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 第十二章 ドイツに初恋をたずね行く

 不安とほのかな希望を交互に湧かせてぼくは九月初頭のドイツに足をつけた。入国したフランクフルトから電車を乗りついで行きつもどりつの末に着いたのはデンマークの国境に接したフレンスブルクなる港町だった。

 駅でハガキの住所をたずねてみた。ぼくの最終目的地はフレンスブルクからバスで南東に五キロもどった小さな小さな町だそうだ。町の位置を駅の地図で確認してぼくは知った。ドイツという地名にまどわされて遠まわりをしたと。

 実際の最短距離はデンマークのコペンハーゲンからだった。国々の国境が複雑に入り組むヨーロッパの場合となりの国から入ると近いという事例もよくあるらしい。ドイツの鉄道網でまよいにまよったぼくは休暇を余分に二日もらえてよかったと胸をなで降ろした。

 しのぶのアパートをたずねたぼくは管理人からしのぶが留守だと告げられた。

「アルバイトに近くにあるドイツ最北の島へ行くって話だったな」

 管理人の言葉をたよりにその島に足をのばすと海水浴場やカジノを持つリゾート地だった。けど九月のドイツはみじかい夏をとっくに終えていた。

 海にビキニ美人の姿はなく島は静けさを取りもどしていた。海水浴どころかサハリンと同緯度だから肌寒かった。

 たずね歩いたぼくの耳にしのぶは海沿いのホテルの客室係をしていると入って来た。一般のホテルじゃなく夏だけ営業するホテルでもうすぐ閉めるらしい。泊まるのなら急げと忠告を受けた。海の家のホテルバージョンだ。ヤキソバはないがソーセージが名物だと。ぼくは海の家のヤキソバが好きなのに。

 ホテルのロビーに足をふみ入れた。老人たちがソファで新聞を読んでいた。海水浴客がいなくなった静かな海をたのしんでいるようだ。

 ハンサムなフロント係と押し問答のあげくやっと客じゃないと納得させた。ここも最後のかせぎどきらしい。あせり具合が他人ごととは思えなかった。低下するシェアに悩んでいるんだろうな。今晩はここに泊まろうか?

 フロント係に部屋の空きを問いかけた。客になるかもとエサをちらつかせてしのぶを呼び出してもらう。

 アメリカ映画を字幕なしで見るための勉強が意外なところで役に立ったな。そうぼくは複雑な心境になった。外人と口ゲンカや値段交渉をするための努力じゃなかったのに。

 学校英語は外人との会話に役立たずだけど映画のセリフはよく効く。特にケンカ腰のやり取りは。

 ぼくは外人に話すとき映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードから引用するのが好きだ。ぼく自身もボギーになり切っているつもりだけど外見はまったくちがうからただの映画オタクと見られているかも。

 いざしのぶと対面する段になってぼくは気づいた。どんな顔でしのぶに会えばいいんだと。

 森崎をはじめ小学校時代のみんなが小学校当時のままあらわれたからしのぶまでがそうだと錯覚していたんだ。

 ぼくはしのぶを待ちながらお尻のむずむず感をもてあました。小学四年生の夏休みみたいに逃げ出そうかとちゅうちょしている間に当のしのぶが階段を降りて来た。

 制服のエプロン姿で足さばきも軽いその女性をぼくは立原しのぶだと確信した。根拠なんかどこにもないのにだ。ぼくは不思議だった。どうしてわかるんだろうと。

 人の顔って変わるようで変わらない。受け取る側が歳月をすんなり受け入れるからだろうか。

 人間の心って妙だ。十年以上の時間をひと目で埋めてしまう。

 ついこのあいだまで忘れていたというのにぼくは昔からしのぶの変化を見つづけた気になった。森崎が十年以上会わなかったぼくを見わけたのもこういう現象なんだろう。

 ぼくは小学生当時の印象を残した口もとにひかれて失礼を承知で目の前に降りて来た女性を見つめた。小学生のときも美少女だと思ったけど大人になるとこんな美女に成長するんだ。そんなふうに。

 階段を降り切ったしのぶがフロント係に問いを投げた。

「わたしに客っていったい?」

 フロント係がぼくに目を流した。さりげない動作がヨーロッパ人だった。

 フロント係の視線を追ったしのぶがぼくに顔を向けた。

「お? 岡野? くん?」

 しのぶがぼくの顔を見るなりぼくから目をそらせた。おどろいた感じで顔を下向けた。しのぶがぼくを直視しなくなった。

 いやーな予感がぼくに走った。

 ぼくのなににおどろいたわけ? ぼくって迷惑者? 過去の汚点? エレベーターの客? まさか犬の排泄物じゃないよね?

「あのう。立原しのぶさんですよね?」

「え。ええそうです」

 ぼくの問いにしのぶが目を伏せたままうなずく。ぼくはしのぶのうつむいた顔をうかがうだけだ。なにを話せばいいのかわからなかった。ぼく自身の用なんてなかった。初恋の人の面影に恋をしてドイツまで来ただけだ。

 ぼくは自分の行動が苦々しかった。初恋の男女はめぐり逢うだけでハッピーエンドになる。そんなアメリカB級映画的な脚本をぼくはあたためていた。ぼくが好きなのはベタで安っぽいアメリカ映画なんだ。終わりはかならずハッピーエンドでリアリティのかけらすらないのが大好きだ。おとぎ話だな要するに。

 ぼくにはわからなかった。このときやっとぼくの中で未完了課題の呪縛がとけたと。ぼくの思考回路をぐるぐる回っていた妄想が現実のしのぶを前に終止符を打たれたとは。

 下世話に言い直すと夢想からさめたわけだ。初恋の人に会いたいって思いでのぼせていたぼくの頭が冷えてね。

 ところがそれは現実と直面せざるをえなくなったということだった。ぼくの用意した台本にはこの場面がすっぽりぬけていた。

 ぼくが日本で書きあげた脚本はこんな感じだ。ここでふたりは抱き合って愛を確認してエンドテロップがかぶさる。幕が降りて来てぼくは映画館から出る。余韻をかみしめつつ電車にゆられて帰宅する。いやあいい映画でしたねえなんて友だちと談笑しながら。

 ところがいまのぼくに映画館を出る選択肢はない。このまま現実のしのぶと向き合って会話をつづけなきゃならない。いつもの五階の文具売場までじゃ張り飛ばされそうだ。

 そこまで考えてぼくは自分の台本の致命的な欠陥に気づいた。ぼくは主演者じゃなく観客だったんだ。

 ぼくが主演男優で脚本を書けよぼく。

 自分にツッコミを入れている場合じゃなかった。そうあせりつつぼくは痛切にさとった。B級アメリカ映画ばかりを見て来たおかげでおそまつな恋愛観しか持っていないと。

 だってそうだろ? ぼくとしのぶは幼なじみじゃないけどたとえ幼なじみでも十年以上接点のない男女が再会したってそれは恋愛関係じゃないよな? B級映画で時間も予算もないから再会した瞬間にふたりは怒濤のごとくむすばれちゃうけど現実には共通の話題すらないぞ?

 ただ男女が再会しただけだ。かつて小学校時代にたった半年間いっしょのクラスに在籍したふたりが。

 なにを話すべきかとまどうのも当然とぼくはあぜんとした。アメリカ映画のバカ!

 た。たいへんだあ。ぼくどうすりゃいいんだ?

 ぼくは気づいた。しのぶの顔を見る寸前まで恋愛だと思っていたものがぼくのひとりよがりにすぎないと。

 ストーカーってのもこんな心理なんだろう。自分は恋愛だと信じているけど第三者から見ると単なる迷惑行為でしかない。自身の内に巣くった妄想だと。

 でもぼくの胸のしこりは成長したしのぶに会えたせいで取れた。初恋病が完治して冷静になれたぼくは気持ちを切りかえた。せっかくここまで来たんだ委員長からの言づてだけでもきちんと伝えようと。

 愛じゃなくてただの思いこみだと気づいたいま好きだなんて告白できない。森崎から説明を受けてわかった気になっていた。けど現実のしのぶを眼前にするまでこういうことだとは思わなかった。

 なんでも体験してみなきゃわかんないものなんだなあ。

「きみの仕事が終わってからもう一度来ようか?」

 ぼくは迷惑者かと案じながら声をかけた。もう来ないでくれとしのぶに拒絶されても仕方のない過去を思い返しながら。

 いくらあやまりに来たと言い張ってもよく考えたら堂々と出せるツラじゃなかった。ぼくの小学校時代の同級生は全員いじめっ子だったんだ。

「いえ。いいんです。いまお客さまはほとんどいませんから時間をいただいて来ますね。待っててください」

 しのぶがぼくに頭をさげて奥に引っこんだ。頭をさげなきゃならないのはぼくなのに。

 ぼくはしのぶのていねいな言葉づかいに違和感をおぼえた。アキラや委員長たちとくらべると他人行儀すぎる。暗にもう帰れとほのめかしてる? 京都のブブづけといっしょか?

 ぼくが疑心暗鬼に駆られているとしのぶがもどって来た。ホテルは客がすくないせいで全体がガランと活気がない。フロント係もダレてタバコをふかしている。

 海も秋風が強くてときおり建物を風がふるわせた。しのぶの仕事もそういそがしくはないのだろう。

「あの。一時間の休憩をいただいて来ました。海岸へ出てみますか?」

「えっ。あっ。はい」

 しのぶがぼくから目をそらせたままなのでぼくは居心地が悪かった。

 迷惑かと疑いつつしのぶのあとにつづく。このぶんじゃ森崎の伝言を話しても無駄なんじゃ?

 ぼくはためらいに靴を引きずりながら海への石段を降りた。

 遠くに犬を連れた老夫婦がいるだけの砂浜をぼくはしのぶに二歩おくれて歩いた。靴を砂に取られてふり返る。サラサラの白砂にきざまれたぼくとしのぶの靴痕を北風が消していた。

 ぼくらふたりの消したい過去もあんなにきれいに消えるかな?

 いじめた部分が消えればいいけどしのぶの中に残るのはそこだけな気がする。

 砂に埋もれる靴に足取りも重くぼくはおそるおそる口を切った。

「あのう。実は委員長が」

「委員長? 森崎さん?」

 ハッとしのぶが足をとめて一瞬だけぼくに目を向けた。

 ぼくはその瞬間しのぶの瞳に暗いバルト海を見た。冬間近の波高い海を。

 寄せては返す北の荒波にしのぶのよろこびと哀しみがかさなってまなざしに浮いた。言葉にあらわせないしのぶの胸奥のあらそいをぼくは見た。深い恨みつらみを秘めた内心の波立ちを。

 昔いじめられたことをいまもおこってる?

「そう。森崎がきみにあやまっといてって言ってた。『あたしたちみんなあなたがうらやましかったんだ。だからいじめちゃったんだ。ごめん』って。それであのう。ぼくも。ごめんね。きみをいじめて」

 ぼくは思い切って告げて深々と頭をさげた。冷たい目でゆるしてやるもんかってにらみつけられるのを覚悟して。

 しのぶは返事をせずにクルリとぼくに背を向けた。無言で海を見つめた。

 小きざみにふるえる肩がぼくの目を打った。しのぶがずっと目をそらしつづけるのがぼくの胸に痛かった。ぼくの顔を見たくないほど激怒してるのか?

「あ。あの。日本に帰る機会があったらきみのために同窓会をしたいって森崎が言ってたんだけど」

 ぼくが言葉を足すとしのぶが目を押さえて駆け出した。口をひらいてくれないまま。

 ぼくはしのぶの背中を追った。波が洗う波止の先でぼくはしのぶに追いついた。

 けどうしろ姿のしのぶは涙を流してすすりあげるのみだ。ぼくはどうしていいのかわからなかった。

 ぼくにできたのはしのぶの背を見ながら突っ立つだけだった。泣き出した陽子にお手あげをしたときみたいに。

 そんなにくやしい思いをしていたのかあのころ? いま思い出しても涙がとまらないほど? ぼくらってずいぶん残酷な仕打ちをしてたんだな。

「ごめんね立原さん。みんな悪気はなかったんだけどさ。きみがあんまり可愛かったから森崎までがやきもちを妬いてたんだ」

 ぼくがあせりながら弁解をはじめるとふり返ったしのぶが初めて目をぼくにまっすぐ向けた。涙をあふれさせながらだ。

 ぼくはドキッと胸に衝撃が走った。女の子のこんな真剣な凝視にあったのは生まれてこの方なかった。

「岡野くん。あなたいったいなにしに来たの?」

 しのぶが口元をかみしめてとがめる顔でぼくをにらんだ。きつい口調だった。

 確実におこっていた。またわたしをいじめに来たの? そうぼくには聞こえて古傷がズキンと脈打った。

 今度はぼくが目をそらす番だった。

「か。観光の途中でさ。デ。デンマークでアンデルセンの故郷でも見ようかって」

 うろたえながらぼくはうつむいて言いわけを口にした。ぼくって大うそつきだ。

「ふうんそうなの。いつ行くの?」

 関心のなさそうな口調だった。早く帰れって意図か?

「えーと。あしたかあさってかな。土日こみの九日間の予定で来たから三日後にはコペンハーゲンから飛行機に乗らなきゃ。森崎も待ちわびてるだろうし」

 上目づかいにしのぶをうかがった。うろたえつづけるぼくの情けない顔がしのぶの冷たい瞳に映っていた。

 足下でくだける波止先の波しぶきがかかる。ぼくはしのぶの言葉のひとつひとつに凍えた。エレベーター嬢にそっけなくされても気にはならないけど美女に冷淡にあしらわれると全身がふるえる。いつの間にかしのぶの口調からていねいさが消えたのにぼくは気づけなかった。

「わたしもコペンハーゲンに用があるわ。いっしょに行かない岡野くん? ちょっとした案内ならしてあげられるわよ?」

「ありがたいけど。いいの? バイト?」

「いいわ。どうせあと二日で終わりだし。行かなきゃならない場所もあるしね」

「行かなきゃならないって?」

 ぼくの問いにしのぶがキッとするどい目を向けた。ぼくの古傷がまたズキンとうずいた。

 昔も同情するなってにらまれたよな。

 ぼくは目を伏せて弁解を口にはこんだ。

「ごめんね。立ち入ったところまで訊いちゃって」

 しのぶがちょっと目をゆるめた。

「ううん。たいした用じゃないのよ。で。いつここを発つの? それしだいで仕事を辞めて来るから」

「三日後でいいよ。きみの仕事が終わってからで。ここからならコペンハーゲンはすぐだから」

 観光目的じゃなくきみに会いに来たって自白したセリフだった。バレちゃったかな?

「じゃ明日にしましょうか。オーデンセに行くんでしょう? わたしもフュン島で寄りたい場所があるから」

「えっ? あ。うん。行きたいな」

 オーデンセってなに? フュン島って? そう思いながらぼくはうなずいた。こんな展開になるならデンマークの下調べもしときゃよかった。

 ただきみと話していたいだけなんだなんてぼくには告白ができなかった。


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