第十章 レナは手ごたえを感じた
昼休みの営業二課のオフィスだ。ぼくは昼ごはんを食べに行かずにぼんやりと机にひじをついていた。部屋の外にレナの顔が見えた。パソコンのキーボードをかかえていた。
ぼくは反対側から部屋を出ようと席を立った。けど入室したレナにシャツをつかまれた。
「逃げないでよ岡野くん。同窓会行った? どうだった?」
「きみには関係ないだろそれ」
レナがぼくのパソコンの電源を落とそうとマウスをつかんだ。ぼくはレナの指を上から押さえてとめた。
「ぼくのマシンのキーボードはかえなくていい。まだこわれてないんだ」
なーんだつまんないとレナのくちびるが突き出された。
そのとき昼食からもどった係長が席につくのが目に入った。ぼくはレナを残して楊枝で歯をせせっている係長に立ちふさがる。係長が楊枝を歯ではさんでなにか用かとぼくに顔を向けた。
「係長。五日の休暇を取りたいんですが」
ぼくが意を決して告げると係長があぜんと口をひらいた。机に楊枝がポトンと音を立てた。
「お前なにを考えてる? 里帰りならついこないだ盆休みが七日あったろ? どうしてあのときに? まさか親が危篤になったとか?」
この正念場でひとり欠けると痛いなと係長のひたいに文字が浮かんだ。
「いえ。帰省じゃありません。ドイツに行きたいんで休暇がほしいんです」
「ド? ドイツだあ? 残暑で頭がおかしくなったのか? ドイツに行ってどうするんだ? 地ビールを売り出すってプランはボツになったんだぞ? もう試飲しなくていいんだ」
係長が去年取りかかっていたプロジェクトを持ち出した。社内中にビアサーバーとジョッキが置いてあってという例の件だ。
あの時期は本当に苦労した。ただでさえ酒は苦手なのに業務命令だと一日中世界各地のビールや発泡酒を飲まされたのだから。
結局コスト的におり合わずに廃案になった。けど今年の猛暑ならかなり売れたのではというのが営業部内の一致した意見だった。もっとも実際に発売していたら冷夏になっていたかもしれないけれど。
「ちがいます。仕事じゃなく観光に行きたいだけです」
係長が本当におかしくなったんじゃないかこいつと真面目な顔でぼくを見た。毎日いじめすぎたかと疑っている顔だった。
「だ? 大丈夫かお前? 熱はないだろうな?」
「大丈夫です。それより係長。休暇をください。おねがいします!」
ぼくは頭をさげた。でも頭はさげないほうがよかった。ふんぞりかえりつつ胸を張って休暇を出せと要求すべきだった。
というのも係長がいつものぼくだと安心顔を作ったからだ。
しくじった。おかしくなったふりをすりゃよかった。
そう悔やんだけどもう遅い。
係長がニヤッと笑う。雷警報発令だ。金属類を身体からはずして逃げなきゃ。
「おろか者ぉ! 寝言は寝て言え! この夏の商戦はことごとくシェアを食われて大いそがしなんだ! そんなくだらん理由で休暇をやれるか! 却下する!」
雷が直撃した。けどぼくは逃げなかった。
「でも係長! ぼくは入社以来まだ一度も有休を取ってません! 社長だってこないだせいいっぱい有給休暇を消化するようにと訓示されてたじゃありませんか!」
ぼくは食いさがった。だけどわかっていた。いったん頭に血がのぼった係長にどう抗議をしても無駄だと。さっさと撤退するほうが傷は小さい。でもぼくは引きたくなかった。
引かないぼくに音量をあげた係長の怒声が降りそそいだ。
「ボケナスッ! 社長の口から『有休を使うな。サービス残業をふやせ』なんて言えると思うのか! 異業種がどんどん参入してうちのシェアは低下する一方なんだ! 社員は身を粉にして働くのがあたり前だぞ!」
「け。けど」
「うるさーい! いつまでもグダグダ言ってないでさっさと仕事をしやがれ!」
うるさいのはあんただよ。そう思いつつ係長ののぼり調子な叱責にぼくはしぶしぶ引きさがった。昼ごはんを終えて帰って来た先輩たちの目もあったし。
レナがぼくのふがいなさにムカムカ来たという顔でぼくにツカツカと歩み寄った。無言でぼくのえり首をつかむと室外にぼくを引き出した。
ぼくは首すじをつままれた猫よろしく非常階段に連れこまれた。
「なにをするんだよぉ? すくなくともぼくはきみより先輩だぞ」
ぼくはそんなふうにレナにかみついた。最近の若い子に長幼の序なんて説いても無駄だろうけど。
レナが腰に両手をあててぼくをにらんだ。
「なにすんだよぉはあたしのセ・リ・フ! 身を粉にして働く? なんつー時代錯誤! きみねえ。正当な権利を不当に却下されて黙ってしっぽをまくの? あんな横暴を通されちゃあたしたちのときにこまるじゃない。有休がほしけりゃちゃんともらいなさいよ!」
レナが口をとがらせた。
「ほっといてくれよ。ぼくはきみのために休暇がほしいんじゃない。それに誰も女の子には無理を言わないはずだけど?」
女性差別だと非難されても仕方のない発言だけど事実だ。
「やだ。ほっとけないもん。でもなんでドイツなの? 観光に行くって交渉してたけどそうじゃないんでしょ?」
「ほっといてくれったら!」
ぼくはうっとうしくなってレナをふりはらおうとした。けどレナがぼくのシャツをつかんで引っ張る。しばらく放せ放さないとやっていたらレナが方針をいきなり変えた。指をパッとひらく。突然ささえをうしなったぼくは踊り場までよろけ落ちた。
尻もちをついたままぼくはレナに声を投げあげた。
「危ないじゃないか。足の骨をおったらどうしてくれるんだ?」
ふふふと笑いながら社内用パンプスのかかとでこだまをひびかせてレナがぼくの眼前に降りて来た。床に腰をつけたぼくの顔を思わせぶりに上からのぞきこんだ。普通の男なら簡単にオチるとびきりのあどけない笑顔を口もとに貼りつけて。
スカートの中が見えそうだぞレナ。
「あたしに邪険なあつかいをしていいのかなあ? 理由を教えてくれたらあの係長から円満に休暇をもらったげてもいいんだけどなあ?」
レナがぼくのあごを人さし指でツンと持ちあげてくちびるをぼくに寄せた。このままキスされそう。レナのあまい吐息がぼくにかかる。
でもぼくは休暇がほしかった。レナのくちびるじゃなく。
「円満になんてできるの?」
ぼくの問いにレナが一瞬がっかりした顔を見せた。けどすぐ思い直したように明るく口をひらく。あとで聞くと『どうしてあたしのくちびるをほしがらないのよ』と不満だったそうだ。『でもこいつはそういうニブチンだったっけ』と笑顔に切りかえたって。
「もっちろんよ。ドイツ行きのわけをあたしにちょうだい。したらあの係長がきみにおねがいするようはからって・あ・げ・る。ニコニコともみ手をしながら『ご旅行にお出かけください岡野さま』ってね」
レナが猫なで声でぼくをさそった。
訊き返した時点ですでにぼくはレナの罠につま先を乗せた。そうレナは手ごたえを感じていたそうだ。
ぼくはちょっと考えて結論を出した。レナの提案はオスネコの鼻先にまたたびをつるすようなものだった。ぼくにことわれるはずがなかった。
「こみ入った話なんだ」
やったぁとレナが会心の笑顔でポケットからメモ用紙を手に持った。喫茶店の場所を書いてぼくににぎらせた。
「じゃ今夜七時にここでね」
ぼくはメモに目を落とした。次に目をあげるとレナの姿が消えていた。
幽霊みたいなやつとぼくの口がポカンとひらいた。
その夜レナは指定した喫茶店でぼくを待ちながら複雑な心境をもてあましたそうだ。
ぼくをオトせば賭けに勝つ。けどなんとなく勝ちたくない。どういうわけかはわからない。
勝つのがうしろめたい。そんな気がすると。いままでこんな気持ちになった経験はなかった。その気持ちがなんなのかレナにはわからなかったって。
ドアをあけてぼくが姿を見せたときレナの心拍が急上昇したそうだ。
ぼくがレナの前にすわるとレナが視線をわきにそらした。うしろめたさにまっすぐぼくを見れなかったって。
ぼくはそんなレナの気持ちを知らないまま注文を終えた。レナにドイツ行きの理由を説明した。
「というわけなんだけどさ。別に行かなくってもいいかなっていまは思ってるんだ。係長をおこらせるとますますイヤミがひどくなるだろ」
ぼくの説明を聞き進むうちにレナの顔がけわしさを増した。おこっているみたいだ。
五階の文具売場と告げてまたどうぞとそっけなくあしらわれるのはしょっちゅうだった。けどエレベーター嬢におこられた経験はない。このエレベーター嬢はいままでのエレベーター嬢とはちがうんだろうか?
ぼくはおそるおそるうかがいを立てた。
「おこってるの?」
「おこってるわよ! プンプン!」
レナが頬をふくらませてくちびるを突き出した。週刊誌の表紙をかざれるほどキマってた。
「な? なんでおこってるわけ? ぼくが前例になってきみのときに有休をもらえないから?」
「バカ! まぬけ! 誰がそんな理由で腹を立てんのよ!」
「じゃなんなんだよ? 昼間そう言ってぼくをしかったじゃないか。わけがわかんないよぉ」
「大ボケ! スットコドッコイ! とにかくね。男なら行くべきよ。係長をおこらせるとイヤミがひどくなる? 一個歯車飛び男! 逆立ちカバ! あんな係長気にしないの! このさき昇進の見こみがないから部下にあたってるだけ! 一発ガツンとぶちかましてやれよきみ! 強いとこを見せりゃぐうの音も出なくなるんだから!」
レナが腕をふって力説した。あたしなにを気合い入れてんだろって顔だった。この子こんなキャラだっけとぼくも不思議だ。
「そ? そうかな? ぼくが強く出るべき?」
「そうよ。がんばれきみ。うじうじした男なんて大っきらい! ここはひとつ『生ビール飲みにドイツ行きてぇんで休暇をくれぃ』ってまき舌であの係長をからかってやれば? 裏から手を回して了解をつけとくからさ。事業本部長からの圧力をね」
「ど? どうしてそんな手配ができるの? 事業本部長ってわが社の最古参幹部で社長でも遠慮するって聞いてるけど?」
ぼくの問いにレナがぼくの顔に視線をすえた。ぼくは見た気がする。あきれはてたと大きく墨書された白木の立て札がレナの頭の上にピンと突っ立つのを。
「きみさ。あたしの頭がいいって思う?」
「えっ。うーんと。そのう」
本人を前に真実をのべるべきではない。そのていどの常識ならぼくも持ち合わせている。一円の得にもならない人助けをしたがる非常識なぼくだけど。
「本音を言えばいいのよこんなときは。きみとちがってあたしは一流大学なんか出てないわ。あたしがこんな大企業に入社できたのはね。成績じゃなくてコネがあるからよ。うちの父ちゃんは有力政治家の後援会長なの。この会社の事業本部長をやってる沼柿専務がその政治家と同じ中学の出身でさ。持ちつ持たれつの関係なわけよ。その政治家の派閥の集会や選挙運動のすべてでわが社の飲み物が出るの。日本全国でね。それを直接しきるのがうちの父ちゃんってわけよ。いわばうちの父ちゃんはわが社の優良販売員よ」
なるほどとぼくは納得した。
一方ぼくの背中の席で聞き耳を立てているマユは不思議だったそうだ。どうしてレナがそんな内部事情までぼくにバラしちゃうのか。
いつもの清純派の仮面がはずれている。素顔のレナは頭が軽いちょっと可愛い女の子にすぎない。男が十人いればオチるのは三人くらいだろう。レナ自身がよく知っているはず。最近めずらしい清純派だからたいていの男が引っかかるだけだと。
なのになぜ? どうしちゃったんだろレナ? そうマユは首をかしげたって。