第十一章 ダイエットコーヒーゼリー
レナと喫茶店で話した数日後だった。ぼくは係長の机の前で棒立ちになって言葉を探していた。レナに根回しをしてもらったけど半信半疑だったんだ。しばらくちゅうちょした後えーいどうにでもなれと意を決した。
「係長。まだまだ暑いからドイツに生ビール浴に行きます。つきましては五日間の有給休暇をください!」
「まったくもぉいまどきの若いやつは。わが社はじまって以来だろうな。そんな妙な理由の休暇ねがいを書いたバカは。沼柿事業本部長も本部長だ。なんでこんな男の肩を持つんだ?」
ブツブツぼやきながら係長がぼくの休暇ねがいにハンコをついてくれた。ぼくは休暇がもらえたことで安堵してもうひとつの案もためす決断をつけた。うまくはこべば無理に休暇をねだった代償になるかもしれない。
「ところで係長。話は変わりますがこれを飲んでください」
ぼくは用意しておいたコーヒーを水筒から紙コップについで係長の机にのせた。
「なんだこれ? 休暇を許可した礼のつもりか? コーヒーみたいだがよほど上質のブツを入手したのか?」
うちは本格的なコーヒー会社じゃなく缶コーヒー専門のメーカーだ。けど社員は常に高品質のコーヒー探しを心がけている。開発室だけじゃなく一般社員もことあるごとに試飲に駆り出される。当然コーヒーのよしあしにはうるさい。係長はにぶいほうだがホテルのコーヒーならひと口で市内のどのホテルかあてるほどだ。
係長が期待に胸をふくらませてぼくのコーヒーを口にふくんだ。そのとたんブッと係長がコーヒーを吹き出した。
わっきたなーいと女子社員がもらす悲鳴がぼくの耳に入った。
「こらぁ岡野! こんなあまったるいコーヒーが飲めるか! しかもこりゃインスタントじゃねえかよ! なにをとち狂ってこんな粗悪品をすすめやがるんだ!」
係長がいかりに燃えて手に持った紙コップをにぎりつぶした。残ったコーヒーが天井まで噴きあがった。
まさかおこりだすと思わなかったぼくはあわてた。
「係長そのコーヒー! たったこれだけしか砂糖を入れてないんですよ!」
ぼくはかねて準備のポリ袋入りの砂糖を係長に突きつけた。
「それがどうしたっ! 珈琲会社の人間にインスタントコーヒーを飲ませて砂糖がこれだけだあ? おれが最初から休暇ねがいにハンコを押さなかった腹いせかよぉ!」
いまにもなぐる体勢で係長が机から半身をはみ出させた。
ぼくは一歩引いた。親切でやってなぐられちゃかなわない。
「ちがいます! 係長! 冷静になってください! その紙コップにたった二グラムの砂糖しか入ってないんですよ! それがなにを意味するのかよく考えてください! 係長をからかってるんじゃありません!」
今度は係長がぼくの剣幕にのまれた。目がおよいで自分がにぎりつぶした紙コップに視線をもどした。
「この量のコーヒーに二グラムの砂糖? それであのあまさだと? 本当かそれ?」
やっとぼくの意図に気づいたらしい。
「本当ですよ。ご自身の手で作ってみますか?」
係長がじっとつぶれた紙コップと汚れた手を見つめて思案をめぐらせた。
「おい岡野。このコーヒーになにを入れた? 新開発の甘味料か? 通常の砂糖だけでこんなにあまくはなるまい?」
「いえ砂糖は市販の上白糖で甘味料は使ってません」
陽子の作ったコーヒーゼリーはゼラチンの量だけがまちがいであとはすべて分量表どおりだった。ふたりで作った二度目もあまったるいコーヒーゼリーもどきができた。
陽子はゲーッて顔をしたけどぼくはひらめくものがあった。どうしてそんなにあまくなるのかは不明だ。けどこのあまさを逆用すればダイエットコーヒーができるんじゃないかと。
そこでぼくはこっそり開発部にいる先輩に相談して分析してもらった。その結果あまく感じているだけで舌の錯覚だと結論された。コーヒー本来のあまみ成分と微量のゼラチンがむすびついて舌を刺激するそうだ。
ぼくはそのレポートのプリントアウトを係長にさし出した。
係長がむさぼるようレポートに目を通した。真剣な係長の顔を見てぼくは妙な感心をした。やるときはやるんだこの人と。
「なるほど。こりゃ味蕾の錯覚か。あまいんじゃなく微量のかたまってないゼラチンが舌にからんであまく感じるわけだな。けど使い方によっては商品になりうる。ゼラチンと砂糖とコーヒーだけのダイエットコーヒーか。正確に言えばコーヒーゼリーだがかたまってないし飲んだ感じは普通のコーヒーと変わらなかった。岡野もっとあるんならもう一杯くれ」
ぼくは係長に水筒と紙コップをわたした。係長がもうひと口を慎重に舌で転がした。次に考え顔で水筒を手に課長の机に向かった。
課長と係長で水筒の中身を味見したのち水筒とレポートを大事そうにかかえて部屋を出た。
課長と係長が二課室から消えたあと山田がぼくにすり寄って来た。
「おい岡野。お前なにをやったんだ? あれいったいなんだ? 課長たちが血相を変えて営業部長に会いに行ったぞ。どっかの名店のコーヒーなのかあれ?」
「ただのインスタントコーヒーだけど」
「うそつけ岡野。なあ教えろよ。あれってどこのコーヒーだ? そんなにうまいのかあれ?」
こいつ係長が吹き出すところから見ていたはずなのに?
ぼくはあきれて説明する気をなくした。
「だから市販のインスタントだって。どこのスーパーでも売ってるやつだよ」
「なあなあ。おれたち親友じゃん? ケチくさいまねをしないで教えてくれよぉ。お前の手柄を盗る気はないからさあ。おれ気になると夜も眠れないタチなんだよ。あれどこの店のコーヒー? 市内? それとも地方? 日帰りで行ける?」
うーむ。どこかの名店のコーヒーだったら商品化交渉に横からわりこむつもりだなこいつ。ぬけ目のないやつだなあ。
陽子が偶然作った失敗作のコーヒーゼリーはひょんなことから糖分カット缶コーヒーとして商品化を目ざす展開になった。営業部長が大乗り気で開発部に全力をあげて取り組むよう指示した。
ゼラチンの微妙な配合で味が激変する課題とゼラチン原料がアフリカ産の深海魚な点を乗り越えれば新商品として充分に通用するだろうと。
ぼくは営業部長からおほめの言葉と休暇を余分に二日もらってドイツ渡航の準備をととのえた。パスポートは地ビールの件のときに取らされていたから問題なかった。
会社に入って初めて仕事をした気になれてぼくは有頂天のまま空港に向かった。もっともぼくの手柄じゃなくハカリの説明書を読まなかった母と陽子のおかげだけど。
そんなわけでぼくはドイツ行きの飛行機に乗る前に空港から森崎に電話を入れた。
「これからドイツに飛ぶけどしのぶに伝言ってある?」
森崎が一瞬声をつまらせた。けどすぐ気を取り直した。森崎は現実主義者だ。子どものころからぼくらがうんざりしちゃうほど夢もロマンもない小学生だった。ぼくらは学校の怪談にマジビビる夢とロマンだけの悪ガキだったけど。
『手紙は出したけどまだ返事が来ないの。しのぶに会えたら「あたしたちみんなあんたがうらやましかったんだ」って伝えてよ。「だからいじめちゃったんだ」ってね。あの子は頭がよかったからそれだけでわかってくれるわ。それでいつか日本にもどれば「あなたのために同窓会がしたい」って言っといて』
「うん。わかった。伝えるよ」
『それから』
「あっ。わるい。充電が切れる」
『ごめんって言っといて!』
森崎が早口で告げた。そこで通話が切れた。電力切れだった。
しまったなあ。充電器を持って来なかったぞ。
そう思いながらぼくは飛行機に乗った。