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 第十四章 コペンハーゲンの石畳にガス灯はゆらめく

 ぼくとしのぶは翌日コペンハーゲンに入った。カメラを持って来なかったぼくはコペンハーゲンでやっとデジカメが買えた。フュン島ではカメラ店がなかったからだ。

 港で王子さまを待つ人魚姫に対面した。あまりのショボさにスコンと肩をすかされたあと九月半ばから翌春まで休園するチボリ公園に寄った。

 いやがるしのぶをぼくは無理やりジェットコースターのとなりにすわらせた。けど悲鳴をあげたのはぼくだった。ぼくって小学生当時と変わらない弱虫だ。

 しのぶはその仕返しにかむちゃくちゃなトッピングのアイスクリームをぼくに回した。ぼくが山づみになったアイスを落とさないよう苦労して食べる顔がおかしいとしのぶが笑い転げた。ぼくの顔そんなにおかしいか? そうだよ。どうせきみは美人だよー。

 陽が落ちてガス燈ともるコペンハーゲンの石畳をしのぶの案内で歩いた。オレンジ色に染まるいにしえの街路はアンデルセンが作品の構想を練っていた通りだそうだ。マッチ売りの少女はこの敷石から天に召されたらしい。

「ねっ。おみやげに骨董品なんていいんじゃないあゆむくん? あっと。ごめんね岡野くん」

 骨董店の前で足をとめたしのぶがあわてて言い直した。小学校時代ぼくらはみんな下町の子どもだったからアキラだのあゆむだの名前で呼び合っていた。しのぶはきっとあのころを思い出しているんだ。

「いいよ。あゆむで。昔みたいに『あゆみちゃん』って呼んだらおこるけど」

「そうね。アキラくんがあゆみちゃんってからかうと本気でかかってったわよね。普段はなにを言われてもおこらないあゆむくんだったのに」

 そう。よくアキラにあゆみちゃんってからかわれた。ぼくの名前は漢字で書くと『歩』の一字なんだ。

 二年生のときの担任が四月の最初の授業のさい出席を取ろうと『おかのあゆみ』と読みあげた。男の出席番号一番なんだから『あゆみ』はないって通常は気づくところだけどその先生は先生になりたての初めての授業であがってそんな羽目になった。

 以来アキラはちょっとした拍子にぼくを『あゆみちゃん』とからかった。いまでもそうだけどぼくは気が弱くて泣き虫だと痛感していたからそう呼ばれたときだけ本気でアキラに向かって行った。妹ができてお兄ちゃんとしてがんばらなきゃって思いもあったし。

 とにかくあゆみちゃんはいやだった。ぼくは男なんだ。

 遠い日々を思い起こしたぼくはしのぶの指摘の裏にある事実にドンと胸を突かれた。引っ越して来てまた引っ越すまでの半年間しのぶはずっと傍観者に徹してぼくらを見ていたのか。

 骨董店のガラス窓をのぞきこむ淡い明かりに照らされたしのぶの横顔にはいつもいつも教室の片隅でぽつんと童話を読んでいた少女の面影が残っていた。面影がぼくに語りかける。はかないまなざしをしていた幼い女の子の胸の内を。

 ひとり離れてその子は口数すくなく小学生のぼくらを見ていた。すわるその子の手にあるのは児童文学や童話ばかりだった。

 けどアンデルセンだけは読んでなかった。海を見降ろす丘公園でイチゴをわけ合ったときぼくは理由を聞いた。

 アンデルセンはおしまいが悲しいからきらいなの。その子はさびしげにそう笑った。

 アンデルセンのマッチ売りの少女も凍える雪の夜その子みたいな瞳で家々の窓明かりをのぞきこんだのだろうか? 寒い外気に身を切られながらあたたかな団らんの光景を?

 しのぶは小さなころから幸せな家庭に入れない渇きをかかえて生きて来たみたいだ。学校でさえしのぶは仲間になれなかった。

 いや。自分からぼくらを拒否したんだ。ぼくらのするあそびはたいてい大人のひんしゅくを買うものだったから仲間になってしまえば遅かれ早かれあのバーサンの耳に入る。

 いまのしのぶを見ていると優等生でもすまし屋でもないのがわかる。きっとぼくらとあそびたかったにちがいない。

 けどしのぶにとってそれは母を追いつめるゆるされない行為だった。自分が悪い子になれば祖母はその事実を盾に母をいびる。しのぶはそう考えたんだろう。

 だから歯を食いしばって傍観者に徹してぼくらを見ていた。なにひとつ非難されない優等生をハリネズミみたいに演じ切って弱い部分を出さなかった。

 ひたすら自分を押し殺して笑い声さえ立てなかった。ぼくらに誤解されていじめられても弁解すら口にしなかった。

 アンデルセンはおしまいが悲しいと言えるのはすでに読んだ経験を持つわけだ。つまりあのころのしのぶは悲しい物語をさけていた。

 それだけつらい日々を送っていた証拠だろう。泣くのは海を見降ろす丘公園に誰もいなくなってから。

 いびられている母に心配をかけまいと海にだけ涙を見せてたったひとり夕陽に歌いかけて自分をなだめた。

 それが十歳の女の子の考えか。

 ぼくはあわてて口をこじあけなきゃならなくなった。そんな母親思いでがまん強い孤高の少女の心持ちにたどり着くと涙がこぼれそうになって。

「入ろうよしのぶ。妹の陽子におみやげを買って帰らなきゃ。最近アンティークが流行ってるからきっとよろこぶよ」

 オレンジの照明が降る骨董店は壁にかざられた百年前のヴァイオリンや由緒正しいハト時計で店内が演出されていた。棚に小物のつまった木箱がならんで千円前後の七宝のポートレート入れやブローチが目についた。

 ぼくはデンマークの民族衣装を着た人形とおもちゃの兵隊を陽子にえらんだ。会社の人たちや森崎にはポートレート入れやブローチだ。

 そしてちょっと高かったけどきれいだなと思ったビーナスの横顔を浮彫りにした黒蝶貝のペンダントをひとつ。

 ぼくが勘定をはらっているとしのぶが小さな陶器の壺を大事そうに抱いて来た。親指の先ほどの古ぼけてみすぼらしいミニチュアの壺だった。

 なんの変哲もない焦げ茶の焼き物にしか見えない。しのぶがそんなありふれた壺をどうして大切そうに持つのかぼくには理解できなかった。

 けど骨董店の人のよさそうなおばあさんはその壺に目をかがやかせた。まるでこの店一番の宝物を見つけたねと言いたげに。

「お嬢さんはお目がお高い。それをえらぶ方は最近じゃすくなくなったのに。天使を信じるあなたに世界一の幸運を」

 おばあさんが儀式めいたしぐさで十字を切った。コーヒー色の壺を貴重品あつかいで慎重に紙袋に入れてしのぶに手わたした。

 オレンジの照明を背おったしのぶが幼な子のイエスを抱く聖母マリアの顔で袋を胸にかかえた。フィレンツェ派の壁画を思わせる荘厳さだけどおばあさんとしのぶだけの世界がそこで閉じてぼくはおもしろくなかった。

 ぼくを仲間はずれにするなよ。

 不満のまま店を出たぼくは忘れないうちにとしのぶの手に黒蝶貝のペンダントをにぎらせた。無理やり受け取らせようと。

「だめよあゆむくん。妹さんへのプレゼントでしょう?」

 案の定しのぶが押し返して来た。

「陽子はガキっぽすぎてこんなのは似合わないんだよ。まだ高校生だしね。きみにならぴったりだと思うんだ。案内のお礼にもらってくれない? でないとぼく迷惑をかけに来ただけみたいじゃない」

「迷惑だなんて。あゆむくんのおかげでわたし助かったもの。フロント係に言い寄られてこまってたのよね。独身だって自己紹介したらしつこくって。今度からは結婚してるって言わなきゃ。結婚指輪買っちゃおうかな? どんな指輪ならわたしに似合うと思う?」

 しのぶが左手を持ちあげて甲をぼくに向けた。白く細い指のどれにも指輪は光ってない。

「きみならどんな指輪でも似合うよきっと」

 どうもとしのぶが無表情にスッと手をさげた。ほめたのに気を悪くしたみたい。目つきもこわいぞしのぶ。また五階の文具売場って答えたのかぼく?

「とってもとってもありがとう。ほめてくれて。で。あゆむくんは結婚してるの?」

「ぼくもまだ独身だよ。離婚もしてないし子どももいない。アキラは結婚してたけど」

「へえーあのアキラくんが? 相手が栄子さんだといいんだけど」

「あれ? なんで知ってるの?」

 ぼくは目を見張った。その話はまだしてないぞ。

「きゃ。やっぱり? だって彼女あの当時からアキラくんが大好きだったもの。よかった」

「ふうん。そんなとこまで見てるのか女の子って。じゃぼくがあのころ誰を好きだったか知ってる?」

 わたしでしょなんてしのぶが冗談めかして答えてくれるのをぼくは期待した。

「ううん。わかんないわ。だーれ?」

 しのぶがとりわけ無邪気な顔でぼくの目をのぞきこんだ。まっ正面からしのぶに問われると素直に『きみだよ』なんて言えなくなった。ぼくはあのころきみが大好きだったんだって告白するために一大決心でヨーロッパまで来たにもかかわらずだ。

「えっ。いや。それは」

「あっわかった。森崎さんでしょ? 彼女きれいだししっかりしてたからおとなしいあゆむくんとならぴったりよね」

 しのぶがぼくの両手をつかんでお幸せにとひとり決めした。

「え? ええ? えええ? そ。そんなあ」

 しのぶに手をにぎってもらえたのはうれしかったけど森崎とそんな仲なんて誤解されていいのか?

「いいのよ照れなくったって。あゆむくんとならお似合いじゃない。じゃわたし案内賃としてこのペンダントをもらっといてもいいよね? 委員長の家はお金持ちだからもっと名の通った品がいいものね」

「う。うん。そうだね」

 ぼくはすっきりしなかったけどしのぶにペンダントを受け取らせたと胸をなで降ろした。取りあえず目的は達したと。

 翌日しのぶがコペンハーゲンのカストロップ空港までぼくを見送りに来てくれた。搭乗手つづきに向かおうとしたぼくの手にキーホルダーをつけた昨夜の壺をにぎらせた。

「はいあゆむくん。わたしからのプレゼント。安物で悪いんだけど幸運のお守りなのよ」

「ふうん。だから昨日おばあさんが祈ってたわけ?」

「そう。天使の壺って呼ばれててね。五百年前に一万個作られたうちのひとつがそれよ。三人組の天使がいてね。悪魔にだまされて三つの壺にひとりずつ閉じこめられたんだって。だからその壺は天使が入ってるかもしれないの。壺をわって出してあげるとねがいごとをひとつかなえてくれるそうよ。このあたりに古くからある伝説でね。ふたりはもう出してもらえたんだけどあとのひとりはまだなの。あゆむくんの壺に天使が入ってますように。あゆむくんに天使の守護がありますように」

 しのぶが昨夜のおばあさんと同じように祈ってくれた。

「ありがとう。大事にするよ」

 ぼくはしのぶに森崎と自分の住所をわたして日本に帰る機会があれば同窓会に出てほしいとたのんだ。けどしのぶは言葉をにごしてはっきりした返事はくれなかった。

 いよいよ搭乗というおりにぼくは思い出した。しのぶの用ってなんだったんだろうと。

 テロ防止用金属探知機の前でふり返ったぼくはしのぶに言葉を投げた。

「ところでさ。コペンハーゲンの用事ってなんだったの?」

 返事は期待してなかった。恋人に会うんじゃないかなんて考えていたから。

「わたしの十六回目の誕生日に死んだ母の墓まいりよ! ヒエタニエミに眠ってるの!」

 係員に通されるぼくの後頭部にしのぶが答えをあてた。

「えっ」

 ぼくはズガンと頭に衝撃を受けて飛行機に乗ったあともぼうぜんとしたまま回復できなかった。そう。たしかしのぶは九月七日生まれだ。『乙女座なの。可愛いわたしにぴったりでしょ』ってあの丘で笑ってくれたっけ。

 ぼくは日本に着くと実家に帰るより先に森崎の家に寄って旅のしだいを話した。

 森崎がぼくにしんみりとした顔を向けた。

「そうかあ。十六のときにお母さんが死んでかあ」

「きっとそれで高校を卒業できなかったんだよ。中卒だって言ってた」

「遠い異国で女ひとりが生きてくなんてきびしいだろうねえ。無資格の通訳か。外国でも通用する通訳の資格を取らせてあげたいわねえ」

「委員長。うまく都合をつけてやってよ。たのむよ」

 ぼくはせいいっぱい力をこめた。ぼくが力んでもどうにもならないけど。

「日本に呼びもどすことができればうちの大学の講師に採用できるはずよ。パパの顔がきくからね。問題は本人よ。しのぶ自身がその気になってくれなきゃどうしようもないわ。お金持ちのお道楽なんて思われちゃ反感を強めるだけじゃない? 連絡があってからそれとなく切り出したいけど連絡が来るかしら?」

 連絡は来そうにないとぼくは感じていた。こちらから親切を持ちかけてもしのぶがすんなり承諾するとは思えない。

 レストランのはらいにこだわるほどかたくなだもの。他人に情けをかけられたくないと思っているんじゃないだろうか? またそれくらいの気概がなければ女ひとりで外国暮らしなんて無理だろう。


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