第十五章 レナのガンガン恋愛相談ぜめ
ぼくにいつもの生活がもどって来た。朝は苦労してネクタイをしめる。昼は得意先に頭をさげに回る。夜は飲めない酒を無理やりあおる。そんな生活が。
けどなれ親しんだはずの日常がぼくにはむなしくてたまらなかった。つらく感じるたびにぼくはしのぶがくれた天使の壺をにぎりしめた。
ぼくはたえずその壺を左ポケットに持って指でさぐっては安心するくせがついた。
そんな中また三津谷社長の接待が入った。ぼくは業務命令で三津谷社長の馬にされて社長を乗せて店中を這わされた。
もういやだ! あのオヤジ!
ぼくはとどめを刺されたように落ちこんだ。
それでもぼくは毎日会社に足をはこぶ。なにをやっているんだろうと焦燥感を抱きつつ一日の業務を機械的にこなした。単調な日々となれの生活が流れてよどんだ。目的が見つけられず行動にもうつせない日々が。
来年の戦略をどうするかの会議が終わって二課室にもどるぼくをレナが呼びとめた。
「岡野くん。ドイツに行って来たんでしょ? 結果を聞かせてよ」
「えっ。うん。いいよ」
「じゃ今度はこの店で午後七時ね」
レナがぼくにメモを押しつけた。
退社後ぼくはレナの指定したバーのドアを押した。ぼくは酒もだめだけど酒場ってきらいなんだよな。いやな思い出しかないから。
三津谷社長の最初の接待ではミサにひっぱたかれた。このあいだは社長の馬だ。たいていのお得意さまは一気飲みをあおる。ひどいときには裸踊りまでさせられる。男の裸を売り物にするなんてどんなコーヒー会社だよいったい?
店に入るとレナがカウンターでカクテルをなめていた。マユは帽子とサングラスで変装してボックス席にいたそうだ。でもぼくはマユだと気づけなかった。アブナイお姉さんがいるなと思っただけだ。
レナのとなりに腰を降ろして水割りと注文するとレナがエッと目をむいた。
「岡野くん。お酒はだめなんじゃなかったの?」
「こないだまではね。でもいまはそんな気分なんだ」
バーテンがさし出すグラスをぼくは一息で飲み干して空のグラスをバーテンにもどした。
「おかわり」
「だめよ岡野くん。そんなむちゃな飲み方をしちゃ」
レナがバーテンに目くばせしておかわりを取り消させた。
「ねえどうなってるの岡野くん? ドイツでなにがあったのよ?」
「ほっといてくれよ! 酒でも飲まなきゃやってられないんだ! おかわり!」
レナがうすくねとバーテンに指示した。
「ふられたの?」
「ううん。ちがう」
しのぶの件だけじゃなく会社そのものがいやになっていた。三津谷社長がいつもあんななら誰もが接待をいやがって下っぱに押しつけるのもわかる気がした。あの社長はコンビニの客や社員にはいい社長だと聞くがそれもどうだか。
レナが心配顔を作ってぼくの顔をのぞきこんだ。以前に見たレナと表情がちがう気がした。グラビア美女の型にはまった営業顔じゃないみたい。気のせいかな?
「しのぶさんに会えなかったの?」
「いや。会えた」
「ならどうして落ちこんでるのよ? そうか。告白ができなかったのね?」
ぼくは無言でうなずいた。女の子に仕事の愚痴は言いたくない。みじめな恋の話なら聞かせてやるよという心境だった。
眉を寄せていたレナの顔が一転してほころぶのをぼくは見た。
そんなにぼくの恋がうまく行かないのがうれしいのか? この野郎?
でもほんのちょっと気持ちが軽くなった。女の子といるとたのしいってこういう現象なんだとぼくは知った。
レナがにっこり笑ってぼくの肩に手を乗せた。
「ほらほら。うじうじ悩まないの。新入社員一可愛いレナちゃんが聞いてあげっからさ。話してごらんよきみ。悪いようにはしないからさ」
こいつーと思いつつもぼくはレナの言葉に寄りかかって話しはじめた。誰かにとーっても打ち明けたい気分になっていたから。
三津谷社長は一時的に頭から消えた。女の子が恋愛話をしたがるのはいやな思いを忘れられるせいらしい。
ぼくは今回のしのぶとの会話の一切を思い出せるかぎり詳細に再現した。いちいちうなずくレナのうれしげな顔がにくらしかった。
「そう。そんなふうだったの。岡野くん。ずいぶん酷な仕打ちをしたわね」
「やっぱり? いじめはよくないよな。いくら好きになったのを図星されて照れたからって」
「ああちがうちがう。小学校時代にいじめた件を言ってんじゃないわよ。それじゃないの」
「じゃなんだよ?」
「女心って複雑なのよねえ。ドイツで会ってすぐしのぶさんは岡野くんの顔を見てていねいな言葉をつかったって言ったでしょ?」
「ああそれが?」
「次にしのぶさんの態度がけわしくなったのは森崎って委員長の名前が出たとき」
「うん。きっといやな思い出なんだろうな。森崎ってやるからには徹底するタチだからさ。しのぶの中で特に印象に残ってるんじゃないかな?」
「ちがうわよ岡野くん。そうじゃない。それきみのかんちがい」
えっとぼくは疑惑のまなざしでレナをにらみつけた。
「あのねえ井坂さん。どうして一度も会ってないきみがしのぶの気持ちをわかるわけ? ひょっとしてぼくをからかってあそんでるの? 社の連中もかくれてて聞き耳を立ててるんじゃないだろうな?」
ぼくは疑心暗鬼にかられて周囲を見回した。あわてたマユが首をすくめてかがみこむ。
レナがふくみ笑いでぼくに目を流した。
「むふふ。バカねえ。きみをからかうんならとっくにキスしてるわ。そのほうがきみドキマギするでしょ?」
「た。たしかに」
ぼくはまだ女の子とキスをした経験がない。レナが胸を張って人さし指を立てた。
「えっへん。あたしはね。きみより若いけど恋愛のエキスパートなの。食った男は星の数よ。唄った歌は一万有余なの。女心は女にしかわからない。このレナさまにかかれば女心を読むなんてお茶の子サラサラよ」
ぼくはいちおう突っこんでみた。レナが期待顔をぼくに向けたから。
「あのうお茶の子はサイサイ。サラサラはお茶づけじゃ?」
待ってましたとレナがぼくの肩をたたいた。年末の忘年会はレナとのコンビ漫才か?
「男が女の言いまちがいに目くじらを立てるんじゃなーい。そんなみみっちい男はふられるぞ。男はどっしりかまえてこそ男よ。サイサイでもサラサラでも簡単に流しこめるのには変わりなーい。でしょ?」
「です」
ぼくの答えにレナが満足げにうなずく。かくし芸の打ち合わせは終了らしい。
「よろしい。よくできましたいい子いい子。だいたいさ。小学生時代にいじめられたのを十年以上も根に持ってる人間ならきみ会った瞬間に絞め殺されてるって」
「そ? そんなものかい?」
「うん。まちがいなく死んでる。よくあるのよそのパターン。だからしのぶさんは根に持ってない。以上証明終わり。つまりね。最初しのぶさんが他人行儀だったのはすごくうれしくてとまどったからよ。きみにどんな態度を取るべきかわからなかったんだわ」
「えっ? そうなの?」
「はいそうです。だって初恋の男の子が突然あらわれたのよ? なにを言っていいのかあたふたするじゃん。でしょう?」
「うーん。それってぼくの感想なんだけど」
「しのぶさんもいっしょだっつーの。会ってしばらくきみと目を合わさなかったのは心の準備がまったくできてなかったせいよ。いきなり大好きよなんて告白できないもんね。次に泣き出したのはうれしかったんだわ。異国で孤独に生きて来た自分をずっと気にかけてくれてた人がいる。そんなのってうれしいじゃない。ねっ?」
「じゃ酷な仕打ちってなに? きみはさっきぼくがしのぶに残酷なあつかいをしたって指摘しただろ? ぼく今度の旅ではしのぶになにもしてないよ? すくなくとも気にさわる行為は皆無だったと断言できる」
レナがぼくをにらんで人さし指を突きつけた。ぼくは地雷をふんだようだ。
「それそれ。それよそれ。まさにそれ。なーにが『気にさわってないと断言できる』よ愚か者! 気にさわりまくってるじゃんか。きみ女の敵よ。なにもしてくれないのが女には最も残酷な仕打ちなの! なにもしてくれないよりひどいあつかいなんて女にはないわ。つらいよねえ。キスもしなかったんでしょうきみ?」
「キ! キスなんかするわけないじゃないか!」
ぼくはうろたえて立ちあがった。店中の客が息をとめた。目玉がぼくに集中する。レナも目を丸くした。ぼくが腰を降ろすと客たちがまた自分たちの話題にもどった。
レナが口をひらいた。
「あら。キスくらいしてあげなよ」
「ど? どうして? なんでぼくがしのぶにキスを?」
ぼくはつとめて声をおさえた。店の客たちの視線がこわい。
「だってしのぶさんはきみに特別な感情を抱いてるもの。やっぱそういうときって抱きしめてほしいしキスだって。ねえ」
レナの問いかけにボックス席の背もたれに身をひそめて聞いているマユがうんうん。
ぼくは不信顔でたずね返した。
「そ? そうなの?」
「そうに決まってる。ずぇーったいそう! きみってしのぶさんの白馬の王子さまだもん。そんなきみがわざわざ遠い道のりをやって来てくれたのよ? 女なら誰だってよろこぶわ。それをなに? 開口一番で別の女の名前を口にしたんでしょ。この人でなし!」
「人でなし? 人でなしはないんじゃない?」
「だって人でなしだもん。デートの最中にほかの女の名を出すな!」
「デートじゃないったら!」
われを忘れたぼくがレナに怒鳴り返したときバーテンがぼくとレナの間に手をさし入れた。
「お客さま。痴話喧嘩はすこしトーンダウンねがえますか。ほかのお客さまのご迷惑かと」
バーテンが目だけで店内を示す。迷惑と言うよりいい見世物だった。ぼくが見回すと狭い店中の視線はすべてぼくとレナに釘づけになっていた。ぼくが声を落とすともっとやってとがっかりした顔がそこここにあらわれた。娯楽に飢えているらしい。
そんなに痴話喧嘩が見たけりゃレンタルビデオ店に行け。いくらでもそれっぽいのを貸してくれるぞ。
一方ただひとり顔をそむけるのに懸命だった女性客がマユだとぼくは気づけなかった。店内でまで帽子にサングラスなんだもの。挙動不審な客がいるなとは感じていたんだけど。
レナがマユを発見されちゃまずいとぼくの耳を指で引いた。
「ねえねえきみきみ。じゃあね。デートってなーんだ? 男の子と女の子がふたり仲よく人魚姫を見て遊園地でジェットコースターにとなり合わせで乗って異国の夜をふたりっきりで散策する。第三者がそれを見てどう名づける? 誰がなんと言おうとそれってデートです。裁判になってもまちがいなくそう認定されます。もしちがうと言い張るのなら結婚詐欺と断罪されても仕方がありません。ご異議がございますか岡野弁護人?」
「あ。ありません」
「よろしい。では審理をつづけましょう。とにかくね。大好きな男の口からほかの女の名前を聞きたくないのが女ってものなの。しのぶさん失望したんだと思うなあ。せっかくきみとあまい会話をしようと身がまえたところにきみの口から森崎って女の名前ばかりが出たから。出会い頭にカウンターをくらったボクサーみたいなものね。それでおこった口調になったのよ。痛すぎるものそれ。いちいち痛いわよそれ。ゴングが鳴った直後にストレートが連打で入ったのよねえ。反撃されて当然だわ。きみってしのぶさんの思い出話じゃなく森崎って女の行状のみを口にしたんでしょ?」
「う。うん。たしかに森崎がああしたこうしたって。だ。だってしのぶとは十年以上会ってなかったし小学校時代もつき合いはなかったんだぜ? イチゴをあげたときくらいだよ個別に会ったのって」
「そんなのは言いわけになりまっせーん。なんで大好きな女の子を話題にしないの? この経験不足男は? デートの最中にほかの女の話ばかりのひょうろくだまは確実にふられるわね。ろくでなし。よく張り倒されなかったものだわ。低能。しのぶさんって自制心が強いんだ。痴れ者。あたしならとっくに席をけってる。この唐変木!」
自分の身にふりかかったわけでもないのにレナは腹が立つようだった。あとで聞いたところレナはこう思っていたって。考えてみりゃこいつあたしといるときにあたしを話のタネにしたのは一度もないぞ? どうしてこんなやつの相談に乗ってやってんだあたし? ちっとはあたしの心情もおしはかれよバカと自分に重ねていたそうだ。
ぼくは気にかかる点をふと思い出してレナにたずねてみた。
「じゃあさ。列車の中でしのぶがうれしいような落胆したような顔をしたのはなぜ? ぼくが小学校のころと変わってないって言ったんだ。いくらなんでも小学生じゃないぞぼく。高校生くらいには成長してると思うんだ」
レナが哀れみをたたえた顔をぼくに向けた。かわいそうとしかぼくには読めない。
ぼくって同情されてる?
レナが肩をすくめた。あきれはてましたと。
「それはそのまんまだと思うわ。きみが大人になってないって意味よ」
「ぼくもう大人だよ?」
「ううん。きみまだ小学生。だって男としての下心がゼロだもん。スカートの女の子が脚立に立ったら男ならチラッとはのぞくものよ。きみその手の下心が欠けてるでしょ? 女も二十四歳になりゃちょっとはそういう下心で接してもらわなきゃつらいのよ。下心全開はやだけどさ。小学生なみの男女交際じゃやってらんないのよね。キスもされたいし身体にもさわってもらいたいし抱きしめてほしいともねがってるの。初恋の男が小学校当時とまったく変わらず目の前にあらわれりゃ女は複雑な気持ちになるわ。変わってないのはこのましいけど男として成長してないのはこまるのよ。それできっと小学生みたいに可愛いだなんて口にしたんだと思うわ。しのぶさんはそのとき大人のつき合いをしたいのになぁってため息をつかなかった?」
「ええっ? あのため息そういう意味だったの? けどさ。きみの説明を聞いてるとしのぶはぼくが好きみたいじゃない? そんなのってあり?」
ぼくはよほど無邪気な顔をしたらしい。レナがぼくを見くだした。女って自分が強い立場になるとすぐこういう表情をする。エレベーター嬢がまたのお越しをとぼくを送り出すときの顔だ。
「ふふふ。なんでそんなににぶいかなあこの朴念仁は? ありあり大あり。あたしは絶対そうだと思うわね。しのぶさんはきみが大好きなのよ。きみだけじゃないものハッピーエンドをねがってるのは。しのぶさんだって同じ結末を望んでたんじゃないのかなあ」
「ま? まさか?」
「うつけ者! しのぶさんは独身で離婚もしてないし子どももいないって念を押したんでしょう? 可愛い小学生ってからかったきみに結婚してるのってわかりきった問いをわざわざ口に出したんでしょう? 『結婚指輪買っちゃおうかな? どんな指輪ならわたしに似合うと思う?』ってしのぶさんは左手の甲を見せたんでしょう?」
「そ? そうだけど?」
「スカポンタン! 『きみならどんな指輪でも似合うよ』ですって? どアホウ! それがプロポーズされた男の返事かい!」
「な? なんの話だよいったい? ぼくはプロポーズなんかされてないよ?」
「されたの。されました。二十四歳の女が指輪をはまってない左手の甲を見せたの! それってきみに結婚指輪を買ってほしいって謎かけじゃない! わたしの指に結婚指輪をはめてよって催促よ!」
レナが髪の毛を逆立てて店の客たちが息をつめた。話し声がどんどんへって行った。
ここでぼくがレナを抱きすくめてキスをすりゃ拍手喝采かな?
「そ。そんなバカな。フロント係に言い寄られて迷惑だったってだけだよ。話の成り行きで左手を見せただけさ。しのぶはずっと無邪気な顔をしてたんだぜ。あまい顔もしてくれなかったし森崎の名前を出したときも嫉妬のかけらすら見せなかったよ。井坂さんがまちがってる。ぼくはしのぶにとってただの通りすがりの元同級生にすぎないんだ!」
レナの指がのびてぼくの頬をつねった。
「ぬけ作! だからきみはだめなのよ! そこまで女の気持ちがわからないなんてあたし本気でおこるわよ!」
「も。もう湯気が出てるじゃんか。な。なにをおこってるんだよぉ」
レナが椅子から立ってぼくの腰が逃げた。スツールからずり落ちかけた。
今夜はレナになぐられる日か?
また店中の目がぼくらにそそがれた。とっても緊迫した状況だ。客たちは自分たちの会話をとめてさりげないふりもやめて堂々とぼくらを見ていた。
バーテンとマユだけが知らん顔を作って横を向いていた。第三者から見ると新しい女に乗りかえたぼくに元カノがガンガン恋愛相談ぜめな図じゃないか? ぼくとレナは恋人同士じゃなかったのに。
「すっげー腹立ってるのよあたし! 好きでもない男が結婚してようが離婚してようがのたれ死にしてようが女は気にしないの! 『結婚してる? 好きな人がいる?』って訊いてくれる女の子は大事にしなくちゃだーめ。まぬけ! ろくでなし! きみってやな男だ! 男とちがって女が無邪気な顔をして訊くなんてのはぜーったいに裏があるの!」
「そ? そうなの?」
こわごわたずねてみた。はっきり言ってこわい。
どうしてぼくがレナにおこられなきゃならないの? 酒場に来るたびに女の子になぐられるんじゃやってられないよ?
バーテンも立ちあがったレナの剣幕に恐れをなして今度はとめてくれない。客の全員が固唾を飲んでレナの次の言葉を待っていた。
誰かレナをとめてよぉとぼくは店内を見回した。でも孤立無援だった。ゆいいつとめてくれるマユはかくれるのに必死だ。
あとで『いやーさすがに修羅場にわって入る勇気はなかったわ』とぼくに笑いかけた。『ごめんねー』だってさ。無責任だぞマユ。
レナが腕をふった。気合い入りすぎ。そこまで気合いを入れなくてもいいぞレナ。
「そうよ! そんなものなの! 女なんて無邪気な生き物じゃないわ! 無邪気な顔を作ってさぐりを入れるの! そんなときの女はこわいくらい真剣なのよ! 無邪気な顔をしたとき以上に恐ろしい顔を持ち合わせてないのが女ってものなの! わかれよ女心! みんなよくやってるわよ!」
「き? きみも?」
ぼくがレナにふったとたんレナの相好が一瞬でくずれた。それまで怒り狂っていたのに。
なにがそんなにうれしいんだろ?
「あはは。あたしなんか会社じゃずっとそれじゃん。男といるときに素の顔を見せるなんてバカのすることよ」
バカはあんたよレナと盗み聞きしているマユは舌打ちをしたそうだ。ぼくの前ですっかり清純派の仮面をはずしているレナに『いったいあの子はなにをやってるのかしら?』と疑問がマユの中で渦をまいたって。ぼくをオトすために接近しているのに自分の手の内をそこまでさらけ出してどうするつもりと。そんなまねをしてオチるはずがないじゃないって。
そのマユのじれた身ぶりに変な女が妙な動きをしているとぼくは思った。けどおかしな人に近づかない常識はわきまえていた。いきなりナイフでブスッとやられちゃかなわないもの。
「でもほんとにほんと。しのぶはぼくを? ま? まさかねえ?」
レナの眉がまた寄って機嫌が急降下した。
どうして? なんで女の子ってこんなにコロコロ機嫌が入れかわるわけ? 誰か教えてよ。ねえ。
「つくづく女心のわっからない小学生ねきみって。あきれちゃうわ。女ってのはねえ。惚れた男にだけは素直になれない生き物なの。だからすぐ心にもないうそをつくのよ。クラスの女の子がどの男の子を好きかなんてこっそり観察してた女の子が自分の好きな男の子を見てないはずがないでしょ? 『ぼくがあのころ誰を好きだったか知ってる?』って訊いたのは合格。きみえらい。でも『ううん。わかんないわ。だーれ?』って訊き返されたのにちゃんと答えなかったのは大失格! せっかくそこまで盛りあげてチャリンコのチェーンをはずしちゃだめ! スッコンスッコンじゃないよそれ。男の最大の見せ場でどうしてそんな情けない腰の引き方をするかなあ? きみの人生で最大の決めどころじゃんか。きみが小学生当時に好きだった女の子が誰かわかんないなんて大うそ。百も承知。きみの口から出る自分の名前を聞きたかっただけ。しのぶさんはきみに告白してもらいたかったからそんなうそをついたの」
「えっ? あ? あれそんな意味だったの? じゃぼくが好きだったのはしのぶだって告げてたらどうなったわけ?」
「とーぜんしのぶさんも『わたしもあゆむくんが大好きだったのよ』って返してふたりは熱いくちづけを」
「そ。そんな。それはないよきっと」
「いーえありますまちがいない。確実。かならず。断然そう。それ以外ありえなーい。コペンハーゲンのガス灯ゆらめく石畳でしょ? ファーストキスに最適な立地じゃん。かっこよすぎ。正しい恋愛映画はそうでなくっちゃ。しのぶさんはだーれって訊き返しながら祈ってたと思うな。自分の名前を口にしてもらうのを。女って好きな男には『あんたなんか大きらい』って口をとがらせるものよ。それを真に受けちゃだめ。そんなのに乗せられたらとんでもなくこんがらがるわ。いい? よく聞きなさいよ。好きな女の子といるときは目だけを見とくの。口から出る言葉は絶対に信用しちゃだーめ。好きな女の子がなにを言うときでも瞳だけを見てなさい。女の真実は口にはないの。目にしか女のまことは存在しないのよ。惚れてる男にカマをかけない女なんていないんだからね!」
レナがぼくの目をのぞきこんだ。これで理解しないならなぐるぞとレナの目が語っていた。もうひっぱたかれるのはごめんだ。
「じゃあ。しのぶは本当にぼくを?」
ええと大きくレナがうなずいた。
「あたしはそう思う。わざわざしのぶさんに会いにドイツまで行ったんでしょ? なんで言ってやれないかなあ。きみに会いに来たんだ。きみだけを愛してるよって」
「そ。そんなの言えるはずないだろ」
「弱虫! 臆病者! あゆみちゃん!」
「あゆみちゃんはやめて」
「男らしくキッパリ告白して来ればやめたげる。ほんとじれったい。冬になると暖炉にマキが燃えて素敵ってのも遠回しの求愛だと思うわ。北欧の生活が素敵なんじゃない。きみとの生活が素敵なのよ。岡野くんとふたりで暖炉にあたりたいって言いたかったのよきっと。もう一度ドイツに行けきみ。ありとあらゆるところから係長に圧力をかけるようたのんだげる。それで今度こそ男らしくコクって来い!」
「う。うん」
「たよりない返事をしないの。うまくやりなさいよ。でないとこのレナちゃんがゆるさないかんね!」
バンとレナがぼくの背中をたたいた。ぼくは椅子から転げ落ちてアブナイ女性客ことマユと店中の客にくすくす笑われた。
やっぱりぼくは酒場で女の子になぐられる星の下に生まれたんだ。
床に尻もちをついたぼくはもうひとつ質問を思い出した。
「そういやさ。しのぶが独身だって強調したときに言いかけてやめた件があるんだ。なにを言おうとしてたのかわかる? ついでにつけくわえようとしてそれはいいわってやめたんだけどさ」
「ああそれね。わかると思うわ。けどあたしの推測を話すときみがあとでかならずおこるから言わない」
「なにそれ? しのぶがおこるんじゃなくてぼくがおこるわけ?」
「そう。聞かないほうが身のためよ。ま。愛してるって白状したらきっと教えてくれるわ。しのぶさん直球派だからね。とにかくがんばって求愛しろ。それっきゃねえつーの」
またレナが腕を持ちあげたのでぼくはなぐられる前に立って伝票をつかんだ。
「ありがとう井坂さん」
ぼくが店を出たあとマユはレナのとなりに腰をすべらせたって。
「あのさレナ。あんたひょっとして敵に塩を送ったんじゃない?」
まさかレナの好みがあんな軟弱男だとは思わなかったわとおどろきながらマユは声をかけたそうだ。男をオトす小悪魔のレナならよく知っているけど男に親身になって忠告をするいい人のレナなんて初めて見たと。
「マユもそう思う?」
マユに向けられたレナの目はキラキラ光っていたって。あちゃあ完全に恋する乙女の瞳になってるわとマユはさじを投げたそうな。
「レナ。賭けはもう頭にないでしょ? もし勝ちたかったら岡野がしのぶさんの気持ちをかんちがいしてるいまが最大のチャンスだもんね。いまなら頭のひとなでで簡単にオチるわよあいつ」
カラオケひと月ぶん勝つかぁとマユは複雑な心境になったって。勝つのはうれしい。けどレナが岡野に本気になってその恋がそのままポシャればカラオケひと月ぶんの無料を楽しめるはずがない。下手すりゃひと月間カラオケのあいだ中レナにからまれつづける。マイクをにぎって離さないカラミ酒は通常の酔っぱらいよりタチが悪い。幼稚園からの腐れ縁だがレナが失恋したのを聞いたおぼえはないマユだったって。
レナは長いため息を吐いたそう。
「そうよねえ。誰が見てもいまがチャンスよねえ。あたしにだってわかってるのよバカなまねをしてるなって。でも岡野って純なんだもん。それに輪をかけてしのぶって人が純情じゃん? あたし痛いほどしのぶさんの気持ちがわかっちゃってついあんな助言を」
「わかるわかる。あんたほどスレてる女ってめったにいないもんね」
「なぐさめにもフォローにもなってないぞそれ。悪かったわね純じゃなくて。でもああいうまどろっこしい男を見ると胸がチクチク痛いの。この腕でギュッて抱きしめてよしよしってあやしてやりたい。あの子がほしいのよ。あーあ。ミイラ取りがミイラになっちゃったなあ」
「墓荒しが盗掘中に墓穴を掘った現状ね。生き埋めって感じ? ほんらい墓荒しは墓穴を掘っても生死にかかわらないのに一般人にもどるから墓穴が生死に直結しちゃったのよ。あたしが墓碑にきざんどいたげるから安心おし。岡野をオトすつもりが岡野にオトされたレナ。自分が仕組んだ落とし穴でミイラ化して発見。享年二十歳。死因は恋わずらい」
「安心できねーっスよそれ。どこで道をふみはずしたんだろ? とほほ」
「第一歩からよ。俗に言うひと目惚れね」
「うっそ?」
「ほんと。あんた男あそびのしすぎで経験がなかっただけだわ。それ初恋よ」
「ええーっ? そ? そうなの?」
「そうよ。あんたの恋する顔をあたし初めて見たもの。いつもはゲーム感覚じゃない。今回はそもそもの出だしからいつもとちがってたわ。思い返せば最初から岡野の肩を持ってたわよあんた」
「そうなんだ。初恋かあ。初恋ってこんなに苦しいものなのかあ。たしかに知らなかったわ」
マユはレナにウイスキーをついでやって自分のグラスにもなみなみとそそいだって。レナのほうが先に結婚するかもしれないと思いながら。
レナが最初から素で接触したのは結婚をにらんだ長期のつき合いを想定したせいだとマユはふんだそう。オトしてハイさようならの男に素顔を見せる女なんていない。
すえ永い関係をきずくにはかざり笑顔だけではもたない。素の自分を気に入ってもらわないと短期間で破綻が来る。
マユはいいなあと思ったって。恋に狂った女は相手が安サラリーマンだろうが結婚詐欺師だろうが見さかいがなくなると。計算をすべてうっちゃれるほど本気になれる男に出会えたレナがねたましかったそうだ。