第十三章 アンデルセンの故郷を初恋の人とふたり旅
翌日ぼくはしのぶと列車でオーデンセの町に向かった。ぼくは前の晩にあわてて集めた情報で童話作家のアンデルセンの生まれ故郷がデンマークのフュン島にあるオーデンセ市だと知った。
ぼくは自分の無知がはずかしかった。コペンハーゲンがそうだとばかり思いこんでいたんだ。しのぶに得意顔で告げなくてよかったと胸をなで降ろした。大恥をかく一歩手前だった。ぼくがデンマークで知っているのはコペンハーゲンとアンデルセンの童話とレゴだけなんだ。
列車の中ではしのぶがちょっと打ちとけてくれた。安心したぼくは説明をはじめた。しのぶからの年賀状を手に入れた一連の顛末をおもしろおかしく。
「そう。それでわたしがここにいるってわかったの。どうして岡野くんがこんな場所にあらわれたのか信じられなかったわ最初」
「おどかしてごめん。森崎は手紙でいいって言ったんだけど来るついでがあったからね。直接あやまっときたかったし」
ぼくってうそばかりとやましさに胸をチクチク刺されながら口にした。
どうしてしのぶにはざっくばらんに打ち明けられないんだろ? きみが好きだったから会いに来たんだ。きみに会いたかっただけなんだよって。
森崎ががさつでかざり気がなさすぎるから森崎のそばに寄ると誰もかくし事をしなくなるのか? しのぶも森崎と会わせればもっと内心を話すのかな?
「ついでかあ。いいなあ。わたしなんか余裕がないもの。最近じゃ観光地から観光地をわたり歩いてるわ」
「どうして?」
なにげなく訊いたぼくはまたしのぶににらまれて目をそらした。さぞかしデリカシーのない男だと思っているだろうな。
最後に話した女の子が森崎だったものでなんでも直接訊くくせがついたみたいだ。森崎相手だとたえず直球だから。
かといって五階の文具売場はもっとまずいはずだ。結局ぼくって女の子と親密なつき合いは無理みたい。これじゃ結婚はできないなきっと。
ぼくがおそるおそるしのぶをうかがうとしのぶが目つきをゆるめてぼくを見た。小学生のときはしのぶが同情してほしがっていたけどいまはぼくが同情されているみたい。出来の悪い生徒を見る教師の目に似ていた。
「去年の暮れにね。やっと雇ってもらった貿易会社がつぶれちゃってさ。以来しり合いの観光会社からバイトを回してもらってるの。わたしみたいな無資格の通訳にはまともな仕事がないのよね。学歴だって中卒だし」
しのぶが自嘲まじりに近況を明かしてくれた。年賀状にあった『がんばってます』ってそういう意味だったのか。
しのぶは頭がいいからすぐに資格を取れるはずとぼくはふんだ。森崎にたのめば簡単に手配してくれるよと提案しかける。
「でも立原さん」
ぼくの口をとめてしのぶがイライラした眉でぼくに人さし指を突きつけた。
「岡野くん。その立原さんってのやめてくれない?」
ぼくはちぢみあがった。しのぶはかならずそうなるだろうなと思っていた以上の美人になっていたけどととのいすぎた美人ににらまれるのって迫力がありすぎる。
しのぶにまっすぐ見つめられるとぼくはしのぶの目が見られない。小学生のころにいじめたうしろめたさでしのぶの視線を逃げつづけたときみたいに目をそらしてばかりだ。
ぼくはまるで挙動不審者だった。おまわりさんがそばにいればまちがいなく職務質問の対象になるはずだ。
「あ。あのう。どういうこと? 結婚して姓が変わったの?」
しのぶがさらにきつい目つきに変わった。
「わたしは独身です。離婚もしてません。子どももいません。愛人をやった過去も不倫の経験もありません。ついでにつけくわえると。いえ。それはいいわ。とにかくわたし立原って名前がきらいなの。横文字は言いにくいでしょうからしのぶでいいわ岡野くん」
なるほどとぼくは納得した。
立原のバーサンがうちと関係ないって念を押したのと同じ理由か。
うながすようしのぶがぼくをにらみつづける。言うまでゆるしてもらえそうにない。
「わかったよ。しのぶさん」
「し・の・ぶ。さんはいらないわ」
おこったしのぶがくちびるを突き出した。思い出の中の長い黒髪の美少女が重なった。けどあのころしのぶのおこった顔なんて見たことはなかった。
いつもさびしそうにほほえむ文学少女の横顔しか記憶にない。まちがった行ないは絶対にしない優等生。そんなしのぶがぼくの記憶の本棚で背表紙を立てている。素顔のしのぶはすぐおこったり笑ったりするどこにでもいる女の子だったんだろうか?
「ごめん」
「わかってくれればいいの。さあ名前で呼んでちょうだい」
「えーと。し……の……ぶ……」
「えーとは余分なんだけど? ま。ゆるしたげるわ岡野くん」
ぼくは岡野くんのままかとちょっとがっかりした。
車窓から海岸が見えはじめてぼくは不安のタネを思い出した。
「あのさ。このあとフェリーに乗るんでしょ? ぼく英語はわかるけどデンマーク語はさっぱりだよ?」
ぼくは安心していた。ドイツがわの駅の案内板に乗りかえがなくフュン島に着くと説明されていたからだ。
ところが通路をへだてた席にすわっているイギリス人観光客がしゃべっているのを盗み聞くとフェリーでフュン島にわたるらしい。とてもじゃないけど電車から船に乗りかえるなんて無事にできると思えない。ドイツでさえ電車の乗りかえに幾度もしくじって丸二日を電車の乗りつぎだけで消費した。
「わたしがいるわよ安心して。わたしはもぐりの通訳だけどデンマーク語も話せるの。でもフェリーに乗るったってね。この客車そのものをフェリーにつみこむから乗り降りはしなくていいのよ。岡野くんはそこにすわってるだけでフュン島の駅に着くわ」
「なんだそうなの。心配してそんした」
乗りかえがないってそういう意味だったんだ。まさか客車自体を船づみするとは思いもよらなかった。
しのぶがぼくのホッとした顔をまじまじと見つめてため息を吐き出した。
「やだなあ。岡野くんって小学校のころと変わってない。岡野くん若いわねえ」
うれしいような落胆したみたいな複雑な表情をしのぶが浮かべた。しのぶの寄せられた眉になにか告げたげな色が見えたけど口はひらかなかった。
ぼくの小心さは小学生当時と変わらないってため息か?
「それってほめてるのけなしてるの?」
「さあどっちでしょ? 小学生みたいに可愛い岡野・く・ん」
しのぶが謎めいた顔で答えをぼかした。ぼくは年上のお姉さんにからかわれている気になった。ぼくには妹はいるが兄も姉もいない。
そういえばとぼくは気づいた。森崎もそんなところがあるな。ぼくっていくつになっても夜の街で補導される高校生か?
フェリーでフュン島にわたるとしのぶが海峡を見降ろす丘の上にぼくを案内した。街を離れてふたりで低い丘にのぼった。
丘のてっぺんに足を乗せると狭い海峡が一望にできた。島々がかすんで島影を大小さまざまな船が行き来していた。
あんがい船の往来は過密だった。受験でつめこんだ知識によるとデンマークには四百八十三の島がある。島だらけらしい。本土は日本の十分の一にもみたない小さな国だけどグリーンランドを持つせいでヨーロッパではロシアに次ぐ広大な王国だ。もっとも実質はへんぴな小国だけど。
秋風に吹かれながらぼくはこの丘に立った経験があるとの思いに駆られた。郷愁に近い。外国に出たのすら初めてなのにだ。デジャブってやつかな?
しのぶが海峡をわたる風につややかな黒髪をそよがせて銀柳の下で両手を広げた。この世界のすべてを抱きしめたいとばかりに。
柳の葉から舞い落ちる木漏れ陽が柔らかくしのぶの全身を純白のドレス状につつみこんだ。しのぶの肩ごしに碧い海が陽光をきらきらとはじいた。
「見える岡野くん? 北欧のみじかい秋がそこまでせまってるのが? 秋はつむじ風のように通りすぎて一目散に冬を連れて来るわ。人々は花火みたいに瞬間に燃えつきる秋をそのみじかさゆえに尊くもてなすの。一瞬の紅葉と落葉がすぎると赤レンガを雪が消して暖炉にマキが燃える。わたしの母は北の大地を凍らせる冬が好きだった。わたしもここに来るといつもホッとする。ねえ岡野くん素敵でしょうここ?」
「う。うんそうだね」
ぼくにはしのぶがなにをさして素敵だと言ったのかわからなかった。まさかなんの変哲もない海を見降ろす丘が素敵だとは想像もできなかった。
ぼくはそのとき北欧の生活が素敵なんだと思った。ぼくにはそんなものよりしのぶが素晴らしかった。きみが百倍も素敵だよなんて告げる度胸はぼくにはなかったけど。小心者でごめんねしのぶ。
ぼくとしのぶは海風に背を押されるまま湖に建つ城やアンデルセンの生家をそぞろ見て歩いた。フュン島はのどかな田舎の島でまばらな観光客たちもみんなくつろいで回っていた。島全体が完結した遊戯施設に見えた。島民がすべて遊園地の従業員で熟練の演技をもって平凡な暮らしをぼくらに披露している。そんなふうに思えてならない。
しのぶは観光案内の通訳もこなすらしくぼくに観光名所を詳細に解説してくれた。のびやかで張りのあるしのぶの声をぼくは夢うつつに聞いた。
観光客がいるところでは他の人に迷惑をかけないよう抑制をきかせた低い声がぼくの鼓膜をくすぐった。
冷たい秋の冴えた陽射し。童話からぬけ出た家々。
そしてぼくの目の前には幼かったぼくの初恋の人がいた。
アンデルセンの生家を離れて薄紅や黄色のコスモスが咲きほこる野原をぬけるとレストランがあらわれた。窓一面にかざられた花が七色の虹のようだった。
「ごはんを食べましょうか岡野くん? ここ日本のお正月にかならず出る品が食べられるのよ」
「へえ。和風料理店なの?」
グリム童話のお菓子の家みたいなレストランで日本料理とは無縁に見えた。
「ううん。デンマーク料理の店よ。ま。入ればわかるわ」
それもそうだとレストランのドアを押した。席に着くと料理はシンプルそのものだった。野菜料理・肉料理・魚料理が各二種類ずつあるだけだ。
外国人観光客がアンデルセンの生家を見に来るせいかメニューは五カ国語で書かれていた。日本語はないが英語はあった。正月にかならず出るものをぼくは探したが見あたらない。
しのぶがウェイトレスにメニューから適当に注文した。
凝った料理がないせいですぐにはこばれて来た。しのぶが立ちあがる。腰をおった。
「日本のお正月にかならず出される酢づけニシンのデンマーク風オムレツでございます。どうぞ召しあがれ」
「は?」
ぼくは視線を皿にすえた。湯気を立てたオムレツが居すわっている。卵の中身は酢づけニシンだそうだ。
「なんでこれが『日本のお正月にかならず出される料理』なわけ? いったいどの地方の正月料理なのさ?」
酢づけニシンのオムレツを正月料理にしている県なんて聞いたおぼえはないぞ?
「カズノコは知ってるわよね?」
「う。うん」
ぼくはしのぶがなにを言い出したのかわからないままうなずいた。
「この料理はカズノコなの」
「はあ? オムレツの中にカズノコが入ってるわけ?」
「ううん入ってない。酢づけニシンだけよ。幕末にね。鹿児島県がパリ万博に白薩摩とか薩摩切り子なんかの日本美の集大成を出品したの。その見なれない美に全ヨーロッパが衝撃を受けて日本ブームがまき起こったわけよ。ゴッホは浮世絵に感化されたし日本庭園も各地に作られた。カズノコってニシンの卵でしょ? ブームに乗っかって日本を紹介する本を出そうと『日本人は正月にかならずニシンの卵を食べる』って日本の文献を訳したデンマーク人がいるのね。ところがその人そそっかしい人だったらしく誤訳しちゃったの。ニシン『の』卵をニシン『と』卵ってね。カズノコの実物を見ずに文献だけで日本を紹介したからそんなかんちがいをしちゃったらしいわ。日本人は正月にかならず『ニシンと卵』を食べるってね。そのデンマーク語訳の日本書を読んだだけで日本料理に挑戦した勇気あふれるシェフが作ったのがこれよ。だからこの料理の元はカズノコなの」
「カ? カズノコを誤訳した料理ぃ? 酢づけニシンのオムレツが?」
「そうなのよ。ところがこのかんちがいはなぜかデンマーク人の味覚にどんぴしゃだったらしくてね。いまじゃ国民食になってるの。肝心のカズノコは味覚に合わなかったみたいで牛のエサにされてるって話だわ。しょうゆがないからかしらね? だからデンマーク中どこに行ってもこのニシンと鶏卵の組み合わせ料理は食べられるけどカズノコは食べられないの。妙な話でしょ?」
「うーん」
日本人には想像もつかない食文化史だ。カズノコ誤訳の酢づけニシン入りオムレツはまずくはなかった。けどうまいとも思えない。
酢づけニシンときざみゆで卵のマヨネーズあえオープンサンド・キューリはさみ・のほうが日本人の味覚には合いそうだ。カズノコをサンドイッチにすりゃうまいかなと思ったけどどんな味になるのか予想がつかない。
日本のコンビニにそんなサンドはないだろうなあ。おにぎりならありかもしれないけど。
食事を終えてぼくが財布をポケットからつまむとしのぶがぼくの手首をおさえた。
「わたしがはらうわ。岡野くんはわたしのお客さまだもの」
「いやぼくがはらうよ。きみはぼくにつき合って寄り道してくれてるじゃないか」
「寄り道ってわけでもないんだけど。じゃいいわ。わり勘にしましょう。わたしだってバイト代が入ったところだし。ね?」
しのぶがぼくの返事を待たず強引に自分の分をレジで支はらった。女の子にたかられた経験はあるけど女の子と無理やりわり勘になんて経験はない。しのぶの強引さがぼくには意外だった。
ぼくに借りを作りたくない? やっぱりいじめられた過去を根に持ってるのかなあ?