挫折していたろう。ぼくは泣き虫だけど男でありたい。しのぶに負けない男でありたい。ちゃかしたりごまかしたりしてヘラヘラ笑ってる男なんていやだ。
レナの忠告もだけどぼくは自分で決めた。もう一度しのぶに会おう。会って今度こそきみが好きだ愛してるって言うんだ。あのころのきみじゃなくいまのきみが好きだと。
ぼくはかためた意志で係長の机の前に立った。再度休暇を申請するために。
「おおっ。岡野よろこべ。おまえ例のダイエットコーヒーのプロジェクト責任者にえらばれたぞ。肩書きは開発部主任だ。やったな大出世だぞ。新製品の発売に向けていそがしくなるぞぉ」
「えっ。あ。あのう係長」
「大丈夫だ。心配は無用。フォローしてくれるのは全員ベテランばかりだ。お前は昼寝してたって製品は完成する」
「そ? それならなぜぼくが?」
「親心だ。製品発案者をシカトするほどうちの社は薄情じゃない。ヒラ社員だってそれなりに優遇する。製品の売れ行き次第では特別ボーナスも出るし出世も早いぞ。二日か三日のうちに正式な開発部への出向辞令が出るはずだ。新製品が大あたりすれば今夜が最後の接待になるかもな。あしたはお前の歓送会だ。おーいみんな。あす岡野の送り出し会をやるぞぉ。準備しといてくれよな!」
係長が二課中に声をかけた。ぼくは休暇ねがいを切り出すどころじゃなくなった。
あわただしいうちに日が暮れた。
よりにもよって最後かもしれないその接待は三津谷社長だった。いくらお得意さまでもあそこまで傍若無人だともはや犯罪だと思う。誰かあいつを業務上強要で告訴してくれないものか。
ぼくと係長と山田はそんな思いをかかえて三津谷社長とクラブにくり出した。あいかわらず三津谷社長はさわらせろと女の子たちにセクハラな要求を突きつけるわ札びらを切るわでやりたい放題だ。
二軒目に回ろうってときに三津谷社長は酔いで赤くなったぼくの頬からあのミサって女の子を思い出したらしい。あの子の店へ行こうと言い出した。
てっきりもう辞めているとふんだミサはまだ店にいて三津谷社長の顔を見るなり卒倒しそうな顔色になった。三津谷社長はそのおびえた顔がおもしろいらしくミサにこっちへ来いと命令した。ミサが尻ごみしてあとずさる。
「早く来んか! カネならいっぱいあるぞほれほれ」
札束で頬を張ると言うが実際に見たのは初めてだ。
いやあ。いやいやっとミサが悲鳴をあげる。
山田なら札束で頬を張られるとうれしい悲鳴だろうなあ。山田の身体をさわってもおもしろくないに決まってるけど。
「おいお前ら。またこいつを押さえつけろ。こんな客商売のイロハも知らんバカ女はわしがこってり教育をほどこしてやる!」
いえ社長それはこってりな教育じゃなくこてこての痴漢行為です。
三津谷社長がぼくらに命令して係長と山田はミサの手足にへばりついた。
ぼくは意を決して口をひらいた。
「ねえ社長。お客さまは神さまだぞってあなたのコンビニの女店員に客が抱きついたらあなたはどうします?」
三津谷社長はぼくがなにを言い出したのか最初はわからなかったみたいだ。けど気を取り直してすぐに答えを返して来た。こういう機敏な反応だけを見ると敏腕経営者なのに。
「お前。わしに意見をしたいのか? だがなコンビニの店員は物を売るだけだ。おさわりは売らん。こういう店の女は肉体がいくらだ。サービスの質がそもそもちがう。さわられてこいつらはカネをかせぐんだ。そんな簡単な道理もわからんのかお前?」
三津谷社長が不敵に笑った。若造がという顔だった。
ぼくもいったん口を切ったからには引くつもりはなかった。
「社長。女の子がいやがったらもう商取引じゃありません。セクハラです。おカネをはらえばすべてがゆるされるなんて商売はありませんよ。いやがってる女の子を無理やり抱きしめるのは規則違反です。どんな仕事にだってルールはあるでしょう? 社長ルールは守りましょうよ」
ミサがありがとうという目でぼくを見た。係長たちやほかの女の子たちやママは『お前ら勝手にやってくれ』とそっぽを向いて知らん顔だ。かかわり合いになりたくないのだろう。
味方がひとりもいなくなって旗色が悪くなった三津谷社長は激昂して伝家の宝刀をぬいた。子どもみたいな人だ。
「う! うるさい! お! お前んとこの商品は入れてやらん! これ以上わしに説教するなら今後お前の社は出入り禁止だ! そうなっても平気か橋本! まずいならこいつに謝罪させろ!」
名指しされた係長は知らん顔の呪縛がとけてぼくの首をつかんだ。
「は。はい。こら岡野さっさとあやまれ。土下座しろ土下座!」
係長がぼくの首をフロアに押しつけた。ぼくは抵抗すべきかあやまるべきか決めかねた。山田はすでに土下座してひたいを絨毯にすりつけている。一種の条件反射だ。
「社長。それでいいんですか?」
ぼくは最後のひと声をかけてみた。係長に首ねっこを押さえられながらも膝をおらずに。
「おい岡野。それでいいとはどういう意味だ? お前があやまればすべてゆるしてやる。これまでどおり商品も入れてやると言っとるんだ。ははーんそうか。そんなにわしに頭をさげるのがいやか。そうなんだな?」
「そうじゃありません。頭くらいいくらでもさげますよ」
ぼくはサッと膝をつくとひたいを床にこすりつけた。営業部に配属が決まったとき毎日これをやらされた。最初は抵抗があったけど罰の腕立て伏せがつらいとわかってからは抵抗がなくなった。ぼくらにとって土下座は屈辱じゃなくただのあそびだ。おでえかんさまゆるしてくだせえとみんなでふざけ合うゲームにすぎない。
三津谷社長がポカンとぼくを見つめた。
「でも社長。これで終わりにしていいんですか? ぼくらが土下座したって社長が女の子たちからきらわれてるのに変わりはないんですよ? 女の子に好かれるほうが気持ちいいんじゃないですか? あなたはお客さまの心をつかむのが非常にうまい。なのにどうしてここの女の子たちの心をつかもうとしないんです? おカネを落とすからには傍若無人なふるまいをしなきゃそんだと思ってるからでしょう? 自分は客だからなにしてもゆるされると。それできらわれたんじゃどうしようもないじゃないですか。おカネをはらったってここにいる女の子たちは人間ですよ。人として最低限のルールは守るべきです。でないとあなたはどこの店に行ってもきらわれる」
「うるさい! 若僧が生意気な口をたたくな! この! この!」
三津谷社長がぼくの頭をふみつけた。ぼくはひたすら耐えるだけだ。けられるより痛くないと思うけど涙がポロポロとこぼれ落ちた。
痛みよりくやしさ。くやしさよりわかってもらえない悲しみがぼくをしめつけた。ぼくはまちがったことを口にしてないぞ。
「くだらん! 帰るぞ橋本!」
ふみつけ疲れたのか三津谷社長が店を出る音が聞こえてぼくは顔をあげた。山田と係長がドアをささえて外に出た三津谷社長の背中を見送っていた。
立とうと膝を起こしたぼくに係長が『お前は来るな。あっち行け。シッシッ』と犬でも追っぱらうように手をふった。
「おい岡野! 帰るぞ! さっさと来い!」
三津谷社長が店の外からぼくを呼んだ。まだふみつけ足りないらしい。
立ちあがったぼくに店の女の子やママが顔をそむけた。三津谷社長のふるまいは迷惑千万だけどぼくの差し出口も閉口ものだったようだ。
わがままオヤジに正論をぶつけるなんて大人げない。笑って受け流すのが大人ってものよボーヤ。
そんなこわばった笑みがママの頬に貼りついていた。ミサだけがぼくの涙をおしぼりでぬぐって感謝をあらわしてくれた。
けどミサはこの店のはみ出し者で世間から見ると少数派だろう。みんなの基準からするとぼくの行為は社会人失格ってわけだ。
それでもぼくは誇らしい気になれた。ミサがぼくに笑いかけて加西香織と印刷されたプライベート用の名刺をくれたから。
自分の行動が誰かの胸にとどくっていいものだ。
店を出たぼくを三津谷社長が指でまねいた。先にハイヤーに乗りこみドアをあけたままで。
「乗れ。今度はわしが説教をしてやる」
じゃあとかたわらで見送る体勢でいた係長が乗りこもうとした。
「お前らはいらん。岡野だけだ」
係長と山田がぼくに顔を向けた。人身御供を見る目がぼくに突き刺さった。
三津谷社長が早くしろとぼくに手まねきをした。仕方なくぼくは三津谷社長の横に身体を入れた。
乗りこむとき『まさか殺されはしないだろうが危なくなったら連絡をしろ』と係長がぼくに耳打ちをくれた。連絡したって助けてはくれないんだろと思ったが素直にうなずいた。気持ちだけもらっとこうと。
ぼくが席にすわると三津谷社長が車を出させた。ネオン街のはずれで信号に引っかかった。三津谷社長が前を見たままブスッと問いを吐き出した。
「岡野。おまえ家はどこだ?」
「社員寮に入ってます」
「ならそこだ。そこにやれ」
車が寮に向けて走りはじめる。三津谷社長は説教してやると言ったわりに口をひらかない。どういうつもりか?
ぼくははかりかねて三津谷社長の目を見た。好きな女の子じゃなくて残念だけどレナの指摘をためしてみる。
商談でも相手の本音を知るのに目だけを観察するのはいい手かもしれない。三津谷社長の目玉はためらうよう右に左にゆれて落ち着かなかった。
三津谷社長が口を切らないのでぼくがひらく。
「あやまってくれないんですか?」
「なぜわしがあやまらねばならん?」
三津谷社長が前方に固定した顔を動かさず答えた。前を見ているふりをつくろっているけど視線はゆらいだままだ。
「頭をふむのはやりすぎじゃないですか?」
「やりすぎは認める。が。わしはあやまらんぞ。どうしてお前ごときにこのわしがあやまらねばならん? わしがひと声かけるだけで日本中のコンビニの五分の一が動くんだぞ?」
「じゃ説教は? ご指導はどうなりました社長? 生意気な若造に世の中を教えてくれるんじゃなかったんですか?」
「口の達者ないまどきの若いのにほどこすさとしなどありゃせん。千倍になってもどって来るだけだ。そのくせたったひとつとして自分の考えなど持っとりゃせん。お前ら若造は借り物ばかりだ。そんなやつらにあやまる必要など金輪際ない! くやしかったら自分で考えた答えを突きつけてみろ!」
三津谷社長が右の窓に顔をそらせてぼくから完全に目をはずした。
「あやまらないと言い張ってるわりには不安そうですね? 気持ちがゆれてる」
強硬にあやまらないと突っぱねているのはぼくを説得するためじゃなく自分に言い聞かせてるんじゃ?
つまりあやまる必要があると感じているのだろう。子どもと同じであやまる必要は感じてもあやまれないしあやまりたくない。あやまらなきゃと思いつつなんでぼくがあやまるんだよぉと反発する意識が強いのだろう。口をひらく決断がつかないでゆれてるんだきっと。
三津谷社長が自分の気持ちを見つめるのを恐れたらしく質問で返して来た。
「岡野。どうしてお前わしをいさめた? 廃課にされてもよかったのか?」
「それはこまります。けどあのままじゃ女の子たち。いえ。社長自身が一番不満じゃないんですか? 接待ってお得意さまの機嫌を取ってるだけじゃだめでしょう? お得意さまによろこんでもらわなきゃ。社長自身が楽しめるようにするにはあれしかないとぼくは思いましたけど? おカネで女の子にモテたってその場しのぎじゃないですか。せっかく人の心をつかむノウハウを持ってるのにそれをいかさない手はないと」
「この野郎! わしに能書きをたれるなんて百年早いぞきさまっ!」
三津谷社長がぼくに向いて右手をふりあげた。なぐられると思った。けどびくついているのをさとられたくなかったので左手をポケットに入れただけであえて動かなかった。
もう逃げたくなかった。弱虫になるよりなぐられたほうがしのぶに笑われずにすむ。
ぼくは天使の壺をてのひらでつつんで痛みを覚悟した。
「ふふっ。いい度胸だ。はっはっはっ」
とつぜん社長が笑い出して車は社員寮にすべりこんだ。ぼくは降ろされてドアを閉めたハイヤーが発車する。
ふう。なぐられなくてよかった。
ぼくはホッとしながら走り去るハイヤーのテールランプに目をすえた。内心ビクビクものだったぼくは安堵したとたん足がガタガタとふるえはじめた。こんな姿を三津谷社長に見られなくてよかったとその場にへたりこんだ。
やっぱりぼくって弱虫だ。しのぶに笑われるかな?